第30話 風船

「それは嘘です」


「えっ」


「誰と付き合っているとか、告白されたとか、事実無根の嘘をあちこちで言って回っていました。僕だけじゃなくて、他の男性社員も被害に遭っています。何でそんなことをするのか、意味不明です。他にも、佐藤さんという女性は、あの子のせいで病気になってしまいました。小笠原瑠衣は他の女性社員に、佐藤さんに苛められていると言っていましたが、そんな事実はなかった。一見、害が無さそうなので余計にたちが悪い。投資の話をされませんでした?」


「言ってた」


「それも絶対に信じちゃ駄目ですよ。周囲に、怪しい投資話を誘って回っているんです。どうやら、自分がひっかかったことの腹いせだったようですけどね。他にも話せませんが、疑惑が山のようにあるんですから」


 テントの重石のことが頭をよぎる。まさかと思いつつも、一応、雪間くんに話すと、真剣な顔で言った。


「もしそういうことをしていても、不思議はありません。本当にやばいんですから」


 ぞっと鳥肌が立つ。オセロの駒が盤面で一気にひっくり返るようだった。小笠原さんを、私は全く分かっていなかったわけだ。


「じゃあ、家で変なことが起きるっていうのも、やっぱり嘘だったのかな」


 腕をさすりながら呟くと、雪間くんはちょっと黙ってから口を開いた。


「僕もあの子から相談されましたが、それは本当です。事故物件なんかじゃありませんが」


「どういうこと?」


「彼女のおじいさんですよ」


 目を見張る私に、雪間くんが肩をすくめる。 


「だからそれは怖がることはありません。放っておいて大丈夫です」


「そう言ったの?」


「いえ、関わりたくなかったので、何も言いませんでした」


「教えてあげれば良かったのに」


「さっき言いました。あれで十分です」 


 冷淡な言い方だった。顔つきも鋭く、彼は怒っているようだった。


「だから、彼女に近づくなと言ったのに。僕、ちゃんと警告しましたよね? 人の話、何にも聞いていない」


「そういう意味だったの?」


「他にどんな意味があるんですか」


「いや、てっきり……」


 まさか言葉通りの意味だったとは。かりかりとしている雪間くんに、自分の複雑な誤解を伝えることは、さすがに躊躇われた。


「でも雪間くん、小笠原さんとランチしてたじゃない?」


「は? いつの話ですか」


「先月、あの一緒に行ったエスニックレストランで。私、見ちゃってたんだよね」


「ああ……昼を食べてたら、たまたま出くわして。一緒に食べていいですかと言われたら断れず仕方なく。会社の人からそう言われたら断れないでしょう、普通。変に恨みを買いそうですし。やばい気配しかないので、あの子、本当に嫌だったんですけど」


「ええっ? でも、楽しそうだったけど」


「社会人なんだから、愛想笑いくらいします」


 迷惑そうな表情の雪間くんを前に、頭が混乱してきた。


「私にはしないじゃないか」


「草野さんは会社の人じゃないから」


「だったら、しばらく会えないって言ってたのは何だったの?」


 雪間くんが初めて目を泳がせた。気まずそうに顔を背ける。


「それは……別に何でもありません」


「何でもないことないでしょう。私、何かして嫌われたのかと思ったんだけど」


「そういうことではないです」


 私の視線を避け、ますます顔を背ける。帽子の影に隠れた横顔に、ふと違和感を覚えた。


「……そういえば、今日は何で帽子かぶってんの?」


「かぶったっていいでしょう」


 爪先で立って背を伸ばし、黒いキャップをひったくる。


 雪間くんの髪が短くなっていた。


 目を隠していた前髪は中央で分けられ、額に少しかかるだけになっている。襟足もすっきりと短くなり、隠れていた耳も出ていた。


「髪、切ったんだ? 似合ってるよ。何で隠すの」


「……美容師に、勝手に思ったよりも切られました。切った後で、何か恥ずかしくなって。もう少し伸びるまで会うのはやめとこうと思ったんですが」


 手で額を隠しながら、小さな声で言う。


「言っておきますけど、あなたに言われたから切ったんじゃないですから」


「そんな事言ったっけ?」


「ああ、もう。そういう事を言うと思った。だから嫌だったんだ」


 雪間くんは怒りながら耳を赤くしていた。

 そういえば小笠原さんが、最近、雪間くんが変わったと言っていた。それは髪を切ったことを指していたわけだ。

 もちろん、駿介も知っていた。ガタラでのあの笑いは、そういう意味だったのか。


「伸びるまでって、何か月かかるの」


「一か月くらいしたらもう少し伸びるかと」


「馬鹿なの? 本当に心配してたのに」


「はあ」


 足の先がじわりと熱い。俯いて爪先を見つめる。自分の心臓の音が速かった。

 雪間くんが私の顔を覗きこんだ。


「お仕事、お疲れ様でした」


「……ありがとう」


 多分、どちらでも同じことなのだ。自覚していても、望みが薄いのは変わらない。それでも、最早どうしようもないのだった。


「本当、来てくれてありがとう」


 雪間くんが柔らかく笑った。


「まだ終わってないんだけどね」


「終わるまで近くで待ってますから、どこか食べに行きますか?」


「うん」


 何だか泣きそうな感情の始末に困る。


「綿あめ食べたい。今日食べそびれて」


「それは難しいかと思いますけど」


「あ、また風船」


「え?」


 空を緑色の風船が飛んで行く。また、どこかで子どもが手を放してしまったのだろう。


 頼りなげに、雲の多い空を高く上がっていき、そのうちに遠方のビルに隠れて見えなくなった。

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