第27話 瑠衣
視界が暗くなり、埃っぽい臭いが鼻を突く。地面に膝をつき、頭に倒れてきた金属製の足と天幕を手で支えた。頭が少しくらくらとしたが、痛みはそこまでではない。それよりも、倒れた時に机の角に当たったようで、腰が痛い。
「大丈夫ですか?!」
私が持っていたテントの足を誰かが奪い取り、垂直に立て直した。眼前にあった天幕が外され、外の景色が見えてほっとした。
血相を変えた綾菜ちゃんが私に駆け寄り、立つのに手を貸してくれた。
「危なかったあ」
「怪我してないですか?」
ざっと痛む部分を確認したが、すりむいただけでどこも出血はしていなかった。
買ってきた焼きそばと唐揚げも、袋に入っていたので無事だった。
周囲に他に人がいなかったことは幸いだった。
コリントゲームをやっていた親子連れはいたが、離れていたので被害は無かった。
ただ突然、隣のテントが倒れたので、お父さんは私を心配し、小さい女の子は目を丸くして、「テント、おっこちたねえ」と何度も言っていた。
*
隣のテントを点検すると、足の下部につける重石が取れていた。立てた足にかませるようになっているのだが、ずらしたように外されて足のすぐ横にあった。そのせいで、私がぶつかっただけでテントが倒れてしまったのだ。
朝、私は隣のテントの設営を手伝った。その時、四本の足全てに重石をきちんとはめたことも覚えている。だからおかしな話だった。重石は十キロのものが重ねて二つ、合わせて二十キロもあり、誰かが意図して外さなければ取れない。
綾菜ちゃんを含む私以外の三人は、当然、誰もそんなことをしていないという。
祭りの会場には、無軌道に走り回る小さな子が多かった。もし、子どもがぶつかってテントが倒れていたら、事故になっていたかもしれなかったし、強風が吹いて倒れる恐れもある。
隣のテントは、お昼ごろに商品が完売した後は早々と店仕舞をしてしまい、誰もいなかった。隣の私達はといえば、列ができるほど混んでいることも多く、接客で忙しかった。誰かが隣の無人のテントで、こっそりと足の重石を取っていたとしても、気づけなかったと思う。
そんな事を話し合っていたら、お客さんが来たので、話はそこで打ち切りとなった。
客が帰ったところで、綾菜ちゃんがぽつりと言った。
「そういえば、お昼頃かなあ。朝、花音さんと話していた女の人を、隣のテントで見た気がするんですよね」
「小笠原さん?」
「そういう名前でしたっけ。ポニーテールの。忙しかったから、しっかり見ていたわけではないんですけど。隣のテントの周りにいて、あんなところで何をしているのかなあって思った」
「私に会いに来てくれたのかな」
「花音さんも忙しそうだったし、話しかけないで行っちゃったのかもしれないです」
でも、さっき会った時には確か、「忙しくて、そちらを見に行けない」と言っていた。来ていたのなら、どうしてそんな小さな嘘をついたのだろう。
「あ、風船」
綾菜ちゃんが空を指さした。糸のついた青い風船が空を高く上っていくのが見えた。
「誰かが手を放しちゃったんだ」
「風船なんて、配ってたっけ?」
「ちょっと前から、あっちの方で、自動車販売店が子どもに配っていますよ。ちゃんとガスを入れているんですけど、糸に重石をつけないで渡しているから、いくつか飛んでいっちゃっている」
「糸の端に持ち手がついていたりするのって、持ちやすくするためだけじゃないんだ」
眺めていると青い風船は空を泳ぐように漂って、周囲に立ち並ぶマンションの方に流れて行った。
*
テントの前に鍵が落ちていることに気がついたのは、お客さんだった。家の鍵で、ミッキーのキーホルダーがついている。
誰か取りにくるかもしれないと預かっていたが、一向に来ない。本部に届けた方がいいだろうという話になった。
四時近くなり、公園は大分閑散としていた。人手は十分に足りているので、私は本部に鍵を届けがてら、ついでに会場を回ることにした。来年のこともあるので、様子を見ておきたかった。
食べ物関係はほとんど完売していた。
隣のグラウンドを覗いてみたが、かけっこ教室はもう終わっていた。バスケットのシュート体験も、誰もやっていない。
午前中は晴れていた空には雲が増え、時折、日が陰る。陽ざしがなくなると、芝は色を失い急に寒さを感じた。公園にはのびのびとした寂しさのようなものが漂っている。
そろそろお祭りも終わる。無事に終わりそうで良かった。
会場の隅、山内さんの作った垂れ幕のそばに、小笠原さんがいた。
スマホを手に持ち、誰かと電話をしているようだ。辺りに人はいなかった。
砂が目に入った時みたいに、うつむいて目をそらしていた。通り過ぎようとしたが、先程預けてきた鍵のことが頭に浮かんだ。
小笠原さんもテントのそばにいたようだし、もしかしたら彼女のものかもしれない。一言、確認した方が親切だろう。
そばに近づくと、苛立った声が耳に入った。
「知りませんよ。私だって困っているんだから。連絡が取れないのはこっちも一緒です。お金のことを、私に言われたって困ります!」
小笠原さんは、可憐な顔にそぐわない、尖った口調で言った。スマホを握った脇の下に、カフェオレのペットボトルを挟んでいる。
何かもめているようだ。今は話しかけない方がいいかもしれない。
咄嗟に、近くのテントの影に隠れた。テントは地域の福祉団体のものだったが、誰もいない。三方に大きな模造紙をつるし、活動の紹介写真を貼っていた。模造紙の隙間から、小笠原さんが見えた。
彼女は電話を切ると、苛立った様子で地面を蹴った。
ふと後ろの垂れ幕に目を留める。そのまま、しばらく動かない。奇妙な間があった。
振り返り、周囲を伺う。模造紙の裏にいる私には気づかず、視線は宙を通り過ぎていった。やけに冴え冴えとした目をしている。
小笠原さんは脇にはさんでいたカフェオレのペットボトルを持ち替えて、キャップを開けた。そのまま口元に持っていくのかと思いきや、利き手にペットボトルを持ち替えて前に出す。
まるで筆で文字を書くように、左上から斜め下に向けて、垂れ幕にカフェオレをぶちまけた。
振り向いた小笠原さんは、いかにもすっとしたというように、にっこりと笑っていた。
ペットボトルのキャップを閉めると、空になったそれをリズムを取るように横に振った。
福祉団体のテントの隅で立ち止まり、テントの脚に近寄る。はまった重石を、重たそうに横に押しやった。
小笠原さんの一連の動きはとても楽しげだった。
私はテントをそっと出た。
小笠原さんは、私の姿を認めて、足を止めた。
見られたことを悟ったのだろう。彼女の顔から表情が消えた。
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