第31話 コットンキャンディ
***
十二月の日曜日だった。空は雲に覆われて煙ったように見える。
雪間くんは、仕事で色々あって疲れていて無性に甘いものが食べたいという。男一人だと食べづらいのでと、付き添いを頼まれた。
だったらここはどうかと、前から行きたかった老舗の喫茶店を提案した。
焦げ茶色の家具で統一されたアンティーク調の店内では、丸い石油ストーブが燃えている。
雪間くんは窓際の四人掛けの席に腰掛け、文庫本を読んでいた。
「お待たせ」
私はマフラーを取りながら、正面の席に腰かける。
「遅れると言ったわりに早かったですね」
「電車が事故で遅れていたんだけど、思ったより早く着いた。その本、面白い?」
「はい」
見せてもらった文庫本は『僧正殺人事件』という題だったが、私は読んだことがなかった。
「面白そうだね」
「読み終わったら貸しましょうか」
「本当に?」
私はクリームソーダとレアチーズケーキ、彼はコーヒーとプリンパフェを頼んだ。
写真で見ていたとおり、底の丸く膨らんだグラスに入った、深緑色のクリームソーダが運ばれてくる。
「これが食べたかったんだよね。ちょっと普通のより、緑の色が深いんだよ。熱帯魚のいる海みたいで綺麗でしょう」
「全然分かりません」
雪間くんのパフェは、背の高いグラスの上に、気泡のあいた固いプリンがかしこまって鎮座している。下は生クリームとストロベリーソースが層になっていた。
厚い雲の切れ間から太陽が覗く時だけ、喫茶店の窓ガラスの向こうが輝いて白く発光する。
「小笠原瑠衣は会社を辞めましたよ」
雪間くんがぽつりと言った。
「そっか」
ソーダの泡がはじけて、バニラアイスが溶けかけている。
あの日、私は山内さんに垂れ幕を汚したことを謝った。洗うと申し出たのだが、さばさばと断られた。
「いいよ、コーヒーだろ? 落ちるから。俺、洗濯もしてるから分かるよ」
裁縫だけでなく洗濯も得意だというから、ますます山内さんをすごいと思った。
「小笠原さん、あの日、最後におじいさんを呼んでいたよね。おじいさんが側にいたことに気づいたのかな。何かのきっかけになって、少しでも彼女の状況が好転したらいいとは思う。余計なお世話だろうけど」
「本当にそうでしょうね」
「雪間くんは小笠原さんが何を見たのか知ってるんでしょう?」
「知りません」
「けち」
「本当に知りませんよ。僕とあの子が同じものを見ていたかは分からない。あなただって、何にも見てないわけでしょう」
「そっか」
「自分の頭がおかしいのかと思うことも多いんだから」
雪間くんは悄然とした顔で呟いた。焦げ茶のテーブルに視線を落としている。かなり疲れているようだ。
「私のチーズケーキ食べる? まだ食べてないから」
「何ですか、急に。いりませんよ」
お皿を差し出すと、迷惑そうに首を横に振られた。
「草野さん、あれ」
雪間くんが窓の外を指差す。
小学校低学年くらいの男の子と、父親らしき男性が歩いている。父親は手に綿菓子を持っていた。
「近くでお祭りでもやってるんですかね。この寒いのに」
「やったあ、帰りに綿あめ買いにいこう。この前、食べそびれたから。雪間くんにも買ってあげるよ」
「別にいらないです」
「遠慮しなくていいって。甘いもの食べたら元気でるよ」
「遠慮してませんし、甘いものは今食べてます」
突然、男の子が無軌道に走り出し、舗道の溝につまずいて盛大に転んだ。見ているだけで痛い。
泣くに違いないという予想に反して、男の子はのろのろと立ち上がると、袖で目を乱暴にぬぐって前を向いた。追いついた父親に、大丈夫だというように頷いている。
「泣かない。今の絶対、泣くかと思ったのに。偉いなあ」
感心していたら、雪間くんがぽつりと言った。
「あなたみたいですね」
「私が腕白小僧ってこと?」
「転んでも人のせいにしないで、自分で立てるって意味ですよ」
「……もし褒めてるなら、もうちょっと分かりやすく褒めてよ」
彼はこっちを見て、眉を下げて笑っていた。
この、ひねくれ者。
「何で笑ってるんですか」
「笑ってないよ」
その笑顔にくすぐったい気持ちになっているなどとは、口が裂けても言えない。
ストローでメロンソーダを吸う。弱くなった炭酸がかすかに口の中ではじけた。
<第3章 アイスコットンキャンディ 了>
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