花酔い

夜鷹よだか



路上に立ち客引きをする売春婦のこと


江戸時代においては、遊廓などに所属せず

辻や河原に立ち安い値で体を売った



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 「父上」

河原の濡れ草の上でウトウトとしていた私は、そんな活発な声にはっと起き上がった。

 「ナツメ、置いて行くぞ」

土手下から見上げてみると、お天道様を背にして自分とあまり変わらぬ年端の娘が元気よく駆けて行く。

とはいっても、知らぬ人からは私のほうが十は老けて見えるに違いない。この身に染みついた生活や人生への苦労が、きっと滲み出てしまっているだろうから。


 その親子の去った方向を見つめながら、また私は横たわる。

昨日は一晩で二人の客をとった。一人は恐らく島原の下男、もう一人はこの高瀬川で荷を運ぶ舟人夫。

それで貰える銭は本当に僅か。冬を越すにはとてもではないが金が足りない。今夜はもっと客をとらねば。今年こそは、もう冬が越せないかもしれない。

そんな背中あわせの不安を抱きながら、私はもう一度きつく目を閉じた。


 その夜は、すこぶる寒さだった。まだ秋口だというのに冷たい風は身も心も引き裂くように凍えさせる。こんな日は河原まで女を買いに来る物好きな男もなく、祇園の近くで拾った男物の羽織を巻いて、私はただただ寒さに震えていた。

 

 ここは、京は高瀬の川縁。昼間は荷を積んだ船や人で賑わうが、夜もふければ通りかかる野犬すらいない。

 この河原で、二十四文で体をひさぐのが私の生きる糧。

あるのは粗末な舟がひとつだけ。声をかけてきた男をそこに連れ込んで、自分を売る。廓で遊女も買えない男達にさげすまれながら抱かれ、ひたすらに時間が経つのを待つだけの毎日だった。


 「副長っ」

寒さで気が遠退きかけていた私は、野太い男の声で意識を呼び戻した。

見れば、河原の土手の上を数人の男達が連れだって歩いて行く。闇夜で姿ははっきりと見えないが、その影法師からなんとなくお侍なのだろうと思った。

「どうした。これから飲み直すぞ」

その中で、一際際立つ声が私の耳に届く。

一番先頭を歩いていた背の高い男。その大振りな姿態の揺らめきからするに、相当酔っぱらっているのだろう。宴席帰りの侍と、その下僚といったところだろうか。

何となくそんな一行を見上げていたら、ふいにその男も私へと目をとめた。

「ほう、こんな所にも夜鷹がいるのか」

黒い影が独りごちるが、ヨダカという意味が私には分からなかった。

「副長は江戸のお方でしたね。この辺じゃ、辻君つじきみというんです」

並んで私を見下ろした男達の声で、それが自分のことなのだとやっと思い至った。

「それも一興だな」

言うが早いか、例の男は草履で枯れ草を掻き分け土手を下り始める。

「副長」

制止の声など聞こえないように、“フクチョウ”と呼ばれた背の高い男は、あっという間に私に迫る来る。

「俺は女を買って帰る。お前らは先に屯所に戻っていろ」

近づく男の声が、耳をくすぐる。

「女なら、島原で買えばいいじゃありませんか」

「たまには趣向を変えてみるのも良かろう」

諫めるような声にも、男は愉快そうに言い返した。

「こんな所で客を取る女は、遊廓はおろか風呂屋にも居れぬような訳ありなんですよ」

「たとえば?」

「暗闇に顔を隠さないと相手が逃げるような醜女しこめだとか」

確かに、そんなことを叫ぶ人の姿も目の前まで歩み寄った男の顔も、夜霧に紛れて判らない。向こうも私の姿など見えていないだろう。

「それに、病持ちの者も多いと聞きます」

嫌悪感を丸出しにした声が、続けて風に乗り届く。

「それは良い。運だめしだ」

表情は見えないのに、フクチョウと呼ばれた男が笑うのが分かった。

「お前を買おう」

わざわざそう告げられ、私はただ頷く。そんな生真面目に断りを入れる客は初めてだった。

土手上から心配そうな声をかけていた部下達のわざとらしいため息声が聞こえる。

「くれぐれも、お気をつけくださいよ」

諦めとも呆れともとれる言葉を残し、その声は夜霧の中を去って行った。

急に静まり帰った河原には弱々しい虫の声だけが響いていた。

 「さて、どうすればいいんだ?」

改めて問われ、私は戸惑った。夜目にも身なりが良いことが分かる。普段はこんな場所で女を買うような身分ではないのだろう。

急にこの自分が恥ずかしいもののように思えたが、ここで二人して突っ立っていても仕方がない。おずと腕を上げ、川に浮かせた船を指差した。

「あの中でやるっていうのか?」

すっ頓狂な声を出した男に、つい俯く。

やはり止めると言い出すだろうか? そう思った私は

「なるほどな」

そんな声とともに、背中に温かい感触を感じた。

手を回されたのだと気がついた時には、既に男は歩き出している。

伴われ、いつも重い足取りで歩いていた数歩がまるで雲の上のように感じられた。

 

 朧気な月明かりが照らす粗末な小舟の中で、私はその男に抱かれた。

一寸の欲望を吐き出すだけが目的の荒々しい普段の客達とはまるで違う。まるで良い見世の遊女でも相手にするような丁寧な扱いに私は戸惑った。

それが私への気遣いではなく、そういうやり方しか知らぬ男の性分なのだと分かってはいても。


 「あいつら、今ごろ俺への文句をさかなに酒を飲んでいるんだろうな」

まだ微かに流れに揺れる舟の上で、袴を整えながら男は言った。それを聞く私もダラリと来ていた着物を再び羽織り直す。以前に居た風呂屋で死んだ仲間の形見にもらった着物はそろそろ袖や裾が擦り切れ始めていた。

「奴等、本当は伊東に着いて出て行きたかったんだ」

事が終わり、舟のへりにもたれ空を仰ぐ男を、私は見つめる。闇で見えぬはずのその口元が何故か僅か歪んだのが分かった。

「あの徒党に選ばれなかったから、仕方なく俺に面縦腹背ってやつなのさ」

そんな言葉の意味が理解できぬ私は、やはり黙ってその顔を眺めるだけ。

「まあ。あいつらも、壬生狼なんて後ろ指を差される泥舟から逃げ出したいんだろうよ」

 あ、と思った。

壬生狼。その名ならば私ですら聞き覚えがある。京の町を浅葱色の羽織を翻し闊歩かっぽした人斬り集団。数年前にあった池田屋という旅籠で勤王の志士を襲撃した事件以来、京だけでなく国中にその名を轟かせていた。

フクチョウ。先程の男達の言葉がよみがえる。

 「下らぬ話を聞かせて悪かったな」

一つため息をついて、その人は私の手を持ち上げた。

「これで足りるか」

握らされた感覚から、それが私なんかには過ぎた銭金だと分かる。

「多すぎます」

咄嗟にそう言うと、舟から地へ上がろうとしていた男が弾かれたように振り返った。

「お前」

何に驚いているのか、首を傾げたが

「ついぞ、話せぬ女なのかと」

そう続けられた言葉で理解した。

男は、私を片端かたわの者と思っていたのだろう。確かにそういう同業者も多いが、あいにく体だけは満足だった。

「申し訳、ございません」

どうやら、私を猫犬と同じように見立て愚痴をこぼしていたらしい。きっと、迂闊な事を口走ったと後悔している。

勿論、あの言葉を他言する気などはない。けれど、聞いてしまった私をこの人は斬るだろうか。そうされたとしても、まさに畜生が斬られた程度にしか私の死を気にする者などこの世には居ない。

「こ、ここにはくず芥のような者しか来はしません。私が新撰組の副長様とお話ししたなんて、誰も信じませぬ」

「俺が、誰か分かるのか」

しまったと思ったものの、間抜けな私はその問いに頷いていた。どちらにしろ今更上手く言い逃れる知恵などありはしない。 

「……新撰組の。土方様」

 勤王の志士達を震撼させる恐怖の人斬り集団、その中にあってなお“鬼”と恐れられる人物。それが、いま私の目の前に佇たたずむ男の正体。

視界の端で、腰に差された大小の刀が黒光りする。ごくり、とつい唾を飲み込んでしまったが。

 「俺が、怖くはねえのか?」

かけられたその声は、予想とは違い静かなものだった。 

 怖くないと言ったら嘘になる。ただ、私は新撰組に恐れとはまた別の感情を持っていた。

「……あそこに」

ゆっくりと舟の上から河原の方を指差す。

「うん?」

つられて土方様も岸へと顔を向けた。

「小屋がありました」

「ああ」

よく分からぬだろうに、小さく頷く気配。

「粗末なものでしたが、私の唯一の住み処でした。けれど年始めの頃だったか、浪人風の男達に壊されてしまいました」

その時の様子を思い出しながら語る私を、土方様はじっと見ている。

「私を好きなだけ犯して男達は去りました。 また来る、と言って」

私が口をつぐむむと、辺りに一番鳥の声が鳴いた。もう夜明けが近い。

「それで?」

「その翌日、町中で切り捨てられた浪人達の亡骸を見たのです。斬ったのは、新撰組だと」

ようやく繋がった話に、土方様は笑った。

「何も、お前を助けようと斬ったわけじゃねえだろう」

「けれど、私は初めて人から助けられました」

会話の途中で私はふいに顔をしかめた。話に夢中になっているうちに白んだ空から、薄い暁光に両目を眩まされたのだ。

 そして、一度は閉じた瞼を再び開いた私は言葉を失った。

ああ、そういえば場末の女郎達ですら噂していた。新撰組の副長は、役者も裸足で逃げ出す良い男だと。

そんな俗っぽい評など似合わぬ程、注ぐ光に照らされた土方様の姿は、ただただ美しかった。

 「お前」

同じように、かざした手の下から土方様が呟く。明るみで私の正体を見て、こんな汚らしい女を抱いたのかと我に返ったのだろうか?

ふいに訪れた後悔に震わせていると、土手の向こう側から人の話し声が朝の風にのって聞こえてきた。もう夜のとばりが上がる時刻だった。

「早く、お帰りください」

思わず私は土方様の体を岸の上へと押しやる。

「おい」

「貴方のような方が、こんな場所に居てはなりません」

舟の中から口早に告げる私を涼しげな目は黙って見下ろしていたが、やがて静かに背を向け歩き出した。

「あ、お金……」

そんな姿に安堵したのもつかの間、土方様が河原を数歩ばかり行ったところで私はそれに気がついた。渡された多すぎる花料は、私の手の中ですっかり温まっている。 返すことを忘れ慌てる私を、岸の上から土方様は振り向いて笑った。

「要らん」

「しかし」

「要らぬと言っているだろう」

河原を挟んで押し問答をしていても埒があかない。

「では」

そう言った私の言葉は、本心だったのか、思惑があったのか。

「また、来てください。次は代金は要らないので」

消え入りそうな声に、整った目が僅かにみはられる。 

 勿論、私のようなどん底の女の元に戻って来てくださるとは思っていない。ただ、気がつけば口からそんな言葉が溢れていたのだ。

 土方様は馬鹿にしてきっと笑うだろう。そう顔をうつむかせた時。

「お前、名は?」

少し目を細め尋ねられた声は、確かに私へのもの。その眼差しが自分に向けられているなど、どうして信じられよう。

「名はなんという?」

だから、畳みかけるように再び問われた声に

芙蓉ふよう

私は自分でも理由の分からぬ涙を堪えながら、そう答えた。


 「う、えっ」

舟の上から川へ胃の中のものを吐き続ける男の背中を、私はぼんやり眺めていた。

 あれから数日。当たり前のように土方様は現れなかった。

だが、よくよく考えてみれば一度名を聞かれただけ。あれは一夜の夢で、何かを期待した自分が阿呆だったのだ。

 「やっぱり、舟の上で女なんか買うもんじゃねえな」

やっと立ち上がった男が、頭の上から小銭を投げつけてくる。私を抱いたきっちり二十四文。お代を払っていってくれるだけマシな客だ。

「もう二度と来ねえよ」

捨て台詞を残して河原へと上がる男の背中を何気なく見送ると、月も星もない暗闇夜の下を土手を下りてくる影があった。

私を抱いた男がヘコヘコと頭を下げてすれ違う。さっぱりと羽織袴をつけ、腰に大小を差した立ち姿。

「土方様」

夢にまで待ち焦がれたお顔が、薄暗い岸から私を見下ろしていた。

「すまんな」

そう顔を背けられた意味が最初は分からなかったが、情事後だった自分の半裸を思い出し青ざめた。

「申し訳、ございません」

血の気を失いながら震える手で着物を直す間、土方様はずっと星もない黒い空を見上げていた。

 「あ、あの」

「少し歩くか」

やがて恐る恐る声をかけた私に、穏やかな声が降ってくる。

「しかし」

「お前の体が持たんだろう」

そう踵を返し、向けられた背中はすでに歩き出す。

 私にとって一晩で何人もの相手をするのは大層な事ではない。むしろ、そうしなければ生きてはゆけない。

このまま、抱いて下さって構わないのに。

そう言いかけて、開きかけた口を私は閉じた。普通の女郎は一晩に一人しか客を取らない。良い身分の殿方にすれば、当然他の男に抱かれた女になど触れたくないのだろう。

「はい」

それに気がついた私は黙って舟を降り、重い足取りで土方様の背中を追いかけた。

 

 今宵は一寸先も見えぬ闇。誰かとすれ違っても姿も見えないこの夜が、私にとっては唯一の救いだった。

新撰組といえば、少し前、正式に幕臣に取り立てられたという。名を知られたれっきとしたお方が、こんな女と歩いていて良いわけがない。

 「芙蓉」

そんな事を考え顔を伏せていた私を、突然土方様は振り向いて呼ぶ。

「はい」

普段は名など有って無いようなものなので、なんだか不思議な気がした。

「年はいくつだ」

「確か、十八」

どうしてそんなことを聞かれるのか、首を傾げる私に構わず土方様は続ける。

「生まれは?」

「北の方の、寒い村でした」

遠い故郷を瞼の裏に浮かべてみるが、思い出されるのは雪の降り積もるどこまでも灰色の風景だけだ。

「口べらしに売られたのか?」

立て続けの問いに、私は首を横に振る。

「母は、宿場の飯盛女めしもりおんなでした。勿論、父親など分かりません」

宿場町の旅籠で男に色を売る女達。それが、私の母の生業なりわい

「そんな所で生まれた私は、他の生き方など知りません」

気がつけば、いつの間にか私は土方様と並んで歩いていた。

「では、その名も?」

「どうせ、まともな生き方など出来ぬのだから、と」

母がたった一つ私に残してくれたのは遊女の源氏名のような名前。場末の遊廓にでも貰われれば儲けものとでも考えたのだろうか。

「確かに、着飾ってすましてりゃ島原の大見世に居たって見劣りしねえ」

そう呟かれた言葉に私は天にも昇る心地になる。それが憐れみだとは分かっていても。

「世辞じゃねえぞ」

この胸の内を見透かしたように、土方様は仰った。

「言葉だって仕草だってそう悪くねえ。上辺だけ誤魔化してる女共より余程な」

それが褒められているのだと気がつくのに、少しかかった。

「それは、風呂屋や何かで仲間に教えてもらったので」

「仲間?」

顔など見えないだろうに、俯く私を切れ長の目が覗き込む。

「以前は、街道の風呂屋で湯女ゆなをしていました」

 風呂屋に来た男の背中を流すという名目でその体を売る娼婦。遊廓ほど上等ではないが、安く女が買えるため人の集まるそういう場所に私は居た。大概にして風呂屋には遊廓に居れなくなった遊女崩れが集まるものだった。

「中には大きな見世で読み書きを習ったなんて人もいて、そういう女郎達に暇潰しに教えてもらったのです」

まあ、舟の中で黙って客を取るだけの私には勿体ないものだったが。

「ずっと、そんな生き方を続けているのか」

横からの問いに私はこくりと頷く。出会った場所が場所だけに今更取り繕っても仕方がない。 

「初めて体を売った日から、風呂屋や見世とも呼べぬ場末を転々としました」

所は変われど、そこは常に女の生き地獄だった。

「お前なら、いくらでも馴染みの客が付きそうなものなのにな」

そう嘘でも慰めてくださる土方様の言葉に、私は微笑む。

「最後に居た風呂屋の女将が言っていました。“世の中、何が悪い訳じゃないが、幸せになれない女ってのは必ずいる”」

そう告げられた言葉はあまりに私にぴったりで、今でも思い出す度に可笑しい。

「馴染みがついてもツケを踏み倒され、落ち着いたと思った見世は火事で焼き出され」

本当に、冗談みたいに上手くいかない人生だ。

「人からは、よほど前世での行いが悪かったのだろうと言われます」

だから、話の種にでも笑ってもらおうと、おどけてみせたのに。

「どうして笑う」

ふいにかけられた声は低くどこか厳かなものだった。

「も、申し訳ございません」

煩い喋りがお気に障ったのだと思った。

「お前はまだ若い。這い上がることを諦めるな」

なのに、土方様は真剣な声でそんなことを言う。

この方から見れば、私など道の虫けらと同じ価値しかない。そんな女の身の上を真に受けて聞いてくださっていたとは夢にも思わぬ私は驚く。

 そのせいか、私の中にもずっと忘れていたはずの記憶がふいに蘇った。

「ああ、そういえば」

「なんだ?」

けれど口に出してしまってから、それは余計な一言だと気がつく。

「いえ。申し訳ありません」

「良い、言ってみろ」

慌てて口を噤む私を見下ろしながら土方様は促す。

「しかし」

「良いと言っている」

「……その」

強く言われてしまうと逆に黙っていることも出来ず、仕方なしに口を切った。

「一番最初に居た見世での事です。小さな所でしたが、私が居た中では一等まともな場所でした」

ぽつりぽつり話し出す声に、先を歩く影は黙って耳を傾けているようだった。

 覚悟を決め、思い出すのも憂鬱になる思い出を私は口端にのせた。

「ある日、私が付いていた姉女郎が小袋がなくなったと騒ぎ出したのです」

元々は江戸の吉原にいたというのが自慢の、気位の高い人だった。

「小袋?」

「一人に決まった部屋なんてないですから、それぞれが小さな巾着にお金や大事な物を入れておくのです」

あれは銭湯から姉女郎が帰って来た時。

「その小袋がなくなっていると、騒ぎになりました」

「盗んだのが、お前だと?」

察しの良い土方様の声に、私は頷く。

「勿論そんなことはしていません。けれど、部屋に一番出入りしていた私の仕業だと」

部屋の座布団や火鉢、ありとあらゆる物を投げつけながら喚き散らす姉女郎。髪を振り乱して怒る姿は、いま思い出しても恐ろしい。

「その人の稼ぎで持っているような見世でしたから、番頭も女将も悪いのは私だと」

それどころか、一緒になって蹴られた体の痕は今でも残っている。

「姉女郎の性格は皆知っていましたから、さっさと謝ってしまえば済んだ話なんです」

そうすれば、仕方なしに女将がお金を立て替え、姉女郎に数日ほど嫌味を言われ、私は仲間達とささやかな陰口を言ってお終い。そんなやり取りを何百回も見てきた自分はその処世術を知っているはずだった。

「けれど、どうしてか認められなかった」

いざその立場になった時、私は頭を下げることが出来なかった。それどころか、床に頭を擦りつけ土下座しろと怒鳴る姉女郎の声に私は無謀にも言い返していたのだ。

「結局、その見世には居られなくなり、出て行く時に仲間に言われました。“意地じゃ飯は食えないのに。”と」

それは、確かにその通りだった。思えば、私の人生の零落れいらくはそこから始まったように思う。その後はことごとく上手くゆかず、気がつけば河原で身を切り売りする日々だ。

「あそこで堪えて謝ってさえいれば、せめて飯と寝床だけは困らなかったのに」

そう笑い飛ばす私の横で、土方様は押し黙っている。

いつの間にか私達は土手をぐるりと回り、再び私の船がのぞめる場所に戻って来ていた。

 「つまらぬ話をお聞かせして、申し訳ありません」

闇の中の土方様に声をかけても返答はない。馬鹿な女だと、胸の内で笑っているだろうか。それとも遊女の身の上を憐れむような優しい方だから、それ以下の境遇の女を目の当たりにして言葉が出ないのかもしれない。

 「お前は、それを悔いているか?」

しかし、私へかけられた声は、そのどれでもなかった。

「悔い?」

その言葉の意味に頭を巡らし、ゆっくり首を横に振る。確かに、馬鹿な真似をしたと自分でも呆れる。けれど。

「あの時のことを思い出すと、胸がすっとします」

不思議と、その時の行動を後悔はしていなかった。 

「そうか」

柔らかく微笑む気配。

「命なんて、誇りに比べりゃ塵みてえなもんだ」

そう光の見えぬ夜空に向かい吐き捨てた土方様の心など、無論私などには分かるはずはない。

 「つきあわせて悪かったな」

河原の舟の前に辿り着いた時、土方様はまた私の手を取った。握らされるこの間と同じ冷たい感触。

「いけません」

抱かれてもいないのに、こんなお代をもらう訳にはいかない。

「俺はお前の時を買った」

そう言って土方様は背中を向けようとする。

「あんな話をお聞かせしたからですか?」

思わず、私は声を荒げた。

「うん?」

「私が哀れな女だと思い、こんな施しを?」

それならば、それは大きな間違いだ。私は土方様だからこそ、誰にも話したことのない半生を語った。情けをいただこうだなんて、これっぽっちも思ってはいない。

「いや、違う。悪かった」

しかし、私の元へと戻ってきた人は少し困ったように笑う。

「意地だけは持って生きてきたから、今の俺がある。だから誇りを守る奴を見ると嬉しくなるんだ」

諭すように話す影を私は見返した。それは、やはり馬鹿な私に同情したのと何が違うのだろうか?

「いただけません」

「仕舞っておけ」

私が押し返せば、土方様は差し戻す。前と同じようなやり取りに、無礼と知りつつ私は土方様の手を押し返した。

「これは、土方様が人を斬って得たお金です」

そんな一言に、はたとその動きが止まる。気の短い武士ならば、この場で切り捨てられても仕方ない振る舞いだ。

 けれど、この身を売って日々を生きる私は、金を稼ぐ厳しさや辛さを痛い程に分かっていた。

「白刃に御身を晒して稼いだ代償です。どぶに捨てるような真似はお止めください」

 新撰組の仕事がどういうものなのか、世情に疎い私とて知っている。世間から後ろ指をさされ、それでも自らの技と命だけを唯一の拠る辺とする生業。その遙かに尊い対価を、ただ春を売る私などに簡単にくれてやって良いはずがない。

 「本当に、可笑しな女だ」

てっきり怒られるのではと身を縮ませていた私を、土方様は笑った。

「え?」

「俺は生憎あいにく所帯も持っていないし囲う女も居らぬ。使い道のない金だ、貰っておけ」

「けれど」

なおも食い下がる私に、土方様は夜霧越しに苦笑を噛み殺していたかと思うと

「そうだな。では、次に来る時は紅でもひいておけ」

さっと身を引き、背中を向けると すたすたと去って行かれてしまった。

 その意味が分からず、ただ後ろ姿を見送っていた私は、それが化粧もせず粗末な衣装の切り雀の己の姿のこと。そう思い至った時、暗闇の中で恥ずかしさのあまりうずくまっていた。


 高瀬川の水は、身を切るように冷たかった。触れただけで体の芯が凍りつくような感覚に怖じ気づくが、意を決して私は濡らした手拭いで身を清め始める。

いつ土方様が訪れるか分からぬのだから、それくらいしか出来る事はなかった。

 体の水気をきると、いつもは遊郭を真似てだらりと着た着物を着付け、前で縛っていた帯を久しぶりにきちんと結ぶ。もちろん着物も帯も遊女のように上等なものではないが、河原に女を買いに来る男などにはそれで十分だった。

けれど、昨日の土方様の言葉を思い出し、私は町へ向けて河原を後にしていた。


 我ながら、馬鹿者だと思う。いただいた金子があれば、長屋でも借りて冬を越せるし、しばらく食うにも困らないだろう。

なのに私は、似合わぬ着物やほどこす化粧のためにこうしてそれを使おうとしている。それが土方様への為だなんて、考えなくとも分かった。

 自分が男に対してこんな気持ちを抱く日が来るとは不思議でならない。今まで理解に苦しんでいた、危険を犯し男と駆け落ちする遊女の気持ちが初めて分かった気がした。

だが遊女と間夫の逃避行なら美談にもなろうが、私などでは物乞いが残飯を集っているのとそう大差ないのではないか。道端の水溜まりに映る自分の顔を見やり、私は白い息をはいた。


 昼間の京の町は当然ながら活気があった。それが小さいながらも商店が軒を列ねる大通りなら尚更だ。

 「ええ色やろ」

通りかかった店先から老婆の威勢の良い声がかかる。見るに古着の着物や帯なんかを売っている店らしい。

「金に困った武家の奥方が質屋に入れて流れてきた品や」

得意そうに言うが、実際は死体や火事場から売り目の物を盗ってくるなんて話もよく聞くから信用はできない。

しかし、見せられた着物は確かに見事なものだった。薄い薄い紅色の生地に裾には赤い花が散っている。下ろし立て同様で、こんな小汚い軒先にあるには勿体ないような品物だだろう。

「三百文」

私が見入っていたのが分かったのか、横から老婆が言う。

 三百文。上等な着物を手に入れるにはとても良い話なのかもしれない。けれど、それは私が十二回男に抱かれるのと同じ代金であった。

 心引かれるのは確かだが、腹の足しにもならぬ物にこんなにはかけられない。そう老婆へ着物を押し返そうとした私は、ふいに土方様の言葉を思い出した。

  着飾ってすましてりゃ、島原の大見世に居たって見劣りしねえのに

いつかのそんな声。世辞だと分かりきっている。でも、これを着た私を、土方様は少しは見直してくださるだろうか?

そんなことを考えてしまう自分に苦笑しながら、私は老婆に金子を渡していた。


 着物を買い紅をさしても、中々土方様は現れなかった。

一人で過ごす夜が増えるにつけ、気持ちは焦りから諦めへと変わっていった。

期待をさせるようなことを言ったとしても、それは道で見かけたのら猫の頭を撫でてやったのと同じ、ご本人はそんな出来事すら忘れているのかもしれない。

しかし、それも仕方のないこと。私達は元々住む世界が違うのだから。

 

 そんなことを考えながら、私は何人かの客を取った。目を瞑ると浮かぶのはいつでも土方様の姿。乞食同然の男に抱かれながら、愛しい人を乞う。

気が狂いそうだった。


 土方様が最後に訪れた晩から二十日ほどが経った。

今夜はやけに月の明るい夜で、川に映る三日月も白く輝いている。

 こほん、と一つ咳をして私は身震いした。もう本格的な冬に差し掛かろうというのに、こんな夜中に水あみなどしている様は尋常ではない。

しかし、今日は日暮れと同時に客を取った。もし、この後に土方様がいらしたら……。そう思うと居ても立ってもいられなくて、時間があれば岸で体を清めてしまう。寒さでまた咳が酷くなった。

 来もしない方のために、馬鹿らしい。そう笑いながら、着物を羽織った時だった。 

 「芙蓉」

振り向いた私は、幻を見たのだと思った。今までのような薄闇の中ではなく、煌々とした月明かりに照らされたその姿は、あまりにも美しい。

柳の精かと見まごう土方様が、河原を踏み分け私へと歩み寄る。もし、お会い出来たら言いたいことは沢山あった。この薄紅色の着物も見て欲しい。言い切れなかったお礼も言いたい。なのに、何故か私はその顔から目を逸らしていた。

 「随分と、お久しぶりで」

そんな言葉が勝手にこぼれていた。

「もう、私のことなどお忘れかと思いました」

土方様が私なんぞを気にかけなくてもそれは当然。拗ねる筋合いどころか、こんな態度は本来無礼討ちものだ。

 土方様は、この思い上がった女をどうするだろう。思わず口にしてしまってから気がついて、反射的に目を瞑った私の耳に

「芙蓉」

二度目の名を呼ぶ声が届く。

胸の前で両手を握りしめたまま振り返った私は、そのまま土方様の腕の中へ強く引き寄せられていた。

「あ」

よろめいた体が、そのまま地に倒される。体の重みを感じる間にも、私の帯は乱暴にほどかれていた。いつもの舟が、川の流れに揺れているのが横目に映る。

 ここは、舟の中じゃないのに。

場違いなことを思う間にも、葦の中で組み敷かれた私の着物を余裕のない手付きが脱がしてゆく。

風の寒さを感じたのはほんの刹那で、すぐに熱いくらいの熱に体中が包まれた。


 「ここのところ、立て込んでてな」

着物の帯を締め直した私に自分の羽織をかけながら、土方様は呟いた。

 あんな寒天の草むらの上で情を交わしていたのに、気がつけば月の位置が変わる程に時が経っていた。

「そんな」

断ることも出来ず、その羽織を肩に置いた私は口ごもる。

土方様が言い訳をする必要など一切ない。今更ながら、何故あのような言い様をしてしまったのかと自分が悔やまれた。

 そもそも、どうしてこの方は私を何度も買ってくださるのだろう。私に渡すのと同じ花料で、そこそこの遊女だって買えるはずだ。

 「すまなかったな」

いつものように銭金を握らせようとした土方様の手を、私は押し返す。

「どうした」

首を傾げる顔を見上げ、重い唇を開く。

「これで、もっと綺麗な女の人を買ってください」

本当は、そんなこと言いたくはない。自分の言葉でこの身が引き裂かれるようだと思った。

「俺に抱かれるのは嫌か?」

私を見下ろす土方様の目が冷たく光る。

「違います」

そんな言葉に、慌ててかぶりを振った。

「本来なら、私のような者が土方様のお情けを受けるなど、まるで夢のようなこと」

「では、何故」

「……新撰組の方々のご公務は命懸けと聞きます。明日をも知れぬ身のお方が、もし最後に抱くのがこんな女では」

失礼を承知で言うならば、同情を禁じ得ない。そして、そうと分かっていながらその情をいただいてしまう自分の卑しさが、何よりも耐えられなかった。

「そうか」

だから、天を仰いだ土方様の言葉に、これで全てが終わるのだと思った。この短い日々は一夜の夢。私は、また名もない乞食に戻るのだと、覚悟をしたというのに。

「では、明日から客は取るな」

まるで予想もしていなかった言葉に、私はぽかんとその顔を上げる。

「え?」

「聞こえなかったのか。俺以外の男に、もう抱かれるな」

さも真剣な眼差しで言われる意味が私にはよく分からなかった。

「あの、それは」

「昼間も、この辺りにいるのか?」

遮るように言葉を継がれ、私は弾かれるようにただ頷く。

「そうか、今日は帰るとする」

「は、はい」

一体なにを了したのだろうか。

一つも分からぬまま、月明かりの夜道を去って行く土方様の背中を、私は見送るしかなかった。

 

 昼間だというのに、河原に吹く風は凍えるように冷たい。背の高い葉の間にぽっかり空いた穴に横たわり、また私は寒さに咳をした。

知っている者でなければ、こんな場所にこんな隙間があるなんて思いも寄らぬだろう。人がやっと一人寝そべることの出来る空間にむしろを敷き、夜着を持ち込んだ場所が私の住み処だった。

こんな畜生と変わらぬ巣で、冬を乗り切ろうとしている自分は我ながら正気の沙汰ではないと思う。

 もう一度体を縮こませた私の耳に、聞き覚えのある声が聞こえた気がした。

「芙蓉」

空耳かと思ったが、聞き違いではない。期待は抱かないよう、けれど慌てて、私は寝床から這い出した。

「一体、どこから出て来たんだ」

少し呆れたように美しい顔をほころばせた土方様が陽の光の中に立っていた。

「どうして」

今は昼。それなのに、堂々とこんな女を訪ねて平気なのだろうか。

「ああ、この人ですか」

逆光の土手上に立つ土方様の傍らのもう一人の影。

「ああ、芙蓉という」

「へえ」

そうこちらへと視線を向ける若い侍。殿方に向かって言うのは失礼だが、とても可愛らしい顔つきをしている。

「こんにちは、沖田といいます」

首を傾げる私に向かい、その人は子供のように土手を勢いよく滑り降りてきた。

「沖田、様?」

つい、ぽかんと口を開けてしまった。

沖田。といえば、思い浮かぶのは泣く子も黙る新撰組の一番隊長の名。その強さ、恐ろしさは鬼神の如くと聞く。

本当にあの沖田様なのだろうか。目の前のこの若者は、整った容姿は持っているものの町の若衆と何らか変わりなどないように見えた。

「あ、あの」

「すまんな」

目の前の二人を見比べるだけの私に、後から河原へ降りて来た土方様が苦そうに笑う。

「まったく、幾つになっても餓鬼でいけねえ」

「ひどい言い様だ」

土方様に向かい随分と気安い態度。こんな言葉を遣えるということは、信じがたいが、やはり同郷だというあの沖田総司その人なのだろう。

「驚かせてすみませんね、今日はつきあうよう言われたので」

そして、その人当たりの良い笑顔は急に私へと向けられた。

「え?」

ますます意味の分からぬ私は、助けを求めるように土方様を見上げる。

「こいつは口は煩いが、その分 退屈はせんだろう。何かあったら遠慮なく言え」

だが、その答えは私の求めたものとはずれている。

「さて、行きますか」

しかし、背中を向ける沖田様のその言葉は、間違いなく私に向けられていた。

「あの、どこへ」

「いいから、ついて行け」

ずんずんと歩いて行ってしまう沖田様と、当然のように言い放つ土方様。

訳など分からぬが、私のような者がこんな方々に逆らうことも出来るはずない。

「はい」

着物を急いで整え、小走りに沖田様の後を追いかけた。

前を通る時に頭を下げる私を、土方様は笑いを噛み殺しながら見送っていた。


 「すみませんね。本当は土方さんが自分で来ればいいのだけれど、最近ちょっとゴタゴタしていて。ほら、恨まれてばっかの人だから、僕くらいしか頼める相手がいないんですよ」

 沖田様は、本当によく喋る方だった。そして、こんな私にも丁寧な物腰で、常に笑みを絶やさない。噂で聞くのとは、天と地ほどの人柄だ。

「これから、どこへ?」

お喋りを続けながら町の方へ向かう足を疑問に思って尋ねてみた。

「まずは、着物だの帯だのを揃えてやれと言われました」

そんな沖田様の言葉に、私は息を飲む。

「私の、ですか?」

「僕は帯は要りませんからね」

可笑しそうに笑われてしまう。

「どうして、私なんかに」

町に近づくにつけ、周囲は人が多くなってきた。

「さあ、光源氏にでもなるつもりなのかな」

「あの様な方が、私など」

町人達が、私と沖田様をジロジロと見ながら擦れ違ってゆく。男女が二人並んで歩いるのだから良い好奇の的だろうに、沖田様はそんなものは気にする素振りもなかった。

「侍だなんだと言っても、元は百姓や貧乏武家。あなたは随分と気にしてるようだけれど、そんな大層な身分じゃないですよ」

確かに、周りの目など気にせず往来のど真ん中を歩く沖田様はそんな性分なのだろう。

「けれど」

やはり、私ごときが気安くお世話になって良い理由にはならない。

「確かに、可笑しな人だな」

うつ向く私の横顔を見下ろしていた沖田様が、ふいに笑い出した。

「え?」

「いや、すみません。土方がね、あなたの事を言ってたんですよ」

「土方様が?」

私の居ぬ場所で、どんな風に私のことを語ったのか。それは聞きたいような聞きたくないような話だった。 

「“そこらの女とはちょっと違う。芯のある奴だ”、ってね」

事もなげに語る沖田様を前にして、私の顔は青ざめていただろう。

「そんな。見ての通り、誉められるような者ではありません」

女郎にすらなれぬ身の女に、褒め殺しにも程があろう。

「そういうところが、きっと良かったんでしょう」

楽し気に口端をつり上げる沖田様は、どこか悪戯好きの子供のようだ。

「からかわないで下さい」

「僕は良いと思うけどな」

口ごもる私を見下ろし、空を仰いだ少し真面目な声が呟く。

「良い?」

私などが上司の周りをうろついて、何も目出度いことはないだろうに。

「最近やけに浮かれてると思っていたんです。馴染みの芸妓でも出来たのかと踏んでいたら、あんな場所で密会してるとはね」

その口調は冷やかされているようで、どこか居心地が悪かった。

「……では、そういう沖田様は、どこで良い方とお会いになるんですか?」

その悔しさと少し打ち解けた気安さもあり、つい意趣返しのつもりで私はそんな事を聞いたのだけれど。

「ああ、僕はもっぱら茶屋ですね」

「ま、あ」

あっけらかんと返された言葉に、逆にこちらのほうが赤くなってしまった。

 

 茶屋とは、当然ただ茶を飲む店ではなく、男女が逢い引きに使う出合い茶屋のこと。密通や禁じられた男女が逢瀬を重ねる場所。そんな後ろめたさと、このあどけなさが残る沖田様。その二つが、私にはすぐに結びつかなかった。


 「……なら、お相手は市井の方?」

狼狽えてしまった様を隠すように、私は澄ました声をつくって聞いた。

 しかし、わざわざ人目を忍んで会わねばならぬということは恐らく玄人ではない。京の町の商家かなにかの箱入り娘あたりか。きっと初心な、可愛らしい娘さんに違いない。

 「さあ」

曖昧な返事で、悪戯そうに微笑む沖田様。こんな廓遊びも知らなそうな方が女の子を抱く姿は想像つかなかったが、きっとお似合いな両人なのだろう。

「羨ましい」

ぽつりと呟いた私の言葉は、何に向けてだったのか、自分でも分からなかった。

 

 その後、私は沖田様に引きずられるように色んな店を回った。彼が何故か手に取るのは、桶や火鉢、掻巻かいまきや箱膳なんていう普段の生活に使うような代物ばかり。

 不思議に思い、「それは何ですか?」と何度か聞いてみたが、その度 軽く笑うだけで交わされてしまった。


 夕刻になり、ようやく買い出しは終わったようで、私と沖田様は両手にいっぱいの荷物を持って表通りを歩いていた。

 「ああ、綺麗ですね」

ふと隣の沖田様が路地の奥にある小さな神社へふらりと足を向ける。その先の境内では、行商人が色とりどりのかんざしを風呂敷の上に所狭しと並べていた。

 「まあ、本当に」

暮れかけの夕陽を浴びて、華麗な細工が更に美しく輝いている。

「土方さんだったら、これが好きかな」

行商の前にしゃがみ込んで沖田様が手にしたのは、薄桜色の玉をあしらった細身の簪。いま私が身につけているこの薄紅色の着物によく映えそうだと思った。

「折角だから、一つ買ってゆけばいいんじゃないですか?」

さらりと勧める声に、けれども私は笑いながら首を振る。

「どうして? よく似合いそうなのに」

そう無邪気に笑う顔は、やはりまだ少年のようだ。

「あそこの掛け蕎麦が、いくらかご存知ですか?」

言葉に困った私は少し考えて、表通りに暖簾を出している蕎麦屋へと指を向けた。

「さあ。二十文ちょっともあれば足りるんじゃないかな」

つられて目を向けた沖田様は、どうしてそんなことを聞くのかと首を傾げている。

「私は、一晩、二十四文でこの身を売っているのです」

そう言い切ると、幼さの残る顔は私を見返す。

 つまり、そんな贅沢は出来ない。私などの身の丈には合わぬという意味合いをどうやら理解してもらえたらしい。

「そうですか」

呟く沖田様は、その横顔に侮蔑も同情も浮かべてはいなかった。

 「これ、ください」

そして、しばらく指でくるくるともてあそんでいた簪を掲げると、行商の男にその代金を支払った。

「はい」

まさかとは思ったが、当たり前のようにその簪を私へと差し出す。

「いけません」

「なぜ?」

そうにっこりと首を傾げる姿は、土方様とはまた違う手強さがある。

「いただく、いわれがありません」

「僕からのご祝儀です」

左手で私の手を取り、簪を握らせる。

「祝儀?」

「ええ」

手にしてしまった簪を見つめながら呟く私に背を向け、ふらりと立ち上がった沖田様は歩き出した。

「あの、どこへ」

帰る河原とは反対方向へ足を向ける後ろ姿に問うてみたが

「町屋ですよ」

沖田様は、ちょっと振り向いて悪戯そうに笑っただけだった。


 着いたのは、本当に変哲のない町屋だった。京の町のはずれ、三つ並ぶ平屋の棟。長屋とも呼ばれる町人や職人達が利用するような自分には縁のない住まいの前に、私と沖田様は大荷物を抱えて立っていた。

「ここは?」

「今日から、あなたの住まいだそうです」

一つの部屋の前で足を止めた沖田様の言葉に、私は耳を疑う。

「今、なんと」

「土方さんが、良い屋敷がなかなか見つからぬとぼやいていました。正式な邸宅が用意できるまでの仮住まいです」

その背中は木の引戸を開けずんずん中へ入ってしまった。

「あの、それは、どういう」

「あなたを、囲うつもりなんでしょう」

振り返りながら告げられた言葉に、強く頭を打たれたような気がした。

「なんのご冗談ですか」

「それは僕に言われても」

がらんとした何もない一間へ、持ち込んだ荷を下ろす沖田様は真顔だ。

「沖田様だって、そうお思いのはずです」

「僕は嬉しいですよ」

そう言いいながら開けた天井の明り採りから、埃っぽかった部屋に夕陽が射し込む。

「え?」

「好いた女でも居れば、あの死に急ぐような鬼も少しは生き方を改めるかと思っていたんです」

それは噂では聞くものの、私の知っている土方様からは想像しにくい姿だった。

「まして、嫌われ者の憎まれ役。四面楚歌を地でゆくような人ですからね」

一瞬だけ表情の陰った沖田様が、ふっと私へと笑いかける。

「できれば、安息の場を与えてやってください」

 

 安息。そんなものを知らずに生きてきた者が、それを人に与えることなど可能なのだろうか?

 沖田様が帰り、しんとした部屋の中で私はただ宙を見つめていた。

壁際には、損料屋から借りてきた布団や箪笥が片付かないまま放られている。

 そうだ、一緒に運んでもらった行灯に火を入れなくては。まだどこか夢見心地の頭の片隅で思った時だった。

「新しく来た女って、あんたかい?」

突然開いた部屋の戸に、私は飛び上がるほど驚いてしまった。

「あたしは、この隣に住んでるトキってんだ」

それまで囲いさえない場所で生きてきた私が言える立場ではない。けれど当たり前のように人の部屋の戸を開けるのが町屋の慣習なのだろうか?

「女一人こんな所に流れて来るなんて、何か訳ありかい?」

しかし、そんな私の戸惑いなど知らぬように、トキという女は大きな顔をずいっと寄せてきた。

「あ、あの」

 どう説明するべきなのだろう? 河原の身売り女が何かの僥倖で新撰組の副長にお情けをいただいたと、自分でも信じられないような話だ。そもそも土方様の不利益になるようなことを軽々しく喋るわけにもいかない。

 「まあ、ここは大層な奴なんて居やしないから。気ままにやりなよ」

けれど意外にも呆気なく追求を止めてくれたトキさんに、私は胸を撫で下ろした。

「井戸や風呂の場所は分かるかい。案内するからついてきな」

「あ、はい」

言うが早いかもう外へと背中を向けるトキさんに、草履をひっかけた私も慌ててその後を追う。

 「そこが井戸、物干しはあっち。昼は混むから早めに場所取りしたほうがいいよ」

きっと、悪い人ではないのだろう。トキさんは何かと私に世話をやいてくれた。

「そうそう、あっちの棟の旦那とウチの斜めの女房がデキてるんだよ」

そんな会話まで聞かせてくれる、噂好きでもあるが。

「トキさんは、ご家族と町屋に?」

「旦那と二人。金物を直す職人だから大抵は昼も部屋にいるよ。最近は仕事も減ってね、やりくりが大変さ」

何気ない私の問いに、聞いてないことまで話し出す。

「そうですか」

「あんた、来た時に若い男と一緒だったらしいけど」

そして、この機を狙っていたのだろう、ずいっと彼女が身を乗り出した。

「どっかの人の、おめかけかなんかかい?」

ずばり尋ねられた言葉に、私は頭を悩ませた。沖田様は、土方様が私を囲うと言っていたけれど、当の私は何も知らされてはいないのだ。

「そうなんだね」

しかし沈黙を肯定と捉えたらしく、トキさんの顔は水を得た魚のように輝く。

「別に隠すことはないよ。他にも、そういう女は何人もいる」

「そうなんですか?」

思わず声を出してしまった私に、目の前の顔は勢いづいた。

「そうさ、下級役人の妾なんてのが多いね」

「へえ」

 私などは、余程の金持ちでないと女など世話できないと考えていたが、世の中はもう少し景気が良いらしい。

「お妾さんなら、旦那を迎えなけりゃいけないんだろ」

「え?」

さも当然のように言われたけれど、そういうものなのだろうか。

「こんな時間だけど、飯の用意は大丈夫なのかい?」

日が隠れようとしている空を見上げ、何故か彼女のほうが焦っている。

「いえ、何も考えていなかったので」

「良いところのお嬢さんじゃないんだから。気のきかない女は捨てられるよ」

ぼけっとしたまま答える私の手首をむんずとトキさんは掴む。

「あ、あの」

「今日はウチの余った野菜をやるから」

引きずられるように自分の部屋の前に戻ってきた私は、騒々しく自らの家へ入って行くその背中を呆然と見つめた。

「明日からは、自分で行商なりをつかまえるんだよ」

中から出て来たその腕には、野菜やら米が抱えられている。

「これを、私に?」

顔を見返すと、その浅黒い顔は満足そうに笑った。

「妾は妾の役目を果たさなきゃね」


 妾と言った時のトキさんの言葉には、ある種の同情や憐れみが含まれていた。

正妻にはなれぬ、いつ捨てられるやもしれない日陰の女。確かに世間にはその見方もあるだろう。けれど私にとってこれはまだ信じられぬ、夢のような出来事。

 不特定の下賎な男に抱かれる女があのような御方から情けをいただき、トキさんはボロ屋と言うが、雨風をふせげる屋根がある生活がどんなに幸せなことか。ここは、私にとって極楽浄土と違わないのだ。

 

 風呂屋などでの下働きを思い出し、見よう見真似で夕餉ゆうげの支度をした。かまどに火をかけ、貰った葉ものを隣で茹でる。皿にわけてもらった醤油で味付けをして、後は汁物でも作ろうか。

そもそも私は、夕餉がどういうものかよく知らない。生まれた時から女郎屋の中だったから、何か当たり前なのか気にしたこともなかった。

 

 やはり育ちの悪い女は駄目だと、土方様に思われたりはしないだろうか。そんな想像に怯え、すきま風に咳き込んだ頃だった。

 「芙蓉」

夜風にまじり、その声はした。

「あ」

開けた戸の向こう側に、どこか所在なさげに土方様は立っていた。

「入っても良いか?」

寒さで紅くなった頬が、微かに傾く。

「申し訳ございません」

その顔を見つめたままだった私は、慌ててその体を招き入れた。

「こんな所ですまんな。屋敷が用意できるまで我慢してくれ」

一間の真ん中に腰を下ろした土方様は、開口一番そう言った。

「そんな。そもそも、なぜ私のような者にこんなご厚意を?」

御礼も疑問も言う前に先回りされてしまい、ただただ私は恐縮していた。

「なぜか、か」

行灯の薄い光が、その白い頬を照らし返している。

 あ、っと思った時には、私の手首は大きな手に捕らえられていた。

土方様の胸に圧し潰されるように二つの体がむしろの上に横たわる。

「あの、火が」

間近にあるはずの顔を見れずに呟く声は、開けた肌に触れる手の冷たさで途切れる。

板一枚の壁では、こんな会話も隣のトキさんに聞かれているかもしれない。

そんな心配事をしたのはほんの束の間、触れられる冷たい指先にこの体はすぐに火照っていった。

「芙蓉」

耳元で熱く囁かれた声に、私は全てを忘れ目を閉じた。


 「また、来る」

まだ月も消えきらぬ明け方、土方様は部屋を出た。その言葉に従うしかない私は、乱れた髪を直しながらその後につづく。

 次は、いつお越しですか? なんて言葉は勿論聞けるはずもなかった。

朝靄あさもやの中に消えた背中を見送り、部屋へ戻ろうとすると

「はあー、立派な御方だね」

いつの間にか、隣の部屋の戸からトキさんが顔をのぞかせていた。

「あ」

昨夜の情事の声が聞かれていたらと思い私は顔を赤くしたが、トキさんの関心はそちらではないようだ。

「えらく良い男だし、あんた幸せ者だね」

「幸せ、者?」

口に出しても、その言葉はやはり実感がなかった。こんな私が人からうらやまれるなど考えた事すらない。

これが、幸せというものなのか? 星が輝き始めた空を見上げ、私は首を傾げた。


 あれから、矢のように日々は流れた。

ご公務が忙しいらしく頻繁ではないものの、定期的に土方様は私の部屋へ通って来てくださる。

食事を用意し、他愛のない会話をし、その腕に抱かれていると、まるで所帯でも持っているかのような錯覚に陥った。

こんな日々がこれからも続いてゆくのならば、私は幸せというものになって良いのだろうか?

 

 「やっぱり。あの河原乞食じゃねえか」

背後からそんな声がして買い込んだ野菜を抱えたまま振り向いた私は、そのことを激しく後悔した。

天下の往来のど真ん中に立ち、卑下た笑みを浮かべる人夫。あの船酔いで嘔吐していた、かつて私を買った男だった。

「小綺麗にしてるから分からなかったぜ」

ゆっくり近寄られ、思わず後ずさる。

「まさか、どっかの妾にでもなったのか?」

ニヤニヤと笑うその顔を、弱々しく睨みつけるのが精一杯だった。

「そう怖い顔すんなよ、別にお前を脅そうって訳じゃねえ。ただ」

「……ただ?」

聞き返す体に、男の腕が伸びる。

「また、相手でもしてくれよ」

頭で考えるよりも早く、私はその腕を力いっぱい振り払っていた。

「何しやがるっ、この売女!」

そんな怒声から逃げるように駆け出す。

 

 人生の大半をあんな男共に抱かれて生きてきた。それを何とも思わなかったはずなのに。……今は、もうそれが出来ない。私が触れる肌は、これからは一生土方様だけなのだと、この時に強くそう思った。

 

 やっと町屋が見えてきて、ようやく私は足を止めた。急に走ったせいで、激しい咳が出るし、草履も鼻緒が切れかけ、買ったものも投げ出してきてしまった。

 「芙蓉」

そんなみっともない姿の背後かけられたのは、今は聞き慣れたお声。

「どうした」

少し驚いたように、目を瞠る土方様が立っていた。珍しく昼からお越しになってくれたらしい。

「……何でも、ありません」

まだむせる口許でどうにか微笑むと、その姿が足早に近づく。

「こんな所にいたら、風邪をひくぞ」

不器用に上から顔を見下ろされ、私はやっと呼吸をすることが出来た。

「はい」

土方様の後ろにつき、私はあの町屋へと帰るため歩き出した。

 

 そんな日々にも、慣れ始めたある日。トキさんの噂話にうんざりした私は、逃げ帰った部屋で縫い物をしていた。

着物を買うのに十分な金子を土方様は置いて行ってくださるけれど、私のさががそんな贅沢を許さない。

お気に入りの薄紅色の着物のほつれを直し終えた頃。

 「こんにちは」

外からかけられた声に戸を開けてみると、ひょっこり沖田様が立っていた。

「あら、お久しぶりです」

ここに連れて来てもらった以来だから、最後にお会いしたのが随分と前のように感じる。

「どうやら、元気でやっているようですね」

変わらない愛想の良い笑顔に、私もつい微笑んだ。

「今日は、どうされたのですか?」

見回しても土方様の姿はない。沖田様が一人で私に用などあるのだろうか?

「実は、かんざしを選んで欲しいのです」

少し照れたように告げる横顔を私はしばし見つめてしまう。

「それは、前に仰っていた方に?」

返事はなかったものの、俯く表情がその答え。

「私などで良ければ、是非」

思わず私のほうが浮き浮きと立ち上がっていた。


 「すみません。こんなこと頼める女の人が、あなたしかいなくて」

以前と同じように並んで町を歩く沖田様が、言い訳のように笑って言う。

「それは、構いませんが」

むしろ私が気になっているのは、そんなことではない。

 はしたないのだろうが、この話を聞いた時から簪を送るお相手、つまり沖田様の良い方の正体だった。好いた女に贈り物をするなんて、いかにも爽やかなお付き合いではないか。

「どんな方なんですか?」

思い切って私は半歩前を行く沖田様の背中に尋ねてみた。

「どんな?」

「その方に似合う簪を選んだほうが良いでしょう?」

そう言い繕う私に、首を傾げていた顔が素直に考え込む。

「そうですね。見た目は、背が高く抜けるように色が白くて、凛々しい目元をしています」

「あら」

てっきり、可愛らしい娘さんだと信じ込んでいた私の予想は外れたらしい。

「そして、異常に気が強い」

ちょっとおどけるような口調に、思わず私も噴き出す。きっとその性格に苦労させられているのだろう。

「誇り高い方なのでしょうね」

自分で取りなしてから、私はその言葉がふと心に留まった。

 それは、土方様が私にもあると仰ってくださったもの。私はそんな己でもよく正体の分からぬもののお陰で、あの方と繋がれている。

「誇り、とは何でしょう?」

ぼんやりとした独り言を向けてしまった私を、沖田様は立ち止まって振り返った。

「そうですね。それが無ければ惹かれる事もなかったのに、時にはそんなもの捨てて欲しいと、そう思います」

それは、明らかに私への言葉ではなかった。

「土方様も、そうお思いでしょうか?」

小さく聞く私に、あどけなさの残る頬が微かに笑う。

「さあ、どうですかね」

そう首を傾げた沖田様が、ふいに激しく咳き込んだ。

「大丈夫ですか」

慌ててその体に駆け寄るが、肩に触れようとした手は存外に強い力に振り払われた。

「大丈夫です」

口元を押さえたままの声が私を拒む。

「でも」

「今年の風邪はしつこいようですね」

そう姿勢を戻した沖田様が笑顔を取り戻しながら言うから、それ以上は私も何も言うことは出来なかった。

「養生してください」

そういえば、かくいう私もいつからかの咳が未だに治っていない。

「そうですね」

顔を上げた沖田様は、何故か悲しく笑っているように見えたが

「あなたを、住まわせる屋敷が用意できたそうです」

脈絡もなく、そんな事を告げたのだった。

「え」

「ただ、なかなか今は手が離せなくて。“片がついたら迎えに行くから、用意をしておけ”と、土方さんからの言伝てです」

ただその顔を見つめ返し、ぽかんとしている私はさぞ間抜け面だったのだろう。ケラケラと沖田様は笑い出した。

「ウチの副長の家人になる方が、なんて顔してるんですか」

そんな言葉はますます私を戸惑わせる。

「私、が?」

それは、夢を見ているのだとしても、笑ってしまうくらいの幸せな夢。

「いい加減に覚悟を決めて下さい。あのしつこい人からは逃げられないですよ」

そんな風に茶化す沖田様の声さえ、どこか遠い出来事のようで。

髪に差した桜色の簪に触れ、微かに紅色に染まる空を私は茫然と眺めた。


 やはりお忙しいのか、土方様は数日経ってもおみえにならなかった。

そんな日々が続くと、あの沖田様の言葉は、私の見た夢だったのではないかと疑ってしまう。けれど、それが夢でないならば。私は、土方様と……。

それ以上を考えるのさえ、何だかはばかられるのに、一方でどうしても頬の弛んでしまう自分がいた。

 

 火をかけた鍋が煮立つ音がした。今日も土方様はいらっしゃらないかもしれないけれど、いつものように夕餉の準備を。

そんなことを考え縫い物を中断して立ち上がった私は、ふいの立ちくらみに襲われた。

次に感じたのは、何かが喉元をせり上がってくるような不快感。異物を吐き出すような咳をした直後、自分の手のひらを見て凍りついた。

ほんの僅かだが、赤く濡れたそれは、間違いなく血だった。

一瞬で、ぐらりと世界が回る。立っていられなくなり、知らぬ間に床に座り込んでいた。

 これは、きっと咳のせいで喉が切れたんだ。咄嗟に自分に言い聞かせたのはそんなこと。きっと、何かの間違え。そんな訳がない。まるで言い訳をするようにその血の跡から目を逸らす。

 けれど、もう私には分かっていた。こんな風に血を吐いて死ぬ仲間を、もう幾人も見送ってきたから。

労咳

その存在を、私とて知らぬはずがない。不治、死の病。そんな言葉の付きまとう、絶望の化身。

皮肉なもので、身を売って生きていた時は、いつ病で死んでも良いと思っていた。なのに、少しばかり欲を持った矢先にこれだ。逆に何だか笑えてきてしまう。

笑っているはずなのに、床の上にはポタポタと水跡が出来ては消えた。

やはり私が幸せになるなど、夢のまた夢だったのだ。


 幸いなことに、私が血を吐いてからも土方様は姿を見せなかった。

あんなに待ち焦がれた日が、今は永久に来なければ良いと思う。労咳は、うつる病。私は、今すぐにでもここを立ち去らねばならぬ。

 単純なもので、労咳だと知った途端、この体は急速に侵されてゆくようだった。

せめて土方様にお別れを告げてから、ここから去ろう。だから、それまでは……。

そんな言い逃れを自分にしながら日々を過ごす。姑息だとは分かっていながら、どうしても私は、掴んだこの幸福をまだ手放せずにいた。


 「どうしたんだい、最近」

塞ぎ込んでいる姿を見兼ねてか、トキさんはよく私を気にかけてくれた。

「いえ」

うつしてしまってはいけないと思うと、顔を背けつい素っ気ない返事になってしまう。

「ほら、これ」

そんな私にトキさんが差し出してくれたのは、一本の細い枝。

「桜?」

小さく咲いた白い花に、思わず目を見張る。

今は冬。どうして、こんなものが?

「あんたを最初にここに連れてきた若いお侍様。あの人がふらっと来てね」

「沖田、様が?」

「あんたが留守だったから、渡してくれって言われたんだ。鴨川のほとりに狂い咲きの枝垂れ桜が咲いているんだと」

そんな明るい声に、私の胸には土方様が最後にここを訪れた時のことが思い起こされた。


 「どうやら、酔ったらしい」

行灯の火に薄く照らされた土方様は、私を見上げ確かにそう言っていた。

「え?」

横座りをした私の膝の上に頭をのせ、何をするでもなく寝転がったそのお顔を見返す。

「お酒なんて、召してませんよ?」

どちらかというと下戸の土方様は、あまり酒を飲まない。その日だって、簡単に膳に箸をつけただけだった。

「花に酔った」

そう私の頬に手を当てながら、まるで酩酊めいていしたような目を向ける。

「花が咲くには、あと何月も待たなければいけません」

「そうだな」

ますます可笑しな方。と笑った私に土方様は再びゆっくりと目を閉じた。

「春になったら、二人で花見にでも行くか」

そんな言葉を、残して。


 思えば、そんなささやかな夜が、私の人生で一番幸せな時だった。

涙を堪えようとすれば、また咳が出る。

「風邪かい? お世話になっている旦那様にうつしちゃいけないよ」

顔を覗き込むトキさんの言葉は、まるで私の狡さをとがめているようで。

 そうだ、私などに過ぎた情をかけていただいた土方様に、病をうつしてしまうことなどあってはならない。もう言い訳をしている時間も終わりにしなければいけない。

私は、覚悟を決めねばならなかった。


 それから更に十日が経った頃、土方様はこの町屋を訪れた。

 「芙蓉」

真夜中の静寂を破る、その恋い焦がれた声で私は目を覚ました。

今は丑三つ時。こんな時刻に気のせいかとも思ったが、その掠れたような声は間違えなく戸の向こう側から私を呼んでいる。

「芙蓉」

「土方様?」

慌てて寝着の上に近くにあったものを羽織り、布団から立ち上がる。

「こんな夜中に、すまんな」

戸を開けようとした私は、そんな声に思わず手を止めていた。

 ここでお姿を見てしまったら、私は潔く土方様の前から消えられるだろうか?

そんな迷いの感情が胸をかすめ、その場に立ち尽くす。

「芙蓉、どうした?」

開かない戸の向こうで、首を傾げる姿がありありと思い描けた。

 こんな夜更けにわざわざ私を訪ねてくださるなんて、きっと何かあったのだろう。もし私に出来ることがあるのなら、何でも力になりたい。ほんの僅かでも土方様に必要とされたのならば、それはこのうえない幸せなのだから。

 「お帰りください」

けれど、私の口から溢れたのは、そんな言葉だった。

薄い板一枚を挟んでの沈黙。戸惑いの心が隙間風と一緒に流れ込んでくるような気がした。

 「そうだな。こんな夜更けに、すまなかった」

やがて、自嘲するような静かな声が耳に届く。ここは土方様が借りた部屋。住まわせていただいている私が吐ける台詞ではないというのに。

「また、出直そう」

おもむろに、その気配は遠ざかる。思わず呼び止めてしまいそうになる声を殺し、唇を噛みしめた。

「屋敷に移る準備に、何かと用要りだろう」

ジャラリと重く響く音が戸の前に落ち、足音は段々と遠ざかってゆく。戸に手をかけたまま、堪えても堪えても流れ落ちる涙と共に、私はただその音を見送った。


 一睡もせずに壁にもたれ宙を眺めていたら、いつの間にか眩しい朝陽が部屋へと射し込んでいた。

のろのろと立ち上がり、戸を開ける。土方様が立っているかもしれないなんて儚い思いは当然叶うはずもなく、代わりに紐のついた巾着がぽつりと置かれていた。中を開けてみると、庶民なら何年も不自由なく暮らしてゆける程の銭の山。

 誇り。その刹那、どうしてか私の胸には突然そんな言葉が蘇った。

私に誇りがあると仰ってくださった土方様に、私は最後まで応えよう。

昇る陽を見つめ、そう決意した。


 お気に入りの薄紅色の着物へ着替え、昼の町へと繰り出す。歩く度に裾の赤い花模様が揺れ、まるで私の吐いた血のようだと思った。

 花の都京の往来は、今日も賑わっていた。何人か人夫の格好をした男とすれ違ったが、目的の人物はなかなか見当たらない。以前と同じ場所に立っていれば会えるかと思ったけれど、駄目ならばそれはそれで仕方ない。他を当たろうかと考え始めた頃。

 「よう、また会ったな」

待ち望んでいた声が背後から私を呼び止める。振り返ると、そこにいたのは間違いなく先日私に声をかけた、あの船酔いの男だった。

「どうした。やっぱり、俺に抱かれたくなったか?」

どこまでも卑しい笑みに反吐が出そうになるけれど。

「ああ、そうさ」

それに負けない下卑た声で私は応えた。

「はあ?」

男は逆に面食らっている。

「新しい旦那ってのが面白味のない奴でね。色んな男と寝てきた私は、やっぱりあんなんじゃ満足できないみたいだ」

そうして流し目で見やると、男が唾を飲み込む音が聞こえた。

「だから、相手をしとくれよ」

上手く、私は笑えた。

 

 「へえ。まあまあ良い所じゃねえか」

真っ昼間の町屋にそいつを連れ込むと、見知らぬ男の姿に井戸で洗濯をしていた女達が一斉に振り返る。部屋に雪崩れ込む直前、隣から覗くトキさんの顔をもう一度横目で確かめてから、戸を閉めた。

 「お前も、とんだ好き者だな」

途端に、黒ずんだ男の手が帯にのびてくる。

「どうせ、私はこういう女」

向かい合うと、自分から男の粗末な着物を性急に脱がす。そのまま もつれるように床に倒れ込み、まるで畜生のように交わった。

 場所も、人からの好奇も関係ない。盛りのついた猫のように、いつまでも私は鳴き続けた。


 男が帰ったのは夕刻過ぎ。その足で私も金の入った巾着を持ってふらふらと町屋を出た。向かうは、私が身を売っていた高瀬川のあの懐かしい河原だ。

 辿り着いた住処は、繋いであった小舟はなくなっていたが、変わらず枯れ草木が風になびいていた。

岸へ下りた私は、まず手に持っていた巾着を川の流れへと投げ捨てた。雨で水かさの増した濁流は、重みのあるそれをいとも簡単に呑み込んでゆく。

そして川に背を向けると、いつも寝床にしていた穴ぐらを探り当て、その中へ静かに身を横たえた。

 

 労咳は、死に至るまでには時間がかかる。痩せ細り、死への恐怖に気が狂う仲間を何人も見てきた。私の天命が後どれ程かは知らぬが、座してそれを待つ気はさらさらなかった。

 あの方は情け深いから、私の養生の面倒をみるなんて言い出すかもしれない。土方様に迷惑はかけられない。ましてお荷物になるなどもっての外だった。

 きっと厳寒の今宵ならば、その大気が私をこの世から簡単に連れ去ってくれるだろう。

すでに凍てつく風を身に浴び、重苦しく曇った空の下で目を閉じた。


 空に、暗雲に隠れた月がのぼる。

寒さのあまり痙攣けいれんしたように震えていた私の体は、その頃にはもう何も感じなくなっていた。

 この体を隠す葦の向こうに見えていた空が、段々と霞んでゆく。呼吸が遠のく。四肢が、どこかへいってしまったように動かない。

 これが、死というもの。何度も野垂れ死ぬような思いをしてきたが、それはまだ冥土の門口ですらなかったようだ。今まさに本物の常闇の淵へと、私は引きずり込まれようとしていた。


 「芙蓉」


すでに消えかけた命の手綱を引き寄せるような声が、この耳に届いた気がした。

それは、生命の最後の灯火が見せた幻か。

「芙蓉」

しかし虚ろな意識に、その力強い声は確かに呼びかける。

 ああ、間違いない、土方様だ。混濁する生死の境で、私は確信した。


 「こんな寒い日に、こんな所になんて居ませんよ」

ちょうど、私の頭上辺りから聞こえてくるのは沖田様の声。

ただでさえ人目には分からぬ隠れ穴。私が声を出さなければ、夜の闇も手伝って決してこの姿を見つけ出すことは出来まい。

思えば、土方様と初めてお逢いしたのも、こんな夜だった。

 「やっぱり、渡した金を持って男と逃げたんですよ」

何故か昔の情景ばかり浮かんでは消える私の頭に、どこか沖田様の茶化すような声が聞こえてくる。私の筋書き通りの台詞を告げてくれたことに、心の中でお礼を言った。

土方様の返答はない。

「本当にお人好しなんだから。今頃は、その金で男とよろしくやってますよ」

おどけるように続けられる言葉に

「それならば、いいのだが」

ぽつりとだけ、その低い声は呟いた。

 「芙蓉っ」

はい。と最後に呼ばれた声に答えたくなってしまう自分を、かろうじて押さえることが出来た。

「ほら、行きますよ」

「……ああ」

沖田様に促され、その足音が遠ざかってゆく。

 これで良い。これで良かった。

誰にも知られず、何も成さずに死ぬはずだった私に、生きる意味をくれた人。そんな方に、これが何も持っていない私からのせめてもの恩返しなのだから。


 白い雪が舞い散る中、誇らしい心地で私はこの目を静かに閉じた。






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