第39話 喧嘩売ってる?


「……やっぱり、あなたは連れて来るべきじゃありませんでした。これは、僕のミスです」


 雪間くんは顔を強張らせ、悄然と呟いた。


「でも私が言い出したことだし」


「それでも、です」


「雪間くん一人じゃ怖いかと思って」


「怖い? まさか。僕がおかしいんだから、それはいいんです。ここに、あなたや子どもがいる方が怖い」


 苛立ちを隠さず、早口で言い立てる。

 そういえば、雪間くんは前に、自分がおかしいんじゃないかと思うと呟いていた。


 木の間にかかった蜘蛛の巣に陽があたり、複雑な網目模様が浮かび上がる瞬間がある。何だかそんな感じがした。


 この人、一体いつも何を見ているんだろう。

 伏せた目は、怒りと後悔がないまぜになった色をしている。

 胸が引き絞られるみたいに痛んだ。か細い蜘蛛の糸が見えるような気がした。

 

 私はポケットからスマホを取り出し、雪間くんに向けた。


「ちょっと写真撮らせて。すぐ消すから。はいっ」


 それらしく作られた偽物のシャッター音が、物寂しい家の中で空々しく軽快に響いた。


「何ですか、突然。いいって言ってないのに撮ってるし」


 怪訝な顔で睨まれる。

 撮影した写真を確認すると、不機嫌そうな雪間くんが映っていた。心霊写真になっていたらどうしようかと少し不安だったが、大丈夫だった。


 アプリでエフェクトをかけて周囲を明るくし、きらきらとした光も加えて輪郭を淡くぼかす。トイカメラのような明度にして、思いつきで兎の耳もつけたら、楽しい写真ができた。

 みのりちゃんがスマホの画面を覗きこんで、くすくすと笑う。


「うさぎになった。かわいい。みのりちゃんもやって」


「こんな時に嫌がらせですか?」


 呆れ果てた目でこちらを見ている雪間くんに、私はスマホの画面を見せた。


「見て。この写真みたいなことなんだよ、多分」


「は?」 


「兎は余計だったけど。記憶は加工できるよ」


「何言ってんですか、さっきから」


「前に友達と旅行に行った時、本当は天気は曇りだったんだけど、晴れてた風に写真を加工して共有したのね。時間が経ったら、一緒にいた友達も含めて、その日は晴れだったって記憶していたことがあって。この写真も、幽霊屋敷にいるとは思えない」


 絡まった糸を手繰るように、言葉を必死に探す。


「だからさ、自分がおかしいなんて言わないでほしい。私には雪間くんが見てるものは見えないけど、信じるから教えてほしいよ。誰かと共有したら、嫌な記憶も加工できるかもしれないじゃない」


 雪間くんは絶句し、呆気に取られた顔をしていた。


 やがてこめかみに手を当てて目を瞑ると、深い息を吐いた。

 自分の言葉の拙さが哀しい。伝わらず、また、呆れられてしまうだろうか。


「もういいです」


 小さく呟き、射ぬくようにこちらを見る。目が大きい人なので、凝視されると緊張する。静かな表情だが、目の奥に不思議な光があった。


「分かったと思います。色々」


 空間をあけて隣に座っていたのだが、彼は膝をずらして、その隙間を詰めた。膝が、私の足と触れそうに近い。

 ふいに、長身をこちらにかがめた。

 切れ長の目は、黒目が大きい。顎の細い、綺麗な輪郭の顔が近づき、心臓が跳ねた。


「女性は繊細で、怖いものは嫌だと思ってたんですが、あなたはそうではないってことですね」


 ささやかれた言葉に、頭が真っ白になった。


「――喧嘩売ってる?」


 声がかすれて震えた。落胆と恥ずかしさが混ざり合って、頬が燃えるように熱くなった。


 そういえば、元々はこういう態度の人だった。

 出会った当初はお互いひどかったけれど、今はそれなりに仲良くなれたと思っていたのに。

 でも、それは私の勘違いで、彼の方は最初の頃とちっとも変わっていなかったのだ。私一人、色々と、本当に馬鹿みたいだ。


「売ってないです。どうしてそうなるんですか。人の話聞いてます?」


 雪間くんはいかにも心外だという顔をしている。


「こっちの台詞だよ。私は真面目に言ったのに。何もそんな事、言わなくてもいいじゃない。もうすぐインドネシアに行っちゃうから、気を遣うのも止めたってこと?」


「僕だって真面目です。それに行くのはインドネシアじゃないし」


「違ったっけ。でも、そこじゃないよ。どうも雪間くんとは意思疎通できない」


 かっとして、つい棘のある口調になってしまった。雪間くんはむっとした顔をする。


「駿介ならいいんですか」


「何で駿介が出てくるの?」


 訳が分からず、頭に来て言い返したら、彼は言葉に詰まった。

 だんだん哀しくなってきた。どうしてこんなに、話が噛み合わないのだろう。


「もういいよ。どうせカンボジアに行くんだし。私の言ってることなんて、伝わらなくてもいい。どうでもいい」


「シンガポールです。どうでもよくはない」


 真剣な顔でまっすぐに見つめられる。透明な覆いでもかけられたように、体が固まって動かなくなった。今度は私が、何も言えなくなる。


「だから……」


 言いかけて、苦しそうに咳込む。

 不意に素早く後ろを振り向くと、私とみのりちゃんを強く横に押し出した。

 箪笥が傾いで雪間くんの肩をかすめ、身が竦むほどの大きな音が響いた。


 咄嗟に瞑った目を開けると、箪笥が倒れていた。その前で雪間くんが、自分の肩を押さえている。

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