第12話 デイリースパイス
水を飲んでようやく落ち着いた私に、雪間さんがぼそっと言った。
「草野さんは、これで婚活はやめるんですね」
「それはもうちょっと、続けてみようかと思って」
「どうして」
「きっかけは不眠症だったんですけど、知らない人と話すのも意外と面白くて、気の合う誰かと出会えたら楽しそうだなと。まあ、雪間さんの言うように、がさつな私とつきあおうなんて変わった人は、なかなかいないだろうとは思うんですけど。少し続けてみてもいいかなって。もしかしたら良い縁があるかもしれないし」
奇妙な間があった後、雪間さんは目をそらしてつまらなそうにフォークを手に取る。しかし、すでに皿が空だったことに気づいてフォークを戻した。
「草野さんは喋らなきゃいいんじゃないんですか」
「喋らないでどうやって彼氏をつくるんだ。雪間さんの方はどうなんですか? うまくいってます?」
「……あの後、忙しくて誰とも会えてません」
「そっかあ。私、思うんですけど、その鬱陶しい前髪、切ったらどうですかね。印象が大分変わると思います。せっかく悪くない見た目をしてるんだから、勿体無いですよ」
「鬱陶しい……」
それから雪間さんは口数が少なくなってしまった。明らかに不機嫌な様子だ。
お礼にと買っておいた、うさこちゃんの可愛い缶のクッキーを渡しても、表情は曇ったままだった。
やっぱり、大好きなカフェとはいえ、私と一緒にいるのが嫌になったのかもしれない。私としては感謝の気持ちを伝えたかったのだけれど、彼には迷惑だったのだろう。
店の外に出て、別れる時になっても、雪間さんの態度は変わらなかった。
「本当にありがとうございました」
笑顔でお辞儀して、その場を離れた。雪間さんは何も言わなかった。
*
黄色い点字ブロックをたどるようにして歩いた。白いライトに皓皓と照らされて、地下通路の床には四角い影ができている。ベンチに高校生らしきカップルが、手をつないで座っていた。
のどの奥が苦しくて、体の中が、すかすかになっているような気がした。何だか淋しかった。
今、気づいたが、私は雪間さんと話すのは楽しかった。最初は腹が立ったが、慣れれば、お互いに言いたい放題で気が楽だった。婚活で自慢好きの男性に会った時のように、場の空気を気にしてへつらう必要はなかった。
雪間さんとの会話は、スパイスが沢山入った料理みたいだった。刺激的で、手品みたいに次がどうなるか分からない。ひりつくけれど、わくわくもする。
うつむくと白いパンプスは、少し爪先が汚れてきていた。地下通路の床に、ヒールの音がやけに甲高く響いているような気がする。
いつまでも、この靴に慣れない。
急に、後ろから右腕を引かれた。
「はあっ? なにっ?」
怒りを込めて振り返ると、そこにいたのは雪間さんだった。
「何だ、びっくりしたあ。変質者かと思ったじゃないですか」
「ずっと呼んでいたのに、気がつかないから。前から思っていましたけど、あなた、僕の声、全然聞こえないですよね」
「声が小さいんですよ」
「耳が悪いんじゃないですか。駿介はちゃんと聞こえますよ」
雪間さんはまだ不機嫌で、怒ってもいるようだった。
「親族と比べないでくださいよ。私、何か忘れ物しました?」
「いや……」
「まさか、今回のお礼に、お札とか水晶玉を買えと?」
「そんな霊感商法やってません。そうじゃなくて……」
雪間さんは背を正し、深く息を吐いた。
「あなた、言いましたよね。僕は恋人より前に、まず、異性の友達を作った方がいいって」
「そんなこと、言いましたっけ」
「言いました。あなたは忘れてそうな気はしましたが。まあいい。僕はどうやら、女性でもあなたとなら、緊張せずに会話ができる。内容はともかくとしても」
雪間さんの顔は赤らんでいた。
「だから、あなたが僕の友達になってくれませんか?」
言葉が出てこない。てっきり嫌われていると思っていたのに。そうではなかったのだろうか。
頭は混乱する一方で、頬は勝手にゆるんでいた。
「じゃあ、またうさこちゃんのカフェ行くのつきあいますよ」
雪間さんは安堵したように柔らかく笑った。
「仲良くなってから、高い水とか薦めたりしないよね?」
「まだ疑ってたんですか」
「だってこの前、占い師に騙されかけたから、用心しないと」
「決して騙されかけてはいなかったでしょうに。あなたの精神力はすごいですよ。あの状態で、正気を保ってたんですから。多少おかしな方向に進んでいたとはいえ」
「私、そんなにすごいの?」
「ある意味では」
褒められているのかどうか、分からなくなってきた。私の不服そうな顔を見て、雪間さんは苦笑している。
「……最初に会った時に、無神経とか言って、すみませんでした」
優しい目で謝られ、どきりとした。
「いいですよ。私もひどいこと言いましたし。こっちこそ謝らなきゃ」
「あれは、理由があって」
「それ、後で気づきました。私が霊に憑かれてるのに全然気づいてないことを言ってたわけでしょう?」
「……あなたの言うことは合ってました。自分でも自覚はあるんです。普通の人とは違うので、どうにもならない部分もあるんですが。でもそれで言い訳をしてないと言ったら嘘になる。あなたは率直に言うので……」
口ごもり、困ったように顔を背ける。
「これは悪口ではなくて、あの……」
暗い森で迷いながら明るい道を目指すみたいに、言葉を選んでいる。どうしたってきっと正確には伝わらない。ただ正直になればいいというわけでもない。
だけどきっと、私達は同じことを感じていたのだ。
「分かります」
何だか無性に嬉しくなってしまった。にやついて頷く私を、雪間さんは不思議そうに見る。
「雪間さんもスパイスが好きだってことですよね」
「え?」
彼は頭痛に耐えるかのように、額に手を当てた。
「スパイスの話、今誰かしてました?」
「こっちの話です。ところで雪間さんは、エスニック料理は好きですか?」
「話が飛びますね。好きでも嫌いでもないです」
「もし大丈夫なら今度、一緒に食べに行きましょう。会社のそばで、おいしい店知っているんです」
「はい」
そして私たちは、一緒に、まだ新しい地下通路を歩き出した。
(第1章 デイリースパイス了)
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