第38話 水槽のなか



 窓が閉まると同時に音が消えた。薄暗い室内は、またしんと静かになった。窓ガラスの向こうで庭木の葉が小さく揺れている。水槽の中から外の世界を見ているような気がした。


「窓が勝手に……」


「何で出なかったんですか」


 私の言葉を遮って、雪間くんが憮然として言った。


「せっかく今なら出れたのに。最初だから隙を突けたけど、もう簡単には開けられないですよ」


「だって、雪間くん残して行けないよ」


「いられる方がよっぽど迷惑です」


 冷ややかにこちらを睨み、ぼそっと呟くと軽く咳こんだ。突然、家鳴りのような音が家の壁をはじくように響いた。


「何?!」


「駿介に逃げられて、怒っているんでしょう」


 頭のすぐ上で、小さな声がしてどきりとした。近づきすぎていたことに気づき、数歩離れる。


「とりあえず、一緒にみのりちゃん探そうよ」


「だったら絶対に一人にならないでください」


 雪間くんはすげなく言うと咳をする。廊下に続くドアを開けた。しおしおと後をついていくしかできない。


「駿介は大丈夫かなあ」


「あれなら多分、大丈夫でしょう。復活が早くて良かった。あなたの言葉が効いたんじゃないんですか」


「えっ、あんなのが? まさかあ」


 思わず笑ってしまったのだが、雪間くんの返事は無かった。


 

 一階はリビングと個室になったキッチン、和室、それにトイレとお風呂という間取りだった。階段下が物置になっている。全部見たが、みのりちゃんはいなかった。

 洗面台下の開き戸の前に、銀色のスパナが一本置いてあった。水栓の水漏れでもあったのかもしれない。何かあった時の武器になるかもと、ゴムボールと一緒にコートのポケットにしまった。


 二階には洋室が三部屋、それに物置とトイレがあった。二階には元から雨戸がないので暗くはない。

 しかし、女の子の姿はなかった。


「どこに行っちゃったんだろう」


 一応、二階の窓が開かないが試してみたが、どの窓もクレセント錠が固く、下に下げることができない。


 階段から一番離れた、奥の洋室の角に、焦げ茶色の大きな古い和箪笥が置かれていた。


「何で、ここだけ家具があるの?」


 ほかの部屋には家具がない。そもそも、販売中の家に古い家具が残っているのは、奇妙な感じがした。

 雪間くんは黙っている。箪笥の引き出しは一段一段が深い。


「一応、開けてみてもいい?」


「どうぞ」


 ダウンジャケットのポケットに手を入れて、そっけなく言う。

 波紋のような黒い木目がうねる引き出しには、鈍く光る金属製の黒い取っ手がついている。取っ手に指をかけ、おそるおそる上から順に開けてみる。

 どれも中は空っぽだったが、最後の段にだけ、ブローチのようなものが入っていた。

 木製で五センチくらいの丸い形をしている。菫の花の彫刻に着色されており、裏は紐を通すような出っ張りが二つついていた。


「これ何だろう?」


「着物の帯留めじゃないですか」


「その、怒っているおじいさんの奥さんのかな?」


「おそらくは」


 その時、廊下からかすかに小さな足音が聞こえた。

 廊下を誰かが這う音がしたという、愛理先輩の話を思い出して背筋が凍った。


「こ、怖いよう」


「いや、これは……」


 なぜか、雪間くんの表情は明るい。つかつかと部屋を横切り、ドアを大きく開ける。淡いふわふわとした紫色のフリースを着た小さな子が、戸口に姿を現した。

 みのりちゃんだった。


* 


 頬を寒さで赤く染めたみのりちゃんは、きょとんとして私と雪間くんを見上げていた。

 話を聞くとどうしてここにいるのか、全然分かっていなかった。靴も履いたままだ。彼女としては、今までどこかにいたというわけでもないようだ。


「お姉ちゃんたち、ここで何しているの?」


 私に向かってはきはきと言うと、出し抜けに手を握った。


「元気そうで、本当に良かったよ」


 心の底から安堵して、小さな手を握り返す。薄暗い室内に不安になったのか、私のそばにぴたりと体を寄せる。抱きしめてその肩をさすった。


「みのりちゃん、おうち帰る」


「そうだね。早く帰ろう」


 しかし、ドアも窓も開かないのだ。どうしたらいいんだろう。

 雪間くんと目が合う。私の不安を読み取ったように、難しい顔つきで呟いた。


「子どももいるし、根競べのようになるのは避けたい。隙があればいいんですけど」


 本当は早く部屋を出て一階に行きたかったのだが、みのりちゃんが箪笥に興味を惹かれて部屋の中に入ってしまった。箪笥の前でしゃがみこみ、開けっ放しになっていた最下段の中を覗く。


「何かあるよ」


 楽しそうに帯留めを取り出して私に見せる。その傍に座り、平静を装ってにこやかに声をかけた。


「うん。お花だね。みのりちゃん、そろそろ下に行こうか」


「みのりちゃん、のどかわいた」


 みのりちゃんが突然言って、私のコートの袖をつかんだ。水は持ってきていなかった。困った、どうしよう。

 同じ事を思ったのか、雪間くんが深いため息をついた。

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