花盗人
くの
女の忍者
“女”という文字を分解したものがその語源とも
男の忍と同じように特殊な訓練を受け忍術を操ったといわれる
また、女の武器を使い情報戦や隠密活動をした
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私が生まれたのは、伊賀の里の奥深くだった。
その頃の伊賀は、幕府お抱えの忍び者の集団。東照宮家康の甲賀越え以降、その信は篤く、数々の戦や内乱に重用されてきた。
私の父は里の頭領の弟で、上忍の家系。その家の娘として生を受けた私も、女ながらに幼い頃より忍術や思想を教えられた。
けれど残念なことに、私に“忍”としての才能はなかったらしい。そんな落ちこぼれだったけれど、厳しいが尊敬する父と病弱で優しい母に囲まれ、十六までを狭い里の中で幸せに育った。
転機が訪れたのは、十六才の旧暦、春。
外の世界は、黒船だ攘夷だ討幕だと騒々しく、とうとうその波が静かな伊賀の里にも押し寄せてきた。
幕府からの使者の姿を、確か私は頭領の屋敷の天井裏から覗いていた。
どんなに世の中が
「幕府の屋台骨を支えねばならぬ」
使者が帰った後、頭領と何やら話をした父がそうぽつりと言った。母にこの国の状況を語るのを私も横で聞いていたが、そのほとんどは理解できなかった。
けれど、いま幕府が傾きかけていること。代わりの勢力がこの国の主権を握ろうとしていること。長いこと幕府に庇護されてきた御恩を今こそ伊賀は返さねばならぬこと。そんな切羽詰まった雰囲気だけは感じ取ることが出来た。
そして、それまで
「
父が母にそう話した時、少なからず私は驚いた。てっきり里に残って母の看病をしろと言われると思っていたから。
しかし後から考えれば、それは致し方のない話だった。風習を破り幕府の犬として行動する今回の決定に納得していない忍は多い。頭領の弟である父としては、落ちこぼれの娘といえど安穏と里に置いてゆくのでは示しがつかなかったのだろう。
そんな事情をまだ察せられない私は単純に喜んだ。噂に聞く京の都。伊賀からは、忍の足ならば半日とかからぬ場所にあるという。しかし頭領の了解なしでは里を出られぬ伊賀者にとって、それは桃源郷のような響きを持って胸をときめかせていたのだ。
父上について、その翌々日には私は里を発った。
「もう
見送る母が名残惜しそうに呟いた言葉が、今でも耳に残っている。
そして、私はあの人に出逢った。
京の町は、聞きしに勝る賑わいだった。里の住人を全て合わせた数より多い人々が、自由に往来を行き交っている。
「棗、行くぞ」
新しい世界全て見入っていた私は、父上にたしなめるような声をかけられ、その背中を慌てて追いかけた。
「どこへ行くのですか?」
自分の田舎くさい着物を気にしながら、その厳めしい顔を見上げる。
「まず、新撰組の屯所へ顔を出す」
新撰組。その名には聞き覚えがあった。確か、豪の者ばかりを集めた幕府直属の剣客集団。里の者達がその実力について噂しているのを私も聞いたことがある。
その頃の新撰組は、ちょうど西本願寺から不動堂村へ屯所を移す直前だった。
「局長の近藤と申します」
奥の座敷で向かい合った、いかつい男はそう名乗った。
「伊賀の羽村と申す」
その前に座った父上が頭を下げるので、慌てて私もそれに
「これが副長の土方です」
近藤さんに紹介され、その横に座っていた男にも同じようにしながら顔を盗み見た。錦絵から飛び出してきたような美丈夫にしばし見とれてしまうが、彼が私を見る目は冷ややかだった。
「これは娘の棗と申します。まだ宿が決まっておらず、連れてきてしまい申し訳ありません」
それに気づいた父が私へと視線を向ける。
「総司」
一緒になって小さく頭を下げていると、低い声で土方さんはどこかへ呼びかけた。
「はい」
すると、すぐに開いた襖から近藤さんや土方さんより大分若い男の人が姿をみせる。その様子から盗み聞きをしていたのは明らかだ。
「羽村殿のご息女だ。お相手して差しあげなさい」
けれど、そんな事は折り込み済みのように、近藤さんはその青年へと言いつけた。
「わかりました」
「あ」
彼について行かねばならぬのだと理解した私は、着なれない着物の裾を払い立ち上がった。恐らく私がいたら邪魔な話し合いなのだろう。
「行きましょうか」
そんな優しそうな声に少しほっとしつつ、私は青年の後について部屋を出た。
「棗ちゃんていうのか。珍しい名前だ。いや、僕は可愛いと思うけどね」
その人は、にこにこと良く喋った。初めて里の外に出て不安だった私は、すぐにその愛想の良い人柄に懐いていた。
「沖田さんの妹ですか?」
屯所の玄関を出て境内を歩いていると、そんな声がかけられて足を止め振り返る。
「違いますよ。お客人の娘さんです」
つられて見た先には、黒っぽい着物と袴を身につけた男が立っていた。若くも老いてもいない、背も高くも低くもなく、まさに凡庸という言葉が似合う人だった。
「だから、山崎さんも用があるなら後のほうがいいですよ」
「そうですか」
答えながら、山崎という人はなめるように私の姿を見てくる。なんだか、少し気味の悪い男だと思った。
「なんだ、総司の女か」
「小便臭い娘だな」
警戒心で口をヘの字に結んでいた私の耳に続けて賑やかな声が聞こえ、見れば二人の男がニヤニヤとしながら近づいて来た。片方は中背で顔は浅黒く、もう片方は背が高く鋭い目つきをしている。
「なっ」
そいつらに馬鹿にされたのだと気づき、咄嗟に言い返そうとするが
「沖田さんは、こんな青臭い娘を相手にする必要ないでしょう」
今度は横から山崎さんに小馬鹿にしたように笑われた。
「まあ、そうだな」
「いくらお前が女を知らないからって、こんなチンチクリンはないよな」
そして後から来た二人組も、私にも沖田さんにも容赦がない。
「うるさいっ!」
私が思わず叫ぶと、頭上の男達は驚いたような表情で顔を見合わせていた。
「威勢のいい餓鬼だな」
「皆さん、伊賀の羽村殿の娘さんですよ」
しかし、
「へえ、お前も忍なのか?」
「さしずめ、子猿ってところか」
二人組のからかいは止む気配はなかったが。
「どっちにしろ、くの一など、大したことはないだろう」
宿に落ち着いてからも、私はその言葉に鬱々としていた。
元々、伊賀者は自尊心が強い。表舞台には立たねど、自分達こそがこの国で最強の猛者であると固く信じていたから。
その誇りは当たり前のように私も持っていたため、新参者の幕府の子飼いごときが、と口惜しい。
けれど、そんな事を父上に言いつけるのも何だか気がひけ、一人きりの旅籠で私は苛つく気持ちをしばし抱え過ごすこととなった。
その
忙しい父上はほとんど宿には戻って来ず、昼はぶらぶらと町を歩くのがその頃に私の日課となっていた。
ある日、買う気もないのに古道具屋の軒先を冷やかしていたら、見知った顔が背後を横切った。
忍の訓練で、一度覚えた者の顔は忘れぬ習性がついている。間違いない。あの、私を笑った新撰組の山崎という男だ。
あの時の悔しさが込み上げてきて、ふと良からぬ考えが頭に浮かぶ。都合の良いことに、向こうは私に気がついていない。ちょっとだけ後をつけ、からかってやろうと思った。
背後から驚かしてやれば、少しは溜飲も下がるだろう。そう決めた私は慌てて踵を返すと、足早に鴨川のほうへ去って行く後ろ姿を気配を消しながら追いかけたのだ。
山崎さんが向かう先は新撰組の屯所とはまるで反対方向で、一定の距離を保ち尾行していた私は、鴨川のほとりまで辿り着いていた。
その背中は、あまり人が通らなそうな橋のたもとへと下りて行く。
すると、そこには既に他の男が立っており、どうやら待ち合わせのようだった。遮る物がなく近くまでは寄れないが、相手は背の高い武士だというのが遠目から分かる。
こそこそと隠れて、まるで密会のようじゃないか。新撰組にそのような事をする必要などあるのか?
そう首を傾げる私の視線の先で、山崎さんと男はそれぞれに背中を向け何事かを話していたが、すぐに用は済んだようで他人のように別の道へとまた別れて歩き出す。
少し悩んだ末、私はもう一人の男のほうを追いかけることにした。
その男が鴨川を越え町を横切り辿り着いたのは由緒のありそうな寺だった。とても坊主には見えぬが、慣れた足取りでその背中は山門の中へと消える。
そろりと門の前に立った私の目に
禁裏御陵衛士屯所
その看板の文字が飛び込んできた。
聞いたことのない名だが、新撰組とどういう関係があるのだろう?
だが、ここまで来たら、勢いだ。山崎さんが何かを隠しているなら、とことん探って鼻をあかしてやろう。そんな思いに駆られ、私はほくそ笑んでいた。
寺の裏に回ると、幸いなことに人気はない。周囲に視線がないことを確認すると、着物の裾が捲れ上がるのも気にせず土塀へと飛び乗った。そのまま建物の壁を駆け登り、スルリと天井裏へと入り込む。
寺といっても、造りは武家屋敷などとあまり変わらぬらしい。ほこりが舞う狭い隙間に体を擦りながら進んでゆくと、少しひらけた場へと出る。
天井裏が広いということは、下にもそれなりの拡がりがあるということ。はめられた木板の間から下を見れば、畳の敷かれた整然とした部屋の様子が見えた。
この辺りが、住人の住む棟なのだろうか。体を這わせながら私は目的の人物を探した。
そんなことを半刻も繰り返した頃、遂に私はあの背の高い男を見つけた。
部屋の隅の文机へ向かい何かをしたためる
ここからだと、その切れ長の目と高い鼻がよく観察できた。遠目からでは分からなかったが、その容姿は十分に色男といってよいもの。伊賀の里の男達は、皆が粗野で荒々しく、このように涼やかな雰囲気をまとう者などいない。
その洗練された見てくれに、私は、一目で心を奪われていた。
しばらくその居住まいを見つめて動けないでいると、ふいに眼下で男は静かに立ち上がる。そして、大小の置かれた刀掛台の前に立ち、抜き様の刀を何の躊躇いもなく、天井へ突き刺したのだった。
「ぎゃあっ!」
顔の真横から生えてきた刃に、私は尻尾を踏まれた猫のような声を上げていた。
「外したか」
下から聞こえるのは、まるで鼠でも仕留め損ねたというような声。
「なっ」
「降りてこい」
その言いぐさにカッとなった私に、天井板越しの冷淡な声がかけられる。
悩んだものの、バレてしまったからには仕方がない。動きそうな板を外した私は、音をたてぬよう部屋の畳の上へと飛び降りた。
「ほう。こんな小娘だとは、驚いた」
私を見下ろすかたちになった男は、大した感動もないように呟く。
「小娘じゃないっ、棗という名が……」
ハッとした私は、慌てて口に両手を当てる。忍び込んで、しかも自ら名を名乗る阿呆がいるだろうか。
しかし、結果的には、それは幸いしたようだった。
「どうやら、敵方の刺客ではないらしいな」
右手に持っていた長刀を刀掛に納めながら、男はため息をつく。
「え?」
「山崎に言われていたのだ。自分を尾行している間者がそっちへ行ったら、斬っておいてくれと」
呆気なく告げられた言葉に、私はぽかんと口を開けた。
「気づかれてたの?」
「あれでバレていないと思うほうがどうかしている」
そう素っ気なく言われ、鼻じらんだ私だったが
「お前が有能な奴なら、さっさと殺していたところだ」
そう聞かされた事実に、背筋が凍るような恐ろしさを感じた。
それは、冗談で言っている訳ではない。そして、この男にはそれを実践するだけの腕と冷徹さがある。私は自分の間抜けさで命が助かった幸運に感謝せねばならなかった。
「何が目的だ。無害とはいえ、ただの娘ではあるまい」
そう問われ、事ここに及べば素直に口を開くしかない。隠し事などしたら、きっと一刀のもとに斬って捨てられるだろう。そして黙秘するほどの大した理由がある訳でもなかった。
「あの山崎さんて人を、ちょっと驚かしてやろうと思って」
頬をふくらませて答えると、男の冷たい目が訝しげに細められる。
「山崎とどういう関係だ。お前は何者なんだ」
静かさ保ったまま続けられる尋問に、私は顔を背けた。
「私の名は羽村棗。山崎さんとは父について行った新撰組の屯所で顔を合わせた。悪戯でびっくりさせようと思っただけ」
ぶっきらぼうにいっきに答えたが、この男にはそれだけで十分のようだった。
「羽村とは、伊賀の名高い忍と聞くが。その娘か」
得心したように頷く姿を盗み見れば、その姿すらどこか凛々しくて惚れ惚れしてしまう。この状況でそんなことを考えてしまう自分はやっぱり幼いのだろう。
「ならば殺さなくて良かった。しかし、お前にはまずいところを見られた」
何かを考え込むように、顎に手を当てた男が俯いた時だった。
「斎藤、いるか?」
閉じられた襖の向こう側から、そんな声とともにせわしない足音が近づく。
「あ」
「良い」
慌てて隠れようとした私を、目の前の手が制した。
「鈴木殿から……」
ガラリと開いた襖の向こうから現れたのは若い男だった。
「あ」
「あ」
私と目を見合わせ、しばらくの無言。
やがて
「おいおい。こんな小便臭いガキが趣味だったのかよ」
その男は、ゲラゲラと笑い出した。何だか、こんなやり取りをつい最近もしたような気がする。
「知り合いの商人の娘だ」
“斎藤”と呼ばれた、目の前の男が答える。
「本当かあ?」
「藤堂、いい加減にしてくれ」
新しく姿を見せた男は“藤堂”というらしい。
斎藤と藤堂……。どこかで聞いた事がある名だと考えていたが
「お前、生娘を抱いたことがないって言ってただろ。丁度いいじゃないか」
そんな藤堂さんのからかうような言葉で、私はまたしてもカッとなっていた。
生娘……ようするに、男を知らない子供の女。明らかに、私を小馬鹿にした物言いだった。
「馬鹿にするなっ、私だって」
「なんだ、まさか情を交わす男の一人でもいるってのかよ?」
そう顔を覗き込まれ、思わずぐっと黙り込む。
「ほらな、まあ初物は縁起がいいっていうしな」
続けられる藤堂さんの下世話な声にも、斎藤さんのほうは眉一つ動かさない。
「送る。行くぞ」
さっと手にした刀を腰に差し、この場に背を向けてしまう。
「おい、斎藤」
「鈴木殿の話なら、後で聞きに行く」
呼び止める声を斎藤さんは遮るが
「それもあるが。最近、新撰組の動きが活発らしいから気をつけろ。裏切り者の俺達を狙ってるのかもしれん」
そう続けられた言葉に、一呼吸ののち、私の背中にはゾッするものが走った。
「なに。すぐ、そこまでだ」
表情ひとつ変えずに歩き出す背中を、慌てて私は追いかける。
「またな」
前を通り過ぎる私に、藤堂さんは屈託なく笑った。口は悪いが、きっと良い人なのだろう。だからこそ。
「俺は、新撰組からの間者だ」
屋敷を出て寺の裏門に向かって歩く斎藤さんの言葉を、私は聞きたくなかった。
「それで、山崎さんと?」
「ああ。定期的に状況を報告しあっている」
そこを私に見られたため、不味いということだったらしい。そもそも、ここはまだ敵の陣地内。そんな話を私にするなんて余程の豪胆なのか何なのか。
「新撰組が割れた際、俺は副長の命を受けてここに潜り込んだ。それが知れたら、まあ上手くないことになる」
まるで他人事のように話す斎藤さん。その時になり、この目の前の人物こそが伊賀でもその強さが話題にのぼっていた
新撰組三番隊組長 斎藤 一
その人であると、ようやく私は気がついた。
「……私を、斬りますか?」
「そんな事をしたら伊賀と全面戦争になる。自分の血統に感謝するのだな」
淡々と告げられた言葉にホッとするが、私がなんてことのない町娘だったら、この人は
「私を、どうしますか?」
その問いには、さすがの斎藤さんも首を捻った。
「良い案が浮かばぬから困っている。簡単に始末できぬとはいえ、お前が決して口を割らぬという確証もない」
面倒事を背負ってしまったというため息と、私などいつでも抹消できるという余裕。そんなものを暗に示されているようだった。
「ならば」
ふいに口をついて出た言葉に、斎藤さんの涼しげな目がこちらを見下ろす。
「私を、側に置いてみてはどうですか?」
わずかに
「お前をか?」
あの冷たい目が見開かれ
「まさか、それは女として、ということか?」
乾いた笑い声が、まだ明るい空に響き渡った。
「どうして、笑うんですか」
あからさまに目の前で笑い飛ばされるとまで思ってもなかった私は、ついその顔を睨みつけた。
「さっきの藤堂の話を聞いていなかったのか? お前では、連れて歩いたほうが逆に怪しまれる」
それは、つまり私が子供すぎるということか?
「これでも、十七になります!」
金切り声を上げると、斎藤さんの顔には憎たらしい笑みが浮かんだ。
「年の問題ではない。俺は玄人でないと抱く気にならん」
この顎に手をかけ、そんな台詞をさらりと言う。思わず赤面してかたまってしまった私に、斎藤さんは再び微笑んだ。
「しかし、猫に鈴をつけておくのには良い手だな」
「え?」
そのまま私の顔を持ち上げた口端がつり上がる。
「お前に女としての色香は感じんが、惚れたなら俺をその気にさせてみろ。万が一にも生娘にというものにも興が乗るかもしれん」
その低い声に、全身が総毛立った気がした。私の稚拙な思いなど、とうに見抜かれている。そして完全に私は余興よろしく遊ばれているのだ。
けれど。
「武士に、二言はなしですよ?」
惚れたが負け。とはよく言ったもの。斎藤さんに近づけるなら、とりあえず何でもいい。軽々と、私はその土俵の上に乗っていた。
「せいぜい、楽しませてくれ」
そんな言葉に、一抹の不安と興奮を感じながら。
「おう。懲りずに来てるな」
月真院の門前に立つ私の背後に、すでに聞き慣れた声がする。振り返ると、予想通りのにやけ顔の藤堂さんが立っていた。
「中々の執念じゃねえか」
山門から出て来て、いつものように私の頭を軽く叩く。
「馬鹿にするな」
それを振り払おうとしても、さすがにヒラリとかわされてしまった。
私がこの御陵衛士の屯所に通うようになってから、しばらくが経つ。
表向きは、斎藤さんとつきあいのある商家の娘。出入りしていた男に
しかし、正体を隠しているだけで、私が斎藤さんに惚れているのも、斎藤さんが私など相手にしていないのもまた事実。私は少しでも斎藤さんに近寄るため、斎藤さんは私を監視するため。私達は、この奇妙な芝居をそれなりに上手く演じ続けていた。
「それだけ付きまとって手も出されねえんだから、いい加減に諦めろ」
口の悪い藤堂さんは、私の姿を見つけるたびにチョッカイを出してきた。
「藤堂さんこそ、そんな性根でさぞかし女に好かれるんでしょうね」
たまに嫌味で言い返したりもするのだが
「さあな」
そんな意味深長の笑みで煙に巻かれてしまうのが常だった。
「あれで、藤堂はお前を気にいっているのだ」
後から私の話を聞く斎藤さんは、いつも口元だけで笑って言った。
「そうでしょうか」
「あの界隈では、お前は俺より藤堂のほうが似合いと言われているぞ」
そんな会話をする私達の関係は、思いのほか悪くはなかった。一緒に街を歩き、茶を飲み、たまに京の名所に足を運ぶ。恋の相手というよりは兄と妹のようではあるけれど、こうして京の中を自由に歩けるだけでも新選組と密会を重ねる斎藤さんには都合が良いらしかった。
思えば、非道い人だ。気持ちを知りながら、こうして私を悪事に利用している。先程から口に乗せる藤堂さんとて平然と裏切っているのだから、冷静に考えればこんな男に入れ込むなど正気ではない。
……けれど、その時にはどうしようもなく、私は目の前のこの人に酔いしれていた。
「ここで待っていろ」
並んで町を歩いていた斎藤さんがふいに足を止めたのは、二階造りの旅籠の前だった。恐らく、ここで新撰組監察の山崎さんあたりと落ち合うのだろう。
「はい」
素直に私は頷いた。
もし御陵衛士の仲間にこんなところを見られても、私を連れていれば何かと理由はつけられる。こんな時は、少しでも自分が役立つ嬉しさを感じる反面、どこか言い様のない虚しさにも襲われた。
斎藤さんが消えた旅籠を見上げ、私がそっとため息をついた時。
「あれ。棗ちゃん?」
私の心中とは裏腹な、底抜けに明るい声が背後からかかる。
「沖田、さん」
振り向くと、あの新選組の屯所で会って以来の笑顔を往来の中に見つけた。
「久しぶり。あっちで斎藤さんにまとわり付いてるんだって?」
そんな屈託のない笑顔にムッとしたが、どうやら私と斎藤さんの事情は知っているらしい。
「沖田さんも、斎藤さんに用ですか?」
「いいや。そこの茶屋の団子が美味いんだよ。折角だから山崎さんについて来た」
目線が向けられた先には、確かに甘味処と思われる店がある。
「そうなんですか」
答えながら、つくづく可笑しな人だと思った。新撰組の一番隊長といえば、泣く子も黙る伊賀の忍ですら一目置く剣豪。こんな甘党で
「あ、私なんかと居て大丈夫なんですか?」
ハッとした私は、慌てて沖田さんから距離をとった。
「なにが?」
「だって、私と一緒にいるところを見られたらまずいんじゃ」
私は斎藤さんが身を置く高台寺党の一派の間では、ただの商人の娘ということになっている。もし敵対する新撰組の沖田さんと親しげにしている姿など見られたら疑惑を向けられるだろう。
「ああ、平気だよ」
しかし、その当人は動じず。
「どうして?」
「ここは、新撰組の屯所に近い。奴等は臆病だから、そんな場所に近づかないよ」
吐き捨てるように言った沖田さんの笑顔に、それまで見たことのない“毒”を感じ、思わず私は口をつぐむ。他の人なら、気づかないような“変化”。隠された闇を覗いてしまったような気がして、背中に冷たいものが流れた。
「隠れてっ」
けれど、そう言ったそばから私は沖田さんに突き飛ばされていた。
「え?」
とっさに建物の影に入りながら、その顔を見上げる。
「あれは、また別だから」
同じように身を潜める沖田さん。
その視線の先を辿れば、表通りを一人の武士が横切って行く。中年の、どちらかといえばナヨナヨした風情の男。
「新撰組五番隊長の、武田だ」
軽蔑するような声音。沖田さんがその人を嫌いなことは一目瞭然だった。
「けど、新撰組の隊長なら、仲間なんじゃないですか?」
当然な疑問を口にする私に、沖田さんは首を振る。
「裏で伊東に近づいて、新撰組を裏切ろうとしている」
「ああ」
少し考えてから、私は納得した。その武田さんにしてみれば、新撰組に内緒で高台寺党に近づいたつもりなのかもしれない。けれど、高台寺党には斎藤さんが潜り込んでいる。その行動は全て筒抜けという訳だ。
「寄りによって斎藤を通じて擦り寄ろうとしている。馬鹿な奴だ」
当たり前だが沖田さんの言葉は
斎藤さんにしてもそうだ。新撰組を裏切るふりをして、高台寺党を裏切り、結局は新撰組の仲間をも欺いている。その心はどこにあるのか、本当は何を考えているのか、私には計り知れない得体の知れない人物に感じられることがある。
共に行動し、親しくなり、少しは斎藤さんに近づけたと思った。けれど、知れば知るほど離れ、その正体がつかめずに恐怖さえ感じる。そんな闇を抱えた人に、人よりも単純な私はきっとただの阿呆に見えていることだろう。
気づいてしまった大きな大きな隔たりに、私は黙り込むことしか出来なかった。
宿に戻っても、やはり父上は帰っていなかった。任務にあたっているのは分かるが、もう何日も姿を見ていない。京に着いてからは、顔を合わせた回数のほうが少ないだろう。だから、こうして私は好き勝手に遊び回っていられる。ひいては斎藤さんの側にいられるわけだから、有り難く思うべきなのかもしれない。
けれど、夜になって一人暗い借宿に戻ると、どうしても言い得ぬ寂しさと不安を感じてしまう時があった。
「はあ」
今日もそんなことにため息をつきながら、旅籠の部屋の行灯に火を入れようとした時だった。ザワリとした鳥肌を背中に感じ、私は
暗闇の中に“何か”がいる。その気配に、胸元の小刀へ思わず手を伸ばしたが。
「さすがに、お前でも気がついたか」
そんな聞き覚えのある声に警戒を解いた。
「鷹丸」
複雑な胸中で呟く私の前に、巌のような大男が現れる。背が高く、筋骨隆々、浅黒く彫りの深い顔。見間違うはずがない。
「久しぶりだな」
表情を崩さずに笑う忍特有の顔つき。彼は伊賀の里での私の幼馴染みだった。
「どうして」
「頭領から、伯父貴に伝言を預かってきた」
戸惑う私に構わず、勝手に行灯に火を入れる。勢いよく燃えた火種に、その逞しい腕が照らし出されていた。
「そう」
伯父貴というのは父上のこと。鷹丸は、私よりも六つほど年上で、父上の弟の奥方の兄の息子。要は遠い親戚なのだが、血を重んじる伊賀の中では重要な相手となる。
「父上は、ここには帰って来るか分からない」
そっと距離を取りながら、私は言った。
「では、お前が男にほだされて色気づいてるのも知らないわけか」
鼻で笑われた言葉にはっと顔を上げた。
「なに。京へ出て来て往来をブラブラとしていたら、お前が男と歩いているのをたまたま見かけてな」
睨みつけるとそう説明をされたが、そんな訳はない。きっと私をつけ回していたのだろう。
「しかし、あんななよなよしい男に熱を上げるとは。伊賀のくの一ともあろう女が情けない」
鷹丸の口調は、私をからかっているのか、はたまた本気で嘆いているのか、どちらとも読めなかった。
「あの方は新撰組の隊長だ、お前などより腕はたつぞ」
鼻で笑ってみせながら吐いた言葉に、鷹丸はピクリと反応した。
「新撰組?」
勿論、その名を知らぬはずがない。
「三番隊組長の斎藤一。名くらい聞いた事くらいはあるだろ? 向こうは、あんたなんて知らないだろうけどね」
逆に言ってやると、みるみる鷹丸の表情はひきつってゆく。
「へえ。そんな男と、お前が恋仲だっていうのかよ?」
怒りを押さえた口元から、私は目線を逸らした。
「さあ、どうかしら」
そう肩をすくめたのと、この体が畳の上に押さえ込まれたのは同時だった。
「あまり調子にのった物言いをするなよっ」
天井を背にした鷹丸の顔が赤黒く染まっている。その丸太のように太い腕はいとも簡単に私の首を締め上げていた。
こんな時なのに、この腕に不思議な嫌悪と執着を同時に感じている。
「落ちこぼれ風情が! それとも、例の特技でも使ったか?」
ニヤリと歪んだ頬が私を嘲笑う。
「……このっ」
息苦しさに耐えながら、その顔を睨み返した頃。
「お客はん、どうしやはった?」
階下から、この宿の主人の声が聞こえてきた。騒ぎに心配になったのだろう。さすがの鷹丸も、仕方なさそうに手の力を緩めた。
「……な、んでもないです」
むせながらそう吐き出した頃、彼の体はすでに窓枠の上に乗っていた。
「覚えておけ。お前に出来るのは、せいぜい……」
強い風が吹き、鷹丸のその言葉は姿とともに夜闇に消え去った。
その跡を見つめたまま、私はずっと畳の上にへたりこんでいた。
「どうした。ぼうっとして」
かけられた声に、私ははっと顔を上げた。見れば、斎藤さんの切れ長の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「あ、いいえ」
橋の上から並んで鴨川を眺めていたのに、つい呆けてしまっていた。
「目も赤いな、熱でもあるのか?」
そう言いながら額に手を当てられるから、私の顔は茹で蛸のようになってしまう。
けれど、そんな仕草が簡単に出来てしまうのは、私を異性として見ていないから。父が娘に、兄が妹に接するような類いのものだと、ちゃんと私は分かっていた。
ささくれた気持ちや、鷹丸の言葉。何だか色々なことに耐えきれなくなっていた私は、つい
「やはり、私を“女”としては、見てくれぬのですか?」
そんな恨み言を、斎藤さんにぶつけていた。
心の読めぬ目で私を見返した後、その目線はまた川の流れへと戻される。
気詰まりな静寂が私達の間に横たわり、やはり聞かねば良かったと、強く後悔をした時だった。
「抱こうと思えば抱ける。けれど、それは正しくはないだろう」
ぽつりと呟く言葉は、目下の水面に落とされたもののような気がした。
「え?」
意味が解せぬでいる私に
「俺とて心はある」
そんな事を言う。
ますます私は、首を傾げる。
「共にいれば情もわく。そんな女を、無下に抱いて捨てるような真似はしたくない」
当たり前のように続けられた言葉に、私は胸を射抜かれたような気がした。
「それは。私を嫌いではないと、そう思っても良いのですか?」
つめ寄って尋ねると、薄い唇からため息が漏れる。
「お前が俺に本気でなければ割り切る事もできよう。それに、お前は玄人でもない、男も知らぬ生娘だ」
とっさに俯いてしまった私を、斎藤さんは静かに見下ろしていた。
「見ての通り、俺は明日をも知れぬ身。新撰組や幕府とて、どうなるかも分からぬ」
「それは、どういう?」
その言葉の真意は、まだ幼い私には汲み取ることが出来なかった。
「俺が一生お前の面倒をみれるなら責任も取れる。けれど、それは難しい」
「私は、そんな事は望みません!」
元より、斎藤さんに迷惑をかけるつもりなどは一切無い。ただ一緒にいたい。振り向いて欲しい。出来れば、女として愛して欲しい。ただ、それだけ。それだけでは、何かいけないのだろうか?
少しの間、斎藤さんは感情のない目で私を見ていたが
「恋など一時の気の迷い。他の男が現れたら、俺のことなどすぐに忘れる」
やがて自虐とも思える微笑で、そんな言葉を言った。
「忘れなど、いたしません!」
その言葉に、思わず私は泣き出してしまいたくなる。斎藤さんから見れば、私の恋心などママゴトのようかもしれない。けれど、誰かが、当の斎藤さんさえいも つまらないものと切り捨てても、この気持ちは私にとって命懸けだった。
「……私は、貴方と共に生きたいのです」
必死の思いで呟いた言葉を、目の前の人は聞こえない振りをした。
そんな関係から、進むことも戻ることもせず、日々は流れた。
あそこまで言われたにも関わらず、私は斎藤さんの元を離れらずにいる。斎藤さんも、あえて私を遠ざけたりはしない。
「よお、今日も相変わらず小せえな」
月真院の門前に立つ私の耳に、もう何度目か分からぬ藤堂さんの
「うるさい」
「斎藤なら、もうすぐ出てくるぞ」
彼から見れば、私達の間柄はずっと変わっていないように見えるだろう。私は、こんなに苦しい胸のうちを抱えたままだというのに。
なんだか虚しくて唇を噛みしめた時、白茶けた着物姿の斎藤さんが姿を見せた。悔しいが、着るものの色が少し変わっただけで私はやはりその姿に見とれてしまう。
白い麻の色が、主の涼やかな目元とよく似合っていると思った。もう、初夏が過ぎて夏がやってくる。
「今日はどこへ物見遊山だ?」
藤堂さんの声に斎藤さんはちょっと首を傾げた。
「そうだな、川にでも涼をとりへ行くか」
特に考えもなく言われた行き先に、私は不満はない。こうして一緒にいられれば、どこでも構わなかった。
「今日も、山崎さんあたりとお会いになるのですか?」
藤堂さんの姿が見えなくなった頃、何気なしに尋ねると何故か斎藤さんの顔色は浮かなかった。
「しばらくは行動を控えることになった」
渋い表情で呟かれ、何か良くないことが起きたのかと不安になる。
「何者か知らんが、俺の周りを嗅ぎまわっている奴がいる。念の為だ」
憮然と告げられた声に、私はその顔を見返した。
「敵方、ということですか?」
自ら聞いてみた言葉だが、それはそれで釈然としない。斎藤さんは新撰組からの間者。高台寺党にとっては公然とした仲間だし、内密とはいえ新撰組の上部とは通じている。つまり、彼を狙うような者はこれといって思い当たらない。
「さあな」
鴨川の方角へと足を向けながら、その口は重い。
ただでさえ不安定な身分。たった一つの傷が命取りになる。念には念を重ねるに過ぎるはないが、改めて斎藤さんを取り巻く立場の険しさを思い知らされた気がした。
「すまんが、一寸先に行っててくれんか?」
言いようのない不安に気分の沈んでいる私に、斎藤さんは言った。
「え?」
「少し用事がある」
「わかりました」
珍しく歯切れの悪い様子に首を傾げたが、私は聞き分けよくその傍を離れた。
本当なら「どうしたのですか?」と尋ねたい。けれど、子供の私などが立ち入った事情を聞くのは僭越というものなのだろう。それくらいの分別はあるつもりだった。
独りで辿り着いた鴨川は、今日は水嵩が増していた。逆巻く水の流れは己の心のうちを表しているようで、いつの間にか私は光景に見入ってしまっていた。
はっとしたのは陽が傾いた頃。ぼうっとしていたら随分時間が経ってしまっている。斎藤さんと はぐれてしまっただろうか? 慌てて元来た道を戻ろうとした時。
「君が、斎藤にひっついている女か」
夕闇に紛れるような気味の悪い声。
「え?」
振り向いて見た影には見覚えがあった。
「なに、私は斎藤君の知人でね。怪しい者じゃないよ」
無表情から一転、ぎこちのない笑顔。向こうはこちらが自分を知らないと思っているだろうが、以前に私は沖田さんと一緒にその顔を見ている。
武田 観柳斎
新撰組を抜け、伊東甲子太郎に擦り寄ろうとしていた男だ。
「なにか?」
その張り付いた笑みに、知らずに足が後ずさった。何だか嫌な気を感じる。
「別に用なんてないさ、可愛い娘だと思ってね」
嘘だ。笑っていない目の奥に、とっさにそう身構えた時。
武田は、すでに刀の鯉口をきっていた。
かすめた刃が、私の髪を薄く散らす。あと半歩反応が遅ければ、間違いなく斬られていた。
「ちっ。誤ったか」
口惜しそうに呟かれた声を聞き、やっと私の体からは汗が吹き出してきた。
この男は、私を殺す気だ。
「どうしてっ」
しかし私達の間に面識はない。狙われる理由がまるで思いつかなかった。
「どうして?」
膝の震える私を、愉しそうな目が見返す。
「それは、斎藤を恨むんだな」
「斎藤、さん?」
その言葉にはっとする。
こいつは斎藤さんを通して高台寺党へと擦り寄っていたという。その中で何か確執でもあったのだろうか?
「たかが浪人風情が、俺を無下にしやがって」
赤い夕陽の中で忌々しそうな唇が呟く。
「お前を切り刻んで、あいつもすぐにあの世送りだ」
表情さえ変えぬまま笑う姿は、まさに不気味としか言いようがなかった。
もう一度向き直られる体から、私はジリっと距離を取る。
「これでも新撰組の隊長だったんだ。逃げられると思うなよ」
確かに本気でやり合えば落ちこぼれくの一の私程度では勝ち目はないだろう。けれど、向こうは私をただのか弱い娘だと思っている。少ない勝機は、恐らくそこにある。
「お前の亡骸を見た斎藤の顔が楽しみだ」
にじり寄る武田から距離を取りながら、さりげなく懐に腕を入れた。
「ぐあっ!?」
次の刹那、投げつけた懐の四方手裏剣が武田の右手に命中し、大量の血が赤く噴き出す。
やった!
心の中で叫んだその油断が命取りだった。
「この、小娘がっ!」
武田は自由になる左手で腰の脇差しを引き抜く。そのあっという間の出来事を、私はただ眺めてしまった。
気がついた時には、刃がこの顔の前まで迫まっている。
死ぬ
そう実感し思わず目を瞑った私の耳に、鈍い音が鼓膜を震わせて消えた。
弾かれたように顔を上げると、視界をふさぐ背の高い背中。
「斎藤、さん」
茫然と呟く私の前で刀を鞘で受け止めた横顔は、憎らし気に武田を睨みつけていた。
「俺の周りを嗅ぎ回っていたのは貴様か」
一度距離を取り刀を腰に差し直しながら、冷やかに言い捨てる。
「お前のせいで、俺の計画は滅茶苦茶だっ」
そんな状況に、それまで取り繕っていた武田は錯乱したように喚き始めた。
「伊東と渡りをつければ、全てが上手くゆくはずだった! それを、お前がっ」
それが真実なのか言い掛かりなのか、そんなことは私には分からない。けれど一つの事実は、斎藤さんが悠然とした動作で刀の束に手をかけたこと。
「逃げろ」
背中を向けたまま告げられた声には何の感情も感じられなかった。それは私の身を案じてではなく、足手まといを追いやるため。忍の部族の中で生まれ育った私にはそれが理解できてしまう。
「……はい」
斎藤さんの実力なら、簡単に相手を殺すだろう。私に出来るのは、素早くこの場から立ち去ることのみ。そう冷静に判断して、強く地面を蹴った。
それと同時に、間合いをつめていた武田が斎藤さんに斬りかかる。
早く、この場から脱出しなければ。頭では、そう解っていた。私がいることによって、斎藤さんは不利になる。私とてまだ先程の恐怖で身が震えているのだ。
けれど。
はた、と私は足を止めた。
自分が邪魔者なことも、それが合理的でないこともよく分かっている。なのに、何故か私はその場から動けなかった。
斎藤さんを死地に残して、安全な場所に逃げる。頭とは裏腹に、どうしてもそんな行動が出来ない。
振り返ると、斎藤さんと武田は未だ河原の真ん中で鍔迫りで睨みあっている。実力は遥か下だろうに、捨て身の武田の目には鬼気迫るものがあった。
「…………」
これでも、誇り高き伊賀のくの一。私の懐には、まだ数本の武器が眠っている。
斎藤さん達は、間合いがないため二人とも迂闊に動くことが出来ず、機を伺いそれぞれが流れを引き寄せる瞬間を待っている。
どうしよう。斎藤さんの役に立ちたい。けれど余計なことをして取り返しがつかなくなってしまったら……。
そんな相反する葛藤に拳を握りしめ、おろおろと思い悩んでいる私の髪を急に吹いた強い風が乱した。
思わず目を閉じた、この脳裏に
『お前に出来るのは、せいぜい……』
そんな鷹丸が嘲笑った声がよみがえった。
ほの暗い情熱に支配された私は、ゆっくりと顔を上げた。クナイを握りしめた心に、もう迷いはない。
私が走り出したのと武田が振り向いたのは、ほぼ同時。けれど、目の前の斎藤さんを簡単に振り切ることは出来ない。腐っても忍の私の足の早さは予想外だっただろう。
「棗っ」
むしろ、素早く反応し叫んだのは斎藤さんのほうだった。いつもなら呼ばれただけで嬉しい声にも答えず、最後の一足で地面を蹴る。
口をあんぐり開けたままの武田の背中に、私はこの手の刃を突き刺した。
肉を
血が流れ出す亡骸を夢の中のように眺める私の前に、静かに斎藤さんの影が立つ。
「なぜ戻ってきた」
その怒りのこもった低い声に、私は顔を上げられない。決して声を荒らげない人の、静かな激昂だった。
「すみま、せん」
震える声で答えても、その態度が和らぐことはない。
「どうして逃げなかったのかと聞いている」
少し強くなじられただけで、この目には涙が溢れ出していた。
「すみません」
それを拭いながら答えると、今度は少し困ったようなため息が聞こえてくる。
「別にお前を責めている訳ではない」
人の命を奪ったばかりだというのに、そんな言葉に私は安堵してしまう。
「斎藤さんが、危険だと思ったら。どうしても、何かしたくて」
「それが、自分の命を賭けてでもすることか?」
呆れたように訊ねられた言葉に、それまでビクビクと下を向いていた私は力強く頷いた。
「貴方のためなら、命など惜しくありません」
そう言い切った気持ちには、なんの強がりも偽りもなかった。
しばらく、真っ赤に染まった空を見つめながら、斎藤さんは黙っていた。私もそれ以上何も言うことも出来ず、ただうつ向いて次の言葉を待つ。
「参ったな」
やがて呟かれたのは、思いもよらない言葉。
どういう意味か、恐る恐る顔を上げると、その冷たさを感じる瞳が私を見下ろしていた。
「え、あの」
真意を計りかねて中途半端に口を開きかけたが、近づいてくる人の話し声に、咄嗟にそれを止めた。
近隣の住人だろうか。複数の足音と話し声に、斎藤さんも眉をひそめる。
この足元には
「行くぞ」
同じことを考えたのであろう、斎藤さんが素早く歩き出した。
「あ、はい」
向けられたその背中を私も慌てて追う。一度だけ、動かなくなった塊に目をやり、小走りにその場を立ち去った。
ただ斎藤さんの背中を追いかけていた私が足を踏み入れたのは、何とも意外な場所だった。
「茶屋?」
煌めきはじめた星空を背にする二階造りの建物。ひっそりと山の辺に建つそれが、どんな目的の為にあるのか、さすがの私でも知っていた。
「え、あの」
「どうぞ、お上がりください」
戸惑う声を遮るように、中から出てきた老婆が私達を中へと招き入れる。黙って入口をくぐる斎藤さんの後ろ姿をしばし見つめた後、意を決して私もその後を追いかけた。
茶屋。といっても、料亭や宴席を行う類いの処ではない。男と女が二人で入る、密会を目的とした店。要はそういう行為を前提としている訳だ。
おかしな緊張とは裏腹に、私の頭はやけに冷めていた。こんな場所に入ったとて、深い意味はない。本当に、ただ茶を飲むような休息のつもりなのかもしれない。今までの私と斎藤さんの関係を思えば、そう考えたとて仕方ないだろう。
やがて通されたのは、二階の中央あたりの部屋。開け放たれた窓から、鴨川のせせらぎがよく聞こえた。
老婆が去ると、腰のものを外した斎藤さんはおもむろに畳の上に胡坐をかく。自分だけ突っ立っていても仕方ないので、私もそろそろと向かい側に腰を下ろし正座をした。隣の間の、一組だけ敷かれた大きな布団がやけに目に入った。
無言で向かい合ったまま、どれくらい時間が経っただろう。胸元に手を入れた斎藤さんは、月の光を受けて輝くものを畳の上へと置いた。
「これ、は?」
視線を落とすと、ちょうど私達の真ん中にあったのは、
「お前にだ」
随分大人びた拵えだな、とそれを眺めていた私の耳に、そんな信じられぬ声が届いた。
「え?」
予想だにしなかった展開に顔を上げるが、斎藤さんの表情は素気なく
「頼んでいたのが出来上がった」
そう告げるだけ。
「私、に?」
つまり贈り物ということ。斎藤さんとこの櫛の存在が結びつかない私は、呆けたまま目の前の櫛を凝視してしまった。
そういえば、用があると言っていたのは、これを受けとる為だったのだろうか。しかし、何故?
「お前に“共に生きたい”と言われてから、俺なりにしばらく考えた」
ぽつりと落とされた話が、この間の件であるのだと私も気がつく。
「あの時に言ったように、お前を引き受けるには
「……はい」
淡々と続く言葉につい俯いた。勢いで言ってしまったが、それが斎藤さんにとって負担であったろうと、後から私も後悔したからだ。
「だが、ああ言われて俺自身も気がついた。もしお前が本当に他の男の元に去ってしまったら」
畳の上を、ずいっと斎藤さんの膝が私へと近づく。
「えっ」
「今日の武田の件で、確信した。お前を失ったならば、恐らく俺は後悔する」
そう告げられた時には、私の体はその腕の中に包まれていた。
「えっ、えぇっ!?」
突然反転した視界に戸惑っているうちにも、重みをかけるようにのし掛かってくるずしりとした体重。何が起こったか分からぬうちに、私は畳の上に組み敷かれていた。
「あ、あのっ!」
慌てて身をよじっても、その力が緩まることはない。
「どうした。嫌か?」
「い、いえ! そうじゃないんですがっ」
斎藤さんが、私を受け入れると言ってくれた。それはもう天にも上るように嬉しい。けれど、これじゃ余韻も情緒もあったものじゃない!
「その、まだ心の準備が……っ」
「お前が生娘なことは知っている」
そう言いながら、その手はもう私の着物の帯に伸びる。
すぐ隣にはきちんと布団も敷いてあるというのに。こんなせっかちな斎藤さんの一面を、私は初めて知った。
「でもっ」
「俺にすべて任せておけばいい」
耳元で囁かれた声に、全身が焼けるように
本当は、このまま黙ってこの身を委ねてしまいたい。頭の中で、狡い私がそう囁いている。
けれど。私には、それが出来ぬ訳があった。
「斎藤さん」
おどおどしていた私の急な低い声に、それまで性急であった手の動きが止まった。
「どうした。やはり、相手が俺では都合が悪いか?」
ゆったりと体を離し、畳の上に再び
「いえっ、そうじゃありません」
乱れた着物のまま、向かいに座った私は慌てて首を振る。
「では、何故」
「私は、貴方が思っているような娘では、ないのです」
俯き呟いた声に、斎藤さんは目を丸くしていた。
「お前はお前だろう。色気もない子供だが、俺にはそんなところが良い」
気を遣って微笑んでくれる声が、逆に私には心苦しい。
「嫌なら嫌とはっきり言え、別に無理やり犯す気はない」
沈黙を拒否ととったのか、ため息をつきながらその体は立ち上がる。
「あの」
「俺も余裕がなった。すまなかったな」
「……ま、待ってくださいっ」
背中を向けてしまうその袴の裾を、とっさに私は掴んでいた。
「棗」
体勢を崩しながら、驚いた目がこちらを見下ろす。
「待って、ください」
ここでは行かれたら永遠に見捨てられてしまうのでは、と焦る私の声は上ずっていた。
「どうした。泣くことはあるまい」
そう困ったように目を細める顔を見上げ、私は小さく息を吐く。もう、これ以上は黙っていることも隠すことも、私には出来なかった。
「……不出来とはいえ、私はくの一です」
袴を握り下を向いたまま語り出すと、上方から
「女とはいえ、男と同じように忍の修行を積みました」
「ああ、聞いたことはある」
構わず喋り続ける私に頷いてくれる静かな声。
恐らく、斎藤さんが知っているのはここまで。私のことも、女で子供なただの忍のでき損ないだと思っている。
「けれど、力の弱い女が男と対等に戦えるとは最初から期待されていません」
その顔は見えないけれど、きっと斎藤さんは首を傾げているのだろう。
「くの一が主にその力を発揮するのは……。その……女の、武器を使っての戦いで、です」
喉に絡まる言葉を絞りだし、私はゆっくりと顔を上げた。意味が分からぬでいた斎藤さんの瞳が、少し遅れて戸惑いに揺れる。
「……もちろん、私も」
そう、くの一がすべき第一の任務は、敵方の男を
ただ、
勿論それは一夕一朝、まして生娘などには務まらぬ。私も初潮を迎えると同時に、その実技をこの体に叩き込まれた。実習の相手役は、大抵は年の近い男者が行う。鷹丸はその実践役、私にとって初めての男だった。
「……だから、私は斎藤さんが思っているような、清い娘ではないのです」
皮肉なことに、忍術の能力がなかった私は色術にだけは生来の天分があったらしい。父上の手前、大っぴらではないが噂は噂を呼ぶ。修行の名目で里の男達は私を物陰や納屋によく連れ込んだ。ただ褒められるのが嬉しくて、私もそれに応える。男の体を知った数だけ、私の“技”はますます磨かれた。
「だから、生娘など、私には遠い昔のこと」
恥じらいも、痛みも、戸惑いも。演じようとしても、もう思い出すことすら出来ない。黙って斎藤さんに抱かれるには、それは私にとって大きすぎる嘘だったのだ。
「黙っていて、申し訳ありません」
色気も美しさもない私が相手にしてもらえるとしたら、それは
現に、あれだけ何度も
この後、どんな言葉が待っているのか……。知ってしまう事が怖くて、膝の上で両手を握り再び俯いてしまった私の耳に
「これは、一本取られたな」
聞いたこともないような、くぐもった笑い声が聞こえてきた。
「……えっ」
弾かれたように顔を上げるが、それは幻聴ではない。少し顔を背け、
「あの」
「子供だ生娘だと馬鹿にしていたら。俺も、まだまだ女のことが分からぬ青二才だったらしい」
立った姿勢のまま、膝立ちの私を見下ろす。その表情には、軽蔑も嫌悪も有りはしなかった。
「だが、そんな女も面白いかもしれぬ」
告げられた言葉の意味を、私はない頭で考える。けれどそれは何度繰り返しても、自分に都合の良い答えしか導き出せない。
「そ、その。それは、私を」
受け入れてくれるということか? 混乱した頭では、それすら冷静に判断できなかった。
「だがな、俺は女も男も一通りはこなした身だ。生半可な手管では満足できんぞ」
にやりと口端を上げるその顔に、やはり私はただ見惚れてしまった。
「……それでは、どうぞお試しください」
唾を飲み込んだ私は、跪いたまま斎藤さんの袴の帯に手をかける。
「楽しみだ」
そんな声を聞きながら、握った結び目をスルリとほどいた。同時に私の髪を乱すように、大きな右手が伸びてくる。
そのまま体を畳に押しつけられる重みに、もう私は逆らわなかった。共に床の上に倒れ込み、互いの着物を脱がせあう。
つがいの蝶のように、上へ下へと何度も何度も互いの体を絡ませあった。
そんな私達の姿を、ただ窓からの青い月だけが静かに見下ろしていた。
「どうして、笑うのですか」
布団の中から見上げた空は、すでに白み始めていた。一糸まとわぬまま、隣にうつ伏せる斎藤さんの横顔は笑いを噛み殺している。
「すっかり、お前にしてやられた」
着物の上から見たのよりずっと逞しい腕が、私の頭を撫でる。口ではそんな事を言いながら、情事が終わった後はいつもの子供扱いだ。
「……その。どう、でしたか?」
だからか、女からこんな事を聞くのははしたないと分かっていても、訊ねずにはいられなかった。
「床上手といわれる女郎も、お前の前では形なしだ」
その言葉は、きっと褒め言葉と受け取って良いのだろう。斎藤さんの役に立てたのならば、それは私にとってそれ以上の喜びはない。恋を知らず体だけ先に異性を覚えた私は、初めて心と体が同時に満たされる悦びを知った。
「だが、誰でも良いというわけではない」
傍らに置いた鼈甲の櫛を眺めていると、隣からの力強い腕に引き寄せられる。
「やはり、お前だから良い」
その胸の中に抱かれ、戸惑いと安堵に目の前の顔を見上げる。
「いつまでも、俺の側にいろ」
そんな声を聞きながら、ゆっくりと目を瞑った。
それは、小さな私には幸せすぎて。こんな日々がこれから永遠に続くのだと、そう信じて疑うことすら知らずにいた。
それから、あっという間に夏は過ぎ、秋がやってきた。
斎藤さんと過ごす毎日は、全てがまるで夢のようで。私は、今でもその輝く日々を、昨日のことのように思い出せる。
ただ一つ、悩みがあるとすれば、それは父にどうその存在を打ち明けるかだった。
生まれながらの忍である父上は、当然のように私が同じ伊賀者の元へ嫁ぐと思っている。きっと鷹丸あたりを相手に考えていたに違いない。忍の時代が終わる時は、もうすぐそこまで来ていたというのに。
珍しく父と共に町へ出る機会があり、この場で私は斎藤さんとのつきあいを告白しようと思った。
隣に並び歩くと、気持ちは焦るのにいざとなると言葉が出てこない。
つい緊張で立ち止まっても、父は私のことなど置いてどんどんと先に行ってしまった。
「父上っ」
思わず叫んだ私を振り返る、いつもの
「棗、置いて行くぞ」
それを見るとやはり何も言えなくなってしまい、うつ向いた私は黙って河原の上を走るしか出来なかった。
結局、私と斎藤さんとの関係は両親にも誰にも話すこともなく、その終わりを迎えることとなった。
「よう、久しぶりじゃねえか」
月真院の前に立っていた私は、背後からの声に振り返る。
「こんにちは」
見れば、確かにしばらく見かけていなかった藤堂さんの姿があった。
「いやあ、お前が斎藤を落とすなんて意外だったな」
「はっ?」
唐突に言われた言葉に、思わず飛び上がりそうになってしまう。
「隠すなよ。そういうのは何となく分かるんもんだ」
にやにやと覗き込まれる視線から、私は顔を背けた。
「な、何の話かわかりません」
「で、初夜はどうだったんだ?」
「はあっ?」
そんな明け透けな問いに藤堂さんの顔を睨みつけた時、ちょうど斎藤さんが門から現れる。
「とにかく、そういうんじゃないんで!」
それだけ口早に言い捨て、私は藤堂さんの元を離れた。
「あいつも、決まった相手が出来たから浮かれているのだ」
道々、さっきの経緯を話すと斎藤さんは愉快そうに笑って言う。
「え、そうなんですか?」
藤堂さんと色恋が結びつかない私に、それは驚きの事実だった。
「俺も詳しくは知らんが、気味が悪いほどに機嫌が良い」
「へえ」
あの悪餓鬼みたいな藤堂さんに惚れられるなんて、一体どんな女性なのだろう。
そんな事を考えていた私は、斎藤さんの足が見慣れぬ方角に向かっていることに気がついた。
「お前に見せたいものがある」
そんな疑問を先回りしたように、目の前の顔はにやりと笑った。
しばらくその後について歩き、着いたのは珍しくもない古い茶屋。いつもの場所とは別だが、ここも男女の逢瀬を目的とした所に違いはない。見ると鴨川の上流、どうやら都の外れらしい。
そんな疑問すら聞く間もなく、斎藤さんの背中は木戸の入口を入っていった。
結局、頼んだ食事もそこそこに、私達はいつものように畳の上で抱き合った。
着物を脱いでしまえば、もう言葉はいらない。すでに何度目か分からぬ京の夜が、また更けてゆくのだった。
「帰るか」
だから、そんな斎藤さんの声に私は首を傾げた。時刻は月が空の真ん中に架かった頃。普段ならば、まだ布団の中でまどろんでいる時間だ。
「はい」
けれど、そう言われれば駄々もこねられない。
「何か、用事でもあるのですか?」
斎藤さんから貰った大切な鼈甲の簪を髪に差しながら聞くが、当の本人は微かに笑うだけだ。
表へ出ると、風が凍えるように冷たかった。あと少しもしたら、雪も降るかもしれない。
「行くぞ」
澄んだ星空を見上げていた私を置いて、斎藤さんはさっと背中を向ける。
「は、はい」
いつものように素っ気ない声を、私は慌てて追いかけた。
茶屋を後にした足は、迷いなく河原の裏へと進んでいる。無言のままの様子に、どこに行くのかと再び疑問に思っていた頃。
「……わ、あっ」
刹那、白い光が私の視界を奪った。吹いた夜風が、大量の花びらを運んでくる。
そう、花びら。斎藤さんの体の向こうには、満開の枝垂れ桜が咲いていた。
「桜」
けれど、今は真冬。
「狂い咲きだ」
ぽかんと口を開けその光景を眺めていた私を、斎藤さんは見下ろす。
狂い咲き……咲く季節を間違えてしまった花。けれど、その姿はまるで夢のように美しかった。
「これを、お前に見せたくてな」
少しはにかんだような斎藤さんの声。月の光に照らされ、白く浮かび上がるように咲き誇る桜。
愛しい人と並んで見たこの景色を、私はきっと一生忘れないと思った。
そんな幻想的な眺めにしばらく目を奪われていると、前方から近づく影にふと気がついた。
この垂れ桜を中心に、三股に分かれた道の一つに私と斎藤さんは立っている。残り二つから、それぞれ寄り添った二人組の姿がぼんやりと見えたのだ。
あの人達も、茶屋での密会の帰りなのだろうか?
「あ」
そんなことを漠然と考えていた私は、彼等に見覚えがある。
私と斎藤さんの位置から右手側。相変わらずの気の抜けた表情、先にこちらが分かったのか驚きつつも笑いを噛み殺しているのは、あの沖田さんだった。
その後ろには、白っぽい着物を着た女性。俯いていた顔が月明かりに照らされて、思わず私は息を飲んだ。黒目がちのきりりとした目に、抜けるように白い肌。桜の精かと見まごうほどに、その姿は凛々しく美しい。
あの飄々とした沖田さんとは不釣り合いな気もしたが、こんな場所で会うということは。まあ、そういう事なのだろう。
驚く間もなく、左手側からも二つの人影が現れる。それは、ついさっきまで子供のようなやりとりをしていた相手。向こうも私達に気づいたのか、無言で頬をかく藤堂さんがそこにいた。
その傍らには、控えめで大人しそうな女の人が寄り添っている。これが、斎藤さんの言っていた“決まった相手”なのだろうか?
とにかく、さっきの今なだけに余計に気まずい。なんとなく、慌てて目を逸らし顔を背けた。
沖田さん、藤堂さん、斎藤さん。そして、その女達。互いが互いに気がついているはず。けれど。私達は何の言葉も交わさず、無言で桜の舞う道を行き違った。
垂れ桜が遠くに見えるようになった頃、やっと私は大きく息をついた。
「なんだ、大袈裟に」
なのに斎藤さんは、いつもの落ち着き払った態度。
「だって驚きました! 藤堂さんと沖田さんがいること、知ってたんですか?」
「まさか、偶然だ」
とすると、なんという奇遇だろう。世間は狭いとしか言いようがない。
「でも、意外でした」
「何がだ?」
好奇心に浮かれる私を、腕を組んだ顔が見下ろす。
「連れてた方達ですよ。沖田さんはもっと可愛らしい人、藤堂さんは活発な人が似合いそうなものなのに」
実際に横にいたのは、そんな予想とはまったく正反対の女の人達だった。
「男と女のこればかりは、外からは分からぬものだからな」
冷めた口調で呟いた後、何故か斎藤さんはにやりと私を見る。
「俺とお前とて、あいつらは俺が年若い娘をたぶらかしたと噂しているだろう。実際は、俺がお前に上に乗られているというのにな」
「……なっ」
下世話なことをさらりと言われ、意味を理解した私は赤くなってしまう。
「もう」
どういう顔をして良いか分からず目を逸らすと、頭上からくぐもった笑い声が聞こえてきた。
「帰るか」
静かに、斎藤さんは歩き出す。
「はい」
それに従い、私も京の町へとゆっくり足を踏み出した。
お藤さんと会ったのは、そのすぐ翌日だった。
斎藤さんの仕事が終わるのを待つ間、私はよく月真院の本山の高台寺で遊んでいた。用が長引いているのか、その日は約束の夕刻になっても待ち人はその姿を現さない。
どうかしたのかと、少しだけ不安に襲われた頃。
「あの」
境内の鳥を追い回していた私は、控えめな声に背後を振り向く。
紫の花をあしらった着物を着た物静かそうな女性がそこに立っていた。
首を傾げた私だったけれど
「あ」
それが、きのう藤堂さんの隣を歩いていた人だと気づく。
「あ、やっぱり。斎藤さんの」
向こうもほっとしたように私に近づいて来た。顔を合わせたのがあんな場面なだけに、何だか少し気恥ずかしい。
「私は
私よりかなり年上であろう彼女は可愛らしく微笑む。やはり昨日見た時と変わらぬ物腰の柔らかそうな人だった。
「……あの。
小さく頭を下げた私に、その瓜ざね顔は穏やかに微笑む。
「敬語なんて遣わないで」
「いや、でも」
「平助が言ってた通り、可愛い人ね」
平助。少し考えて、それが藤堂さんの事だと思い至った。
「ほら、斎藤さんて寡黙な方だと思っていたから、貴女みたいなお相手は意外だったけれど。平助に聞いたらとても良い子だっていうし」
「はあ」
藤さんは、楽しそうによく喋る人だった。
「斎藤さんとはどこで知り合ったの? これからお出掛け?」
矢継ぎ早の問いに、私は必死に頭を巡らせなくてはならなかった。
「あの、父の店に出入りしてたお客さんで。今日は、ちょっと買い物に」
余計な事、本当の事は言わぬように。けれど嘘ばかりでは後から墓穴を掘ってしまう。
私達の関係はそれほど気を遣わねばならぬ脆く不安定なものなのだ。
「そうなの」
姉が妹の話を聞くごとく彼女がにこりと笑った時、その向こう側に首を傾げた斎藤さんが漸くその姿を見せた。
「あ、こんにちは」
「ああ。藤堂も、屯所に戻って来ていたぞ」
会釈をする藤さんが誰だか分かったようで、低い声が顎をしゃくる。
「ありがとうございます。棗ちゃん、またね」
頭を下げ、屯所に向かい藤さんは軽やかに去って行った。きっと、これから藤堂さんに会うのだろう。
「はきはきとした方ですね」
「藤堂よりも年上だそうだからな」
その場に残され呟いた私に、斎藤さんが教えてくれた。
「へぇ、そうなんですか」
とすると、私より十ちかく上ということになる。それでも仕草や表情から、年齢よりは随分と若く見える人だった。
この日出会った藤さんと、そして藤堂さん。それからそう遠くない日に、彼等とあんな別れ方をすることになるとは、まだ夢にも知らずにいた。
それから、藤さんとはよく顔を合わせた。高台寺で話すうち、兄姉のいなかった私は面倒見の良い彼女にすっかり懐いていた。
色んな事をよく知っていて、女らしいものと無縁だった私に何かと教えてくれる。
里にいた頃は、女でも戦いのこと、薬草や武器のこと、敵のこと。それらが料理や裁縫なんかより重要な話題だったから、何もかもが私には新鮮だった。
「芹はね、根まで使えるから。ご飯と一緒に食べてもいいのよ」
「へえ」
「斎藤さんも、棗ちゃんにご飯作ってもらったら嬉しいんじゃないかしら?」
そんな考えてもみなかったことを言われ、困惑しながらその光景を思い浮かべてみる。
「でも、美味しくないだろうし」
きっと斎藤さんも、私の手料理など期待していないだろう。
「そんな事ないわ、気持ちが大事なんだから!」
そんな言葉に、しばし考え込んでしまう私に
「じゃあ、今度一緒に作ってみようか」
畳み掛けるように藤さんは言ってくれた。
「でも」
はたして斎藤さんは、どう思うだろうか?
「きっと喜ぶわよ」
「そう、かな」
好きな人のそんな顔を見てみたい。
「じゃあ、お願いします」
その一心で、私は彼女にぎこちなく頭を下げていた。
「決まりね。じゃあ三日後に、またここで会いましょう」
藤さんが、いつもの優しい仕草で微笑む。
「ご教授、お願いします」
慣れない言葉ではにかんだ私の頬を、冬の冷たい風が撫でていった。
三日後の、約束の日。そわそわしながら、私は高台寺へと向かっていた。
斎藤さんに知られては元も子もない。内緒で美味しい料理を作って、いきなり驚かせてやろう。
迫り来る歴史の足音にも気づかず、私はそんな想像に心を踊らせていた。
境内についても、藤さんの姿は見えなかった。
「まだ、来てないのかな」
辺りを見渡し呟く耳に、ふと微かな人の話し声が聞こえてくる。通常の人間には聴こえないであろう、くぐもった会話。忍の特訓を受けた私がやっと分かる程度のものだった。
声はどうやら傍らにある御堂の中からしているらしい。少し悩んだけれど、それが気になった私は、周囲を見回し素早く屋根へと飛び乗った。
黒い瓦を一つずらすと、見えたのは御堂の真ん中で向かいあう二人の男女。
「どうしたの? 急に」
声をひそめる藤さんと、その向かいには藤堂さんの姿。二人の逢瀬の現場に立ち会ってしまったのかと、慌てて立ち去ろうとした私だったが
「近いうちに、伊東先生は新撰組を襲撃する」
そんな低い声に、思わず動きを止めていた。
「え?」
「詳しくは言えないけど、危険だからしばらくはここへは来ないほうがいい」
きっぱりとした藤堂さんの言葉に、私の頭は真っ白になる。
その均衡が不穏な形で崩れるのだとしたら、斎藤さんは? まず私の頭に浮かんだのは、そのことだった。
密偵として御陵衛士に潜入している身。いつ危険に晒されてもおかしくはない。最悪の事態を想像してしまうと、居ても立ってもいられない。震える体で屋根から飛び降りた私は、もつれる足を引きずりながらその場から走り出してた。
よろめきながら一直線に月真院へと駆け、その山門の前まで辿り着いた時。
「棗?」
なんの偶然か、今日は会う約束をしていなかった斎藤さんがふらりとその姿を現した。
「斎藤さん!」
乱れないよう訓練されてるはずの呼吸を肩でしながら、その袖を掴む。
早く伝えねばならない。けれど、ここでは場所が悪い。焦る私の様子に、斎藤さんは不思議そうに首を傾げていた。
「さっき、藤堂さんの話を聞いてしまったのですが」
月真院から少し離れた場所まで斎藤さんを引きずり、辺りを見回した私はやっと震える唇を開いた。
「伊東さんが、新撰組を襲撃する、と」
途切れつつ告げた言葉に、さすがの斉藤さんも眉を跳ね上げた。
「それは、本当か?」
「確かに、この耳で」
きっぱりと頷く私を、険しい双眸が静かに見下ろす
「分かった、お前は宿に戻っていろ」
私の肩に手を置き、その体は月真院へとは反対の方角へと向けられる。
きっと、新撰組の屯所へと戻るのだろう。あれほど長く過ごした御陵衛士の屯所をいとも簡単に捨て去って。
その一抹の未練さえ感じさせぬ振るまいに、私は急に怖くなった。いつか、こうして私も呆気なく捨てられるのだろうか?
「あ、あのっ」
とっさにその袖口を掴む私を、驚いた斎藤さんの目が見下ろす。考えなしにそんな行動をしてしまった自分をすぐさま猛烈に後悔した。
「す、すみません」
慌てて袖を放したけれど、ちゃんと斎藤さんの顔を見ることが出来ない。こんな一大事に、煩わしい女と思われただろう。そう思うと、情けなくも涙が込み上げてきた。
「早く、行ってください」
下を向いたまま呟いた私は、次の瞬間。
「少しだけ、待っていろ」
力強い腕に、引き寄せられていた。ふわりとした感覚に心の臓が止まりそうになる。
「え、え?」
「終わったら迎えに行く。お前は、大人しく俺を待っていろ」
目の前の胸からくぐもった声が聞こえる。理解が追いつかず間抜けな声を出した私は、自分が斎藤さんに抱き寄せられたのだと、その時になってようやく気がついた。
待っていろ。
その言葉の意味は、私の願っている意味と同じと思って良いのだろうか?
不安気に見上げると、斎藤さんはあの涼しげな目を優しく細める。
「一段落したら」
その言葉の続きは言わず、もう一度だけ私を強く抱きしめ体は離された。
くるりと向けられた背中は、もう二度と振り返らなかった。
これが今生の別れになることなど知りもせず、私はその愛しき人の後ろ姿をいつまでも見送っていた。
あれから、数日。京の町は未だ不気味に静まり返り、斎藤さんからの便りもない。
一体、どうなってしまうのだろう。いつものように外に出ることも出来ず、不安を抱えたまま私は宿に留まっていた。
夕暮れに染まる空を見上げながら物思いに
「どう、したのです?」
目を丸くする私の問いには答えず、その大きな体は行李の荷を荒々しく取り上げる。
「伊賀へ戻るぞ」
突然そう告げられ、更に私は目を白黒させた。
「どうして」
「伊都が危篤だそうだ」
しかし、続いて淡々と告げられた言葉に頭が真っ白となった。伊都というのは、母上の名だ。
「え」
「ずっと具合が悪かったのを、報せぬようにしていたらしい」
そう言う父上は、すでに部屋の敷居を跨いでいた。
「そんな」
操られるように少ない荷物を手にするが、私の頭は何も分かっていないまま。
だって、病弱とはいえ今までそんな兆候すらなかったのに?
まるで他人事のように体だけが動いていたが、普段は何にも動じぬ父の背中が小刻みに震えているのを見て、やっとその恐怖が私にも襲いかかってきた。
母上が、死ぬ。
幼かった私にとって、それは考えたこともない現実だった。戦闘での死ならば、まだ覚悟も想像も出来る。けれど、あの優しく穏やかな母上が、この世からいなくなる? そんなの、信じられない。信じたくなかった。
互いにただ無言で野山を駆けた父と私は、半日と経たずに伊賀の里へと戻った。
「母上っ」
出迎えてくれた里の者達の挨拶も振り切り、懐かしの我が家へ転がるように飛び込むと、屋敷奥の母の部屋の襖を勢いよく開けた。
そこに居たのは、布団に寝かされた母上と、枕元に座る掛かり付けの医者。その景色に、一瞬気が遠くなりかけた私だったが
「峠は越えたようだ」
傍らの木桶で手を洗いながら言った医者の声に、安堵しへたりと畳の上へと座り込んでしまった。
見れば、母上は苦しそうな表情だが浅い息をついている。
「良くなるのか?」
背後から父上の低い声が聞こえ、私の横をすり抜けると神妙な顔つきで母上の枕元へと腰を下ろした。
「いや」
濁された言葉が、一度は持ち直しかけた私の心を打ち砕く。
「もう手の施しようがない。後はどれだけ長らえられるか、というところだろう」
その言葉の通り、その日から母の容態は一進一退を繰り返した。たまに意識が戻ると、うわ言のように私や父上の名を呼ぶ。けれど答える私の呼びかけに返事はなく、そのまま消え入るようにまた目を閉じてしまう。もう駄目だという場面も何度もあり、そんな母の姿を見る度に私や父は憔悴していった。
朝夜と知らず、寝ずの看病。体力的な限界もあったけれど、何よりいつも朗らかだった母のこんな姿を見続けることが辛かった。
そんな中で、斎藤さんのことは何度も頭を
斎藤さんは、新撰組は、あれからどうなったのか? こんな状況ではもちろん伊賀を離れるなど叶わず、外に出ていった忍達は戻ってこない。
風の噂では、新撰組と伊東一派の間に戦闘があったこと。伊東は殺され、斎藤さんは新撰組に戻ったらしい、という話だけが漏れ聞こえていた。
京には手紙を出したけれど返事はない。そもそも世の中は史上例のないほどの混乱をきわめており、便りが無事に届いたのかさえも分からなかった。
そんな、もどかしくも明日の見えぬ日々を送っていた私の元に
「幕軍と薩長との間で、戦端が開かれたらしい」
その報せが入ったのは、その幾日か後であった。
先に帝へと政権を返還した幕府。それにより体制はゆるやかに移行すると思われていた。
「何故だっ!」
これで戦乱が一段落すると安堵していた矢先の出来事に、頭領の怒声が里中に響き渡った。
両者の武力での衝突は、まさに青天の霹靂。新政府軍を名乗る敵と徹底的に戦うべきか、否か。伊賀の里は、
世の中がそんな混乱を極めるさ中、母は亡くなった。
あんなに苦しんだ事が嘘のように、ある朝、静かに息を引き取っていた。その安らかな死に顔を見た時、悲しみとともに何故か不思議に安堵したのを覚えている。
母の弔いを済ませる間にも、外の世界は動乱の渦の中にあった。伊賀勢も幕府軍として戦場に赴くことが決まり、悲しむ間もなく父も京へと戻ることになった。
「私も、連れて行ってください」
すかさず口にした私に、父上は何も言わなかった。母の死のせいか、あれほど威厳に満ちていた姿は急に老け込んでしまったように見えた。
とにかく。私は、久しぶりに京の地を踏むこととなった。
ここを発った時と、その空気は一変していた。
争乱の最中にあっても、常に華やかさを失わなかった京の町。今は家々の戸という戸が下り、昼間だというのに重苦しい淀みが千年の都を支配していた。
「棗?」
到着早々、荷物を道端に投げ出した私は父上の制止も聞かず駆け出した。
斎藤さんは、一体どうなったのか? ただ頭に浮かぶのはその一点のみ。
「幕軍は、また負けたらしいぞ」
道を駆ける私の耳に、そんな会話が聞こえてきた。思わず立ち止まり振り向くと、旅の行商らしい男二人が道端で額を付き合わせている。
「なんでも、まったく歯も立たなかったとか」
「降伏も時間の問題か」
小声で交わされるやり取りに、私は知らず震えた。
だとしたら、新撰組は、斎藤さんは?
再び鉛のような足を引きずるように走り出す。知りたいのに、知りたくない……。そんな葛藤に支配されるうちにも、この目には目的の建物の屋根瓦が見えてきた。
七条堀川。最後に新撰組の屯所となっていた場所。私にとっては、ここ以外に手がかりとなる場所は思いつかなかった。
しかし、あの壬生の狼達の根倉にしてはその佇まいはどんよりと暗く重い。静かなのとは違う。まったく人の気配がしないのだ。
「あ」
必死に敷地の中を覗き込んでいた私は、見覚えのある立ち姿を見つけた。この視線の先で、こちらになど気がつかぬように地面に咲いた白い花を見つめる横顔。
「沖田さん」
この声に、最後に会った時よりだいぶ痩せたように見える顔が私を振り返った。
「君は」
向こうも気がついたのか、ゆっくりとした足取りが私達の距離を縮める。
「あのっ」
「兵どもが夢の跡、だよ」
勇む私の声を、低い微笑が遮る。
「え?」
「最初の戦いに負けて、他の幕軍と一緒に撤退したところだ」
まるで世間話でもするように沖田さんは言う。けれど、それは。
「都落ちってやつ」
その言葉に、私は胸に釘を打ち込まれたような衝撃を受けた。戦況の不利は伝えられていたけれど、初めてそれをまざまざと目の前に突きつけられたのだ。
「あのっ、斎藤さんは?」
けれど、それよりも気がかりなこと。今の私にとっては、世の趨勢や幕府の勝ち負けなど、正直どうでも良い。斎藤さんが無事ならば、斎藤さんさえいれば。
そんな思いの私を、何故か沖田さんは無表情で見下ろしていた。
「先にここを離れたよ」
やがて告げられた低い声に、私は腰が抜けてその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。
斎藤さんが、無事だった。その事実に安堵したものの
「で、では、どちらに行かれたんですかっ?」
「君、何も気づいてないの?」
ならば、私もその後を追わねば。そう意気込んだ私を、やはり蔑むように素っ気ない声が切り捨てる。
「……え?」
目の前で光る、沖田さんの黒い眼光。いつも柔らかな笑みを浮かべていた人が見せた冷淡な姿に、金縛りにあってしまったような私に
「君は、捨てられたんだよ」
そんな一言が、突き刺さった。
「え」
夢でも見るように、その目の前の景色はどこか虚ろだった。
捨てる。何を? 私……を?
情けないくらいに錯乱した頭を打ち砕くように、沖田さんの声は続く。
「前々から言ってたよ。高台寺にいる間、利用していただけだって。どうして君に便りも出さず此処を離れたか、考えてみれば分かるのじゃないか?」
「で、でも」
震える声で、私は何を言いたかったのか。
「でも、私は。私は、斎藤さんの後を、追わなきゃっ」
様々な現実や思考を飛び越え、馬鹿みたいに私はその考えに取りつかれていた。斎藤さんの傍に行けば、そうすれば、全てが上手くって何とかなる。そんな気がしていたから。
「勘弁してよ」
取り乱す頭上から鼻で笑う声がして顔を上げると、哀れむような目で沖田さんは私を睨みつけていた。
「こっちは遊びじゃないんだ。ただでさえ命懸けの戦場で好きでもない女にまとわりつかれるなんて」
その言葉の先を聞く前から、この目からは不覚の涙が零れ落ちていた。
「とんだ迷惑だ」
勝手に体の力が抜け、その場に膝をついた。
斎藤さんと出会ってからの長いようで短い日々が、走馬灯のように蘇っては消えてゆく。
ずっとずっと一緒にいるのだと、永遠に続くのだと思っていた時間は、あまりにも儚いものだった。
「だって。それなら、私はどうすれば」
私の世界には、斎藤さんしかいなかった。あの人が全て、それ以外なんていらない。あの人さえいれば、生きてゆけるのに。
まだ信じたくない気持ちをかき集め抗う私を、沖田さんの鋭い視線が貫く。
「……さあね」
感情のない声が、惨めなこの姿を更に踏みにじる。背を向け、やがて遠ざかる足音。
がくりと俯いた目の前に、髪に差していた鼈甲の櫛が地面に落ちて砂にまみれた。
世界の全てを失ってしまった十七歳の私は、いつまでもいつまでも、ただその場にうずくまり泣き続けることしか出来なかった。
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