第9話 青いぬいぐるみ

 知らないふりをして通りすぎるべきだったのかもしれないが、あまりに気が動転して足を止めていた。


「……雪間さん?」


 おそるおそるたずねると、雪間さんは顔を上げた。ほっとしたような表情を浮かべる。


「何してるんですか、こんなところで」


「昼休みのコンビニで張ってれば会うかと思ったんですが、いなくて。何も買わずにコンビニにいるのも悪いのでくじをひいたら、これが当たってしまいました。いりますか?」


「いらないです」


「くじで当たったんですか? すごいじゃないですか」


 綾菜ちゃんが顔を輝かせてカビゴンを見つめている。そういえば、彼女はカビゴンが好きだった。


「花音さんのお知り合いですか?」


 綾菜ちゃんは、不思議そうに私を雪間さんを見比べている。


「知り合いは知り合いだけども……雪間さん、誰かを探していたんですか?」


「はい。でも良かった。会えました」


 カビゴンを抱えたまま、小さい声で喋っている。カビゴンに話しているみたいだ。


「私に用があったってことですか?」


「そうです」


「連絡してくれればよかったのに」


「しましたが、返事がありませんでした」


 そういえば、最近マッチングアプリを開いていなかった。


「でも私、仕事に戻らないと」


 昼休みの終わりは近く、立ち話をしている時間はない。

 綾菜ちゃんが私の肩を叩いた。


「花音さんはちょっとお腹痛くなったって、私が課長に言っておきますよ」


 今は気配り上手なところを発揮してくれなくて良かったのだが。

 綾菜ちゃんは足早に会社に戻ってしまった。私と雪間さんとカビゴンだけが残された。


「体調は、もう大丈夫なんですか?」


「おかげさまで。あの日は結局、深夜まで残業になりましたが、翌日に熱を出しただけですみました」


「全然、大丈夫じゃないじゃん。だから言ったのに。私の会社の場所、知ってましたっけ」


「薬局で会った時に、聞きました」


 そういえば勤務先の話になった時、社名と大体の場所を伝えていた。


「雪間さん、今日、仕事は……」


「代休です」


 休みの日に何をしているのか。私の表情を見た雪間さんが、あせった様子で早口になった。


「ストーカーとか、そういうのではないですから。警戒しないでください。本当に用事があって」


「はあ……」


「もし心配なら、駿介を呼びますから。彼、近くで待機しているんです」


「あの、いとこの人? なんで?」


「一対一だと、怪しまれるかもしれないからって。有休とって」


「有休まで?! 余計、怖い。来なくていいです」


 通り過ぎる人から、ちらちらと視線が送られる。お父さんと手をつないだ小さな子が、


「あっ、カビゴン!」


とこっちを指さして笑った。いたたまれない。

 雪間さんはうつむき、迷うようにカビゴンのお腹を撫でている。何の用だか知らないが、私も仕事があるし、いつまでもここにいるわけにもいかない。


「あの、時間がないですし。用件は何ですか?」


「……草野さんが眠れなくなったのは、四月頃から急になんですよね。その頃、何か身辺に変化はありませんでしたか?」


「そんなことを聞きにきたんですかあ?」


 唖然とするとはこのことだ。思わず、大声が出てしまった。

 雪間さんは顔をしかめたが、前髪を払うと決然と頷いた。


「そうです」


「特にないですよ。医者にも聞かれましたけど、職場の部署の場所が新しくなったくらいです」


「部署の場所が変わったんですね?」


「はい。でもメンバーは変わらずに場所だけの引っ越しだけです。それでストレスが増えたってことはないですよ?」


「前にその場所にいた人で、体調を崩した人はいませんか?」


 田中さんの笑顔が頭に浮かぶ。でも。


「何で知ってるの?」


「いるんですね」


 雪間さんは深く息を吐き、射ぬくような視線をこちらに向けた。


「草野さんの不眠を、治せるかと思います」

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