第42話 砂丘と貝殻
***
晴れていたが、風が強く寒い日だった。少し灰色がかった青い空に、小さな雲が等間隔で並んでいる。膨らみかけた風船のような白い月が、ビルの隙間に浮かんでいた。
駅の柱にもたれていた駿介は、私を見ると、にこやかに手を振った。
紺色のコートを着て、黒地に細い白縞の入ったマフラーを巻いている。相変わらず目立っていて、通行人の視線を集めていた。
「どうしたの、急に」
「ちょっと花音ちゃんに会いたくて。手、大丈夫?」
駿介に会うのは、二週間ぶりだった。
「大丈夫だよ。駿介も、元気そうで良かった。あの日、本当に体調悪そうだったから、心配だった」
「全然、平気だって。寝たら治ったって、言ったじゃん」
確かに駿介からは連絡が来ていた。
雪間くんから病院で、「また連絡をする」と言われてから二週間経っていた。
今日まで一切、彼からの連絡は無い。
それどころか、私が送ったメッセージが既読にすらならない。
愛理先輩からのお礼のメッセージを送ったのに。
***
結局、愛理先輩の父親は、あの家の購入を止めた。
私の話を聞いた愛理先輩は、思い切って隣の家を訪れた。息子同士が同級生だというおばあさんは噂好きで、隣家の事を色々話してくれた。
元々は古い家に、両親と一人息子が住んでいた。親子仲は悪く、よく大声で言い争う声が響いていた。あの家は、十年くらい前に建て替えられたものになる。
息子が家を出て、妻が亡くなった後、老人は一人暮らしをしていた。病気で亡くなった老人を、当日、たまたま訪れた息子が発見した。
息子はすぐに家を売りに出した。息子には、事業に失敗して借金があるという噂がある。
先輩が父親にその話をしたところ、急に熱が冷めたようにあの家に興味を失った。
先輩からは、とても感謝された。
ただ、愛理先輩が言うには、二階に古い和箪笥など無かったらしい。
だったらあれは何だったんだろうと思うが、そもそも色々と理解の範疇を超えているので、これ以上は気にしないことにした。
嘘をつく人ではないので、連絡は来るのだろうと思う。いつか、そのうちに。
何となく、綾菜ちゃんにも話せなかった。人に話したら、それで答えが決まってしまうような、花占いの終わりが分かってしまうような気がした。
期待と不安が波形を描くみたいに交互に訪れて、落ち着かない。
自分でもどういう心理状態なのか分からないが、時代劇のドラマを見ると心が落ち着いた。必殺仕事人、暴れん坊将軍に、桃太郎侍。急に時代劇にはまりだした私を、妹は面白がっていた。
しかし、さすがに二週間近くなると、連絡を待つのも疲れてきた。
ぼうっとして、折れてる左手を普通に使おうとして、鈍痛に我に返る事が続いた。このままでは、骨がいつまでもくっつかない。
突然、一人暮らししよう、と思い立った。そろそろ実家を出ようと思っていたし、引っ越しで忙しくなれば、気が紛れるだろう。
意気込んで不動産屋に行ったが、四角い顔をした実直そうな男性店員は、包帯の巻かれた私の左手を見て、
「ご紹介はできますけど、お急ぎでないなら、手首が治ってからの方が一人暮らしはいいんじゃないですか?」
と、至極もっともな事を言った。確かにその通りだ。気づかない方がどうかしている。
治ったらまた来てくださいね、と明るく送り出され、行き場に困ってしまった。
暇つぶしに、本屋に足を向けた。
並べられた本や漫画を見て回る。絵本コーナーの前で、足が止まった。
探してみたら、『うさこちゃんとうみ』があった。オレンジ色の水泳パンツを履いて、堂々と立つうさこちゃんの表紙が可愛い。
うさこちゃんがお父さんに誘われて、二人で海に行く話だった。お母さんは全く出てこない。
『さきゅうをのぼったりくだったり』して、海に着き、砂山を作ったり、貝殻を拾って遊ぶ。そして家に帰る。
楽しいのに、どこか
本屋を出て、一人カラオケでも行こうかとぼんやり考えていたら、突然、駿介から、近くの駅にいるという連絡が来たのだった。
***
「でも、本当に何の用なの? わざわざ来て」
駿介の顔を見上げる。彼の最寄り駅は、ここから決して近くは無い。
「会うのに理由なんかいらないでしょう」
「私は、駿介が元気なのが分かれば、後は特に用事は無いんだけど」
「まあ、そう言わずに」
理由は分からないが、上機嫌でとても楽しそうだ。
「花音ちゃんの先輩の父親、あの家買うの止めてくれたんでしょう? 良かったね。あそこ絶対止めたほうがいいよ」
「その節は本当にありがとう。今度、お礼させてね。ご飯おごるよ」
「別にいいのに。でも三人で食事は行こうか。焼肉行きたいな」
「いいけどさ――雪間くんは、何してるか知ってる?」
心臓の音が大きくなり、自分が緊張しているのが分かった。
「森は北海道行ったけど」
「北海道?!」
予想を大きく超えた返答に、声が大きくなってしまった。
「旅行みたいな? 色々あってね」
駿介の言葉が、耳を通り過ぎて行く。
北海道に旅行して、肋骨は大丈夫なんだろうか。
愕然としつつ、一つの事をはっきりと悟る。
それが本当なら、彼が私に連絡したかったのは、ごく瑣末な事だったのだろう。
カタールのお土産は何がいいか、とか、生活態度の注意とか。
だったら紛らわしい事を言わないでほしいと、どこかに訴えたい。どこの裁判所が管轄なんだ。
「こ、この二週間、何だったんだ」
「何の話?」
「何でもないよっ!」
憤然とする私を、駿介は明らかに面白がっていた。
「どうしたの。飲みに行く?」
「だから私は、お酒飲めないんだってば。カラオケ行こうっと。じゃあね」
唇を噛んで歩き出したところで、後ろから呼びかけられた。
「カラオケ行くならつきあうよ」
足を止めて振り返る。駿介は、一見、人の好さそうな、爽やかな笑顔を浮かべていた。周囲より頭一つ背の高い姿は、雑踏から浮き上がって見える。
「別にいいよ」
「その手で、一人でカラオケしていたら、ちょっとホラーだって。店員さん、怖がっちゃうよ」
包帯の巻かれた左手を見つめる。駿介の言うことには、一理あった。
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