第41話 ふいうち
***
「手首骨折だって」
救急外来の待合室で、包帯が巻かれた左手を見せると、雪間くんはあからさまに顔をしかめた。
「重症じゃないですか」
「そうともいうかも」
「さっき、意外と大丈夫だったってメッセージが来てたから、捻挫くらいですんだのかと思っていたのに。あれ何だったんですか」
「利き手じゃなくて良かったから」
原付バイクは雪で滑ったのだという。
減速していた原付バイクは私を避けようと方向を変えたこともあり、衝突はしなかった。しかし、転んだ時に体を支えようとして出した左手首を折った。
みのりちゃんに怪我はなく、原付を運転していた人も転倒しただけで済んだのが幸いだった。事故後の処理は雪間くん達にまかせて、私は救急車で近くの病院に運ばれたのだ。
「でも、あの原付バイク、雪で滑ったっていうけど、タイミングが良すぎるよね?」
雪間くんの表情が険しくなる。
「滑らされたんでしょう」
「おじいさん?」
「いえ。元々、あそこにいたものの方です。バイクの人は悪くないので、逆に気の毒だった。保険に入っていてくれていて良かったです」
「みのりちゃんは?」
「ちゃんと家まで送りました。元気そうだったので、大丈夫だと思います」
「それは良かった。骨折仲間になったね。あ、雪間くんはヒビか」
「何、笑っているんですか」
呆れた顔で私を見ると、隣の椅子に腰掛けた。
駿介はひどく体調が悪くて、車で横になって休んでいるのだという。
「帰り、送っていきますよ」
「大丈夫。家に連絡したら、父親が迎えに来てくれるって。雪間くんは、駿介を見ないと。お父さん、すごいびっくりしていたよ」
「そりゃそうでしょう。娘が原付に轢かれかけて、冷静だったら怖いですよ」
「大丈夫だって言ったんだけどね。雪、まだ降ってる?」
「そんなに強くはないですが、降ってます。天気予報だと、夜には止むみたいですけど」
「スタッドレスタイヤで来て良かったね。さすがだよ……ところで、あの鏡、何で割ったの?」
「あそこが一番、嫌な感じがしたので」
正面を見たまま、ぽつりと言う。壁の上部に取り付けられたモニターでは、振り込め詐欺の啓発動画が繰り返し流れている。
「スパナに紐をつけたのは何で?」
「邪魔されて取られないようにです」
何に、とは言わない。私もそれ以上聞くのは止めた。
「不動産屋に連絡して、鏡は僕が弁償します。適当な理由も考えておきます」
「私が払うよ」
「結構です。壊したのは僕なので」
「でも」
「それ以上言うなら怒ります」
もう怒っているような口調で、きっぱりと言う。
「……ごめん、ありがとう。愛理先輩にも、あそこは絶対に止めておいた方がいいって、メッセージを送っておいたんだけど。どうしたら、お父さんが納得してくれるかな」
「昔の話はもう分からないでしょうが。おじいさんの事は、近所の人に聞いたら、何か出てくるかもしれないですね」
ちらりとこちらを見て、憂鬱そうに俯いた。
「あなたのことだから、怪我のことはその先輩には話さないんでしょう」
「そりゃ、そうでしょう。無駄に心配させちゃうし」
ジャケットのポケットの手を入れて背を椅子にもたれ、憔悴した様子で呟く。
「……怪我させてしまって、すみませんでした」
「別に、雪間くんのせいじゃないし」
「でも最後、注意が逸れました」
「真面目だなあ。気にしなくていいのに。子どもの時に、同じところを一度、折ったことがあるから、折れやすくなっているんじゃないかと思う。小さい頃、長野に住んでいたのね。祖父母の家で暮らしていたんだけど、すごい田舎で、猪を飼ってた。可愛かったんだけど、一度、突き飛ばされて、その時に手首を折った」
「ちょ、ちょっと待ってください。話についていけない。情報量が多すぎる」
雪間くんは困惑した顔で背を正した。
「猪ってペットになるんですか 」
「なるよ。小学校でも、猪を飼ってたし」
「嘘でしょう。そんなことあります?」
堪えきれなくなったように吹き出して、笑い出す。
目を細めた笑顔に嬉しくなって、私も笑ってしまった。
日曜の救急外来には、私達の他に数人いて、間隔をあけて椅子に座っていた。
ぐったりとした幼児は母親の肩に持たれ、腕を三角巾で吊った初老の男性はぼんやりと宙を見つめている。
忙しそうな看護師が、足早に椅子の横を通り過ぎた。
「タンザニアに行く準備は進んでるの?」
「シンガポールです」
「そうだった。全然頭に入らなくて」
「ひどすぎる。地域まで違ってきたし。誰がアフリカに行くんですか。覚える気ないでしょう」
ちょっと間違えただけなのに、けんけんと怒られる。
引っ越しや、新しい仕事の話を聞いていたら、スマホが鳴った。父親からで、病院前のロータリーに車を停めているとのことだった。
私のバッグを持って、雪間くんはついてきてくれた。あの家に行った時は、バッグは車に置いていたのだ。
外は、しんしんと雪が降っていた。植え込みや、車の屋根が白くなっている。ロータリーの奥に、父親の青いミニバンが止まっているのが見えた。
屋根の影になった病院の入口は暗く、雪片が舞う外はやけに白っぽく明るい。
雪間くんは黒いダウンジャケットのポケットに手を入れ、白い風景を前に端然と立っている。
白い息が空気に溶ける。
次はいつ会えるんだろう。
気が急いて、無茶なことを口走りそうになった時、怪獣の尻尾がビルをなぎ倒す光景が頭をよぎった。
さっき、私は繊細じゃないと、駄目押しのように言われた。本当のことなので反論できない。私では問題外なのだ。
「……じゃあね。色々、本当にありがとう」
軽い言葉なら幾らでも、舞うようにくるくると行き来するのだけれど。
いつか遊園地でやったくじを思い出す。竜巻のような風が舞う透明な円筒の中を、三角に折られた紙が舞っている。くじを引く人は、円筒の横に空いた穴から手を入れ、一枚だけ紙を掴む。
期待する言葉は決して引けない。元から入って無いのだから当たり前だ。何だか哀しくなってきた。
強く冷たい風が正面から吹いて、雪と自分の髪の毛が、顔の前にかかった。片手はバッグを持ち、もう片手は包帯をしている。どうしようもなくて頭を振っていたら、雪間くんが顔にかかった髪をはらってくれた。
「ありがとう」
手が、私の頭の横で止まった。目が合う。彼は不意に笑った。
「何、笑っているの?」
「いや、猪を思い出しちゃって」
「今?」
雪間くんが思い出し笑いをするなんて。初めて見た気がする。
眩しい笑みを浮かべながら、手を私の頭から離さない。混乱して鼓動が速くなり、寒さとは関係なく体が震えた。
彼はふと真顔になり、率直なまなざしをこちらに向けた。
「――あなたは違うかもしれませんけど、僕にとっては半年間は長いので」
諦めと不安が混ざったような表情で、
ふわりと微笑むと、これまで聞いたことのないような、優しい声で言った。
「また連絡しますから」
*
青いミニバンのドアが開く。後ろの席に乗ると、運転席の父親は振り向いて声をかけた。
「大変だったね。大丈夫? ……花音?」
父親は目を丸くして、心配そうに言った。
「顔が赤いよ。熱が出てきたんじゃないか? 大丈夫か?」
果たして何と言い訳をしたのか、全然覚えていない。
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