第16話 悩みなんて
「もしもし?」
『もしもし? 草野さん? 大丈夫ですか』
ようやく起きてくれたようだ。抑揚のない小さな声に安堵して、ため息が出た。
「遅いよ。大変だったんだから」
『すみません。何があったんですか』
「駿介が綺麗な女の人と、おじさん二人に追われている」
『何ですかそれ』
ざっと経緯を話す。電話口の雪間くんは冷静で驚いた様子はなかった。
『駿介に代わってください』
「雪間くんが、駿介に代わってって」
駿介は私のスマホを苦笑いで受け取る。
「もしもし? ……ごめんってば。大丈夫……うん、まあそんな感じ。はい」
目の前の棚に、銀色の兎をかたどった栓抜きが置かれていた。表情のない顔が可愛く、じっと見惚れてしまった。
値札を確認すると、買えない値段ではなかった。逡巡しているうちに、駿介は電話を切っていた。携帯を私に返して肩をすくめる。
「森、こっちに来るって。やだなあ、怒られる」
「お客様?」
しゃがみこんで話続ける私達を、さすがに見かねたのだろう。店員さんが迷惑そうな顔で立っていた。
「何かありましたか?」
「すみません」
立ち上がり、慌てて退散する。栓抜きのことが少し心残りだった。
とりあえずショッピングモールからは出ることにした。
「森が来るまでどこかで時間をつぶそう」
駿介は、駅からランドマークタワーに向かうエスカレーターに乗る。人が多いのでまぎれられるからというのもありそうだ。
しばらくタワー内にいて、雪間くんが来るころに駅まで戻ることになった。
奥まった場所にあるカフェに入る。駿介は自然な仕草で、外から見えづらい席を選んでいた。時計を見ると、午後を回っている。お昼を食べていなかったのでお腹が減っていた。
コーヒーとローストビーフのサンドイッチを頼む。駿介はエビとアボカドのサンドイッチを選んだ。
「もう腹ぺこだったよねえ」
サンドイッチに大きくかぶりつくと、満面の笑顔を浮かべる。
「おいしい」
おいしそうにものを食べる人だ。私のサンドイッチも、パンが香ばしくマスタードソースの味が効いていた。
「ねえ、駿介、大丈夫なの? 何か困っているんじゃないの?」
「ちょっとごたついているだけ。何でもないんだ」
袖についたパン屑を払いながら、どこか他人事のようにへらへらと笑っている。
「まだ何か隠しているでしょう。私が知らないだけで、実は有名なVチューバーとか?」
「Vチューバーなら顔出ししてないんじゃないかなあ」
「何かあるなら相談にのるよ?」
「ありがとう。心配かけてごめんね。花音ちゃん、優しいなあ」
のらりくらりと話をそらす。他愛ない話をしているうちに時間が過ぎた。
駿介が時計を見る。
「そろそろ行こうか」
カフェを出て、駅まで向かう動く通路に並んで乗った。
「今日は落ち着かなくてごめん。また遊んでね」
キャップを私の頭に被せる。気障な笑顔に、何だか無性に苛々してきた。
「ちょっと、こっち来なさい」
乗っていた動く歩道から抜け出し、陸橋の端に駿介を連れて行く。
「何?」
「駿介にとったら、余計なお世話なんだと思うけど……私、ちょっと前、夜眠れなくて苦しかったんだけど、周りに愚痴っていたら少し楽になったの。話すだけで少しは心が軽くなると思う」
「へ?」
「相談なら聞くよってこと。私、誰にも話さないから」
その時の駿介の顔は見物だった。これまで聞いたことのない外国語で話しかけられた人のようだった。
やや間を置いて、駿介の肩が小刻みに震え出した。彼は笑っていた。
「びっくりしたあ。でも俺、強いタイプだから大丈夫。ありがとう」
丁寧に遠慮しているようで、底の方ではこちらを小馬鹿にしている顔だった。
「強いタイプって何? 誰かに話を聞いてもらいたいとは思わないの?」
「ていうか、誰かに相談なんて、したいとも思ったことないっていうか。自分の悩みなんて自分で処理するものじゃん? 人に話したって、結局、解決しなきゃいけないのは自分なんだから」
「それはそうかもしれないけど、人に話して楽になることだってあるでしょう?」
「そんなの、考えたことないなあ。それに、もし俺の苦しみがあったとして、誰も代わってはくれないじゃない? だったら弱味を見せるだけ無駄っていうか」
「雪間くんは悩みを話すじゃない」
「森は変わっているから。あいつは特別」
駿介のまなざしが一瞬、柔らかいものに変わる。しかし、すぐにまた厳しい口調に戻った。
「他の俺の周りの男も、みんなそんな感じだよ。悩みなんて話さない」
「それは本当に強いの? 私には分からない」
「男はそんなもんだよ。辛いことがあっても、自分でどうにかできると思っているんじゃないかな」
「そうじゃなくてさ。男がどうとか、性別の話じゃなくて。克服できるかどうかとも違くて。辛いなら、誰かに辛いって、時々は言ってもいいんじゃないの? 何も変わらないかもしれないけど、それで何も減らないよ」
駿介はぽかんと口を開け間の抜けた顔をしていた。
「……そんな事、考えたことなかった」
「嘘でしょう?」
あきれて思わず、声が大きくなってしまった。駿介が目を瞑り身を竦める。
「ごめん」
「花音ちゃん、声大きくない?」
「よく言われる。人間メガホンとか、ワイヤレススピーカーとか。声で皿が割れるか実験して夏休みの自由研究に出したこともある。力作だったのに、何の賞ももらえなかった」
「何それ」
息を吐きだして笑った駿介の顔からは、それまであったよそよそしさが消えていた。小春日和に地面に落ちる白い光みたいな柔らかさがあった。
不意に、さっと影が落ちるように駿介の顔色が変わった。
「あ、まずい」
「え?」
「見つかった」
駿介は私の手を掴むと走り出す。すると、あのおじさん達か女性か、そのどちらかを見たのだろう。通路の途中にあった階段を降り、海の方に向かう。
走っていた駿介が不意に立ち止まり、膝をついた。苦しそうに荒い息をしている。
「どうしたの?」
「……あ―…、これはやばいかも」
ぜいぜいとした息をしながら、辛そうにつぶやく。喘息の発作を起こした人のようだ。
「やばいって何が」
「花音ちゃんのせいだよ」
「だから何が?」
頭に手を当てうずくまる駿介の顔は、苦痛に歪んでいる。
「救急車とか呼ばないで……大丈夫だから」
私の考えを見通したように、眉を寄せて、弱々しく私の腕を掴む。
「でも」
落ち着かなくては。今どうにかできるのは私しかいない。
雪間くんに電話してみようと思いつき、バッグからスマホを探す。あせっていると、中々見つからない。誰かが駆け寄ってくる気配がした。心配した通りすがりの人か、もしかしたら雪間くんかもしれない。期待をこめて見上げたら、そこにいたのはあのおじさん二人だった。
「兄ちゃん、どうした」
「どっか悪いんか?」
駿介のただならぬ様子に、おじさん達も動揺しているようだった。口調が意外に優しい。
驚いたことに、おじさん達の後ろには、さっき駿介に話しかけてきた女性がいた。
「どうしたんですか」
「分からん」
女性は不安げにサングラスのおじさんに聞き、おじさんは首を横に振った。仲の良い雰囲気を感じ、頭が混乱した。
「あなた達、知り合いなんですか?」
サングラスのおじさんは頷く。
「ああ、俺たちは……」
「さっきから、うっさいんだよ」
吐き捨てるような声がした。
駿介は学生の不良のように、地面に片膝をついて座っていた。長い脚をだらりとたらしている。その顔を見てぎょっとした。
駿介は滂沱の涙を流していた。
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