第37話 どちらでも
「おじいさんだよ。めっちゃ怒ってる」
長い脚を引き寄せて、自分の頭を膝に押し当てた。声は弱々しく、いつもの余裕が無い。毛髪が多く大型の犬を連想させる頭が、力無くうなだれている。
「駿介、小さい子どもの声って聞こえるか?」
雪間くんの問いに、駿介は首を横に振った。
「しない。わめいてるおじいさんの声しか聞こえないよ」
「だよな。僕も子どもの霊はいないと思う。だとすれば、草野さんの見た近所の子は本物です」
「本物じゃない可能性もあったの?」
それは怖いから止めてほしいと、切実に思う。
「子どもを探してくるから、二人はここで待っているように」
雪間くんはまるで生徒に指示を与える先生みたいに言うと、部屋を出て行った。私と駿介の方が年上なのだが、彼が一番落ち着いている。
駿介は本当に具合が悪そうだった。顔色が悪いし、吐き気もするのか大きな手で口を押さえている。
「平気?」
背中をさすってあげると、珍しく軽口も叩かず、そのままになっていた。
しばらくして、雪間くんが暗い顔で戻ってきた。
「二階も含めてざっと見ましたが、いません」
「そんなはずないんだけど」
「もう外に出たならいいですが、多分違います。玄関ドアが開かない」
「えっ」
私も玄関に行って試してみたが、本当にドアが開かなかった。鍵は開いているのに、外に向かって開くはずのドアはびくともしない。持ち手を挟んで上下についた二つの鍵は軽く回るが、焦茶の扉は誰か押さえつけてるように重い。
リビングに戻り、掃き出し窓の鍵を開けようとしたが、クレセント錠が固くて動かない。腰窓も同じだった。
「この家、すごく建て付けが悪いのかな」
「本気で言ってるなら、驚嘆する鈍さですけど」
雪間くんがスマホを見て、眉をひそめた。
「駄目だ、電波も通じない」
私も自分のスマホを取り出してみると、圏外になっていた。家の中に入るまでは電波を拾っていたのに。
「何これ」
「俺のせいかも。俺のことは出さないって怒鳴っているから」
フローリングに座り込んだ駿介が、辛そうにあえぎながら言う。
「その、ここにいるおじいさんが?」
「まず、ここは場所が悪い。昔、色々あった土地です。そして最近、ここで亡くなった老人が、強い恨みを残している。そこに話が通じる駿介が来たから、掴まえようとしている」
「強い恨みって、まさか、殺されたとかそういうの?」
肌が粟立ち、コートの上から腕を手でさすった。こちらを見上げる駿介と目が合った。
「いや、死んだ原因は病気みたい。でも、一人息子に助けを求めたのに見捨てられたって、すごい怒っている。奥さんは前に病気で亡くなってて、その後、一人で暮らしていた自分を、息子は全然助けなかった、死ぬ前にも電話したのに無視されたって。関係無い呪詛もすごいから、多分だけど……」
駿介は頭に手を当てて、顔を歪める。
「でも、そんな閉じ込められたり、電波が通じなくなるなんて。そんなことある?」
「まれにあります」
「あるの!?」
面食らう私に、雪間くんは表情を変えずに頷いた。
「まあ、今回はこれくらいなら、いずれは出られる。駿介が気に入られたのがいけない」
大雨で川が増水して橋が渡れないと嘆くような調子で言う。ぐったりとした駿介が小さく呟いた。
「俺のせいだけじゃないでしょう」
「大丈夫?」
「ここの人、言いたいことがあるのは分かるんだけど、怒鳴っている上に、話が支離滅裂で辛い……せめてもう少し、話を整理してほしい」
「そこ気にするの? 意外と余裕あるなあ」
「ないない。ちょっと、もう駄目かも」
駿介は崩れ落ちるように床に横になる。慌ててそばにしゃがみこむと、億劫そうな呟きが聞こえた。
「俺なんか、どうせ生きててもしょうがないし」
顔を両手で覆う。指の隙間から覗いた目が、強い怒りをたたえている。
「誰も俺の気持ちなんか分かってくれない」
「雪間くん、これ……」
寝転んだ駿介を指さし、雪間くんを見上げる。彼はさして驚く様子も無かった。
「ひとまず、駿介は早くここから出した方がいい。ちょっと色々試してみるので、草野さんはその間、駿介を励ましてください」
淡々と言うと、リビングの掃き出し窓に向かって立ち、クレセント錠を調べ始める。
「励ませって言われても」
いつかの雪間くんは詩人のような言葉を駆使していたが、私の乏しい語彙力では、そんなの急に出てこない。
急に、駿介が跳ねるように身を起こした。立ち上がり、キッチンの方に向かおうとする。嫌な予感がして、手首を両手で掴んだ。
「どこ行くの?」
「離せよ。関係ないだろう」
「だめ! ちょっと待って」
とりあえず、駿介を褒めればいいはずだ。彼に正気に戻ってもらわないと困る。
「駿介はかっこいいよ! スポーツできるし、顔もかっこいい。性格も明るくて、話していて面白いし」
声だけは大きかったが、思いつきを並べただけで、大したことが言えていないのが哀しい。
「本気で言ってないくせに」
こちらを振り返った顔には、癇癪を起こした少年のような、無防備で鋭い怒りが閃いていた。
「そんなことない。本当にそう思っている。後は、コミュ力が高いのも良い所だよ」
「他人と接する時は、望まれるように振舞っているだけだ。本当の自分じゃない」
悲劇の主人公めいた口調で言う。何だか、SNSで見かけるポエムみたいになってきた。
「それで別にいいじゃない。相手に合わせて動けるんだから、大したもんだよ」
「でも、みんな勝手な都合を俺に押し付ける。その通りに振る舞わないと落胆されると分かっているから、やっているんだ」
「分かっていてそうするのは、優しいからなんじゃないの」
駿介の腕の力が緩み、戸惑うように視線が揺れた。
「駿介は言動は軽いけど、根は良い奴だと思う。本当じゃなくて見せかけでも、本気でも嘘でも、どっちでもいいよ。だってそれは、誰かを助けようと思ってやっているわけでしょう?」
駿介が、すがるように私の手を掴んだ。
「でも言っとくけど、二股かけるのはあんたが悪いからね」
「……花音ちゃん、ここでそれは無いんじゃない?」
やや弱々しくではあったものの、不遜な笑みを浮かべている。目に光が戻っていた。いつもなら少し癪に障る笑顔に、今は安堵を覚える。
「良かった、正気に戻った?」
「あー、気持ち悪い」
私の手を掴んだまま、その場にしゃがみこんだ。目を瞑り、私の手を瞼に当てる。
「冷たくて気持ちいい……」
「私の手は冷えピタか」
「駿介をこっちに!」
雪間くんの切迫した声が響いた。
いつの間にか掃き出し窓が開いていて、雪間くんが手で窓枠を押さえている。屋外から乾いた冷たい風が部屋に吹きこみ、埃を払うように私の頬を撫でた。
慌てて駿介を引っ張って立たせ、窓に向かって押し出す。
「駿介、ほら、早く出て!」
声をかけたが、駿介はまだぼんやりしていて動きがのろい。
雪間くんは片手で窓枠を押さえながら、もう片方の手で駿介の腕を掴んで前に押し出すと、足で蹴り出した。掃き出し窓は、地面から三十センチほど高くなっている。
「うわっ」
庭に落ちた駿介の叫び声が響く。彼は数歩よろめいて転んだ。
「あなたも!」
突然、背中を強く押された。雪間くんが、私も窓から庭に落とそうとしていた。
「子どもは僕が探しますから」
「えっ、やだよ!」
窓枠を掴み、体をひねらせて横に避けた。雪間くんが窓枠から手を離し、私を追いかけて振り向く。
その後ろで、誰も触らないのに、勝手に勢いよく窓が閉まった。
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