第29話 嫌いだった
風が止んだ。目に何か入ったようで痛い。瞼をこすりながら目を開ける。
足元が傾いでいるような、変な浮遊感があった。
小笠原さんは何かから身を守るように頭を両手で覆い、地面にしゃがみこんでいた。
雪間くんはコートのポケットに手を入れて強張った顔をしている。
顔を上げた小笠原さんは蒼白になっていた。さっきの叫び声は彼女のものだったのだと、震える体を見て気づく。
「もうやだ……今の、何だったの? 変なものが……」
周囲を見回してよろよろと立ち上がる。親指の爪を噛んで、独り言のようにつぶやいた。
「私が悪いんじゃないのに。知り合いから投資に誘われて、お金を五十万も払ったのに、嘘だったんです。連絡が取れなくなって。警察もお金は戻らないっていうし。どうして私がこんな目にって、腹が立って……」
「それは災難でしたが、だからって何をしていいってわけではないですよ」
雪間くんの声には、はっきりと怒りが滲んでいた。落ち着いた口調だからこそ、余計に迫力があった。
「皆、私より幸せなんだからいいじゃない。私なんて、おじいちゃんも死んじゃったのに。何も悪いことはしていない」
「他人にぶつけるでたらめな言葉だって暴力です。あなたみたいに、あちこちで繰り返していればなおのこと」
「そんなことない。私は悪くない」
小笠原さんは震える声で呟くと、両手で顔を覆った。
次の瞬間、強いライトに正面から照らされたように、視界が急に明るくなった。眩しさに目を細める。
*
カフェオレに汚れた垂れ幕。テントから垂れ下がった模造紙。
ざわめきが聞こえた。そこで初めて、今までは周りの風景も音も消えていたことに気がついた。
公園の隅に、私達はいた。雲間から陽が射していて、のどかな午後だった。
テントからはおばあさん二人が出てきて、周囲を見回していた。
「晴れているし、雷じゃないんじゃない?」
「でも、じゃあ何の音だったの?」
後ろを振り向くと、何人かの人が同じように不思議そうに空を見上げている。
小笠原さんは、憑き物が落ちたような顔をしていた。
しばらくは呆然としていたが、傍に落ちていたペットボトルを拾うと、のろのろと立ち上がる。
視線をそらして、私と雪間くんの脇を通り過ぎようとした。
頼りなく不安気な横顔を見た時に、さっきの言葉を思い出した。
「あの……家は大丈夫ですか?」
小笠原さんは、目を見張った。ちらりと雪間くんを見ると、呆れたような顔をしている。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「家で変なことが起きて困っているっていうのは、本当なんじゃないかって思ったから。おじいさんが死んで寂しいっていうのも」
小笠原さんは小さく笑った。
「あなたに関係ないでしょう。おじいちゃんだって、本当は好きじゃない。厳しくて嫌いだった。家のことは私、本当に怖かったんです。私にばっかり、嫌なことが起きる。草野さんはいいですね。私のことなんか、誰も心配していない」
「心配していますよ、あなたのおじいさんは、とても」
雪間くんがぽつりと言った。
「え?」
「今でも」
真剣な顔で、断言する。
小笠原さんは訝りの目つきで雪間くんを見ていたが、不意に弾かれたように後ろを振り向いた。
「おじいちゃん……?」
泣きそうな声で呟く。子どものように激しく顔をゆがめると、小笠原さんは何も言わずに、早足で離れて行った。
***
小笠原さんの姿が見えなくなってから、私達は顔を見合わせた。
「こ、怖かったんだけど?!」
「だから言ったでしょう!」
めずらしく雪間くんが声を荒げた。
「可愛い子がぶちぎれているのって、迫力あるね。心臓に悪い。雪間くん、大丈夫?」
「大丈夫かと聞きたいのはこっちです」
「さっき何かしたよね?」
「何の話ですか」
ジャケットのポケットに手を入れ、涼しい顔でしらばっくれている。
「だって、すごい風が吹いた後に暗くなったじゃない。雷みたいな変な音もしたし、小笠原さんの様子もおかしかった。雪間くんが何かしたんじゃないの?」
「驚いた。それだけですか?」
「何が?」
「あなた、本当に鈍いんですね。まあ、逆に良かったです。見て楽しいものじゃないですから」
淡々と言われ、背筋が寒くなる。一体、本当は何が起こっていたのか。
「雪間くん、前に自分は見ることしかできないって言ってなかったっけ?」
「元々、あちこちから恨まれている子でしたから、周囲に色々集まっていました。いわば帯電していて、触れれば静電気が起きる状態だった。それを放電させただけです。僕自身は何もやっていません」
「放電って何。怖いんだけど。それ、十分に色々やってない?」
「見解の相違です」
そこで、はたと大事なことに気づく。
「大体、何でいるの?」
「あなたから訳の分からない不穏なメッセージが来てたじゃないですか。遺言かと思いましたよ。どうしたのかと聞いても返事はないし。今日、ここでイベントやることは知ってました」
まさかとスマホを確認すると、さっき書いたメッセージが送信されていた。文字だけ打って、送らないで画面を閉じたつもりで、間違えて送信してしまっていたらしい。
頬がかっと火照る。雪間くんがじっとこっちを見ていた。
「あのこれ、送ったつもりじゃなくてね」
「まさか小笠原瑠衣に絡まれてるとは。あなた毎度、こっちの予想を遥かに超えたことをしますよね」
「すみません……」
「小笠原瑠衣に何を言われました?」
「……雪間くんと付き合うことになったって」
いたたまれず、目をそらす。雪間くんが深いため息をついた。
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