池塘

古今東西、どこの国にも、都道府県にも、市町村にも、聖なる場所や、パワースポットや、心霊スポットや、禁足地や、等々と、呼ばれる場所が多々存在いたします。

今回はそのような場所にまつわるお話でございます。

その場所は、古の都。時は、1980年代の真夏のことでございます。

盆地という地形故に、夏場は滅法蒸し暑くなる土地。少しでも涼を求めようと、背筋が凍るような世にも奇妙な物語や、怖い話や、怪談話には、事欠くことはございません。

今回のお話は、その都の北側にございます小さな池にまつわる少々不思議なお話でございます。





「ピン~ポン~。ピン~ポン~。」

両手いっぱいの買い物袋を吊り下げ、肘で呼び鈴のボタンを押す、貧乏大学生の男B。

顔は汗だらけ。ヨレヨレのTシャツに汗が滲んでおります。

「ガチャ。ようきたな。暑かったやろう。さあ、入って。入って。」

家の中から招くのは、この新居に引っ越したばかりのこの家の主であり、男Bの学友である、男A。ランニングシャツに短パンと目いっぱい寛いだ出で立ちでの出迎えでございます。

「涼しいィ〜。生き返るぅ~。めっちゃええ家やん。」

涼しさを享受した男B、心の底から男Aの引っ越し先の物件を褒めます。

「コイツの勧めでね。」と、後に立つ女性を親指で指差す、西洋かぶれも甚だしい、男A。

「初めまして。なんやなんや。着いた早々からラブラブかいな。妬けるでほんま。」若い割にはおっさん臭い返しをする男B。


この日は男Aの下宿先の引っ越しの祝いのために、夕方から友人の男Bと男Aの彼女が新居に集まってくれたのでございました。

この地の夏は本当に蒸し暑うございます。日が陰っても、熱気が取れることはございません。

当時、学生たちが住まう下宿にはエアコン完備なんて言う贅沢な物件はほとんどございませんでした。

しかし、引っ越し祝いに訪れた男Aの新居は、たいそう立派な一軒家な上に、エアコンまで完備。

通常で考えれば、学生の身分で住めるような代物ではございません。

男Aが、どこでどうやってこんな優良物件に巡り合えたのか?男Bには知る由もございません。

…が、何はともあれ、外の蒸し暑さを完全に忘れさせる、卓袱台しか置かれていないエアコン完備の広いリビング。

そこで男2人、右手にセブンスター、左手に冷えた缶ビールといった最高のシチュエーションで与太話が始まります。





「そやけどお前、バイト変えてからとんとん拍子ちゃうん?」と、男B。

「なんで?」何も代わり映え無いと、言いたいところをあえて素っ気ない単語で返す男A。

「なんかぁ~、あか抜けたしぃ。」そんなことないやろ!!!と、キツイ突っ込みを入れたいとこでしたが、飲み込んでおだててに入る男B。

「…。」いつもと調子の違う学友に言葉を忘れる男A。

「かわいい彼女もでけたしぃ…。」心からの本音が漏れてしまう男B。

「…。」

「ごっついええとこに引っ越したしぃ…。」羨望の眼差しを向けてしまう男B。

「…。」

「金回りも良うなったみたいやしぃ…。」下衆な勘繰りをする男B。

「そないなことあらへん…。」と、強引に会話のシャッターを降ろそうとする男A。


ここで彼女がポテトチップスを皿に開けて持ってきてくれます。暫し水入り。

男二人はそれをパリパリかじりながらまた話を続けます。


「せやけど、ほんま良う頑張んな。」また、建前を切り出す男B。

「なにが?」気持ち悪いおべんちゃらはもうええって!と、怒気を含んだ単語で返す男A。

「だってェ~、部活やってェ~、バイトやってェ~、ほんでもって同棲ってェ~。」語尾を伸ばした気色悪い言葉遣いで学友の気持ちを逆撫でしようとする男B。

「同棲はしてへん。」冷静にきっぱりと断言する男A。

「一人だけ大人になっていっとるんちゃうん。」大人の階段上るぅ~♫と、台詞を入れたいのはやまやまでございますが、この時点ではこの名曲は生まれておりませんでしたので…。

「なんやそれ。」

「俺ら相変わらずやで。寂しかるかるゥ~。やん。」お前は人が変わっちまったよと、暗に言いたい男B。

「ほな、彼女作ったらええやん。」まっとうな返しで学友の胸をえぐる男A。

「ちょっと前までぼろアパート暮らしの同じ貧乏大学生やったくせに。なに偉そうに言うてんねん。」アルコールが脳を刺激したのか、偽らざる気持ちを吐いてしまう男B。

「なんやねん。絡むほど飲んでへんやろ。」こちらも腹の内を開いてしまう男A。


ここで彼女がキャンディーチーズとジャッキーカルパスをザルに盛って持ってきてくれます。一拍の小休止。

男2人はそれをむしゃむしゃ頬張りながら話を続けます。


「やけど、ええ娘やんなぁ~。若いのに良う気が利くしぃ~。」羨ましさ満開の男B。

「年寄りかッ、お前は。」定型句な突っ込みの男A。

「どこで見つけたん?」聞きたいことが山積みの男B。

「バイト先。」深堀を避けるため短い単語で返す男A。

「ほんま?!めっちゃええバイトやん。俺にも女の子、紹介してぇ~さあ~。」語尾に変な方言を付けて甘えようとする男B。

「ん…。」人差し指でおでこをコツコツと叩き、悩んだ様子を作る男A。

「なんなん、その反応。俺には紹介でけんえてェ!!!」学友の様を見て、お前なんかに紹介できるわけないやろ!!と、解釈した男B。

「ちゃうちゃう。」学友の誤解を必死に解こうとする男A。

「なら、なんやねん。」言い訳を聞かないことには気が収まらない男B。

「店のひとらなぁ…。結構…、ええ年なんよ…。」事実を伝えることの難しさに直面して口ごもる男A。

「噓こけ。」一切、伝わらないおとこの男B。

「ほんまやて。」この場面でこの言葉しか持ち合わせていないボキャ貧男子の男A。

「そんな紹介したないんや。」私は貝になりたい!と、ばかりに殻に閉じ籠ろうとする男B。

「やからぁ…。」殻をこじ開けられない男A。


ここで彼女がさきイカとマヨネーズと七味唐辛子を持ってきてくれます。つかの間のペンディング。

男2人はさきイカの袋を開け広げ、そこにマヨネーズを絞り出し、その上に七味唐辛子をかけます。そして先ほどまでの話を彼女に振るのです。


「ねえねえ。お店ってほんまに若い娘おらんの?」真実はいつも一つ!と、ばかりに真実を追求する男B。

「うん。皆さんお姉さんやわ。」と、あっさり返す彼女。

「言うた通りやろ。」彼女に被せる男A。

「自分くらいの年の娘は?」吐けば楽になれるよ。と、執拗に尋問を繰り返す男B。

「おらへんよ。うちの店の商品、大人向けやから。」と、上の空で返す彼女。

「なっ。なっ。」彼女の話に乗っかる男A。

「ほな自分の友達は?」純粋に欲望丸出しの執念のおとこ男B。

「え…ッ。どないしたらいい?」ヤバさを感じ男Aに真顔で相談する彼女。

「あかん。あかん。未成年に手、出したら。」自分のことを棚に上げて、正論をぶつ男A。

「お前、出しとるやんけ。」墓穴を掘った学友に当然の突っ込みを返す男B。


馬鹿話は尽きることはございませんでした。しかしながら、楽しい時間というものは経つのも早うございます。

あっという間に夜の10時。明日の事も考えてぼちぼちお開きにと、男Aが思っておりますと、男Bが新しい話を始めます。


男B  「ところでや、ここの近所に池あるやろ。」

男A  「あるよ。」

男B  「そこの話、知っとる?」

男A  「ようは知らんけど。」

この二人、地方から下宿して大学に通っているもので、まだまだこの土地には明るくございません。

彼女  「私、こっちの方やないから詳しくは知らんけど、知ってるよ。」

彼女も実家のある地域とは違う場所の話であることから、詳細までは分かりかねるようでございます。

男B  「あそこ、かなりヤバいらしいで。」

彼女  「それは聞いたことあるよ。」

地元出身の彼女は噂程度には知ってるようでございます。

男A  「お前は誰から聞いたん?」

男B  「同じアパートの先輩。」

男A  「この前、昼間に見たけど、なんの変哲もない緑色の小汚いだけのだだっ広い池やんけ。」

男B  「あっこ、三叉路の一角が全部池やん。」

彼女  「あの三叉路からタクシーに乗ってくる女の人の話やろ。」

男B  「それも有名やんな。」

男A  「それってどんな話なん?」

彼女  「えッ?!知らんの?」

男B  「それは知らなさ過ぎやわ。」

彼女  「あんな、雨の日の深夜に、あの三叉路でタクシー止めよる女の人がいはんねんて。」

男A  「うん。」

彼女  「白いワンピース着て、白い帽子を目深に被って、雨の中、白い傘を差して、三叉路に立ってんねんて。」

男A  「へえ~。」

彼女  「その女の人がタクシー止めて乗ってきよるん。」

男A  「ふう~ん。」

彼女  「近所の病院までって、言いはるねんて。めっちゃか細い声で…。」

男A  「へえ~。」

彼女  「運ちゃん、車、出しはる。あの辺は真っ暗やから、慎重に前見て運転せな危ないんよ。」

男A  「せやな。」

彼女  「しばらく車を走らせると、女性客の言う目的地…。」

男A  「うん。」

彼女  「運ちゃん、後部座席に座る女性客に到着を知らせようとバックミラーを覗き込む…。」

男A  「うん。うん。」

彼女  「あれ?!後部座席にいるはずの女性客が見当たらん。」

男A  「ほう。」

彼女  「急ブレーキで慌てて車を停める運ちゃん。」

男A  「ほうほう。」

彼女  「車から飛び出て、後部座席のドアを開けて、座席を確かめる運ちゃん。」

男A  「ほんで。」 

彼女  「そこには人っ子一人おらへん。ただ…。」

男A  「ただ…。」

彼女  「女性客の座ってたところが、びしょびしょに濡れてんねん…。」

男B  「ギゃアぁぁぁぁぁ~。」

男A  「なんや?!びっくりするがな。」

男B  「ビビりやのぉ~。」

男A  「お前がでかい声出すさかい、びっくりしただけやろ。」

彼女  「私の知ってんのはこんだけ。」

男A  「でも、それってようある心霊スポット話やん。あのトンネルで、とか。あの交差点で、とか。」

彼女  「でも、あっこのこの話はめっちゃ有名な話やねんて。」

男B  「チッ。チッ。チッ。あそこはそれだけやあらへんでェ~。」 

男A  「いきなりなんやねん。他になんがあんねん。」

彼女  「なに?なに?」

男B  「さっきも言うたように、三叉路の一角が全部池で。池の奥は切り立った崖になっとるやろ。」

男A  「うん。うん。」

彼女  「うん。うん。」

男B  「その崖の上に建物があるやろ。」

男A  「ある。ある。」

彼女  「ある。ある。」

男B  「あの建物、何か知っとる?」

男A  「知らん。」

彼女  「知らんわ。」

男B  「あれな。さっきの話に出てきた病院やねん。それも精神病院らしいんや。」

男A  「ほんまに。」

彼女  「ウソぉ~。」

男B  「かなり昔からあるらしいで。」

男A  「ほんでそれが、あの池とどないな関係あんの?」

男B  「あっこには戦争中や戦争後に、ぎょうさん精神を患った者が収容されとったようで…。」

男A  「ふん。ふん。」

男B  「その収容者っうのも、かなり重度の精神病患者が多かったみたいやねんな。」

彼女  「そのあたりからやな感じするね。」

男B  「そないなこともあって、患者をおとなしくさせるのも一筋縄ではいかん…。」

男A  「そうか。そうか。」

男B  「かなり手荒な事までせんことには、おとなしいならへん。」

彼女  「やな感じ。」

男B  「やから、棒で叩いたり…。」

男A  「…。」

男B  「鞭打ったり…。」

彼女  「痛そう。」

男B  「電流通したり…。」

男A  「もう、拷問やん。」

男B  「薬物投与したり…。」

彼女  「無茶苦茶やん。」

男B  「とにかく、おとなしくさせるためだけに、言うこときかん患者への折檻ちゅか、虐待ちゅか、が、エスカレートしてしまいよる…。」

男A  「そないなるわな。」

男B  「結果、それに耐えれんで亡くなる患者も出てくる。」

彼女  「そりゃあそうよ。」

男B  「病院側も始めはちゃんと各方面に報告して、ちゃんと荼毘に伏せとった。」

男A  「当たり前やん。」

男B  「ところが、戦争やなんやで患者がどんどん増える。」

彼女  「うん。うん。」

男B  「言うこときかん患者も増える。」

男A  「そうなるわな。」

男B  「折檻ちゅか、虐待ちゅか、も、キツなる。」

彼女  「しょうがないかぁ…。」

男B  「そしたら亡くなる患者も多くなる。」

男A  「そうなってまうんかぁ…。」

男B  「病院側も死亡患者の対処に追われる。」

彼女  「なるよね。」

男B  「言うこときかん患者の対応にも追われる…。」

男A  「ひっちゃかめっちゃかやん。」

男B  「どうにもこうにもならんようになった病院側はろくでもない考えを思いつきよるんや。」

彼女  「なんやろ?」

男B  「亡くなった患者の処理方法…。」

男A  「聞きたないなぁ。」

男B  「亡くなった患者に重石を付けて…。」

彼女  「やっぱり…。」

男B  「崖の上から池に投げ捨てることにしたんや。」

男A  「なんやそれ。」

男B  「毎月。毎月。」

彼女  「祟られるえ。」

男B  「それが、毎週になり、毎日になる…。」

男A  「なんぼほど、殺めとんねん。」

男B  「そないに頻繁になると、池の中に沈まんようになる。」

彼女  「そりゃあそうやわ。」

男B  「すると病院側は遺体をバラバラに解体して重石を付けて、池に捨てるようになった。」

男A  「死者に対する冒瀆やん。」

男B  「それでも池にはもう余裕があらへん。」

彼女  「破茶滅茶やん。」

男B  「すると病院側は池に硫酸を流し始めた。」

男A  「もう、悪魔の所業やん。」

男B  「硫酸のおかげで遺体の骨肉はどんどん溶けていった。」

彼女  「想像したないわ。」

男B  「その溶けた溶液のせいで、あの池は緑色になったそやで。」

男A  「…。」

男B  「そんな酷い最期を迎えた御霊が怨霊になって、夏の暑い真夜中に恨みのこもった唸り声を上げやるんやって。」

彼女  「気持ち悪うぅぅぅ。」

男B  「オレの話はここまで。」

男A  「そんにえげつない事、あったんやったら、あの池、忌み地扱いで立ち入り禁止やろが。」

彼女  「昼間は近所の人ら、犬の散歩とかしてるやん。」

男B  「ほんまかウソかは知らんけど。」

彼女  「噓、決定ェ~。」

男A  「僕がこの前、あの池に行った時、あっこにある看板に【池の周囲が約2キロ。水深が最深部で2メートル程。】って書いてあったで。」

彼女  「そうなん?」

男A  「それに【龍神が眠っているから池の中にお社があって祀ってる。】とも書いてあったで。」

彼女  「全然、嘘っぱちやん。」

男B  「知らんがな。俺も聞いただけやし。」

男A  「看板に書かれてんのがほんまやったら、単なるバワースポットやん。」


3人は伝承話や噂話のどれが真実なのか喧々諤々、解のない会話に時間を費やしておりました。

あと半時間ほどで日にちが変わろうかという時に、男Bがそろそろおいとますると告げます。

『やれやれか。』と、やっと解放される瞬間が訪れたことに安堵する男A。

そこに彼女が「送っていこうよ。」と言い出します。

『やっとのんびりできるのに、こいつは何を言い出すんや。』と、彼女の言動に対して、心に思う心の狭い男A。

「送るついでに、皆であの池、寄っていかん?」と、おぞましい提案を十代のかわいい笑顔でする彼女。

男2人は顔を引つらせながら作り笑顔で承諾するのでございました。





男Aの新居からトボトボと歩くこと5分ほどで、先ほどまで話題になっておりました三叉路に到着いたします。

三叉みつまたは思いの外、きれいなY字となっておりまして、そのY字に分断された一角は、男Aの新居などもある住宅街となっております。

違う一角は、先ほど来よりの話題の中心となっております池となります。

そして残りの一角は、空き地のような公園となっておりました。


重い重い足取りで片側一車線の道路を横断すると、まずは空き地のような公園へと足を踏み入れました。

元々、この辺りは外灯が少なく、交通量も少ない場所でございます。

深夜ともなれば、物音ひとつない静けさに包まれる場所。こんな時間にこの辺りを彷徨うろつくこと自体が嫌でも恐怖心を煽ります。

そんな心理からか、野性的な直感からか、ダイレクトに池に向かうことは避けたのでございました。

いわゆる「ワンクッション」を入れたわけでございます。


荒れ果てた公園の淵から遠巻きに池を観察いたします。

この夜は真夏の蒸し暑い夜。雲一つない天上、月と星が外灯代わりになっておりました。

道を挟んで望む池は、水面は静かで月と星の光を鏡のように映し出しておりました。

それを見て安心したのか、興味本位と言うよりは義務感を持った怖いもの見たさが勝った男A。

公園から片側一車線の道路を渡ります。足取り重く、慎重に池の方へと向かいます。


道路を渡り切りますと、路肩と池のほとりの境目に縁石の代わりとして薄汚れたバスタブのような大きさの植栽用プランターが置かれておりました。人ひとりがすり抜けられる幅を空けて、延々と道に沿って並べられております。

その規則正しく並べられた低い壁がまるで「入って来るな!」と、言わんばかりの圧力を発しておりました。一瞬、その場でたじろいでしまいます。

『なんや、ビビってんのか…。』

その場に立ち止まったことに、天性のおっちょこちょい気質の男Aが「ここまで来てんのに。」と、ばかりにプランターとプランターの隙間を思いきって駆け抜けたのでございました。





『えっ?』

プランターとプランターの隙間を駆け抜けて男Aが、池のほとりに立った瞬間、そこは1センチ先も見えない暗闇でございました。

先ほどまで見えていた月と星の明かりもございません。ただただ、男Aの目の前に広がるのは何の区別もつかない暗闇のみ。男A、思わず振り返ります。

そこも暗闇で何も見えません。

「おーい。おーい。」全く考え無く暗闇に向かって声をかけます。無意識のうちに声が返ってくることを期待しつつ…。

しかし、予想通り、返ってくることはございませんでした。

たった数歩、元いた場所から前進しただけなのに、植栽用のプランターも、片側一車線の道路も全く見えません。まさに「一寸先は闇」でございますます。


男Aの背筋を冷たい汗が流れます。意味の分からない状況に陥り、さっきまであおっていたアルコールも覚めました。

耳に膜でも張っているかのように、何の音も聞こえません。逆に自分の体の中で発せられているノイズや心臓が激しく脈打つ音が鼓膜に響き渡ります。

体に鳥肌が立ちます。興奮が覚めた男Aの脳みそが今いる場所の空気の冷たさに気づき、体がそれに反応したのでございます。

彼女の思いつきでこの池にやって来ただけでございましたので、新居で寛いでいた格好のままでございます。本来なら真夜中とはいえ、真夏の蒸し暑い夜。

現在している格好で十分なはず。しかし、この場所の空気は震えるほどに冷たかったのでございます。

回りをどれだけ見渡しても暗闇だらけ。ジッとしていても震えるほどの寒さ。とにかくこの場を抜け出そうと、男Aは、先の見えない場所を手探りでゆっくり進み出します。

便所下駄を擦りなが、手探り、足探りで少しずつ、ゆっくり進みます。

手をいくら動かしても触るものはございません。足を擦るように動かしても、地面と便所下駄が擦れる音がするだけでござい。

ゆっくり、探り探り、少しずつ、出口に向かおうと焦るにも焦ることのできない男A。

視界の無い中、どれくらい彷徨さまよっていたのか知る術もないのですが、ふと、自分の着ているランニングシャツや短パンが湿っていることに気付きます。

『なんやなんや。着とるもん、グショグショやん。これって…。』

男Aは何かに閃いたようでございます。

『…。霧…、なんちゃうか…。』

そう思うと恐怖心が一気に晴れます。今まで怖れていたものが単なる自然現象だと思いはじめると、これまでのへっぴり腰もシャンとします。

「幽霊の正体見たり枯尾花」で、ございます。

こうなれば前進あるのみでございます。

ちまちま進めていた足取りも、しっかりと地面を踏みしめるように変わります。

『池の水に当たれば、そこから180度反対へ向えば道路が出てくるはず…。』と考え『元々方向が分からないのだから。』と、男Aはその場で何回か回わり、向いた方へと迷いなく歩き出します。

道路は池の淵を沿うように通っておるので、男Aの道理は間違いございません。

偶然に向いた方へと7歩…、8歩…、9…、で、足先がぬるい水に触れました。

『ここや。』と、ばかりに男Aは、勢いをつけてクルッと踵を180度返します。


『よっこらせ。』ドボン…。

思わずよろけて水際に足を落としてしまいます。

『チッ。濡れてもた…。運悪いなぁ…。』チャポーン…。

しかし、もうここからは自信満々の男A。歩幅も大きくずんずん歩き始めます。大きな歩幅で7〜8歩進むとぼんやりと何かが見えてまいりました。

『あれや!』9歩目、とうとうどこかの植栽用のプランターに辿り着きました。

『やったァァァァァ~。』心の中で大声で雄叫びを上げる男A。

一目散にプランターとプランターの隙間をまるでゴールテープを切るかのように、諸手を上げて、足取り軽く駆け抜けます。


『えっ?』

出た場所は、入った場所と寸分違わぬ所でした。入るのを躊躇ためらっていた道路の路肩。暗くはありましが、月と星の灯りで十分に周りを見通せました。

『…?』

戸惑いながらも、極度の緊張から解放されて、安堵と疲労が押し寄せる波のように男Aを襲います。

霧で濡れた衣服も気色悪く、さっさと家に戻ろうと考える男A。

達成感と疲労感からか足取りは重かったのですが、見覚えのある風景が与える安心感が家路を急がせます。

急ぎながら『やっぱ、伝承のある場所には、理由はともあれ、遊び半分で近づくもんやないなぁ…。』と、反省しきりの男A。


ほんの少し前まで引っ越し祝いをしていた新居が目と鼻の先になりました。電気が煌々と付いています。あるじの帰りを待っていたように…。

玄関扉を押し開け、ドアノブに手を掛けます。

スッとドアが手前に開きました。

『先に…。』と、そう思いドアを引くと、散乱した彼女のサンダルが…。

「ただいま。帰ったで。」

とりあえず三和土たたきで声を掛けますが、数秒待っても返事はございません。

『今日一日、いろいろあったからなぁ…。』

幼い彼女を思い出し、何か物思いに耽る男A…。

『やっぱし僕も疲れた。寝るか…。』

自室のドアを開け、倒れ込むようにベッドに横になった男A。ほんの一瞬で深い眠りについてしまいました。


まるで水底に落ちていくように…、深い深い眠りにつきました。






今宵はこの辺で…。







お終い









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