第40話 雪兎
「大丈夫!?」
「ちょっと肩に当たりました」
表情を歪ませ、痛みに耐えるように深い息を吐いた。
「肋骨折れた?」
「怖いこと言わないでください。折れてない。大したことないです。箪笥の中身が入っていたらやばかったですが、空だったし」
落ち着いて喋っているので、本当のようだ。ほっとして、何だか泣きそうになった。
「肋骨が折れてないみたいで良かった」
「そんなことを今、気にしなくても」
「だって……お化けも怖いけど、雪間くんの肋骨が折れる方が怖い」
「それ、完全に順番がおかしいですよ」
雪間くんは、戸惑ったような顔で自分の髪を掻き回す。
私の隣で、みのりちゃんは目を丸くしていた。
びっくりしたね、大丈夫だよと声をかけたら、興奮した様子で、
「それが、じどうでたおれた」
と倒れた箪笥を指さして言った。
「そうだね、自動だ。さっきは自動で窓が閉まったし。自動っていうとちょっと楽しくなるね。未来世界みたいで」
「普通の人はなりませんよ」
「しかし、何で突然、倒れたんだろう」
「さあ。何か言いたいことがあるのかも」
「みのりがこれ、取ったから? ごめんなさい」
みのりちゃんが小さな手の平にのせた帯留めを差し出し、けなげな仕草で頭を下げる。
「違うよ。それで倒れたんじゃないから」
子どもらしい勘違いを微笑ましく思っていたら、雪間くんがみのりちゃんの手から帯留めを取った。親指と人差し指で摘み、ためつすがめつ見る。
「……あなたの先輩の話ですけど。確か、階段のそばの部屋にいたら、奥から階段に向かって廊下を這う音がしたんでしたよね?」
「うん。そう言っていた」
「じゃあきっと、おじいさんはこの部屋にいたんだ。駿介の話からすると、症状が急変して、息子に助けを求めたけど、無視された。自分で家を出ようとして、途中で力尽きた。だったら、本当はここから出たいんだ。出られなくて迷っている」
一人で納得したように頷いている。
「多分、帯留めを忘れたのが、ひっかかっているんですよ。ただ駿介の言うとおり、話を聞いてくれる状態じゃないから、それを何とかできれば」
「よく分からないけど」
「みのりのボールは?」
みのりちゃんが、突然言った。
「忘れたの? お姉ちゃん、みのりのボール、取ってくれるって言ったじゃない」
そういえば、ボールのことをすっかり忘れていた。
「ちゃんとあるよ。ほら」
ポケットから水色のゴムボールを取り出す。一緒にスパナが出てきた。
「これ、みのりの」
みのりちゃんはボールを顔の前で持って嬉しそうな顔をする。
「何でスパナを持ってるんですか?」
「洗面台の下にあったの。武器になるかと思って、持ってた」
「発想が物騒なんだから……でも、ちょうどいい。それ、ちょっと貸してください」
雪間くんはスパナを手に持つと、重さを確かめるようにひらひらと手首を動かして言った。
「これで出られるかもしれない」
*
階段を下りて、一階に戻る。雪間くんの指示で、玄関から靴を持ってきて履いた。
雪間くんは、玄関の下駄箱の上に置いてあったナイロン紐と鋏を持ってくると、長めに紐を切って、スパナにくくりつける。
なぜか、片結びでやろうとしている。すぐに解けてしまいそうだ。
「紐を結びたいの? 私がやるよ、ちょっと貸して」
昔、ガールスカウトで習った結び方で、取れないように結んだ。
「上手ですね」
雪間くんが感心したように言う。
「私の特技はこれくらいなんだよ」
「十分ですよ」
軽く微笑むと、玄関の下駄箱に取り付けられた姿見の前に立つ。
「危ないから、離れていてください」
私はみのりちゃんと、廊下の奥、リビングに続く扉の前まで下がった。みのりちゃんが飛び出さないように、小さな体を抱えるように押さえる。みのりちゃんは、興味津々といった様子で、雪間くんを見つめている。
雪間くんは左手で紐の端を持ち、右手では思い切りよく、スパナを鏡に向かって投げた。
衝撃音がしたが、鏡には傷がついていない。
紐を引っ張り、スパナを手繰り寄せると、もう一度同じことをする。今度は小さなひびが入った。さらに、もう一回。
はっきりと分かるほどの亀裂が鏡に走った。その瞬間、小さな地震でも起こったように軽く家が揺れた。
雪間くんは、二階に続く階段の方を見る。ポケットに入れていた帯留めを出して握りしめると、静かに言った。
「一緒に出ましょう」
玄関のドアに近づき、持ち手を持って押す。あんなに固く閉まっていたドアが、ごく自然に開いた。
「急いで!」
雪間くんがドアを開けてくれている横を、みのりちゃんの手を引いて走った。
玄関から庭を横切り、一目散に門まで向かう。閉まっていた門扉を押し開けると、金属の軋んだ音がした。
驚いたことに、外は雪が降っていた。向かいの梅林の地面がうっすら白くなっている。吐いた息が白い。
「良かった、出れた……」
安堵して、ため息が出た。思わず、みのりちゃんを抱きしめる。フリースのふかふかとした触感が心地良い。
「かがみ、われたよ。いいの?」
みのりちゃんは目を丸くして、私に尋ねてきた。良くはないのだが、何と答えたらいいのだろう。
「駿介、大丈夫か」
駿介が道路の端でしゃがみこんでおり、雪間くんが肩をゆすって声を掛けていた。
「……あれ、出れたの?」
駿介がぼんやりと言うのが聴こえた。彼も無事なようで良かった。
タイヤがアスファルトをこする、耳障りで甲高い音が響いた。
白い原付バイクが傾いで、私の目の前に迫って来ていた。運転手の顔は白いヘルメットに隠されている。
みのりちゃんが巻き込まれないように、小さな体を横に押すので、精一杯だった。
バイクのハンドルが突き出た二本の耳のように見え、まるで、こちらにまっすぐに向かってくる白い兎みたいだった。
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