第38話 水槽のなか
*
窓が閉まると同時に音が消えた。薄暗い室内は、またしんと静かになった。窓ガラスの向こうで庭木の葉が小さく揺れている。水槽の中から外の世界を見ているような気がした。
「窓が勝手に……」
「何で出なかったんですか」
私の言葉を遮って、雪間くんが憮然として言った。
「せっかく今なら出れたのに。最初だから隙を突けたけど、もう簡単には開けられないですよ」
「だって、雪間くん残して行けないよ」
「いられる方がよっぽど迷惑です」
冷ややかにこちらを睨み、ぼそっと呟くと軽く咳こんだ。突然、家鳴りのような音が家の壁をはじくように響いた。
「何?!」
「駿介に逃げられて、怒っているんでしょう」
頭のすぐ上で、小さな声がしてどきりとした。近づきすぎていたことに気づき、数歩離れる。
「とりあえず、一緒にみのりちゃん探そうよ」
「だったら絶対に一人にならないでください」
雪間くんはすげなく言うと咳をする。廊下に続くドアを開けた。しおしおと後をついていくしかできない。
「駿介は大丈夫かなあ」
「あれなら多分、大丈夫でしょう。復活が早くて良かった。あなたの言葉が効いたんじゃないんですか」
「えっ、あんなのが? まさかあ」
思わず笑ってしまったのだが、雪間くんの返事は無かった。
*
一階はリビングと個室になったキッチン、和室、それにトイレとお風呂という間取りだった。階段下が物置になっている。全部見たが、みのりちゃんはいなかった。
洗面台下の開き戸の前に、銀色のスパナが一本置いてあった。水栓の水漏れでもあったのかもしれない。何かあった時の武器になるかもと、ゴムボールと一緒にコートのポケットにしまった。
二階には洋室が三部屋、それに物置とトイレがあった。二階には元から雨戸がないので暗くはない。
しかし、女の子の姿はなかった。
「どこに行っちゃったんだろう」
一応、二階の窓が開かないが試してみたが、どの窓もクレセント錠が固く、下に下げることができない。
階段から一番離れた、奥の洋室の角に、焦げ茶色の大きな古い和箪笥が置かれていた。
「何で、ここだけ家具があるの?」
ほかの部屋には家具がない。そもそも、販売中の家に古い家具が残っているのは、奇妙な感じがした。
雪間くんは黙っている。箪笥の引き出しは一段一段が深い。
「一応、開けてみてもいい?」
「どうぞ」
ダウンジャケットのポケットに手を入れて、そっけなく言う。
波紋のような黒い木目がうねる引き出しには、鈍く光る金属製の黒い取っ手がついている。取っ手に指をかけ、おそるおそる上から順に開けてみる。
どれも中は空っぽだったが、最後の段にだけ、ブローチのようなものが入っていた。
木製で五センチくらいの丸い形をしている。菫の花の彫刻に着色されており、裏は紐を通すような出っ張りが二つついていた。
「これ何だろう?」
「着物の帯留めじゃないですか」
「その、怒っているおじいさんの奥さんのかな?」
「おそらくは」
その時、廊下からかすかに小さな足音が聞こえた。
廊下を誰かが這う音がしたという、愛理先輩の話を思い出して背筋が凍った。
「こ、怖いよう」
「いや、これは……」
なぜか、雪間くんの表情は明るい。つかつかと部屋を横切り、ドアを大きく開ける。淡いふわふわとした紫色のフリースを着た小さな子が、戸口に姿を現した。
みのりちゃんだった。
*
頬を寒さで赤く染めたみのりちゃんは、きょとんとして私と雪間くんを見上げていた。
話を聞くとどうしてここにいるのか、全然分かっていなかった。靴も履いたままだ。彼女としては、今までどこかにいたというわけでもないようだ。
「お姉ちゃんたち、ここで何しているの?」
私に向かってはきはきと言うと、出し抜けに手を握った。
「元気そうで、本当に良かったよ」
心の底から安堵して、小さな手を握り返す。薄暗い室内に不安になったのか、私のそばにぴたりと体を寄せる。抱きしめてその肩をさすった。
「みのりちゃん、おうち帰る」
「そうだね。早く帰ろう」
しかし、ドアも窓も開かないのだ。どうしたらいいんだろう。
雪間くんと目が合う。私の不安を読み取ったように、難しい顔つきで呟いた。
「子どももいるし、根競べのようになるのは避けたい。隙があればいいんですけど」
本当は早く部屋を出て一階に行きたかったのだが、みのりちゃんが箪笥に興味を惹かれて部屋の中に入ってしまった。箪笥の前でしゃがみこみ、開けっ放しになっていた最下段の中を覗く。
「何かあるよ」
楽しそうに帯留めを取り出して私に見せる。その傍に座り、平静を装ってにこやかに声をかけた。
「うん。お花だね。みのりちゃん、そろそろ下に行こうか」
「みのりちゃん、のどかわいた」
みのりちゃんが突然言って、私のコートの袖をつかんだ。水は持ってきていなかった。困った、どうしよう。
同じ事を思ったのか、雪間くんが深いため息をついた。
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