花散らし

人斬り



主に幕末にて、人を殺める目的で剣を振るった者


総じて凄腕の剣客で、敵対する者を抹殺するために使用された

武士の時代の終焉と共に歴史からその姿を消した



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 「酷い斬り口だな」

地面に伏した骸から、検分のために覗き込んだ侍が顔を逸らす。

「今月に入ってから三人目か」

むしろをかけた体を囲んでいるのは、斬り捨てられた彼等の仲間達。この京を守ると称し剣を振りかざす、新撰組の面々だった。

「また奴の仕業のようですが、どういたしますか?」

部下らしき者が振り返り指示を仰いだのは、この集団の中で最も若そうに見える涼し気な顔をした青年。

「沖田組長」

まだあどけなさすら残るその口元からは、軽いため息が漏れた。

「華夜叉、ですか」

顔を上げた彼の視線の先で、陰り出した太陽が鈍く輝いた。


 「あれが、噂に名高い新撰組の一番組長か?」

その光景を眺めていた私は、正直拍子抜けだった。

 昨夜斬った新撰組の隊士を路上に打ち捨て、その仲間共 ― 出来れば組長格 ― が集まって来るのを一晩中待っていた。

物陰から様子を窺っていれば、やって来たのはまるでとした若い男。どんな猛者が現れるのか期待していたというのに。

「油断は禁物だぞ、白菊しらぎく

隣で同じように身を隠していた矢間やざまが、神妙な顔で私を睨む。

「若くとも、相手はこの京で最も手強いとされる剣客だ」

相変わらず口うるさい説教にうんざりと顔を背ける。私の目付け役か何か知らないが、いつも後をついて来て鬱陶しいことこのうえない。

「もういいのか?」

「顔は覚えた」

頭巾を被り直し往来へと歩き出すと、やはり矢間は後ろを追ってくる。

「やりあったら、勝てそうか?」

「ああ」

刀を差した私達を、道行く京の住人は避けるようにすれ違って行った。

「知っているか? 最近京に現れる人斬りが、何と呼ばれているか」

ふいに声を潜めた矢間が私の傍らに寄って来る。

「さあ」

言葉とは裏腹な、愉快そうな声がかんに障った。

「“華夜叉はなやしゃ”。華麗な剣さばきとあやかしかと見間違う程の美しい容貌から、そう呼ばれているそうな」

馬鹿らしい。それを口にすることも無意味に思えて、袴を蹴り上げながら私は無言で歩き続ける。

「京の町を騒がせる主役が、こんな所にいるとは誰も思うまいな」

キョロキョロと辺りを見回し、何故か得意気にこちらへ視線を戻す矢間。

「ましてその正体が、このような若い女だとは」

続けられた言葉に、立ち止まった私は黙ってその軽薄なつらを睨みつけた。


 「桂先生」

その夕刻。座敷にその姿を見つけた私は、無作法にもお膝元へ駆け寄っていた。

「白菊、変わりはないか?」

淡然とした声が私を見た。

「はい」

悠然として物静かな居姿。国中を忙しく行き来している先生にお会いするのは、かれこれ半年ぶりだ。お元気そうな顔が見れただけで私は胸を撫で下ろすことが出来た。

「矢間に聞いたぞ。最近の京には、華夜叉とかいう人斬りが出るそうではないか」

けれど、そんな面白がるような声に徳利を持つこの手は止まる。何故、あの男はこうもお喋りなのだろう。

「あれは、たまたま夜道を歩いていたら新撰組に追われたもので」

怪しんだ隊士が仲間を呼ぼうとするから、先手をうって斬り伏せた。それ以来 必要以上に狙われ、目立つようになってしまったのだ。

「今は新しい時代への仕上げ段階だ。剣を振り回すだけの愚か者達につきあう必要はないぞ」

「はい」

志士達の取り纏め役と、長州の顔役でもある先生。はっきりと聞いたことはないが、着々とその目的は果たされつつあるらしい。

そんな先生の背中をお守りすることが、私の唯一の誇りでもあった。

「そういえば。その人斬りは、ずいぶんと美しい顔をした者だそうだな」

すっと目の前の膳をよけた先生が、畳の上を私へと這い寄る。

「さ、さあ」

当然、先生の口からそのように言われ悪い気はしないが。

「やはり、お前は美しい」

身を硬くした時には、私は先生の手によって座敷の上へと引き倒されていた。

そのままのし掛かり、着物の衿を開かれる感触。

「白菊」

耳元で囁かれる声に、そっと目を閉じる。

矢間がここについて来なかったのは、こうなる事を知っていたからだろう。いや、彼だけではない。今や藩の誰もが、私を奇異の目で見ている。

 ― 桂 小五郎の用心棒は、人斬りの姿をした女郎。だと。


 物心がつくかつかないかの頃、流行り病で両親と兄弟達は死んだ。

私を引き取ってくれたのはそれまで会った事もない叔父で、そいつの開いていた道場で剣術を学び、幼い何年かをそこで過ごした。

 転機は、十二の年の夏。ある日の稽古が終わった夕刻、叔父は道場の床の上で私の体を乱暴に奪った。

前々からおかしな視線を感じる事はあったけれど、家には妻も子供もいたしまさかと思っていた。

何がなんだか意味も分からず。気がついた時、裸の私は道場にあった真剣で叔父を後ろから斬り殺していた。

帰ってきた妻が騒ぎ、すぐに近所の人々が集まってきた。人殺し、恩知らず、鬼の子。そんな罵声が頭の上から吐かれ、“殺せ”とか“廓に売れ”なんて声も聞こえていた気がする。けれど、ただ茫然とその場に座り込んでいた私にはどうでも良かった。 

 その話を聞きつけ、私を引き取ってくださったのが、地元の名士でもある桂先生だった。藩で既にその名を知られていた方の申し出に口を挟む者はなく、私はこの命を救われることになった。

 その時、私は初めて生きる目的を得た。

先生は忙しくてほとんど国元には帰って来なかったけれど、独学で剣の腕を磨き、いつか先生の役に立てる日を夢みた。

その数年後には、京で新撰組とかいう野蛮な連中が長州の志士を襲撃するという事件などもあり、居ても立ってもられず上京する藩士について京にやって来たのが一年ほど前のこと。

 「白菊、か」

久方ぶりにお会いした先生は、目を丸くして私を見た。

「お久しぶりです」

最後に会った時から随分と背が伸びたうえに、今は汚れた旅支度。そんな自分の姿に気づいて、思わず俯いてしまったが

「いや。しばらく見ない間に、美しくなった」

そう先生は目を細め笑った。

その腕に初めて抱かれたのはその夜のことだった。父のように思っていた方との出来事に驚き戸惑ったものの、叔父の時のような嫌悪感はなく、むしろ私が役に立てているのだと喜びすらを感じた。

 それからしばらくの間は女の姿で先生の傍にいた。各地を飛び回ってしまう先生と過ごせる時間は少なかったけれど、こちらでの生活は藩邸の矢間が面倒を見てくれるし、若い藩士相手に剣術の稽古をつけて過ごす毎日は悪くなかった。

 だが、半年前のある日。桂先生が京に戻ってらっしゃるというので、何人かの藩の者達と一緒に夜の街道を出迎えに行った。夜霧の向こうから先生と供の者が姿を見せた途端、木陰から飛び出す男達の影。振りかざされた白刃に反応できたのは、私だけだった。隣の矢間の大刀を腰から奪うと、返す勢いで先頭の男を斬りつけ、怯んだ後ろの仲間も、躊躇ためらいなくその首を貫いた。残りの敵は逃げて行き、仲間達は返り血を滴らせる私をまるで化け物のように見ていた。きっと一度人を殺している私のみが、何かのたががはずれていたのだろう。

先生をお守りするには、やはり女物の着物では動きづらい。その翌日から私は男の恰好をして、腰には刀を携えるようになった。


 「沖田先生」

そんな声で、はっと我に返る。

顔を上げれば、夕暮れに傾いた空を背に一人の男が寺の門を出てくる。

「今日は非番でしたか?」

「ええ」

門番らしき者と、にこやかに言葉を交わす緊張感のない横顔。待ち伏せていた人物、新撰組の沖田総司が、何も知らずにその姿を見せたのだった。

 別に深い理由があった訳ではなく、昨日の今日で何となく思いついた。あのひ弱そうな男がどうして“最強”などと言われるのか、その理由を突き止めてやろうと考えたのだ。

 ふらりと屯所を離れた沖田の足は、路地裏へと向かう。少し距離をあけ後をついてゆくと、入って行ったのは神社の境内。

こんな所に何の用だだろうと、社の影に隠れた私が首を傾げた時。

「来た来た」

「兄ちゃん」

立ち止まった沖田の周りに、どこからともなく子供の群れが集まってきた。

「遅い」

「ごめんごめん」

驚く私をよそに、袖を引かれた沖田は奥の社殿の方へと連れられて行く。何をするのかと思えば、始まったのは鬼ごっこ。そんな信じられぬ光景に、私はただただ見入ってしまった。

その新撰組の組長とは不釣り合いすぎる遊びは、半刻ほども続いた。

 「もう行っちゃうの?」

「また来るよ」

夕闇も深まったころ。不満そうな子供達に別れを告げ、沖田は神社を出た。

慌てて私も再び後を追うが、その足はどうやら鴨川の方面へと向いている。途中の甘味処で団子など買い食いし、まるで人を食ったようなふらふらとした歩み。そんな後ろ姿を観察しながら、私はある一つの結論を得た。

壬生狼などと恐れられても、実態はどこにでもいる平凡な男。噂だけが先走りした、幕府に飼われた役人風情。恐らくあの沖田も、局長の近藤に近いというだけで幹部になった、人に取り入るのが上手い男なのだろう。

そんな奴らに長州藩は翻弄され、桂先生が命を狙われた。

その事実に気がつくと、思わず刀の束を握る手に力がこもる。

あいつを、斬ってやろう。苦汁を飲まされた日々を思い、そんな決心が頭に浮かんだ。

先生から迂闊な行動は慎むよう言われているが、自信はあった。すでに新撰組の隊士も何人か斬り倒しているし、それが露見した事もない。同じようにやれれば、なんら問題はない。

 そんな考えを思案する私の目の前で、沖田は鴨川のほとりにある建物へと入って行く。

夜のとばりが下りた京の町の外れにぽつんとある二階建て。それが男女が密会するための茶屋であろうというのは、何となく見当がついた。

ここで女と会うのだろうか?

慣れた足取りが内部の薄暗い階段を上ってゆくのを私も足音を忍ばせつける。

もしそうなら、女ごと斬り殺すのみだ。

二階の一番端の部屋。敷居を跨いだ沖田が、後ろ手でその襖を閉じる。間髪をいれず、私はその戸を蹴破った。襖の倒れる一瞬の間に、腰の大刀を抜き放つ。

しかし、目の前にいるはずの沖田が、いなかった。

その刹那の戸惑いが、命取り。

「うっ!」

視界の端できらめいた刃を咄嗟に刀身で受け止める。弾ける金属同士の火花。

ただでさえ体勢を崩していた私は、力任せの太刀に部屋の隅まで吹っ飛ばされていた。

「屯所からつけて来るとは、物好きな刺客だな」

衝撃で動けない体にそんな声が落とされる。顔を上げると、襖を直しながらあの沖田がこちらを見下ろしていた。

「くっ」

「無駄だよ、真っ二つだ」

飛び起きようとした私の右手を踏みつけ、沖田は笑った。視線だけを向けると、確かに私の刀は先ほどの受けで折れてしまっている。脇差しは差してこなかった。

対して向こうは、本差も脇差しも無傷。暗闇の中とはいえ、その表情が余裕に歪んでいるのが分かる。まさに、一巻の終わりだった。

「殺せ」

うめくくように吐き捨てると、鼻で笑う気配がする。

「言われずとも」

再び抜かれた白刃が闇の中で鈍く輝く。その切れ味の鋭さを想像し、思わず息を飲んでしまった時。

雲に隠れていた月が顔を出し、開放たれていた窓からふいに差し込んだ月光が狭い部屋で向かい合う私と沖田の姿を照らし出した。

あらわになった、沖田の驚く双瞼。

なんだ?

その様子に眉をひそめる私の前に、奴は静かに膝をついた。

「女か?」

その伸びてきた手が、ゆっくりと私の顎をつかむ。

「だとしたら、なんだ」

どうせ、ここで殺されるさだめ。今さら隠したとてどうにもならない。

睨み上げる私の視線を、じっと見下ろす漆黒の目。そして。

「なるほど、“華夜叉”か」

にやりとその唇は呟いた。

そこまで見抜かれた事にはさすがに動揺したけれど、心のうちを隠すように私は無理やり口許をつり上げる。

「それが、どうした」

「殺すには、惜しい」

同じ言葉を繰り返す私の体は、畳の上に叩きつけられていた。

「なっ」

体の上にのし掛かり、乱暴に着物の衿をはだけられる感触。

「放せっ」

何をされるのか勘づいた私が力の限り身をよじるが、素手では男には敵わぬ。

「そうこなければ」

いたぶることを楽しむように、沖田の冷たく輝く目。その時になって漸く私は気がついた。

普段のこいつは凡庸とした人物を演じているだけだった。新撰組の一番組長は、柔和な顔の下に狂気を隠した得体の知れない男なのだと。

頭上に縫いつけられた両腕から、力が抜けてゆく。

「もう観念か?」

そう笑みを浮かべた沖田の力がほんの一瞬だけ緩む。その機を逃さず、力のかぎり真上の腹を蹴り上げた。

「くっ」

だが相変わらずこの体はヤツに押さえ込まれたまま。

「下衆野郎が」

そう正面の顔に唾を吐きかければ、しかめていた瞳が闇の中で暗く光る。

逃げられるなどとは最初から思っていない。自ら死んでやる。舌を噛み切るため僅かに開いたこの唇は、だが食らいつくような沖田の唇によってふさがれてしまった。逃れようと暴れても、呼吸も出来ぬほどに貪られ意識が遠退きかける。

「このっ」

ついに隙をみて噛みついた私から、やっと沖田は体を退かせてくれた。

「死にたければ、勝手に死ね」

ぬぐう血の滲んだ口許には、微かな笑みが浮かぶ。

「犯した後、裸のお前を長州の藩邸に捨ててくるまでだ」

そんな言葉に、死ぬことのみを考えていた私はふいにその想像に体を強張らせた。もし、そんな姿を桂先生に見られでもしたら……。

「俺は、どちらでも構わぬ」

先生が口癖のように言っていた信条。『生きていればこそだ。死んだら何にもならぬ』。数々の同志を失ってきた先生の、自責の念でもある言葉。そんなものが急に蘇った私は、無自覚に体を弛緩させていた。

沖田の妖しく冷たい手が、この首筋に触れる。

「覚えていろ」

ここで好きにされるのは、生きて次にお前を殺すため。そう最後まで憎悪の目で自分を睨みつける私を、沖田はただ目を細め見下ろしていた。


 ここに入った時、昇り始めたばかりだった月は、既に傾いていた。

やっと解放された体にすら気づかず、ぐったりとうつ伏せのまま私はその淡い光を見上げる。いつの間にかほどけた髪が汗ばんだ素肌に張りついて気持ちが悪い。

ふと見れば、当の男はすでに何事もなかったように背中を向け着物を身につけていた。

腰に差し直したしつらえの良い刀がやけに目につく。抱き終えたこいつは、私を殺すだろうか? 普段なら最も敏感なはずの生への感覚も、この時の私はぼんやりそんなことを考えるのみだった。

しかし、次にこの体に降りかかったのは刃ではなく私には大きな羽織だった。それが沖田のものだと分かり、動けない体を無理やり起き上がらせる。

「何故、殺さぬ」

そう睨みつけると、不思議そうな目が私を見た。

「抱きたいと思った女はお前が初めてだから、かな」

自らも不思議そうに首を傾げられ、予想外の返答に面食らってしまった私も咄嗟には言葉が継げなかった。

「その割に、女を抱き慣れているようだったがな」

冷静を装い皮肉を吐き捨てるのが精々。

「お前こそ、随分と男に抱かれ慣れている」

けれど、逆に片頬で笑われカッと体が熱くなった。

「抱くだけならどんな女で構わぬ。だが、次を考えたのはお前が初めてだ」

この傍らに膝をつき、私の髪をすくい上げる沖田。

「誰がっ」

「この部屋は、俺が貸りている」

手を振り払った私の声を、悠然とした笑みが遮った。

「俺に会いたくなったら、また来い」

立ち上がり、部屋を出て行く背中。

「ふざけるなっ」

しばらくその場に佇んでしまった私は、我に返ると体に掛けられた羽織を乱暴に投げつけた。もう誰も居ない部屋に虚しい衣擦れの音だけが響く。

「くそ!」

床を殴り吠える私の姿を、冷たく蒼白い月だけが見下ろしていた。


 それから、数日。時が経っても、あの時の屈辱は私の中から消えてはくれなかった。

いつか必ず雪辱を果たしてやると決意するものの、真っ向から戦ってあの沖田に勝てるだろうか? 死ぬのは怖くはない。けれど無様に敗けることだけは許せなかった。

 「どうした。最近、機嫌が悪いな」

並んで道を歩いていた矢間が、覗き込むように私に言う。

「別に」

やはりピタリと横に近寄る呑気な声が耳に障った。

「桂さんが帰ってこないから、寂しいんじゃないのか?」

そう、私の腰に触れる手つき。

「触るなっ!」

思わず、その体を突き飛ばした。

「くそ」

よろけながら小さく悪態をつく声。

こいつは以前からこうして私にちょっかいを出してくる。叔父と同じ目をして。

「ただの悪ふざけだろ」

そんな声には答えず、険しい表情のまま歩く私の目前に長州藩邸が見えてきた。中へ入ると、見知らぬ藩士逹が立ち話をしている。その背後を通り過ぎようとした時。

「桂殿が?」

「じゃあ、幾松も合流したのか」

聞こえてきた声に私は足を止めた。

「あ、これは」

その名に反応してしまった私に気がつき、藩士が顔を見合わせる。

「それでは」

そそくさとその場を後にする彼らを見送り、私は隣へ目を向けた。

「幾松、とは?」

聞いた事のない名を口にすると、矢間は目を丸くしていた。

「知らぬのか?」

「知らぬから、訊いている」

敷地の奥へと足を向けながら、つい苛ついた声を出す私に

「桂先生の、良い方だ」

あまりに呆気なく矢間が告げたから、咄嗟には口がきけなかった。

「は?」

「ついぞ知っていて、先生とあのような関係なのかと」

頭が追いつかぬ私に、目の前の表情は驚きから嬉々としたものへと変わってゆく。

「純情なお前をもてあそぶとは、先生もお人が悪い」

卑しいにやけ顔が目前に近づいて来ても、私の頭はその意味を理解するだけで精一杯だった。

先生に決まった女がいるというのは、本当は何となく気づいていた。他者との関わりが薄いのを良いことに気づかぬ振りをしていただけ。逃げていたその事実を、いま目の前に叩きつけられたのだ。

「先生も他の女を抱いているのだ。お前も楽しんで、何が悪い」

物陰に入った途端、矢間の腕が私を捕えた。

「おい」

「なに、言わねば分からぬ」

腰に両手を這わせふいに近づいてくる顔を、私は力の限り殴りつけた。

「ぐっ」

鼻血が溢れ出した矢間の腕から逃れ、ふらふらと後退る。

「白菊っ!」

背後からの怒りの声も振り切り、脱兎のごとく駆け出した。

男など、みな死んでしまえばいい。

そんな心のどこかに常にあった醜い憤怒が止めどなく溢れ出てくる。どうして、叔父も矢間も先生も、そんなにしてまでこの体を食い散らかそうとするのか。私にかける情は全てその見返り。誰もが私の中身や気持ちなど、ごみ程度にしか思ってはいない。

 そんな収まらぬ思いを抱えた私は、普段なら決して踏み入らぬ京の町中へといつの間にか迷い込んでいた。ひたすら歩き回るうち、辺りはすっかりと日が暮れている。危うい足取りで徘徊する一人者はさぞ目についただろう。

 「おい」

気がつくと、背後から近づいた人影に囲まれていた。

「あ」

いかつい大柄な男達。その居丈高な物腰から、すぐに新撰組の連中だと分かった。

「名を名乗れ」

斬り合うには、相手が多すぎる。普段ならば何とか言い逃れていただろう。けれどこの時の私は自分でも不思議なほど頭が回っていなかった。

「おい、待て!」

「追えっ」

つい背中を向け、とっさに走り出してしまっていた。しまった、と思った時には、もう遅い。転げるように路地裏へと逃れるが、男達も刀の束に手をかけ追って来る。

どこかの店の荷陰に隠れ、荒い呼吸を押し殺した私は刀を抱えたまましゃがみ込んだ。

どうする、斬るか?

緊迫した心地で追手にばかり気を取られ、周囲を見回す余裕もなくなっていた。

「会いに来ぬと思ったら、こんな所でなにをしている?」

聞き覚えのある声とともに、大きな影が頭上を覆った。

「え?」

顔を上げれば、可笑しそうな笑みを浮かべた沖田が私を見下ろしていた。

うまく言葉の出てこない私を置き去りに、その背中は後を追ってきた新撰組の隊士達の元へと向かう。このまま囲まれて斬られるのだろうか? それに気づき、刀を握りしめ直した私の耳に

「見失いましたね。こっちは僕が見ます、皆さんは向こうを探してください」

そんなしれっとした声に続き従順な返答と遠ざかって行く足音が聞こえてくる。

「何故」

去った部下達を見届け、沖田が私の元へと戻って来た。

「本当に、お前は可笑しな娘だな」

私の問いには答えず、奴はこの傍らにしゃがみ込みながら笑った。

「は?」

「獣のように殺気立ったかと思えば、こうしているとまるで捨て猫のようだ」

愉しそうに続けられる言葉にむかっ腹がたつが、助けてもらった状況では言い返すことも出来ない。

「どうした、家出か?」

からかうように、沖田が頭に手を乗せてくる。

思えば、不思議なものだ。次に会ったら殺したいと思っていた男と、こうして言葉を交わしている。

だが、この時の私には、もうそれすらどうでも良かった。

「帰れないんだ。お前の所に、置いてくれ」

自分でも無意識に、そんな自暴自棄な言葉を吐いていた。

沖田の手の動きが、ピタリと止まる。

「随分と大胆なことを言う」

「“また、来い”。そう言ったのは、お前だろう」

睨みつけると、呆れ果てたような眼差しがこちらを見返す。

「その代わり、好きなだけ私を抱けばいい」

どうせ、それくらいしか価値のない体。どうなろうと、もう知った事ではない。

しかし、何故か隣の沖田は深いため息をつく。そのまま立ち上がってしまうから、私もつられて見上げると

「ほら」

目の前に、何かの木札を差し出された。

「何だ?」

「あの茶屋の証文だ。俺がいなくても、これがあれば自由に入れる」

意味が分からずポカンとする私に木札を握らせ、その体は背中を向ける。

「おいっ」

呼び止めると、静かな黒い瞳が振り返った。

「道端で震えている子猫など抱いてもつまらぬ」

思わず言葉を失う私をしり目に、沖田は笑う。さっきまでの沈み込んだ心が、いっきに沸き立つのを感じた。

「ふざけるな!」

立ち上がり、思わず叫んでいた。

「その元気があれば、大丈夫だな」

可笑しそうな声に、ますます調子が狂う。

「お前も、来るのか?」

少し躊躇ってから聞いた私に背中で手を振っただけ。沖田はその場から去って行ってしまった。


 茶屋に着くと、前回はいなかった老婆が入口の前に立っていた。

「お待ち合わせで?」

こんな夜なのに、そのしわがれた声はよく響く。

例の木札を懐から出して見せれば、ジロジロと顔を見られたけれど、黙って中へと通してくれた。

 あの二階端の部屋は、前に来た時と同じように静まり返っていた。この前は分からなかったが、行灯や鏡台、それに大きな一組の布団なんかが次の間に敷いてある。あの時の情景が鮮やかに蘇ってきてしまい、慌てて私は頭を振った。

疲れた体を布団の上に投げ出せば、窓の外には冴えた月が輝いている。

 沖田は、どういうつもりなのだろう?

あれだけ無体に私を抱いたと思ったら、今度は情をかけるような真似をする。奴が何を考えているのか、さっぱり解らなかった。

しかし、と月を見上げながら思う。あの時沖田が言った言葉は、間違いなくこの胸を貫いた。慰められても叱咤されても、きっと私は反発していたに違いない。人斬りの心は、もしかしたら誰より人斬りがわかるのだろうか?

そんな栓なきことを考えていると、いつしか微睡まどろみに襲われ、いつの間にか私は眠りの底に落ちていた。

その夜。結局、沖田は姿を現さなかった。


 「客人が来たら、中へ通せ」

素っ気なく言うと、矢間は宴席の座敷の中へと入っていった。

あの件以来どことなく気まずい雰囲気が続いていたから、やがて聞こえてきた賑やかな宴の声を聞き、やっと私は息をつくことが出来た。

 今日は桂先生が京に戻り、同志を招いての宴座。借りきった旅籠の襖の前で、私は見張り役といったところだった。

 あの夜以来、沖田には会っていない。相変わらず新撰組の噂は耳にするが直接顔を合わせるような場面もなくく、例の木札は所在なく未だ私の懐に眠っている。

 「桂さんの座敷はここでえいか?」

背後からかけられた声に、はっと顔を上げる。見れば、ボサボサの髪をした浪人風の男がのっそりと立っていた。

「そうだ」

「ほいたら」

すでに酒臭い息を吐きながら、その男はさっと襖に手をかける。

「おい」

「ワシらは客人じゃ、通せ」

私の体は一緒にいたもう一人のいかつい男に突き飛ばされた。

「あんた達が客人か?」

「ああ。土佐の中岡と、そっちが坂本だ」

睨みつけると、私を突き飛ばしたほうの男が無愛想に答える。

土佐の坂本と中岡。そういえば、長州が彼らから武器を買っているという話は私も以前に聞いたことがあった。

「おう、おまん別嬪だのう。わしゃ男でも構わんよ」

「ふざけるな」

突然坂本に顎を掴まれ、その手を振り払う。何が可笑しいのゲラゲラと笑いながら、二人は座敷の中へと入って行った。

中から桂先生の上機嫌な声が聞こえてきて、やっと私は呼吸を整える。

「良いしつらえですな」

やがて襖の向こうからは当たり障りのない会話が聞こえてきた。武士が互いの愛刀を褒めるのは天気の話をするようなものだ。

「商人から譲られたものでして」

何とはなしに、聞き耳をたてていた私だったが

「しかし、人斬りなど人でなしのすることですよ」

そんな桂先生の声に、ふいに全身を強張らせた。

「いや、ゆう通り!」

「奴ら、犬以下の知能しかないのです」

やんやと盛り上がる、襖の中。それが志士の敵共に向けられたものであると、頭ではちゃんと分かっている。

けれど、宴会が終わるまでやけに冷えきった心地で私はその場に立ち尽くしていた。

 その夜。酔って上機嫌の先生に、私は気を失うまで何度も抱かれた。


 まだ昨日の気鬱さを引きずったまま、私は京の町を歩いていた。

思い出してしまうのは、先生が坂本達に言ったあの言葉。

桂先生になら何と蔑まれようと構わない。元々この身を捨てる覚悟で、お側にいたはず。

なのに、どうしても仄暗い感情が過ってしまう。己を犠牲に守った私達がいたからこそ、彼らは大事を成せたのではないか? そうして命を落としていった者達は、上に立つ人々の頭の片隅にさえも残らないのか?

そんな、悲しいような憤慨するような、やるせない気持ちで、私は重い足を引きずった。

「また壬生狼か」

道端から聞こえた声に足を止める。振り返ると、町人達が店先で険しい顔を突き合わせていた。

「一番隊の沖田」

「狼やのうて鬼や」

まるで口にするのもはばかるように、吐き捨てられる噂話。

「あの鬼、遂に子供まで斬りよった」

盗み聞きをしていた私は、そんな言葉に呼吸を止めた。

人の命を奪うだけでなく、幼い子供までも無慈悲に斬り捨てる悪党。それは世間で言われている新撰組の沖田の姿そのままであった。

私も、以前ならば当たり前にそう思っていただろう。

だが、神社で子供と楽しそうに遊ぶあいつの姿が胸に蘇る。

しばし立ち尽くした私は、踵を返し鴨川へと足を向けた。


 薄暗い闇の中で、いつもの茶屋から沖田は窓の外の月を眺めていた。襖を開けて私が入ってきたことは気づいているはず。けれど、その後ろ姿は身じろぎすらしない。

今のこいつなら、斬れる。まるで殺気を感じぬ姿に、そんなことを思った時。

「男の子供が、見てたんだ」

まるで、独り言のような声がした。

「は?」

「隠れてろと言われたんだろうけど、父親が殺されたのを見て」

淡々と続けられる言葉が、例の子供の話なのだろうと分かった。

「背後から急に飛び出してきて」

話を繋ぎ合わせると、思わず斬ってしまった、ということなのだろう。気弱な声で項垂れる姿は、鬼神と称された男の姿とは程遠い。

そんな背中を見つめていた私は、ああ、こいつは私と同じなのだ。そう気がついた。

誰よりも心が弱いくせに、人の命を奪う生業なりわいを与えられてしまった者。

人斬りの心は、誰よりも人斬りが解る。その葛藤を私には手に取るように知ることが出来た。

「ふざけるな」

沖田の背後に立った私は、自分でも驚くくらい冷淡な声で呟いていた。月の色を映した黒い瞳が、ゆっくりとこちら側を振り返る。

「今まで散々人の命を奪っておいて今さら悔い改めか? おめでたい奴だな」

居丈高に続ける私を、沖田はただ静かに仰ぎ見ている。

「一度人斬りに堕ちたら、一生もがいて苦しみ抜くしかない。そしてその後は、地獄行きだ」

そこで罰せられ、永劫終わらぬ責め苦を受け続ける。それは、私も同じ。初めて人を殺めた時から、子供のように恐れながら常に覚悟していたことだ。

無音の中で、私は沖田と睨みあった。外では風が吹き、鴨川の水が流れているはず。それでも、この時の中にいるのはまるで私達二人だけのような気がしていた。

「名は?」

やがて、静かに沖田が問うた。

「は?」

「お前の名だ。まだ聞いていない」

そういえば、私は自分の名前さえ名乗っていなかった。

僅かに躊躇ったが

「白菊」

素直に告げた。

「白菊」

呟くように、沖田が私の名を繰り返す。引き取られた時に桂先生がくださった名。『お前は、抜けるように肌が白いから』と、笑いながら。

「やはり、お前はいい」

ふいに手をひかれ、私は静かに膝をついた。袴の帯から抜けた刀が床に落ちる。

今なら、無防備なこいつを殺せるのに。そんなことを思っているうちにも、この体は沖田の体温に包まれた。

背中に両腕が回り、この胸に頬が押しつけられる。勢いのまま、もつれるように二つの体は畳の上に倒れ込んだ。

ぎこちないのに、どこかで懐かしいような。

その感情は、私の胸に不思議な罪悪感を刻みつけてくすぶり続けた。


 朝陽に照らされ瞼を開けると、私達は向かい合い互いの腕を絡めたまま眠っていた。

その胸に押しつけていた額を放し沖田の子供のような寝顔を見た時、突然冷や水をぶっかけられたように目が覚めた。

 私は、何をやっているのだ。

敵方の男と、自分の意思でこうして寝た。そのことに愕然とするとともに、正体の分からぬ恐怖に襲われた。

これは、ただの過ちだ。沖田は自らの罪の意識を紛らわすため、私はやり場のない感情の矛先に、たまたま そこに相手がいたから。一時の衝動に流されただけで、それに深い意味などはない。

そう思うのに、何故かその寝顔から目を離せない自分がいる。

早く、この場から去らねば。着物を拾い立ち上がろうとした私は、ふいに足下から腕を引かれ体勢を崩していた。

「あ」

「もう、帰るのか」

布団の中から腕を伸ばした沖田が薄く微笑んでいる。

「そう急がなくても良いだろう」

余裕綽々とした様が気にくわない。

「放せ」

「明後日、またここで」

腕を振り払う私を遮り、沖田は起き上がった。

「なにを」

「待っている」

流し目の笑みを浮かべられ、不覚にも頬が熱くなる。

「誰がっ」

言いかけた私の体は、だが乱暴に沖田に抱きしめられていた。

「また、お前に会いたい」

そんな囁きを聞きながら。


 自分がどれだけ愚かしいことをしているか。それは、痛いくらいに分かっていた。

あの時、沖田が「また、いつか」などと言っていたら、私は二度とあの茶屋を訪れなかっただろう。しかし。確かな日時を指定されれば、私のあやふやな心は自然とこの場所へと足を向けてしまう。奴は、それを見越していたのだろうか。

 しかし、私は奴にとっては標的といって良い相手。彼等が付狙う長州の桂小五郎の用心棒。仲間を殺した憎むべき敵。新選組に仇なす、人斬り。

そんな女にどうして執着するのだろう。下手をしたら自分の立場とて危うくなるというのに。

 そして、それは私も同じだった。

あの夜から、沖田とは幾度か体を重ねた。

いつもあの茶屋の前まで来ては引き返そうと思うのに、何故かその場を潔く立ち去ることが出来ない。一刻ほども逡巡しゅんじゅんしてノロノロと姿を見せる私を、沖田は責めることも尋ねることもせず、いつも少しだけ寂しそうに振り返るだけだった。

襖を開けるまでは罪悪感と己への嫌悪にまみれていたはずなのに、その顔を見るとそんな感情は呆気なく流されてしまう。迷い戸惑う思いとは別の自分が、勝手に体を突き動かしているかのようだった。


 けれど、いつまでも それで良いはずがない。

「ぁああぁっ」

痛みと恐怖に錯乱する断絶魔が、私の意識を夜半の辻に呼び戻した。目の前には、胸を袈裟斬りにされ血を噴き出す男。名など知らない。つい先程、殺せと命じられた者だ。

「白菊、とどめを刺せ!」

背後から、矢間の喚き声が聞こえる。はっとして刀を握り直す私に、血達磨の男は尻餅をついたまま後ずさった。

どちらにしろ、この傷では助からぬ。むしろ早く死んでしまったほうが楽だろうに、人というのは最後の最後まで生にしがみつくものらしい。

人斬りとして、こんな光景は何度も見てきた。それなのに。

「た、助けて……くれ。俺、には」

男の言葉を断ち切るように、私は心の臓めがけ刃を突き刺した。

「お、た……み」

僅かに痙攣し白目をむき、男はこと切れた。私が殺した。

「最近どうした。精度が悪いぞ」

刀を納め歩き出すと、矢間の苛立つような声が追ってくる。

「そんなことはない」

強がって答えたが、それは何より自分が一番自覚していた。ここのところ私は人が斬れなくなっていた。いや、正確にはあの男のように仕留めきれなくなった、と言うべきか。他者の命を奪う瞬間、どうしても頭をよぎってってしまうのだ。この男にも、妻や子、大切に思う相手がいるのだろうか?

そんな思考が躊躇いを呼び、結局ああして相手を苦しませてしまう。

あの男が口にしたのは、誰の名だろう。その女はこの空の下、今も帰らぬ者を待ち続けているのか。

そんな雑念に囚われていた私は、慌てて頭を振る。今まで、そんなことは考えたこともなかった。その理由はといえば。

「よもや、男になど逆上のぼせあがってないだろうな?」

自分自身に戸惑う私の耳に届く、矢間の糾問。

「なんだと」

「これだから女は嫌なのだ。天下の一大事など成せるわけが……」

つらつらと言葉を続けるその胸ぐらを、私は力まかせに掴み上げた。

「知った口をきくな」

低くすごめば、腰の引けた矢間が黙り込む。所詮こいつはその程度の男。

「私は、女などではない」

そうだ、沖田は敵。桂先生に斬れと言われたら、いつ殺しあってもおかしくはない相手。そんな男に気を許すなど、とんだ笑い者だ。

沖田を、斬ろう

雲に隠れた月を見上げながら、私は決意した。

取り返しがつかなくなる前に。これ以上、私が私でなくなってしまう前に。


 茶屋の二階端には、薄ぼんやりと明かりが灯っていた。

予想通り沖田は先に着いている。いつものように襖に背を向け、月を眺めているのだろう。

静かに部屋の前まで来た私は、細く息を吐き僅かに震える手で刀を握りしめた。

たかが人を斬るだけ。今更、なにを恐れることがあるのか。

自分に言い聞かせると、その後から追ってくる惑いを振り切るように顔を上げる。最初にここを訪れた時と同じように勢いをつけ、一気に部屋の中へと踏み込んだ。

蹴破った襖が倒れる。行灯だけが照らす室内で最初に目に入ったのは

鈍く輝く、刀の切っ先。

はからずも、いつかと同じように私は畳の上へと叩きつけられていた。

「くっ」

強かに体を打ちつけ動くことの出来ぬ視線の端に、ゆっくりと沖田の足が近づく。

前回と同じだ。こいつは私の稚拙な急襲など読んでいた。

「すまぬ、加減が難しいな」

忘れかけていた以前の屈辱が蘇り身を強張らせていた私は、目の前に差し出された手に目をみはった。

驚いて顔を上げれば、目と鼻の先の距離の沖田と視線が絡む。

「本当に、お前といると飽きぬ」

そんな可笑しそうな笑みが信じられず、妖でも見たように目をしばたかせていた私は

「……何故、斬らぬ」

唇を噛みしめ、思わず呟いていた。

「俺が、お前をか?」

「そうだ。私は、お前を殺そうとした」

目睫もくしょうの間で交わすには、あまりにも不釣合いな会話。私はこの状況にただただ混乱した。

殺される前に殺す。それは人斬りとして至極当然の、そして絶対的の感覚のはずではないのか。

「お前だからだ」

しかし、私の心でも読んだように沖田はぽつりと言った。

「え?」

さっきまでの殺意は消え、やけに気の抜けた声が漏れた。

「斬れば、お前とはもう会えなくなってしまう」

それは当たり前すぎて、逆に何ともぼんやりとした言葉だった。

「死んだ者は二度と生き返らぬ。それは、俺やお前が一番よく知っているだろう」

何故か、自分が殺めた男の最後が頭を過ぎった。あの男とあの男を待つ者は、どんなに願っても嘆いてももう決して巡り合うことはない。

そんなこと、頭では分かってはいた。人が死ねば終わりということなど子供でも知っている。

けれど、いま初めて私は本当にその意味を理解した。

もしも沖田を失ったら、もう取り返しはつかない。この顔を見ることも温もりを感じることも二度とない。

それは嫌だ。自分で手を下そうとしていたくせに、その事実にようやく私の心は愕然と震え出した。

「そうだ」

そんな心境など知ってか知らぬか、ふいに背を向けた沖田が身をよじり何かを手繰り寄せる。

「これは?」

そうして差し出されたのは、白い花をあしらったかんざし。月の光を浴びて輝くそれは、汚れた私達の手の中ではやけに浮いて見えた。

「お前にだ」

「は?」

無理やり握らされた細工を、呆けた声で見つめる。

「お前がその格好をしていると、男同士で同衾どうきんしていると思われて困るのだ」

何故か少しぶっきらぼうに告げられ、訳がわからず佇んでいる私に

「たまには、女の姿をしてこい」

目を伏せながらそんなことを言う。

目線を落とし自分の掌を見る。

つまり、私に女物でここに来いということか?

「私は、女ではない」

「これでもか?」

矢間に言ったのと同じ言葉を繰り返そうとした私は、あっという間に沖田の胸の下に引きずり込まれていた。

「おいっ」

簪を落とす訳にもいかず、その顔を睨み上げる。

「俺にとっては、好いた女以外の何ものでもない」

無表情な声と、同時に首筋に噛みつかれる痛み。何だか丸め込まれたようで面白くはないが。

それでも、こんなやり取りを受け入れてしまっている現実が、私自身なによりも不思議でならなかった。


 「そんなに気にいったか?」

情事の後、布団の中で月光に簪をかざしていると、すぐ隣の沖田は可笑しそうに笑った。手を下ろし、私はわざと顔をしかめる。

「お前にしては、趣味が良いと思っただけだ」

「俺が選んだのではないからな」

胸の気持ちを隠すように答えたのに、返ってきたのは素っ気ない一言だった。

「え?」

「知り合いに選んでもらった」

億劫おっくうそうに起き上がる背中が着物を羽織る。

「女、か?」

どうだって良いことだろうに、聞き返した声は自分でも驚くほどに動揺していた。

振り向いた沖田の目が、僅かに揺らぐ。

「上司の囲っている人だ」

小さく笑われた言葉に、そんな自分が気まずくて顔を背けた。

「鬼の、副長?」

ぶっきらぼうに沖田がよく話してくれる相手の名を口にしたが、それは当たっていたらしい。

「そう、多摩のバラガキ」

沖田から聞くその人は、世間で言われるような極悪の人物ではない。江戸にいた頃の話、下手好きな俳句、不器用に好きあっている女のこと。そこで語られるのは、どこにでもいるただの一人の男だった。

「いつ一緒になるのかと聞かれたよ」

「は?」

だから、さらりと告げられた一言に思わず素っ頓狂な声を上げた。

「それは」

私と、ということか? いつの間にこの関係を話したのか。いや、それよりも沖田にはその気があるのだろうか。

柄にもなく赤面する顔を隠すように伏せた私に

「可笑しいだろう。そんな夢物語みたいなこと」

小さく鼻で笑う、乾いた声が届いた。

その言葉にほんの刹那、この胸の鼓動が止まった気がした。

「……ああ、本当にそうだな」

そうだ、何を浮かれていたのだろう。

「人並みな幸せなど、夢のまた夢」

沖田の独り言のような呟きは、私のことを好いているとか、いないとか。更にいえば敵とか味方とかの次元の話ですらない。

「私達は、地獄行きだからな」

人の道から外れた人斬り。善良な市民のような夢を持つなど、厚かましいにもほとがあるのだ。

互いに口を閉じてしまうと、沈鬱な空気が漂った。

私達がこんな気持ちになるなどお門違いだとは分かっている。

けれど この朧な現の中、私が感じることが出来るのは、沖田の存在だけのような気がした。

「お前の、夢は何だったんだ?」

寝そべった体の向きを変え、ふとそんなことを聞いた。

「夢?」

不可解そうな瞳が私を見返す。

「一つくらいはあっただろう?」

畳みかけるよう尋ねると、窓の外の月を見つめ考え込んでいた沖田は

「道場を、やりたかったな」

懐かしむように、そんなことを呟いた。

「道場?」

「近所の子供を集めて剣術を教える。昔、自分がそうしてもらったみたいに」

そう語りつつも、その横顔にはどこか諦め色が浮かんでいる。

けれど私には、明るい太陽の下、楽しそうに子供達に囲まれる沖田の姿を容易に想像することが出来た。

「今からでも、叶えられるだろう」

本音を告げたのに、その本人は小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「誰が人斬りに剣など習いたいものか」

拗ねたように吐き捨てられても、私は引かなかった。

「やってみなければ分からない」

一糸まとわぬ体で布団から起き上がると、今度は呆れたように沖田は笑う。

「お前は変なところで前向きだな。けれど、人に教えるのが下手な俺にはそもそも向いていない話だ」

「下手?」

「部下に稽古をつけていても、何故 出来ないのかとすぐに苛ついてしまう」

その言い分は分からないでもない。剣客でなくとも、いわゆる天性の才を持つ者は、自分の感覚を人に説明するのが苦手な者が多いという。

「だから」

「ならば、私が教える役をやろう」

その言葉を遮ると、沖田は途方に暮れる顔をみせた。

「お前がか?」

「ああ。これでも故郷にいた頃、剣を子供に教えるのは得意だった」

得意気に言い切る私を、その黒い目はしばし眺めていたが

「ならば、俺は飯でも作ろうか」

ふっと頬をほころばせた。

「全てが終わったら、どこか田舎に家でも建てて暮らすのも良いかもしれん」

言葉とともにその胸に引き寄せられ、そんな仕草に少し戸惑ったものの、私は温かな体温にそっと目を閉じる。こうしていれば、それは呆気なく手に入ってしまいそうなものに思えた。

「ああ」

私も、自然ときつくその体を抱きしめ返した。


 「白菊」

頬杖をついて窓の外を眺めていた私は、はっと我に返って顔を上げた。

「は、はいっ」

振り返ると、そこには苦虫を噛み潰したような桂先生の姿があった。

「もう三度も呼んだのだがな」

「申し訳、ありません」

消え入りそうな声を出しながら、慌ててその元へと駆け寄る。

以前ならば、久々に京に戻った先生の存在を忘れるなど決して有り得ないことだった。

「まあ良い。達者でやっているか?」

「はい」

ここは、長州人が常宿にしている旅籠の二階。土佐の志士達と会合があるとかで、先生もしばらく京に滞在するのだという。

「そうか」

ため息まじりの頷きに、ほっと胸を撫で下ろす。

そういえば、先生は今回は南の方から戻られたという話だった。どの道を通ってきたのだろう? そこには田畑を耕して暮らしていけるような場所はあっただろうか? 近くに村里でもあれば、子供もいて尚良いのだが。

ここ最近の私は、ふと思いつけばそんな空想ばかりに耽っていた。

だから。

「白菊」

いつもの通り、何気なく衿元に忍び込ませようとした先生の手を、私は知らず振り払っていた。

「あ」

止めようと思った時には、もう遅い。室内に響く乾いた音と、初めて見る先生の目を丸くした表情。

「……も、申し訳ございませんっ」

咄嗟に言い繕うことすら出来ず、私は床に額をこすりつけていた。

「どうやら、虫の居どころが悪いようだな」

弾かれた右手を押さえながら、不機嫌に立ち上がる気配。

「あ、あの」

言葉とは裏腹に、乱暴な仕草で先生は部屋を出て行く。

「桂先生」

その背中に呼び掛けはしたものの。もう私も昔のようにその後を追いかけることはなかった。


 先生が京に帰ってきているというのに、不思議なくらい任務の命はなかった。今までならこんなことは有り得ない。きっと先生が私を遠ざけているのだろう。

 沖田と出会った頃 秋口だった季節は、いつの間にか肌寒い風を吹かせるようになっていた。

「白菊」

いつものように所在なく藩邸に足だけ運んでいた私は、庭の片隅でふいに声を掛けられた。

「なにか?」

見れば僅かに見覚えのある藩士が背後に立っている。

「少し良いか?」

そう言ううちにもこちらへと近づく男。その時になって、それが以前桂先生と幾松の噂話をしていた男だと思い出す。

人気ひとけのない木の下まで連れてこられ、何事かと首を傾げていると

「一昨日の夜、鴨川のほとりでお前を見かけたぞ」

どこか卑下た笑みを浮かべ、そいつは言った。

だからどうしたのかとますます怪訝に思ったが、それが沖田と逢瀬をした日であったと思い至った。

ふいに顔色の変わった私に、男の表情は嬉し気に歪んだ。

「まさか華夜叉とも呼ばれる者が、敵方の男に骨抜きにされるとはな」

言葉とは裏腹にいやらしく私を覗き込む視線。答えようがなく、俯き押し黙るしかなかった。

「これを桂先生に報告したら、どうなるか?」

試すような口振りで告げられ、私はゆっくりと顔を上げる。

「どう、すれば良い?」

絞り出すような声で聞くと、待っていたとばかり近づいた男が私の耳元に口を寄せた。

「なに、大した事ではない。ほんの少しだけ俺の相手もしてくれれば、それでその件は黙っていよう」

にやりと細まる目尻。つまりは、交換条件で“抱かせろ”ということ。

「別に、嫌ならよい。ただし、ことが露見して困るのは あの男のほうではないのか?」

 逡巡しつつその顔を睨みつけていた私は、そんな言葉に息を飲む。

もしも長州の女、まして味方を殺めた人斬りと繋がっていることが新撰組内でバレたら、沖田の立場はどうなるだろう。

 「さあ、どうする?」

まるで、答えは知っているとでもいうような態度に唇を噛みしめたが

「分かった」

私は、その思惑通り頷くしかなかった。


 「善は急げだ」と、嬉々とした男に連れられてきたのは、高瀬川の河原だった。高い草の生い茂った、人も通りがからぬような場所。もう少し行けば、いつも沖田と密会を重ねる茶屋が見えてくるはずだ。

私にとっては、すこぶる都合が良い。

「お前のように誰とでも寝る女は、場所などどこでも良いのだろう?」

夕闇の中で先を歩く男が鼻で笑う。

「ああ」

低い声で答えると、にやけた顔が私を振り返る。

「そうか、ならば」

それが、男のこの世での最後の言葉となった。

抜刀した刀は、正確にその胸を袈裟に斬り裂いた。骨にガツリと当たった刃を、力に任せて引き下ろす。

目の前で見開かれる、血走った目。断絶魔の絶叫を聞く前に、男の喉仏を一思いに突き破った。

草木に沈んだ亡骸を見下ろす胸に、何の感慨もありはしなかった。むしろ最近は影を潜めていた人斬りとしての達成感すらも感じる程。

 先生を拒絶し、なんの躊躇いもなく同胞をこの手にかける。もう私の心は、長州という生まれ故郷から遠く離れ去っていたのかもしれない。

それが誰のせいなのか。そんなことは考えずとも、自分が一番よく分かっていた。


 「女の格好じゃないのか」

部屋に入った途端、沖田はあからさまにがっかりしたような声を出した。

「別に、そんな約束はしていないだろう」

いつもの茶屋に袴と大小の姿で現れた私は、ついぶっきらぼうにそっぽを向く。

 本当は、ここに来るまでに何度も悩んだ。柄にもなく箪笥の奥底に仕舞っていた女物の着物を取り出してみたりもした。

けれど、それでは沖田の言いなりになるようで、あまりにも自分が浮かれているようで。結局こうして普段通り男の格好で登場したのだった。

 けれどこうして拗ねるような沖田の顔を見れば、やはり着替えてくれば良かったなどと思ってしまう自分がいた。

 「どうせ、そんなことだろうと思った」

僅かに後悔した私だったが、目の前の男は目を細める。

「え?」

「ほら」

ずるずると沖田が隣の間から引きずり出してきた箱。首を傾げて眺めていた私は、その中身が真っ白な着物であると気がついた。

「随分良いものだ」

反物たんものの価値など知らぬ私でも、それが高価なものであると一目で分かるほどの新雪のような純白の布。

「お前にだ」

「私に?」

驚いて再び見つめたそれは、血で濡れた手が触れるにはふさわしくない代物に思えた。

「白い着物なんて、縁起が悪いだろう」

正直に言えば、頬が緩んでしまうほど嬉しい。けれど、それ以上にこんな時どんな顔をすれば良いのか私には分からなかった。

悩ましい心を隠すためにわざと尖った声を出すと

「だからだ」

無造作に着物を手に取り、沖田は立ち上がる。

「死と隣り合わせで生きているお前は美しい」

背後から肩にかけられた着物の重みが、私を包む。

 そういえば、かつて新撰組が身につけた浅葱の色は、死の覚悟の証だと聞いたことがある。

沖田は、私をただのか弱い女だとは見ていない。だからといって、冷血なだけの人斬りとも思ってはない。有りのまま受け止め、己ですら知らなかった素顔を見い出してくれる。今更ながら、そんな奴なのだと思った。

「仕方ないな」

もったいぶって着物を受け取ると、目の前の顔は子供のように輝いた。


 「もう、いいか?」

沖田に後ろを向かせ、こんなところだけ気を利かせて用意してあった一式を久方ぶりに着付けてみた。

背後からは、何度もそわそわと落ち着かない声がする。

「いいぞ」

帯を締め終わり、自分の体を見回した私は少し気後れしながら言った。

どうせ沖田はこの姿を見て笑うのだろう。そんな予想に予め顔をしかめていた私に

「美しい」

まるで夢心地のように、うっとりとする声が聞こえた。

「は?」

「やはり、どんな女よりもお前が美しい」

私の前へ立った沖田が、呆気にとられるこの顔を見下ろしている。

「あ」

そっと触れられたと思った髪に刺されたのは、あの白い花の簪。着てきた着物の袖に隠していたのに、目ざとく見つけられてしまったらしい。

「よし。これで、町を歩くぞ」

続けて当たり前のように告げられた言葉に仰天した。そんなこと出来るはずがないことは、何よりもこいつが知っているだろうに。

「ほら」

しかし、そんな戸惑いなど知らぬように沖田は大きな掌でこの手をとる。

「おい、ふざけるな」

引きずられるように歩き出しながら、 いつもの癖で乱暴な言葉が出てしまう。

「何がだ」

「“何が”ではない」

既に部屋から廊下に出ようとしていた体が不満そうに振り向く。

「こんなところ、人に見られたらどうする」

声をひそめ、周囲の部屋に人がいないことを耳で確かめる。

決して光を浴びる場所にいてはならぬ人斬りという存在。そんな私達の関係は永久に闇の中に葬らねばならないのだから。

「そんなこと、誰が決めた」

「は?」

だから、目の前で当然のように告げられた言葉に、私は無自覚の声を出していた。

「お前が不幸にならねばならぬと、誰が決めた」

その顔は、冗談など言っている様子はない。

「私は、人を斬った」

長州の敵を。いや、時には罪のない人間をも躊躇いなく殺めてきた。それを今さら後悔はしていない。だが、そんな人間が幸せになって良いはずがないだろう。

「人斬りは、罰せられねばならぬ」

やがて呟いた沖田の声に、私は俯く。

「だから、お前だけは俺が守る」

そんな声の主らしからぬ言葉が、はっきりと聞こえてきた。

「沖田」

「行くぞ、お前は堂々としていればいい」

口を開いた言葉を皆まで言わせず、掴み直した手首を乱暴に引かれる。

僅かに唇を噛みしめたものの、もう私はそれを拒まなかった。


 導かれるように茶屋の外へと出ると、火照った頬を冷たい風がなでる。白い月の輝く夜、二つの影が静かに寄り添った。

「初めてだな」

歩を緩めた沖田が言うように、並んで外を歩くなど 当然だが出会って初のこと。

「ああ」

白い着物に白い簪。こんなふうに手を引かれていると、こちらの自分が真実だったような錯覚を起こしてしまいそうになる。

「どこへ行くんだ?」

半歩先を行く背中に話し掛けると、どこか楽しそうな目が微笑みかける。何も言わぬ沖田に、更に言葉を続けようとした私は

「……あ」

いつの間にか、白い光に巻き込まれていた。

それは、目を疑う光景。一面の桜の花びらが、寒空の下私達をいざなう。

「どうして」

しかし、季節は冬。桜など、咲いているはずがない。

「狂い咲きだそうだ」

狐につままれたような私に、笑いをこらえながら沖田が言う。

「狂い咲き」

春に咲けず、狂逸とされながらも咲き誇る桜。それは、あたかも沖田のようだと思った。

「まるで、お前のようだ」

花を見上げながら沖田がそんなことを言う。

どう返して良いか分からず困った顔をする私に笑うと、垂れ桜の下を沖田は歩き出した。

降りしきる花片の中、その背中に近い距離でついて歩く。

まともなことなどなかった私の人生。間違いなくこの瞬間が、最も幸福な時だった。

 「あれ」

しかし、そんな幸せに浸って歩いた時間は、飄々とした沖田の声により現に戻される。

小さく顔を上げると、桜の木を挟んだ反対側の道に二つの人影が見えた。気配を感じ右側へ視線を向ければ、そちらからも寄り添った男女が近づく。どうやら、交差する道で他の良人同士と出くわしてしまったらしい。

わざわざ声を出すということは、沖田の知り合いか何かなのだろうか?

やがてすれ違う距離までくると、月明かりの下 彼等の姿がはっきりと捉えられた。

左前方から近づく背の高い男と、右側の若い男。その外貌だけで、彼等が相当の手練れなのだと本能で感じ取った。誰一人、刀に手などはかけていない。だが、体に染みついた眼光とぬかりのない物腰。私自身剣客だからこそ分かる、白刃の下を潜り抜けてきた者の持つ独特のにおい。

すれ違い様、つい強張ってしまう体を必死で押さえた。悔しいが、ただならぬ二人の佇まいに気圧されてしまったのは事実だった。

  垂れ桜から離れ、漸く彼等の気配が消ると、深いため息が自然に漏れた。

「ふっ」

そんな私の横で、何故か可笑しそうに沖田が吹き出す。

「何故笑う」

「緊張しすぎだ」

そう目で示された先を見れば、いつの間にか この手は沖田の袖口をしっかりと握りしめていた。

慌てて手を離し飛び退くと、今度こそその顔は大きく笑い出した。

「心配するな。いくら壬生狼といえど、共食いはしない」

「壬生狼」

呆気ないネタばらしに、私は少しの驚きと共に得心した。

「新撰組の、幹部か」

「三番の斎藤と、八番だった藤堂だ」

その二人の名は当然私とて知っている。さすがは天下に名を馳せた剣客集団の一隊の長といったところか。下っ端の有象無象ではない。その名に恥じぬ強者共だと、敵ながら感心した。

「敵」

「ん?」

つい声に出してしまった私を、数歩先を行っていた沖田が振り返る。呆然と立ち尽くし、ゆっくりとその顔を見返した。

そう、沖田はあの二人と同じ敵だ。長州に仇なす、かつては斬らねばならぬと断じた者。頭では解っているのに、そんな感情をすっかり忘れていた自分に、思わず愕然としたのだ。

いつの間にか、沖田は私にとって敵ではなくなっていた。

いや、もしその身に危害が及ぶのならば、手はその者を殺めてしまうかもしれない。私を脅したあの男を、あっさりと斬り殺したように。

「どうした、行くぞ」

動かなくなってしまった私の手を、当然のように沖田がとる。

果たして、この手を握り返しても良いのだろうか。

「なんだ、寒かったか?」

様子がおかしいことに気がついたのか、普段は凶暴な剣を振るう腕がそっと私を抱きしめた。

「なんでも、ない」

戸惑いつつもその広い胸に顔を埋め、表情を見られないように慌てて視線を伏せた。

今の私は、その背中を抱き返して良いのかが分からない。それは沖田のことを信じられないからではなく、急にこの関係に不安を感じてしまったから。

何度も体を重ね、将来の話もした。でも確かな約束などしたことはない。沖田は都合のいいの行きずりの相手と思っているだけかもしれぬのに、図々しくして嫌われたら。

まるで初な少女のような不安が肥大して、この感情をどう受け止めれば良いのか分からなくなった私は黙り込むしかなかったのだ。

 「落ち着いたら、江戸に行こう」

だから、耳元につけられた唇が そう囁いた時、まるで夢でも見るように目の前の顔を見上げた。

「え?」

「江戸には姉が住んでいる。一度くらい紹介しないとな」

くすりと笑いながら告げる言葉が、何を意味するのか。

「あと、近藤さんと土方さんにもか。何を言われるか分かったものじゃないな」

我慢しても自然に熱くなる目頭を、必死に堪えた。そのせいでクラクラと痛い頭に、唇が触れる。

「だから。もう剣は捨てろ」

そんな荒唐無稽な戯れ言を、私は黙って聞いた。

人斬りにとって剣を捨てるということは、自分を捨てろと言われているのと同じ。

「お前と離れる度、心配でならないんだ」

けれど、背中に回された腕の強さは疑いようもなく。

「ただの女として、俺の傍にいろ」

ほんの何月か前の私ならば怒り狂ってしまいそうな言葉に、不思議と幸せを感じた。

「考えて、おく」

目を瞑り沖田の肩にもたれると、その向こう側には桜と白い月が夜空に煌々と浮かんでいる。

私は、自分に答えを出さねばならなかった。


 萩から持参した数少ない荷を整理しながら、私は幾度目かのため息をついた。

見れば、外は木枯らしが吹き荒れる曇天。雪が降らぬのが不思議なくらいの寒さだった。

「何をしている」

畳に正座していた体を捻ると、渋い顔をした矢間が襖の影からこちらを見下ろしていた。不審そうな視線は、床の上に散らばった私の私物へと向けられている。

「そろそろ年も終わるからな。要らぬものは捨てようと思ったのだ」

平静に答えたものの、怪しむような表情は崩れない。普段ならば、こいつにどう思われようと構わない。しかし今は余計な詮索をされる訳にいかなかった。

「なにか用か?」

少し控えめな声で聞くと、気を取り直したように矢間も頷く。

「桂先生から、お達しだ」

「先生から? 仕事か?」

つい目を丸くしてしまったのも仕方ない。ここ最近では、先生から仕事の依頼どころか声さえかけられていなかったのだから。一体、どういう風の吹き回しだろうか。

「葬って欲しい者がいる」

潜められる言葉から、それが人を斬る仕事なのだと理解した。

「敵か?」

「詳しいことは当日に伝える。三日後は、体だけ空けておけ」

私の問いには答えず、冷ややかにそれだけ告げ矢間は部屋を出て行った。


 ざわつきを避けるように、私は足早に藩邸の庭を通り抜ける。

「川下で今朝見つかったそうな」

「もう、見る影もなかったらしい」

既に其処彼処そこかしこで噂されているのは、かつて私が斬った男の話。

沖田との仲を盾に脅そうとしてきたあいつを殺し、近くに繋いであった小舟に乗せて流した。運が良ければそのまま見つからぬと思っていたが、どうやら露見してしまったらしい。

「白菊」

もう敷地から片足を出していた私は、背後からの声に足を止めた。

「は、い」

さすがに驚きを隠せず、幻でも見るよう声の主の顔をまじまじと見つめる。

「先生」

やけに久方ぶりに思える桂先生が、冷たい目つきでこちらを見ていた。

「どこへ行く」

何とはなしに尋ねられた問いに、言葉につまる。

「少し、散歩へ」

「近頃、朝帰りが多いと矢間に聞いているが?」

表情すら変えず畳み掛けられる声に、心の中でつい毒を吐く。

「まあ、良い」

そんな呟きに胸を撫で下ろしたのも束の間。

「お前が、横沢といるところを見たという藩士がいるのだが」

しばし考えた後、その問いの名が自分が斬った男であったと気づいた私は、柄にもなく小さく震えていた。

「何か知っているか?」

「いえ」

そう答えるのが精一杯で、いたたまれずに顔を背ける。

少しの間、こちらを窺うような痛い視線を感じていたが

「そうか」

追求もせず、先生は背を向け去って行った。

大きく息をついた私は、やっと生きた心地がした。

怪しまれなければ良かったが。

そんな胸の不安を打ち消し、私は逃げるように鴨川の茶屋へと長州藩邸を後にした。


 薄闇の中、すでに慣れ親しんでしまった茶屋の二階には明かりが灯っていた。沖田が、そこにいるという証。先程までの心配事も消え去り、つい軽くなった足取りで急な階段を駆け上がる。

「沖……うわっ」

襖を開けると、目の前に立ち塞がっていた体につい驚きの声を上げてしまった。

「まるで、人を妖でも見たように」

沖田が不満そうに口を尖らせるが、こんな突然図体がいたら驚くなというほうが無理だ。

「どうしたんだ?」

その顔を見つめながら部屋へ入る私に、あの笑みが向けられる。

「屯所の側で見つけた」

いかにも得意気に差し出された手が持っていたのは、小さく咲いた白い一輪の花だった。

「どうしたんだ?」

雪でも降りそうな時期だというのに。

「今朝、ふと見つけたんだ」

そう言いながら、この手に細い茎を握らせるごつごつとした指。

「私に、か?」

「こんなもの、男にやってどうする」

くすりと笑う声に、つい目を伏せてしまった。

「どうかしたか?」

桂先生のことや色々なことがあって、少し私は弱気になっていたらしい。

「いや。お前は、冬の花に縁があると思ってな」

顔を反らしながら呟いた言葉は、少し震えていた。

「そうだな」

けれどそんな様子には気づかず、沖田はいつもの窓枠の前へと腰を下ろす。今や定位置となった、月を見上げられる場所。

「ほら」

花を掴んだまま突っ立ていた私の腕を引き、その隣へと座らせた。

「お前と一緒でないと、寒くてかなわない」

そう言いながら、この肩を抱く体。最初は嫌がっていたこんな行動も、いつの間にか当たり前になっていた。

ぼんやりとした月が、寒々と隣り合う私達を照らす。こうしていれば、目の前の悩みや苦しみなど簡単に飛び超えてしまえそうな気さえした。

「春までは、長かった」

しばらく無言で月を眺めていた沖田が、やがてぽつりとこぼした。

「え?」

それは私に言った言葉ではないようで、その視線はじっと月を見つめている。

「桜を見に行くと、楽しみにしていたんだ」

「鬼の副長、か?」

確信はなかったけれど、彼が他人の話をするあてはそれくらいしか思いつかなかった。

「ある日。長屋に行ったら、あの人がいなくなっていた」

訥々と語られた一言には思い当たるものがある。土方副長に想い人がおり、どこぞに囲っているという話は私も知っていた。

「出て行った、ということか?」

聞きずらいながらも尋ねると、こくりと沖田は頷く。

「いなくなる直前に、どこかの下男を連れ込んでいたらしい」

「はあ」

それは、完全に女に逃げられたということではないか。話だと、相当好きあってたようだったが。

「人というのは、分からないものだな」

特に男女の仲の機微などにうとい私には、それくらいしか言うことが出来ない。

「恐らく、土方さんのことを想って出て行ったんだ」

しかし沖田が告げたのは、意外な一言だった。

「想うなら、なぜ?」

考えてみても、私などには理解できない。だってお互いに離れたくないならば、ずっと側にいれば良いだけではないか。

「きっと、自ら身を引いたのだろう」

釈然としない様子の私を、肩をすくめながら沖田が見遣る。

「身を引く?」

「それが相手の為ならば、という気持ち。今ならば、俺も解る気がする」

更に意味の分からぬ論理を話されるが、やはり納得できなかった。

「お前は、それを知って黙っていたのか?」

「言えば、彼女の想いを踏みにじってしまう気がして」

憮然とする私に、沖田はどこか言い訳でもするように笑ってみせる。

「よく分からぬ」

「お前には、一生分からぬだろうな」

「もし、また同じようなことがあったら、どうする?」

そんな会話の中でふと思いついたことを聞いただけだったのだが、それは思いのほか沖田には響いたようで僅か表情を強張らせた。

「……そうだな。きっと、また同じようにするだろう」

少し沈んだ表情は、本来の年相応に大人びてに見えて

「私ならば、何があっても離れたりしないけどな」

つい、ぶっきらぼうにそんなことを私は言い捨てていた。

「うん?」

「自ら身を引いて誰かに譲るなんて真っ平ごめんだ。そんなことをするくらいなら、好いた男をこの手で殺してやる」

捲し立てるように言う私に、それまで険しい目をしていた沖田は突然吹き出した。

「何が、可笑しい」

「いや、恐ろしいと思ってな。おちおち他の女にうつつも抜かせん」

苦笑する横顔が余裕ぶっていて面白くない。確かに、こんなことを言う女など可愛いげの欠片もないだろう。

「どうせ」

いじける気持ちで、そっぽを向いた私は

「あ」

頬に添えられた手に振り向かされ、ふいに唇を奪われた。ほぼ同時に、熱い沖田の両手にこの体は引き寄せられる。

「まるで色恋沙汰だな」

自然と抱き返した私に、沖田のくぐもった笑い声がした。

「違うのか?」

むっとして聞き返したが、返事はなく、沖田の吐息と体温だけが伝わってくるだけ。

「お前さえいれば、何でも出来そうな気がする」

少し掠れた低い声を微睡まどろむような気持ちで聞いた。。

「ずっと、俺の傍にいて欲しい」

あまりに当然に落とされたその言葉。

「お前しか、いらない」

そう続ける腕が、熱と力を帯びる。

ああ、生きていて良かった。と、その刹那確かに私はそう思えた。

人を殺め続けた私が思って良いことではない。まして、この罪が消えることは決してない。けれど、こんな私に生まれてきた意味があるとしたら、それは沖田と出会うためだった。

目の前を覆っていた深い闇に、目映い光が差した気がした。

「ああ、死ぬまで傍にいよう」

小さく頷いて、両腕を沖田の背に回す。

お互いの、熱や、人生、悲しみや愛しさが全て融け合って。いつかは一つになってしまえそうな気さえした。

 空は、悠久の蒼い月夜。

このまま、眠ってしまいたい。そう、ゆっくり目を閉じた時だった。

「……え」

世界に小さく散った花びら。

薄目から見開かれた視界には、ポタポタと滴る鮮やかな赤。この暗闇の中で、その色だけが やけに美しく浮かび上がって見えた。

「沖、田?」

「来るなっ」

何がなんだか分からぬまま強い力に体を突き飛ばされる。そのまま床の上に倒れ込んでもまだ、私には目の前の出来事が理解できずにいた。

こちらから顔を背け、苦しそうに咳き込む背中。ぜぇぜぇという隙間風のような音に、いっきの体中の血の気が引いてゆくのを感じた。

「大丈夫かっ!?」

咄嗟に駆け寄ったが、その手も乱暴に振り払われた。

「沖田!」

それでも無理やり背中に手をかけると、ようやく薄く息を吸い込んだ唇が微かに笑った。

「来るな。うつるぞ」

絶え絶えの呼吸の下から告げられた一言で、私は全てを理解した。

「以前にも血を吐いたことがあった。その一度きりだから、思い過ごしだと信じていたが」

自嘲気味に口許の血を拭う姿は、こんな絶望を目の当たりにしても平静なまま。

「刃ではなく、病に殺されるとはな」

知らず私は、沖田の体にすがるように座り込んでいた。

「どうしてお前が、そんな顔をする」

ふらつく体を逆に支えられて、漸く顔を上げる。

先程までの束の間の幸せは一瞬にして霧散し、私は何かを言わねばならなかった。沖田を励ますような、この絶望を紛らすような一言を。

だが、しばらく唇を閉じたり開いたりした努力は、無駄に終わる。この現実を目の当たりにしてしまえば、私の気休めの言葉など空虚なだけだった。

「すまないな」

あまりの衝撃に呼吸すら忘れてしまっていた耳に、馬鹿らしいほど和やかな声が届く。

顔を上げると、伸ばされた沖田の両手が乱れた私の髪にそっと触れる。

「沖田」

「もしかしたらと思いながら、お前を傍に置いてしまった」

後悔を滲ませた呟きが、何を意味するのか。

「もう、お前には近づかない」

心のどこかで予期してしまったその言葉は、私を打ちのめすには十分であった。

「沖田」

「お前を巻き添えにしたら、俺も死んでも死に切れん」

遮るような、静かだけれど有無を言わせぬ厳しい口調。簡単に言い返せなかったのは、その言葉の重みが分かってしまうからだった。

労咳

不治の化身の名は、私も良く聞き知っている。

何人か、その病で死んでゆく者達の姿も見た。皆、血を吐き痩せ細り、苦しみ もがきながら事切れていった。

そんな光景がよみがえり、思わず私でさえ身震いしてしまうのに、当の沖田はいつものように ただ この顔を見つめていた。

「今まで世話になった」

そう告げながら、ゆっくり立ち上がる体。何の躊躇いもない背中が、襖に手をかけ去ろうとしている。

「ふざけるなっ」

咄嗟にその着物の袖を掴んで動きを止めた私を、沖田は困ったような笑みで振り返る。

「我が儘を言うな」

「我が儘なものかっ」

私達の最後がこんな別れ、こんな結末だなんて。認められる訳がなかった。

「私を、置いてゆくのか」

「そうではない」

自分がこうして男に追いすがる姿など、ほんの昨日まで想像すら出来なかっただろう。けれど今はそんな見栄や意地に構っていられる余裕などない。

「もう幼い子供ではないのだ。現実を見ろ。あと数年の命の男といて何になる」

言い聞かせるように覗き込む顔を、力の限り睨みつけてやった。

「それは、私が決めることだ」

私の心は、何があっても沖田と共にある。例えそれが明日消える命であったとしても。

「一時の感情に流されるな」

けれど、その らしくない穏やかな仮面は、決して揺らぐことはない。

「近いうちに、幕府は敗ける」

「は?」

こんな時に唐突に告げられた言葉に、私は眉を潜めた。

「いきなり何を」

「どちらにしろ、俺といても先はない」

軽く肩を突き飛ばされ、元々力が入らなかった体がふらつく。

「あ」

そのまま後ろ向きに倒れる私を、感情がないがために澄みきった目が見下ろす。

「お前の故郷は長州。このまま大人しくしていれば、黙っていても良い人生が送れるだろう」

「何が言いたい」

「頼むから。せめてお前だけは、幸せになってくれ」

怒る私に真っ向から見つめあう眼差しはただ物静かで、それはきっとこれが私との最後の会話だと決めているから。そして何より本心から私の幸せを願ってくれている。そんな沖田の意志の強さを感じ、逆に打ちのめされそうになってしまう。

「達者でな」

そんな想いを受け止めてしまい継ぐ言葉を失う私に、沖田は膝をついて視線を合わせた。動けないでいる体を、どこか安心したような失望したような視線がなでる。

音もなく立ち上がり、遠ざかる背中がやけに細く頼りなく見えた。

そもそも、あの沖田のこと。私などに憐れまれても誇りが傷つくだけだろう。奴にとって私に価値があったならば、それは同じ人斬りとして剣士として、唯一その感情を共有できる女だったから。

ならば、ここで武士らしく去らせてやるのが正しいのかもしれない。散り際は、美しくとは、私も常に望んでいたこと。……だから、仕方ない。

そうやけに悟った気持ちで、襖に手をかける沖田の後ろ姿を眺めた。

元々は、敵として出会った者同士。いつかはこうして別れゆくのが定めだったのかもしれない。

これから、また沖田のいない日々に戻るだけのことだ。自身を納得させるため、目を瞑ってそんな情景を思い浮かべようとした私は

「待て」

自分でも無意識に、強い意志でその後ろ姿を呼び止めていた。

怪訝そうに歩を止める気配。

そう。確かにここで沖田を行かせてやるのが筋なのかもしれない。女に弱る姿を見せながら死んでゆくなど、新撰組の沖田総司の名がすたる。それは、私だからこそ痛いくらいに解る。

「私は、さっき言ったばかりではないか。一生、お前の傍にいると」

けれど、想像してみようとした沖田のいない世界。

それは私にとって、ただの“虚無”であった。

彼がいなければ、私も生きていても死んでいても同じ。ならば、死よりも怖れた恥も今は何ものでもない。

「頼む、傍に居させてくれ」

私は誓ったではないか。何があろうと、最後まで沖田と生きる。その最後が、五十年先であろうと明日であろうと。

「白菊」

先程までとは違う様子に気がついたのか、こちらを見下ろす声が微かに曇る。

私の情念が沖田の決心を僅かばかり上回ったのだと、その手ごたえを不思議と、だが確かに感じた。

「いいか、お前の選ぶ道は三つだけだ。ここで私に殺されるか、私を殺すか、最後まで私と生きるか、だ」

言い切った私を半ば呆れた顔が見下ろしている。けれど、もう その目から視線を逸らしたりはしない。

なぜなら、今の私の想いに勝るものなど この世のどこにも存在しないのだから。

戸惑うように沖田は僅かに目を瞑っていたが、やがて。

「……本当に、お前には勝てない」

あの不敗の沖田総司が、自ら敗北を認めた。

「沖田」

「その代わり、もう死ぬまで離してなどやらぬぞ」

一変し、大股に近づいた腕が私を乱暴に抱き寄せる。私も血糊のついた着物を躊躇いもなく握り返した。

「望むところだ」

その腕の中で、私は笑いながら、初めて涙を流した。


 「近江屋」

渡された紙には、素っ気ない宿名のみが記されていた。

「ああ。だが、標的がどの部屋にいるかは分からん」

暗い部屋で向かい合った矢間は、どこか目を泳がせるよう私に告げた。

 下されていた暗殺の決行の日。これが終わったら何もかもを捨てよう。そう密かに心に決めて私は指令を受け取った。

「こんな場所に、殺す相手がいるのか?」

しかし、その指示には首を傾げてしまう。

「ここは、土佐藩邸から目と鼻の先ではないか」

普段私が斬るのは長州と敵対する幕府の勢力。奴らが土佐の藩士がうろうろしている場所で酒など飲むだろうか?

「これは桂先生からのご命令だ。お前は、黙ってそれに従っておればいいのだ!」

ぴしゃりと居丈高な矢間の声が、薄闇の垂れ込めた部屋に響いた。

以前の私ならば、こんな物言いにきっと気分を害していただろう。しかし、これは私が今から裏切る相手。そう思えば怒りの感情は沸いてこなかった。

「誰か判らねば、殺しようがなかろう」

自分でも意外なほど冷静に言い返していた。

「それは、心配ない」

いつも子供染みていた私のそんな態度に調子が狂ったのか、矢間の表情はどこか気まずそうであった。

「心配ない?」

「相手は、お前も知っている者達だ」

そんな返答にさすがの私も言葉を失う。顔見知り、つまりは同志を斬るという事か?

「決して失敗は許されん。間違いなく仕留めろ」

考える暇を与えぬ、矢継ぎ早の命令が下される。

少しの間、矢間のどす黒い顔を見つめたものの、小さく私は頷いた。

「わかった」

ここで自分の意見など挟んでも何にもならぬ。今までもこうして何も知らされず理不尽な任務をこなしてきた。まして、今は。

「これが終われば お前に休みを取らせてやれと、先生も仰っていたぞ」

「それは、有りがたい」

全てにかたをつけ、沖田の元へ行く。私が考えるべきことは、それだけだ。

「蹴りがついたら、一度ここへ戻れ」

「ああ、また後ほど」

余計な感情を排除し、手にした紙を懐に押し込む。これが最後の人斬りの役目。私は、愛刀を手に立ち上がった。


 宵闇に紛れ、相談場所であった旅籠を出た。

今日の夜は、やけに月が明るい。これなら夜目は聞く。刀も手入れをしてきた。後は、己の心次第。

雲の陰った夜道を歩きながら、私が気を注がねばならないのは、これからの殺しのことだった。

しかし、この頭は どうしても違うことを考えてしまう。これが終われば、明日の夜には沖田の元へ向かう段取りとなっている。

そうしたら、まずは何をしよう。あいつは、とりあえず家でも借りようと言ってくれた。初めて料理でもしてみようか。沖田の病に効く食事を作ってその帰りを待ち、たまには一緒に夜道を散歩したりしてみる。ただ、二人で平穏に暮らす。夢物語のようだけれど、それは もう目の前まで来ている。

これから殺す人間の命を飛び込え、私の胸にはそんな未来が溢れていた。

 再び顔を出した月が、古びた看板を照らし出す。

“近江屋”。楽しい空想の時間は終わりのようだ。

体の中から一切の感情を削ぎ落とし、感触を確かめるために刀の束を一つ掴んでみる。僅かに浮かんでいた笑みが消え、自分でも驚くくらい心身ともに冷えきってゆくのが分かった。

人斬りとなった私の手が、木の戸へと伸ばされる。軽い音を立てて開いた扉の向こうには、人の気配はなかった。

どうやら、全く警戒などしていないらしい。それならば好都合。さっさと標的を探し出しいっきに片付けてしまおう。そう算段をつけ、辺りをひとつ見回して建物の中へと体を滑り込ませた。

建物は二階建て。一階部分はそれなりに広いが人影は見当たらず、どうやら気配は上のほうからする。湯気をたてる土間を通り抜け、再び周囲を見回し きしむ階段へと足をかけた、その時。

「誰だ?」

背後からかかった声に、体を凍りつかせた。

「あ」

ぎこちらなく振り返ると、背の低い男が訝し気な目でこちらを睨んでいた。どうやら、土間の奥にいたらしい。

声をかけたものの、警戒心から きつく握りしめられた手。一瞬 刀に手をかけようとした私だったが、矢間の話を咄嗟に思い出した。

「わ、私は、ちらの先生に御用があって来たのだ」

ここは、勤王派の領内。ならば下手に警戒を持たれるよりもやり様がある。

現に、目の前の顔は不審そうながら僅かに身構えを解く。

「お客人か?」

「ああ、十津川郷の者だ」

適当なことを口走りながら、懐にあった紙片を差し出す。

「ああ。これは、申し訳ごぜえませんで」

ぺこぺこと頭を下げた下男はさっと身を翻した。

「どうぞ、こちらへ」

私の横を通り抜け、階段へと足をかける。何の疑いもなく、主人の元へ案内しようとする後ろ姿に、刀の束に手をかけた私は

「ぎやああっ!!」

階段を上りかけた男の背中をばっさり斬りつけた。

鶏の鳴くような声を聞き、しまったと思い走り出す。まさか、こんな大声を上げられるとは思わなかった。これで標的に勘づかれ逃げられては計画が破綻してしまう。

そんな嫌な考えが頭を過ったが。

「ほたえな!」

階上の部屋からは、叱るような声が聞こえてきた。

ほたえな。確か、土佐の言葉で「騒ぐな」というような意味だと聞いたことがある。

明らかに襖の向こうの相手は現状を理解していない。耳を澄ませたが、その後は騒ぐ様子もなく静まり返った二階。そして私にとって都合の良いことに、さっきの一声で獲物のいる部屋がわれた。

こうなれば、躊躇は禁物。長年培った経験から、私はいっきに階段を駆け上った。

“その瞬間”は、相手の顔など見ている余裕はない。ただ目に入ってきた物に、何も考えることなく刀を降り下ろすだけ。

今までと同じように、我に返ったのは目標の体から吹き出す鮮血を見た時だった。

声にならぬ絶叫を上げ、後ろ向きに這いつくばる男。

見覚えがある。そう思う間にも、この手は勝手にもう一人の男の体へと襲いかかる。

後頭部へ叩き下ろした手に、刀を伝ってガツンという衝撃が響いた。

うわ言のような言葉を繰り返す、二人の男。土佐の、坂本龍馬と中岡慎太郎だった。

かつて、桂先生の宴席で見た彼らの姿が頭を過る。どうして? 奴等は、勤王派の重鎮であり同士ではなかったのか?

畳にしたたる大量の血を見た私は、明らかに取り返しのつかない状況に漸く震え出した。

その時、すでに命の糸が切れようとしている坂本が這うように背中を向ける。刀を手にしようとするあがきに、思わず再び愛刀を強く握りしめた時。

階下から聞こえた物音に、はっと体が跳ね上がる。階段を駆け上がってくるような気配に、私は慌てて刀身を鞘に納めた。

この惨状を一瞥し、開け放った窓から勢いよく飛び出す。転がるように屋根へと落ちたのと、何者か達が部屋に乱入したのは同時のようだった。

後ろを振り返る余裕などない。そのまま地面へと飛び降り、闇夜の中へ。

自分と長州に何が起きているのか。この困惑した頭では、考えることすら出来なかった。

 燦々さんさんと降り注ぐ明るい月光が憎たらしかった。もつれる足で走る途中、何故か真っ白な頭には沖田の顔ばかりが浮かんでは消えた。

 

 指定された矢間と待ち合わせの旅籠に着いたのは、その半刻ほど後だ。

「早かったな」

呑気に酒など飲んでいる矢間の前に、殴りかかるように私は膝をつく。

「どういうことだっ!?」

料理の盛られた皿を膳ごとひっくり返し、周りの芸妓達が驚くのも構わず怒鳴り散らした。

「まあ、そう大声をあげるな」

女共を手で追い払い、酒を口に運びながら億劫そうな仕草が言う。

「土佐の中岡と坂本といえば、桂先生の同士ではないのか?」

二人きりになったことを確認し声を潜め聞けば、ため息をついた手が杯を畳の上に置いた。

「だからだ」

「だから?」

まるで馬鹿に言い聞かせるように、その顔は嘲笑う。

「先日、長州と薩摩が手を組んだのは知っているな?」

勿体ぶるような矢間の物言いに眉をひそめながらも、私は頷いた。

例の坂本の仲介で、いがみあっていた両藩が同盟を結んだという話だ。

「だからこそ、長州にとっても重要な人物ではないのか?」

「皆がお前のように愚鈍ならば、楽なのだがな」

身を乗り出す私を鼻で笑い、もう一度矢間は酒を口に運ぶ。

「どういうことだ」

「考えてもみろ、長州と薩摩はつい最近まで殺し合いをしていた敵同士。藩士はそれぞれ、とてつもなく憎みあっている」

話のつかめない私に構わず、得意気な顔はつらつらと言葉を続ける。

「上の者同士が勝手に同盟を望んだと知れば、逆に藩の中が瓦解しかねん。だから外に隠れ蓑が必要だったのさ」

「隠れ蓑」

「今回の同盟の話は、元から桂先生と薩摩の西郷、大久保との間でまとまったもの。しかし、馬鹿正直に話せば必ず反発する者が出る。だから、他藩の坂本達に乞われて仕方なく、という筋書きにしたのさ」

まるで自分の手柄のように語る矢間の話に、私も大体の事情は察せることが出来た。

つまりは、長州と薩摩がお互いの藩内をまとめるために打った一芝居。坂本と中岡は、運悪くそれに巻き込まれてしまった男達だったということか。

勝ち誇ったようににやける矢間から目を逸らし、ため息が一つ漏れた。

「つまり今回の殺しは、その口封じのためということか」

同盟が指導者同士の秘密の結託だったことが露見すれば、彼等の足元が揺らぐ。だから手っ取り早く利用した本人達諸共消してしまおうと思いついたのだろう。

「と、すると。私の後からなだれ込んで来た連中も刺客だったのか?」

「いや」

てっきり私が仕留め損ねた時の追い討ちだったのかと思ったが、それは違ったらしい。

「あれば幕府側の連中だ。どうやら、あちらも坂本達の居場所を突き止めていたらしい」

「幕府というと、新選組、か?」

「踏み込んだ者の話では別の連中のようだ。まあ、奴等の仕業となればこちらが疑われず、それはそれで良いな」

まるで将棋の話でもするように喋る目の前の男を、私は気味悪く見た。つい先日まで、坂本や中岡にぺこぺことご機嫌をとっていたというのに。

「この世の中、頭の良い者が生き残るのさ」

そんな視線に気づいたのか、自分のこめかみをとんとんと叩きながら矢間はにやつく。だが、こんな大胆なたくらみをこの小物が思いつけるはずがない。

同志であろうと、必要とあらば躊躇いなく始末する。分かってはいたものの、桂先生の恐ろしさを改めて見せつけられた気がした。

「私には、関係のないことだ」

だが、今まで何度となく自分に言い聞かせた言葉を胸に繰り返し、私は立ち上がった。

人斬りには学も思想もいらぬ。主人の命令を黙って聞いてさえいればそれで良い。釈然としない後味の悪さはあるものの、私が考えたからとて死人が蘇るわけでもない。

「どこかへ出掛けるのか?」

「ああ」

向けた背中にかけられた呑気な声に、振り向かずに頷いた。

この身を長州に置くのも今宵が最後。ここで故郷に別れを告げ、明日には沖田の元へ。今の私には、その未来しかいらなかった。

過去は、全て捨てる。人を殺め希望を奪ったこの罪を消せる訳ではないが、私は沖田のために生き残らねばならない。

いつかその最後を見届けたならば、この潔く命は地獄へ落とそう。

そう再び強く心に決め、いざ部屋を後にしようとした時。

咄嗟の殺気に、思わず私は刀の束に手をかけていた。体を貫く、本能を脅かす悪寒。

「まあ、そう急がずとも良いではないか」

振り向くと、ゆらりと立ち上がった矢間がにたりと頬を歪めていた。

「どういうつもりだ」

言いかけた私の言葉は、荒々しく開かれた襖の音によって遮られる。

戸という戸から姿をみせる男達。誰もがすぐ抜刀できるように束を掴み、その数は十人ほど。そんな光景を見渡し、私は一つの真実に思い至った。

はかったな」

逃げ道を閉ざすように襲撃者達は囲いの輪を狭める。奴等の獲物は、まさに私だった。

「口封じは、徹底しないと意味がないからなあ」

にじり寄った刺客の後ろに隠れ、矢間の嘲笑う声が聞こえてくる。

「貴様」

ぎりりと束を掴む手が熱い。

「何故」

だが、今まで暗殺の仕事など幾度となくこなしてきた。どうして今回のみ私を斬る気になったのか。

「主人の考えなど、犬は知らなくて良いものだ」

この心の中を見透かしたような声が響くき、同時に刀身を抜き放った男達の影が一斉に私へと襲いかかった。


 血と脂で曇った刀を杖に、私は暗闇の道を体を引きずり歩いた。ボタボタと滴る血がこの足跡を追いかけてくる。

どうして、こんなことになったのか。

切り刻まれた手足が、自分のものではないように冷たく重い。しかし、もうじき そんな感覚すらなくなるだろう。

襲いかかる男達をただ我武者羅がむしゃらに斬りつけた。何人斬ったか、斬れなかったのかさえも良く分からない。

逆にナマコのように刻まれ、全身から血が流れ落ちた。半数をなぎ倒し、慌てふためく矢間の額を目掛け刀を降り下ろすと、その場から逃げ出してきた。

矢間は仕留められただろうか? いや、そんなことは、どうでも良い。私の抹消は、桂先生の指示だったのか? それを知ったところでもう意味など無い。

「はっ」

青い静寂の中、思わず笑いが漏れてしまった。散々人を斬り、最後は呆気なく捨てられて己が始末される側になる。

皮肉にも、人斬りを止めようと思った途端にこれとは、とんだお笑いぐさだ。結局、運命さだめから逃げられるほど世の中甘くは出来ていないらしい。

色をなくしてゆく視界が、命の残り火を私に知らせていた。所詮、人を殺めた者は誰かに殺められて人生を終える。結局、私は人斬りとしてしか生きられなかったのだ。

私の人生とは、一体なんだったのだろう。

感覚のなくなった脚を引きずりながら、可笑しくて仕方がなかった。

そもそも、こんな虫けらの生涯に意味などは無かったのだ。

その辺の草や塵が生きる意義など考えぬように、そんなものを誰も気になど留めぬように。私の存在など、それと同じ程度。何かを見いだそうというほうが、烏滸おこがましい話だった。

馬鹿らしくて泣きたいのに、もう涙を流す余力すらない。ゆっくりと、しかし確実に、死の影は私に忍び寄っていた。

死ぬことは、怖くはない。死地の恐怖など麻痺するほど幾度も潜り抜けて来た。まして、何人もの人間を冥土に突き落としてきた私が、そんな人らしい感情を持つなど厚かましい。

けれど、最後の時を前にして胸に去来するのは圧倒的な虚無感。

結局 私は無為に人を殺しただけ。後世に、何も残す事は出来なかった。

そう遠退く意識で絶望に支配されそうになった脳裏に、ふと懐かしい顔が浮かび上がる。

「ああ」

それは、いつものように飄々と私に笑いかける沖田の横顔。何だか出会った日が遠い遠い昔であったような気がする。

無意識に、この唇には微かな笑みが浮かんでいた。

そうだ。地獄のような私の生涯に、たった一つ意味があったならば。

ついえようとしていた凍える四肢とは反対に、この胸には温かい火が灯る。その姿を思い浮かべるだけで、死の渕ですら私は幸福を感じることが出来た。

これからすることを、沖田は怒るだろうか?

それが良いのか悪いのかも、もう朦朧もうろうとする頭では上手く判断がつかなかった。

けれど、これは最後の我が儘。それは私が人斬りでなく、ただの女として死すためなのだから。


 最後の力を振り絞って辿り着いた新撰組の屯所にはぼんやりと明かりが点いていた。

神も仏も信じず生きてきた私だったけれど、冥府の使いだけは最後の最後で味方をしてくれたらしい。数人の隊士達に囲まれ、ちょうど屯所を出てくるひょろりとした後ろ姿。慣れ親しんだ、沖田の背中だった。

巡察にでも出るのか、いつものように刀を腰に下げ、部下とおぼしき男と何かを語りあっている。

奴と落ち合う予定は、次の夜。私がこんな場所にいるなど、思いもよらぬだろう。

その気の抜けた佇まいは、非常に都合が良かった。優れた剣士は得てして、頭で闘い方などを考えたりはしない。生来の勘と日々の鍛練だけが、その刹那に生死を分かつ。それは、奴が咄嗟に子供を斬ってしまったことからも明白だった。

それに、私はすでにその剣技を己の体で身をもって知っている。

こうしてその横顔を眺めれば、出逢った日からの情景が次々と浮かんでは消え、そんな自分に気づき苦笑してしまった。

こんな感傷に浸るなど、まるで可愛らしい女のすること。沖田と対峙するならば、本物の殺気が必要だというのに。

それは、ほんの瞬きをする間の出来事だった。

腱をそこなったのか、だらりと動かない腕に刀を持ち駆け出す。その気配だけで、沖田の体は無自覚に反応してくれた。

左足を引き、同時に右手で刀身を鞘から抜く流れるような仕草。それは、彼の生きる証。惚れ惚れとするほど、美しいと思った。

やがて、鈍い衝撃から一歩遅れて視界を血飛沫が染め上げる。

沖田の剣は、間違うことなく私の胸を縦に切り裂いていた。

 良かった、願いが叶った。

痛みに貫かれ膝から地に崩れ落ちる私を見る瞳が、段々と見開かれてゆく。

「白菊っ!」

何よりも大切にしていた愛刀を投げ出し、その腕は私を抱き止めた。

「なんて、顔をしてる」

声とともに、血が溢れ出す。ぐったりと その腕の中で顔を見上げれば、見たこともない青白い顔。

私に、こんな表情をしてくれるのか。

そう知れただけで、もう十分だった。

「何故っ」

必死に傷口を塞ごうとしている沖田に、最後の力を振り絞って笑いかける。

「死ぬならば、ただお前の手にかかって死にたかった」

それが、私の勝手な願い。そう思いついてしまったあたり、やはり最後まで人斬りの性からは逃れられなかったのだろうか?

「ふざけるなっ。先に逝くなど許さぬぞ」

どこか可笑しみすら感じていた耳に、子供のような怒り声がする。

「沖田」

「……お前は、最後まで俺と共にいるのではなかったのかっ?」

遠退く意識は、誓いの言葉すら無意味なものに変えてゆく。

私だって、そうしたかった。そんな未来を夢に見た。

「けれど、ここで終わりだ」

けれど、もう私の命の蝋燭は消えかけていた。

「白菊」

薄れゆく沖田の顔の向こうに、ぼんやりとした白い月が上っている。

どうしてか、以前に二人で眺めた狂い咲きの桜を思い出した。あの月も桜も、私達が歴史の中に消え去った後も同じように在り続けるのだろうか。いつか、その下で沖田と遠い永劫の果てにまた出会える日は廻ってくるだろうか。

「白菊」

頬に冷たい何かが当たった気がしたけれど、もうそれを確認することも出来ない。

この目は、既に光を失っていた。

ああ、そういえば。

迂闊な私は、こんな時に大切なことを思い出した。言おう言おうと思って、ずっと恥ずかしくて伝えられなかった言葉。

「沖田。……私は、お前を」

その頬に血染めの右手を当て呟いた声は、結局無為なものとなってしまった。

命の灯火が消える直前、目の前に一片の白い花びらが舞った気がした。













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