第28話 秋雷
強く冷たい風が吹き抜け、垂れ幕が小刻みに震えた。
薄茶色い飛沫が白い地の布も、丁寧に縫われたカラフルな文字の部分も汚していた。
品の無い落書きをされた建物がみじめに見えるように、素朴な可愛さのあった垂れ幕が、急にみすぼらしいものになってしまったように見えた。
「あら、何これ!!」
後ろから大声が聞こえた。
おばあさんが二人、垂れ幕を見て目を丸くしていた。福祉団体の名前が入った腕章を腕につけている。
一人のおばあさんが、小笠原さんの手のカフェオレのペットボトルに目ざとく気づいた。
「これ、あなたがやったの?」
小笠原さんは、答えずに地面を見つめている。
それが良くなかったのだろう。おばあさん達は、険のある顔つきで小笠原さんに詰め寄った。
「どうなの?」
「ごめんなさい。わざとじゃないんです!」
私は、小笠原さんとおばあさん達の間に割って入った。私の声量に驚いたのか、おばあさん達は目を丸くした。
「躓いてしまって。本当にごめんなさい。私もこの祭りの参加者側なんですけど、垂れ幕は私が洗って綺麗にしますから」
「それならいいけどねえ」
おばあさん達は顔を見合わせて頷きあうと、テントの中に入って行った。
おばあさん達がこちらの声が聞こえない距離に離れたのを確認してから、そっと尋ねた。
「何で?」
「どういうことですか」
小笠原さんの表情を見て、言葉を失う。肌は青白く、長い睫毛に縁取られた大きな目が、こちらをきつく睨んでいる。毛を逆立てた猫のように、彼女はただ怒っていた。
「何で、草野さんが私をかばうんですか? 洗うとか、何それ? 私が洗いますよ! だってそうでしょう。私がやったんだから」
矢継ぎ早に厳しく言われて言葉に詰まる。落ち着こうと、息を大きく吐いた。
「これ作ったの、事務局の山内さんなんだよ。あの会議を必死にまとめていた人。今日のために、自分で縫ったんだって。わざと汚されたって知ったら、山内さんが悲しくなるだろうと思って」
「は? こんな変なの、どうなったっていいじゃないですか」
「それは、ひどいんじゃない」
思わず口から出た私の言葉が癪に障ったようで、小笠原さんは眉を吊り上げた。
「えらそうに、何なんですか? 大体、私がこんなことをしたのは、草野さんのせいですよ」
「え?」
小笠原さんは私をねめつけている。顔立ちが美しいので凄味があった。
「気づいていないんだ。そういうところ、草野さんって、すごく無神経ですよね」
無神経という言葉が、胸に深く刺さった。
そういえば、雪間くんにも最初、私は無神経だと言われたのだった。
「……確かに私、そういうところはあるのかもしれない。知らない間に何かしたなら、ごめんなさい。でも」
右手を強く握り、小笠原さんの目を見る。
「もしそうだとしたら、何が不愉快だったのか教えてほしい」
小笠原さんは一瞬黙った。表情が消え、滑らかな陶器でできた、人形みたいに見えた。
しかしその目に、すぐにまた怒りの炎が燃え上がった。
「何それ。言わなきゃ分かんないって、子どもじゃないんだから」
こちらを小馬鹿にしたように笑って、吐き捨てる。
「雪間さんも、草野さんは図々しくて無神経だって言っていましたよ。勘違いしていて迷惑だって」
その時、唸るような音とともに、正面から強い風が吹きつけた。木の枝が助けを呼ぶようにしなって揺れる。
目を開けていられず、体は押されて後ろによろめいた。
私の耳を、誰かの手が優しく覆った。
「まともに聴く必要ないですよ。そんな事、言った覚えありませんから」
耳に残る、静かな声。
後ろに雪間くんが立っていた。
*
彼はフードのついた黒いジャケットを羽織りっていた。黒いキャップを目深にかぶっている。
小笠原さんは雪間くんを見て、一瞬、狼狽を露わにした。
「私は何もしてません」
急に弱々しい口調に変わる。
「それなのに、草野さんに一方的に責められていたんです。私、手が滑っただけなのに、わざとやったって言われて。そんなことしないのに」
私は呆気に取られた。まるで自分にもカフェオレがかけられたような気がした。
しかし、決定的な場面を見ていたのは私だけだった。証拠があるわけでもない。
だとすれば、小笠原さんと私のどちらを信用するのかという話になってくる。その場合、彼女の肩を持つのが彼氏というものだろう。
そう予想していたのだが、雪間くんを見ると、驚くほど冷淡なまなざしを小笠原さんに向けていた。
彼は垂れ幕を見て、眉をひそめた。
「わざと、汚したわけではないって言うんですか?」
「そうです」
「草野さんが嘘をついていると?」
「嘘か誤解か分からないけど、私は悪くないのに、一方的に責められて困ってます」
「何で草野さんがそんなことするんですか」
「さあ。知りません」
「佐藤さんの時と似てますね」
小笠原さんの表情が変わった。
「あなたは佐藤さんから嫌がらせを受けていると言い回っていましたが、そんな事実は確認できなかったそうです。佐藤さんは休職しています」
「ひどい。雪間さんまで私を疑うんですか。私が何をしたって言うんですか」
小笠原さんは、私をきつく睨みつけた。
「きっと草野さんは、雪間さんのことが好きなんじゃないですか。だから私に嫌がらせをするんでしょう」
唐突な言葉だった。
多分、的外れだとあきれた顔で笑えば良かった。この場では、それが正解だったと思う。
でも私はそれができなかった。ただ分かっていたのは、おそらく自分は赤面しているということだけだった。
辺りが急に昏くなる。空気がたわんだような気がした。
曇り空なのに足元にくっきりとした影が落ちていた。落ち葉が、生々しい鮮明な黄色をしている。
何だか変だと思った時、爪で針金を弾いた時に出るような、鈍い高音が聴こえた。
それを合図にしたように、また突風が吹き抜けた。めりめりと何か裂ける音がし、甲高い叫び声が聞こえた。
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