第17話 ペンギン
「そこの人達も座ったら?」
駿介は立てた膝に肘をつき、物憂げにおじさん達二人を見上げる。
「いや、そこは座るところじゃないだろう」
サングラスのおじさんが、ひきつった顔で首を横に振った。当然だ。人通りの多い観光地の通路である。座ってどうする。
「へえ、そうかな」
駿介は涙を拭おうともしない。立派な体格の目鼻立ちの整った青年が、人前ではらはらと泣いている。傍を行き交う人々の好奇の視線を肌で感じる。一緒にいるのが、私と綺麗な女性におじさん二人だという事が、混迷をさらに深めていた。
「追いかけてくるのやめてよ」
「あんたが逃げるから。俺達だって落ち着いて話をしたかった」
「そっちが追いかけてくるから逃げたんだ。俺は一度も逃げてなんかない」
あんなに逃げ回っておいて、何を言うんだろう。鼻を赤くした駿介に普段の人を食ったような余裕はなく、明らかにまごついていた。子どもっぽい口調にも違和感を覚える。
バイクのTシャツのおじさんが、意を決した様子で前に出た。
「俺達はただ、あんたに頼みがあったんだ」
「どうせ、あの人をもう一回呼べっていうんだろう?」
「そうだ。あんたは、
おじさんはちらりと横の女性に視線を走らせる。幹子さんは不安げに、ほっそりした両手を胸の前で組み合わせていた。
康子さんというのは誰だろう。駿介の友達が何かをしてこの人達から追われているということだったけれど、それが康子さんなんだろうか。
駿介は、いまいましげに舌打ちした。
「康子って人はいるよ。今も、幹子さんのそばに。言っていることも聞こえる」
「本当ですか?」
幹子さんの顔が気色ばんだ。
「だけど、がっかりするよ。多分」
「いいです。何を言っているのか、教えてください」
「そうや、兄ちゃん。お礼はするから」
「お金なんていらないよ! だから大人は嫌なんだ! お金で人が動くと思っている」
悲愴な叫び声が響いた。
お前も大人だろう。と、その場にいた全員が心中で呟いたと思う。本人は傷ついた少年のような表情で、こちらを強く睨んでいる。澄んだ眼差しを前に、何て声をかければいいのか分からない。
康子さんという人はどこにいるんだろう。そばにいると駿介は言うけど、周りには私達を避けるように通り過ぎる人々しかいない。
おじさん二人は顔を見合わせ、あきれたように笑った。急に馴れ馴れしい態度に変わる。
「泣くなよ、兄ちゃん。そんな図体して情けない。男だろう? ほら、そんなとこ座ってないで」
バイクのTシャツのおじさんが、駿介の腕を引っ張り立たせようとする。
駿介は勢いよく手を振り払い、おじさんは横向きに倒れるようにして転んだ。その体が通路の手摺に当たる。そばを歩いていた人が飛びのいて叫んだ。
「いつもそうだ。俺の気持ちなんて誰も考えてくれない。俺は苦しんでいるのに。こんなに苦しいのに」
駿介は悔しそうに頭をかきむしった。顔を上げ、サングラスのおじさんを睨みつけた。怯えた表情で後じさるおじさんに、駿介は近づいていく。
「皆、俺を利用することしか考えてないんだ」
「駿介、どうしちゃったの」
私はおじさんの前に出た。
「詳しい事情は分かんないけど、暴力はよくないって」
「邪魔だよ。どいて」
不機嫌を見せつけるように、駿介が地団駄を踏む。大人が地団駄を踏むのって初めて見たかもしれない、と思っていたら、肩に強い衝撃を感じた。駿介が押しのけたのだと気づくのに暫くかかった。
鈍痛に言葉を失う。かなり痛い。
「あんた、いいよ。やばいって」
サングラスのおじさんのうろたえた声。
「どけって言ってんだろ!」
力を持て余して振り回す手が、またこちらに向かってきた。咄嗟に目をつぶる。
「離せよっ!」
バイクのTシャツのおじさんが、後ろから駿介の腕を抑えてくれていた。しかし駿介が長い手足を振り回すと、その手がたやすく解ける。
何かを考えたわけではなかった。駿介に駆け寄り、緑のシャツを掴む。
「いい加減にしなさいよ!」
駿介が目を細め、片手で耳を押さえた。
「何を怒ってんだが知らないけど、そんなだったら軽口たたいてる駿介の方がずっとましだよ!」
「うるさい!」
憤怒に目を鋭く光らせ、私を睨みつけている。どうしよう。恐怖に足が固まる。
誰かが私と駿介の間に入った。振り降ろされた手を掴んで、前に回り込み、振り返りざま、捻って駿介を押し倒す。
大きな体が地面に当たって鈍い音が響いた。
細身の男性が、通路上で駿介を抑え込んでいた。
彼は立ち上がり、こちらに駆け寄る。
「怪我してないですか?」
雪間くんだった。
Tシャツにジーンズ姿で、肩で息をしている。髪には寝癖がついていた。綺麗にカールして、まるでイワトビペンギンのようだ。
身なりの乱れと裏腹に、声は小さく冷静。肌が白く血色が悪い。綺麗な形の目が心配そうに私を見ていた。この人絶対、低血圧だ。すごくほっとして体の力が抜けた。
「……多分してないけど、肩が痛い」
「すみません。従兄弟が迷惑をかけました」
「何したの、今」
「子どもの時、合気道やってたので」
「意外……」
「森?」
体を起こした駿介の目からは、怒りが消えていた。両手をだらりと体の横にたらし、ぼんやりとしている。
雪間くんは駿介のそばに戻り、膝をついた。
「落ち着け。このまま、駿介が暴れ続けたら、多分、周りの人に警察を呼ばれてしまう。そうなると面倒だから」
「俺は駄目だ……こんな騒ぎを起こして。もう、どうしたらいいか分からない。どうやって生きていったらいいんだ。俺なんか生きている価値がないんだ」
両手で顔を覆いしゃくり上げる駿介を前に、雪間くんは小さく肩をすくめた。手を伸ばし、大きな背中を優しくさする。
「駿介が大変なことは分かっている。大丈夫だ。人と違うのに、今まで立派にやってきたんじゃないか。誰にでもできることじゃない。本当に素晴らしい。お前がいないと皆が困る。駿介がいない世界なんて、真っ暗闇だ。太陽のない空、絵のない額縁だ。お前が世界を輝かせてくれなくちゃ」
つらつらとよどみない口調ですごい事を言っている。王様に詩を捧げる詩人みたいだ。しかし内容に反して、雪間くんの口調は淡々としており、まるで暗記した平家物語を朗読しているようだった。
駿介はうつむき、今の言葉を反芻するようにしばらく黙る。やがて、ぽつりと言った。
「本当に?」
「うん。みんな、駿介の事が大好きだ」
「そっか」
気取った仕草で前髪をかき上げる。
「そういえば、そうだったよね」
何事もなかったようにけろりと笑った駿介は、元の軽薄な雰囲気に戻っていた。
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