花の下臥

遊女



遊郭等に属し男性への接待を職業とした


歌舞により芸を売る者もいたが、多くの場合 寝所に侍る女を指す


客である男性と結ばれることもあった



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 青く晴れ渡った空の眩しさに、昨夜はほぼ眠れなかった頭がきりきりと痛んだ。

御遣いの風呂敷を抱え歩く足をつい途中で止めてしまったが、そんな余裕はありはしない。見世に帰れば、もうすぐに夜がやって来るのだ。

足を止めて振り返ってみれば、この閉ざされた町は明るい日射しの中しんと静まり返っていた。

- 島原遊郭 -

天下に名の聞こえた此処ここが、本来の姿に戻る刻。

十一で廓に売られて来て、はや十年。この体はすっかり年増と呼ばれる年に差し掛かっていた。

廓は、男の極楽、女の苦海という。早くここを出て行きたいとばかり思っていたのに、いざその時が近づくと怖くて仕方がない。これからどうやって生きれば良いのか。むしろ生きる術などあるのか。

そんなことを考える私は、すっかりこの町の住人になってしまっているのだから。

 島原の女は色ではなく芸を売る。とはいうけれど、それは限られた界隈でのはなし。唯一御上に認められた遊郭とはいえ、生きる糧に代えるため、女が自らの春をひさぐ現実は吉原や新町と変わらない。

私とて、昨夜は六日ぶりに訪れた馴染み客の相手をしたばかり。最初は嫌で仕方なかった醜男の来訪を、いつしか嬉しく思ってしまっている自分がいた。


  でも、こんなくたびれた女郎でも、ふと思い出してしまう時がある。かつて、輝く陽の下を笑顔で走り回っていた時分の思い出を。

 大人になったら、俺が嫁にもらってやる

ふと心に浮かんだ生意気な笑顔。そんなものを振り払い、楼主からの言いつけをこなすため茶屋への道を再び歩き出した。


 「おかえり、藤」

部屋に戻ると、すぐにお正ちゃんがひょっこりと襖を開けて顔をのぞかせた。

「ああ、ただいま」

秋口とはいえ少し汗ばんだ額をぬぐいながら振り返る。

「そんなに疲れちゃって、今夜のお勤めは大丈夫なの?」

少し悪戯そうに近寄って来る小柄な体。勿論彼女も私と同じ遊女という地獄に身を置く者。

お正ちゃんは柳下やなした、私は藤代ふじしろという源氏名でこの街を生きていた。

「大丈夫よ、これでも昔は男の子と一緒に外を走り回っていたんだから」

「例の幼馴染?」

私より一つ年上の彼女に笑いかけると、待っていたとばかりに鋭い言葉が返ってきた。

「やだ、覚えてたの?」

「だって、いつもその子の話をするのは藤じゃない」

確かに、まだここへ売られる前の子供の頃、よく遊んだ小さくて負けん気の強い少年のことを、私には昨日のことのように思い起こすことが出来た。

「どこかのお殿様のご落胤らくいんだったんでしょう? なんだか物語みたい」

うっとりと語るお正ちゃんに、つい苦笑してしまう。

「そんなの、本当かどうか分からないわよ」

確かに彼は自らの出自をそう吹聴していた。けれど人一倍勝ち気で自尊心が高い割に、小さい体でいつも近所の悪餓鬼共に喧嘩で負けていた男の子。きっと悔し紛れに作り話しを喋ったのだと、今ならば思う。

「もう、夢がないね。そう思っていたほうが楽しいじゃない」

つまらなそうにこの肩を叩くお正ちゃんも、元々は私と同じ江戸近辺の出身。楼主から厄介者扱い、若い女郎達には陰で馬鹿にされる年増の私達は、本音で話すことのできる唯一の仲間だった。

「そうね」

「それで、偉くなったその子がいつか迎えに来てくれるの。素敵じゃない?」

どこかうっとりとした表情に、唇だけで小さく笑い返す。

彼女とて、本気でそんな夢物語を語っている訳ではない。もう ここから自分が這い上がれないことも痛くいらいに承知している。

けれど、それを認めてしまったら、私達は生きていることは出来ない。こうして、刹那刹那の儚い夢をみて日々を生きてゆくしかないのだから。


 「また来てくださいね」

深々と頭を下げた私を振り返りもせず、浪人風のその男は去って行った。

きっと、長州だか土佐の者に違いない。昨夜買われただけの、恐らく二度と会うことはない男。そんな奴等に体を売るのが、この私の仕事であり、日常でもあった。

しかし、馴染みだけでは食ってはいけないのも、また事実。ちらりとさらば垣を横目に、大門の中へと戻る。ここが、現世と浄土が分かれる道。

漠然とした侘しさを感じながら、見世へ戻るため私は外の世界へと背を向けた。


 「お帰り」

部屋に戻ると、やっぱりお正ちゃんはのんびりと誰かが置いていった春画なんかを眺めていた。

この様子だと昨日は客がつかなかったのに、随分と余裕綽々だ。

「ただいま」

「どんな客だった?」

人のことは言えないが、お世辞にも器用が良いと言えない彼女。こんな日は特に珍しくもない。

「どこかの浪人じゃないかしら」

「へええ。ここんとこはこっちも増えたもんねぇ」

絵から目を離さず彼女が言うのは、ここ最近の客層のことだろう。黒船の来航以来、外の世界の大騒ぎは閉じられた廓にまで流れ込んできた。その動乱の中心がこの京へと移ることは、多くの人々の流入をも意味しており、尊王攘夷、勤皇、幕府方……。この色艶の街もいつの間にかそんな空気に染まるようになっていた。

 「攘夷さんといえば、ちょっと前までは祇園だったのにねえ」

「そうね」

今日こそは早く寝なくては体が持たない。まずは風呂屋へでも行こうと、仰々しかった着つけを手早く脱ぎ捨てる。

「貧乏侍の相手は嫌ね。あいつら、銭の分を取り戻そうと必死なんだもの」

「うちみたいな小さな所じゃ、贅沢は言えないわ」

髪に刺さっていた簪をはずしながら、口を尖らせる正ちゃんに気のない返事を返した。

「そうだけど。これなら壬生狼のほうがましだった」

呟かれた言葉に、ふと瞼の裏には鮮やかな浅葱色が翻ったような気がした。

「あちらさんは最近はぶりが良いものねえ」

「そうそう、行くとしたら大店おおだなばかり。安く遊ばしてやったウチらのことなんて忘れてやがる」

不満そうに尖った唇が語る通り、京都守護の名目であの浪人達がこの京に姿を現したのは数年前のこと。最初は風流など知らぬいかにもな東夷あずまえびす達。少ない金を握りしめてやって来る彼等を、島原の住人は心の中で嘲笑っていた。

しかし、その後に起きた旅籠池田屋と禁門での騒動でその名はあっという間に有名になって、浮浪者さながらだった集団は知らぬうちに幕臣に取り立てられるまでになっていた。

金が手に入れば、行く先も変わる。今や金払いの良い新撰組は、貧乏な西国の侍達よりもよっぽど歓迎される存在だった。

 「なんでも幹部には中々の色男もいるって聞くよ。一度そんな良い男に買われてみたいね」

「どの口が言うのよ」

軽口を叩くお正ちゃんは、それこそ当初は新撰組の粗野な男達を毛嫌いしていたのだ。まったく調子が良いものだと呆れてしまう。

「金と地位になびくのは当然だろう? 藤みたいに、同郷ってだけで優しくしてやる奴のほうが変わってるんだ」

逆に言い返された意味ありな視線に、つい思わず顔を背ける。

確かに私は、新撰組に限らず東から来たという男には妙な親近を感じてしまうことが多い。それは。

「ほうら。やっぱり、例の幼馴染が忘れなれないんだ」

無意識に思い出してしまっていた顔を当てられ、慌てて我に返った。

「ち、違うってば」

「本心突かれて焦ってる」

「もう、知らないっ」

からかうような声を振り切り、脱ぎ散らかした衣装をかき集めて立ち上がった。

「どこ行くんだい?」

「風呂屋!」

ぶっきらぼうに言い返し部屋を出ようとする背中に、お正ちゃんの笑い声が聞こえる。

「気をつけて行くんだよ。この廓の中でさえ、最近は物騒なんだから」

そんな忠告を聞きながら、私は見世を後にした。


 まったく。

心の中でため息をつきながら、昔話なんてするんじゃなかったと後悔した。

この遊郭では純粋な恋なんて、まるで御伽噺。お喋り好きなお正ちゃんに突つかれることなんて、ちょっと考えれば分かることなのに。

けれどつい口に出してしまうのは、廓に売られ、見知らぬ男の相手をしなければ生きてはいけなかったこの人生の、唯一の光であるから。

 彼と出会ったのは、まだ幸せだった十の頃。生まれた故郷の村の近くにある、すすきの茂る河原だった。近所に年の近い子供がいなかった私は、家の手伝いがなければ いつもそこで石を拾って遊んでいた。人形や鞠なんて高価なものはない。でも時間だけは無限にあった、あの遠い日。

 「お前、この辺りの奴か?」

そこで、彼と出会った。突然の声に驚いて振り返ると、そこには長い木の棒を手にした男の子が私を見下ろしていて

「そうだけど?」

おどおどと答える間にも、その体はこちらへとずんずんと近づいてくる。

所々が擦り切れ汚れているけれど良い布地の袴。ちょっとだけ釣り上がった目は少し鋭くて、きっと大人達からは生意気そうに見えたことだろう。

「ふうん」

背はそんなに高くない。並んでも、視線の高さは私と同じくらいだ。

「あんた誰?」

拾った綺麗な白い石を握りしめながら、目前の顔に聞いた。

「俺は平助、藤堂平助」

「すごい、お侍様?」

あまりに驚いた私は石を足元に落としていた。何故なら初めて苗字を持つ子供に出会ったのだから。

村の人々は、皆が互いを名だけで呼び合っている。村を治める庄屋や、たまにやって来る豪農の嫌味な親父には苗字があって、それは偉い人の印なのだとうっすらとだが知っていた。

「そうだ」

ちょっとだけ迷ってから、その目はきっと私を見つめ言った。

「俺の父上は、或る大名だ」

そう語った時の口調は、後から思えば自分に言いきかせるようであった。

「すごい、じゃあ将来はお大名様?」

「俺は、跡は継がない」

なのに、自分から言い出したくせに急にその顔はしゅんとしてしまう。利発な子ならここで理由をしつこく尋ねただろうが、昔からぼーっとしていた私にはそんな機転はなかった。

「へえ。よく分からないけど、すごいんだ」

目を輝かせたまま、ただへらへらと笑っていた。

そんな阿呆面を平助はちょっと複雑そうに眺めていたが

「ああ」

やがて、とても嬉しそうに笑った。

 それから、私達はその河原でよく遊ぶようになった。平助は足が早くて、猫のように木登りも上手い。

「本当に藤は鈍くさいな」

置いてゆかれる私をいつも馬鹿にしていた。

「だってぇ」

「ほら」

でも、取り残されて向かい岸で泣いている私に最後は必ずぶっきらぼうに手を差し出してくれた。

ずっと怖くて渡れなかった一っ跳びほどの川も、平助が引っ張ってくれれば何故か飛び渡ることが出来た。

「ありがとう」

「藤は俺がいないと駄目だな」

そう言って得意そうに笑う平助は、私の名前を気にいっていた。自分の苗字と同じ“藤”の花だから、と。

思えば、年下のくせにいつも彼は偉そうだった。まるで私を妹だとでもいうように。

 平助はよく河原で素振りをしていた。隣の村に二人で住んでる彼のお母さんは、日中は何かの仕事をしていて不在らしい。だから、日がなその特訓を見守るのが私の日課。それは退屈だけれど、何故か楽しい時間だった。

 「おい。偽侍が何かやってるぜ」

ふいに河原の上からの嘲笑を聞いたのは、そんな生活がしばらく続いた頃のことだった。

暮れようとした夕陽の中振り返ると、そこには粗末な着物を着た少年が三人ほどでこちらを見下ろしている。村の悪童共。乱暴でいつも女の子や体の小さい子供達をいじめていたから、私は彼等からはよく逃げ回っていた。

 「藤、向こうに行ってろ」

木の棒を振るのを止め、平助が私の体を押しやる。

「こんなところで、女と二人でおままごとかよ」

河原の傾斜を滑り下りてきた野太い悪い声に、思わず足がすくんでしまった。

誰もが体が大きくて、年も私達より大分上。後から思えばたかが子供同士なのだが、その時は本能的な恐怖に体が震えた。

「知ってるか? こいつ、自分が大名の落胤だなんて言いふらしてるらしいぜ?」

けれど、彼等が狙ったのは私ではなく、目の前に立つ平助だった。

らいくん? 当時の私には理解できなかたけれど、それが平助の顔色を変えた事だけははっきりと分かった。

「言いふらしてるんじゃない! 本当だ!」

突如あがった大声に、びくりと体が跳ね上がる。

「ほら吹くんじゃねえぞっ」

「お前のお袋が体売ってる事なんて、誰でも知って……」

からかいの一言は、鈍い音とともに静寂へと変わる。

嫌な汗が、背中をつうっと流れた。

「黙れぇっ!」

叫んだ平助が降り下ろした木の棒は、餓鬼大将の額に命中していた。

間近でそれを見ていた私のほうが、この事態に血の気が引いてふらついてしまったが

「この野郎があっ!」

遥か低い位置から叩かれた打撃は、大した怪我を彼に負わせることは出来なかったらしい。逆に振りかざした太い腕に、いとも簡単に平助の横っ面は張り倒される。

「や、やめてっ」

悲鳴ともつかない声を出したものの、この足は言うことを聞いてくれずその場に立ち尽くすばかり。

「やっちまえ!」

倒れた平助の体、容赦の蹴りが襲いかかる。ただ体を丸めて耐える細い体からは、いつの間にか赤い血が溢れ出していた。

「ぐうっ」という、人の声とは思えぬ呻き声に、私はようやく我に返る。

「平助をいじめないで!」

どうして臆病者の自分にそんなことが出来たのか不思議でたまらない。大人になってから同じ事をしろと言われても、きっと無理だっただろう。

けれどその時、確かに私は自分よりも大分大きくて怖い相手の腕に噛みついていた。

「痛ってえぇっ!」

肉を食いちぎらんばかりの力に、さすがの暴れん坊も悲鳴をあげる。

「おいっ」

そんな光景に、戸惑う仲間達。その時の私はさぞかし怖い顔をしていたのだろう。

「このっ、放せっ!」

私に噛まれた少年が反対側の手を振り下ろし、その打撃が私を頬から地面に叩きつける。じんわりと口内に広がる血の味を夢の中のことのように味わったのを覚えて。

「藤っ」

砂利の入った目でぼんやりと見上げた空。そこには、ボロボロになりながら立ち上がった平助が、気が狂ったように棒を振り回す姿が映し出されていた。


 「泣くなよ」

とっぷりと日が暮れた頃、私は傷だらけの平助の腕に支えられながら家路へとついた。

あれから、何がどうなったのか詳しくは覚えていない。見えたのは、何かを喚きながら逃げ去ってゆく悪童達の背中。どっと力尽きたように、私の傍らへと倒れ込んだ平助。私達は、そのまま長い時間 放心して空だけを眺めていた。やっと泣くことが出来たのさえ、それから更に後のはなし。

夕陽が丘の向こうに消えた頃、急に私は何かの糸が切れたようにしゃくり上げ始めた。やっと体に痛みを感じ出したからか、安心したからか。それとも漸く我に返ったからか。

とにかく、訳も分からず泣く傍らには、黙って唇を噛みしめる平助がいた。

 「帰るぞ」

空に月が上り始めた頃、そう言って私を立ち上がらせ、この手を引いてくれた。

「う、うっ」

もはや自分でも何が悲しいのかも分からず、砂利道を歩きながら私は泣いていた。

きっと一種の興奮状態で、特に意味はなかったのかもしれない。

「泣くな」

そんな姿に平助は何度も厳しい声でそう言った。自分のほうがひどい怪我で泣きたいだろうに、強がりもいいところだ。

「だって、痛いし」

事実、吹っ飛ばされた時に打った右腕は今になってじんじんと痛む。見れば肘のあたりを擦りむいて血が滲んでいた。

「すぐに治る」

「でも、痣になっちゃうかも」

本当を言えば、別にそんなのはどうでもよかった。お屋敷のお姫様ならいざしらず、将来は百姓になるしかない私の体に傷などあったところで何であろう。わざと同情をひくようなことを言ったのは、平助にちょっとでも優しい言葉をかけて欲しかったからかもしれない。

冷たくなってきた風が通り過ぎる貧しい風景に、しばし沈黙が流れた。いつも口だけは一丁前の奴が黙り込んでいるから、何かを怒っているのだと思った。仕方なく、私も駄々をこねるのを諦めて下を向き歩く。

「じゃあ」

「え?」

やっと隣から低い声が聞こえてきたのは、寒々しい私の村が見えてきたあたり。

「その時は、俺が嫁にもらってやる」

こんな風に、いつも平助は唐突だった。

しばらく意味が分からず、思わず歩を止めてしまった。

「いいな」

自分から言い出したくせに、何故か不機嫌に言う頬を死にかけの日が赤く照らしていた。

幼い時分、それがどんな意味を持つのかなんて本当には理解できるはずはない。ただその光景は、いつまでもいつまでも私の心の中に残っていた。

そのすぐ後に、女衒せげんがやってきて、私は銀子二十もんめほどで親に売られた。

連れられてきたのはこの世の地獄。それからの人生は、特に語る程のものはない。

そんな道の雑草くらいの価値しかない私を十年間支え続けたのは、間違えなくあの短い楽しかった日々だった。


 攫われるように上京が決まったから、別れを告げることもできなかった。

今頃、彼はどんな大人になっているだろう。背は伸びただろうか? まだ生意気な性格のまま? 私のことなんて忘れてしまったかな? こうして考え始めれば、思わず口許に笑みが浮かんでしまう。

そんな思い出に、少しだけ浮かれていたのかもしれない。風呂屋へと続く道の角を、不注意に飛び出してしまった。

「きゃっ」

唐突におとずれた衝撃。

「なんだあ?」

吹っ飛ばされて尻もちをついて見上げた視線の先には、大男が私を睨んでいた。

「あ、すみません」

状況に気がついた途端、鈍い体の痛みも消え去る。

道を歩いていた男とぶつかってしまったらしい。

ここは島原の敷地内。いくらまだ朝早い時間とはいえ、客と女郎がこんな風に接触してしまうなんて、有り得ない出来事だ。

「あーあー、大事な免許皆伝の腕になんて事してくれんの」

しかも朝まで飲んでいたのか、後ろから現れた数人の男達も含め誰もが酒臭い息を吐いている。

「申し訳ございません」

据わった目つきが、良い状況でないことを私に教えていた。周囲を歩く人々も足を止めこちらを振り返っているが、止めに入ってくれそうな人はいない。

その理由は、ここが人情とは無縁の遊郭内であるとともに

「なんなら大丈夫かどうか、お前で試し斬りしてやろうか?」

そうちらつかせる、腰の刀のせい。

にやにやとした表情から、無論それがこけ脅しであることは分かる。けれど、たった一人で彼等に囲まれている私にとっては生きた心地ではなかった。

「どうか、ご勘弁を」

どうにかこの場をやり過ごさなくては、という気持ちだけで下手に頭を下げてみたが

「三並先生の右腕は、我が国を救う宝ぞ。謝ってすむものか!」

酒臭い笑いを響かせながら、更におどけるように男達は私を威嚇する。

「お前のような下級女郎など普段は相手にすることすらないのだからな」

「逆に有り難いと思え」

浪人とはいえ、元はそこそこの身分の奴等なのかもしれない。私のような無力な者をいたぶることに慣れ切っている。

女郎として働いていれば、これくらい嫌な客など山ほどいる。いちいち傷ついたり、本気で悲しんでいては遊女なんて賤職は続けてこれなかった。

けれど、それは廓の中での話。どんな人でなしだろうと、決まった時間を過ぎれば去ってゆく。朝がくるまで、と思えばこそ我慢が出来た。

しかし、この連中は際限を知らないと見える。俯くしかない私の顔を無理矢理覗き込み、未だに何やかやと罵声を浴びせ続けていた。

「昨日抱いた天神はそれはいい女だったぞ」「お前みたいな売れ残りとは天と地との差だ」

浴びせられるにやけた言葉。無言ながら見せつけられる腰の刀。見て見ぬ振りの人々。

「どうだ、悔しかったら何か言ってみろ」

どうして良いのか分からず、さすがに惨めな気分に泣きたくなってしまった時だった。

「そのへんにしておけ」

背後からかけられた、少し高めの声。

「え?」

振り向いた先で、私は夢を見ているのだと思った。

「なんやぁっ、この餓鬼が!」

背後の大男が、反射的にいきりたつ。

「ええ恰好しいか?」

「やめとけ。先生は男には容赦せんで」

手下達の物騒な声も、既にこの耳に入っていなかった。

だって、この目の前にいるのは。

「平助?」

何度も思い出の中に思い描いていた、まさにあの少年だったのだから。

「え。……藤、か?」

倒れ込んだままの私を見つめ、見開かれる双眸。

あの頃より背が伸びて大人になった。けれど、すぐに跳ねてしまう柔らかそうな髪。ちょっとだけ猫背気味な姿勢。そして、生意気そうな瞳。

それは、間違いなく記憶の中の平助そのものだった。

「なんだ、馴染みの男か?」

そんな呆然と見つめ合う私達の関係を、酔った男達は勘違いしたらしい。確かに、こんな場所で顔見知りの男女がいたら普通はそう思うだろう。

十年前に江戸で別れたきりの幼馴染だなんて、自分でも信じられぬのだから。

「ええとこ見せたかったのに、残念やのう」

まだ化かされているようにへたり込む私を追い越し、草鞋が砂利を踏む音が平助へと向かう。

「一丁前に腰のもんなど差しよって」

「どこぞのもんだ?」

まさに壮年といった貫禄の男達は犬猫でも見るようににやにやと平助へと近づいていった。

その風貌は、仕立ての良さそうな着物に腰には大小を携え、総髪の髪と活き活きとした目と赤くて薄い唇。近頃よく見かける、旗本の三男坊が浪人となったかのようないかにもな優男風だった。

「ほうら、答えてみい。震えて声も出せんか?」

唖然と私の顔を見つめ続けていた平助は、自信満々といって風に自分を取り囲む男達に気づき漸く口を開く。

「ここは天下の島原遊郭。無粋な真似はせぬが良いだろう」

彼の放った言葉はその通りであった。ここ島原は、廓とはいえ幕府から公認された特別な場所。遊女の中でも最高位の太夫ともなれば、朝廷から官位を賜るのは有名な話だ。

ここを訪れるには客といえどそれなりの作法が要る。田舎者達が闊歩するようになり忘れ去られているが、島原の住人達は当然そんな輩達を心の中では軽蔑しきっていた。

「ああ? なんだとっ」

「恥を晒して歩いて、恥ずかしくないのかと聞いている」

「このっ」

男達が思わず言葉につまる。

本来、此処は日本広しといえど数少ない帯刀を許されぬ場所。現に、ほとんどの見世では最初に腰のものを預かってから中へとあがってもらう。何故ならば、それは粋ではないから。

とうが立った遊女とは違い、二十を少し過ぎた年なら男はまだまだ若造と呼ばれる部類。そんな若輩者に奴等は痛いところを突かれたのだ。

それを証明するように、三並と呼ばれた男の顔はみるみる茹で蛸のように真っ赤に染まってゆく。

「この俺を愚弄するか!」

チカッと刀の束に手のかかった音に、遠巻きに見ていた人々の口から思わず悲鳴があがった。

「本当のことを言って何が悪い」

「おのれ! 三並先生は、薩摩藩上士の……」

「藤堂先生!」

手下の男の怒声を、平助の後ろを追いかけてきた若い男の声が遮る。

「もう、何をされているんですか」

情けない声がこの路地に場違いにこだまするが、私の意識は彼が呼んだその名に向けられていた。

平助の姓は藤堂。いつか言ってくれた、私の名前と同じ花。その事実を私はきちんと覚えていた。

なのに、三並という男達や、遠巻きにこの様子を見物していた町の人々。その顔という顔がさっと青ざめてゆく。その名前で、何かに気づいてしまったように。

「藤堂、って」

陥ってしまった沈黙を破ったのは、私の背後に立っていたどこかの見世の下男。

「あの、新撰組の?」

ぽつりと呟かれた言葉は、私にとっては途方もなく現実味のないものだった。

新撰組。それは、ついさっきお正ちゃんとしていた噂話。今となっては遠い遠い存在の人達。

けれど、私は気づいてしまった。遊女達がひそひそと交わす世間話の中に、たまにその名があったことを。

『新撰組のトウドウはんは……』

まさか、それが自分の幼馴染の平助のことだと分からなくても、誰が私を責められよう。

それだけ、この再会は思いがけないものだったのだから。


 「なんか、ヘンなことになっちまったな」

ただっ広い座敷の真ん中で向かい合った平助は、バツが悪そうに頬をかきながら言った。

「ええ、そうね」

普段は私なんかが使わせて貰えない最上級の部屋。この茶屋を用意してもらえたのは、他でもない平助のお陰。

 あれから、平助の正体を知った見物客達は驚愕し、三並達は狼狽した。“薩摩”といえば新撰組とは敵対する存在。だからこそ、私も周囲の庶民たちも慌てふためいたのに

「今、揉め事はまずいいです」「引きましょう」

こそこそと話していたかと思うと、彼等は随分あっさり引き下がってしまった。

残されたのは、未だ地べたに座り込んだままの私と苦い顔をした平助。

やがて騒ぎを聞いてやって来た野次馬の中にウチの楼主もいて。あれよあれよという間に、こうして場所を設けられたという訳だった。

まるでこの数刻で天と地がひっくり返ってしまったような騒ぎだけれど、冷静になってみれば楼主の心積もりが分かるような気がしる。うちの見世に来るような浪人とは違う、今や雲上の客人。そんな平助との縁を何が何でも繋ぎ止めたかったのだろう。

「でも、びっくりしちゃった。あの新撰組の組長さんだなんて」

今や飛ぶ鳥を落とす勢いの剣客集団。こんな私とて名を聞いたことのある組織の長として名を連ねていたなんて。

だから勿論褒める意味合いで声をかけたのに。

「…いや。俺は今は新撰組じゃないんだ」

ぽつりと呟いた平助の顔は歯切れ悪く、私から顔を背ける。

けれど、確かに“新撰組八番 藤堂隊長”の名は私とて聞いたことがある。はて、どういうことだろう。

「俺が今いるのは、御陵衛士ってところなんだ」

首を傾げる私に、どこか苦々しい口調で平助は告げる。

「ごりょうえじ?」

何となく、聞いたことが有るような無いような響きだった。

「そう。新撰組とは考え方の違う人達が作ってる、伊東先生を中心にした集まりで……」

別に聞いてもいないのに何故かその口調は必死に思えたが、そもそも政治の話など私にはよく分からない。

だから平助がこの時どんな気持ちでいたのか。それを考えられるようになるのは、ずっとずっと後だった。

「つまり袂を分かったっていっても、協力しあえるところは大局的に……」

私を置き去りに続けられるここ最近の彼の身の周りの情勢は、正直ちんぷんかんぷんだった。こんな時、有名な太夫ならば余裕の表情で学を披露できるのだろうが、残念ながら私は少し将棋が指せるくらいの頭しか持ち合わせていない。

だから、何かを伝えようと一生懸命な彼に言うことが出来たのは

「でも、平助は平助なんでしょ?」

そんな、なんとも張り合いのない一言。

「え」

それまで閉じることを知らぬように動いていた唇が、はたと止まる。

だって、いくら新撰組から御陵なんとかになったからって、たった今あの悪餓鬼が立派なお侍様に変わった彼を見た私にとっては、大した違いではない。

そんな程度の軽い言葉だったのだが、平助ははっとしたように黙り込み私を見つめる。

「……そうか」

何か悪いことを言ってしまったのかと不安になった私の前でふっと気が抜けたように、平助は呟いた。

「え?」

「そうだよな」

それはまるで、自分に言い聞かせているようだった。

さっきまで少し険しかった表情が、あの頃のままの無邪気なものに変わってゆく。

へんな子。でも、こんな気儘きままは昔からだった。

「藤」

そういえば彼が自分より年下だったことを思い出し、つい笑いを噛み殺した私の耳に、今度は穏やかな声が届く。

「なあに?」

私も、つい私は昔見たいに返事をしていた。

「また会いたい。明日も」

それは、あの頃の平助がよく言った言葉。普段は意地悪ばっかりなくせに、空が暗くなって別れる時、必ず少し寂しそうにそれを伝えてくれた。

「あ」

そんな不意打ちについ言葉を失ってしまう。私達を取り巻く世界は、十年前とはあまりに違ってしまっているのだから。

それでも。

「また、藤に会いに来る」

そう照れたように口を尖らす平助に、いつも私は黙って頷いていたのだった。


 「今日も呑気そうな顔してるな」

襖を開けた平助が、私の顔を見るなり開口一番にそう言う。

「こんな顔なのは昔っからって知ってるでしょ」

「そうに違いねえ」

あれから彼は、一日と置かず私の元へやって来るようになった。勿論、遊女に会うには遊郭の客となるしかない。つまりは、私の客として。

「適当に酒と肴持ってきてくれよ」

「ああ、もう脱ぎ散らかさないで」

けれど、私達が“買う者”と“買われる者”の関係になることは一度としてなかった。

自分の屋敷のように羽織を放り投げる彼の後を追いながら小言を言うのも、もう慣れっこ。

「やっぱり、ここが一番落ち着くな」

本来は男女の同衾用の布団にだらしない恰好の体が転がり込む。ここを実家か何かと勘違いしているのではないかと最近では思うほどだ。

「ほら。そのままじゃ、また寝ちゃうでしょ」

衣紋掛けに羽織を掛けながら睨んでみても、寝転んだ背中は無言のまま。

「もう」

諦めて食事を頼むために背を向けると、後ろからくすくす笑いをこらえる気配を感じた。

遊女と客という関係、廓という場所。そんな状況なのに、平助と一緒ならばここがあの夕暮れの河原のような錯覚に陥ってしまう。

平助は、今の私が何を生業としている者かすぐに察しただろう。やもすれば軽蔑されて仕方ない境遇なのに、翌日から当然のように客として現れ、ただ世間話をして帰ってゆく。

彼は、私の立場については何も言わない。それはまるで『平助は平助でしょ』と言ったお返しとでもいうように。

 「毎日じゃ申し訳ないわ」

隣で手酌で酒を飲む横顔に、思いきって言ったみた。

今の平助にとっては大したお金じゃないのかもしれない。けれど、私に会うために使うには随分と無駄なもののはずだ。

「藤に会うには、こうするのが手っ取り早いだろう」

すでに何度か聞いた言葉を繰り返す。

「でも」

「俺とこうしていれば、藤が他の男に……」

言いかけた私を遮るように、少し早い口調。

「え?」

聞き取れなくて顔を近づけたけれど

「おまたせしました」

それは襖を開けた下女によって遮られてしまう。

「ああ、ありがとう」

盆にのせられた肴を受け取りながら平助の顔を盗み見てみたが、もうその顔は続きを話してはくれなかった。


 こんなやり取りを、既に私達はもうひと月も続けていた。

それはそれは奇妙な関係に周囲からは映っただろう。正直、器用良しでも気が利く訳でもない年を重ねた女郎。そんな女の元へ今やどんな遊女だろうと手に入れられる武士が通いつめている。

平助が例の幼馴染だと知ったお正ちゃんは大興奮し、若い子達は悔し気に私を睨みつけてきた。客観的に考えてみれば、確かに僥倖以外の何ものでもない。これが他人の身に起きたことならば、私だって夢のような物語にうっとりしただろう。

けれどこれがこと自身のことになると、何故か実感がわかなかった。毎夜毎夜やってくる平助と昔語りをして、食事をするだけ。この平凡すぎる繰り返しが、まるでずっと続いていたのではないかと思うほどに。

 そんな奇妙な日常に、いつの間にか私も慣れきっていた頃。

「たまには外に出てみるか」

唐突に、平助はそんなことを言った。

「え?」

「ずっと籠っていたら、藤だって面白くないだろ?」

脇に兆子を置きながら当然のように告げる顔を見返し、しばしその意味を考えた。

「島原から出る、ってこと?」

「どうせなら、昼から出掛けようぜ」

当然のように話を進められるけれど、そんな状況を私はすぐに受け止められない。

それは、いつも境界だったあのさらば垣を超え、この廓から十年ぶりに外の世界へ出るということ。とてもじゃないが、戸惑わない訳がない。

「でも」

「今日の帰りにでも、ここの主人に話をしておく」

なのに、その本人は言い募る私の気持ちなんて気にも留めない態度。

きっと、酔った勢いで言ったのだろう。ご機嫌で酒をあおる平助に、面倒になった私はそれ以上この話題を続けることはやめた。


遊女の野遊び。という言葉がある。

厳密にいうと島原の遊女は、吉原や新町のように外出をそれほど厳しくは制限されていない。


「じゃあ、これを渡すんだよ」

番頭に渡された木札から目を上げると、見世の外で既に平助が私を待っている。こんな明るい空の下で彼を見るのは、なんだか不思議で懐かしい気がした。

「ほら、早く行くぞ」

やっぱりぶっきらぼうな声に、恐る恐る足を踏み出す。

「いいなあ、楽しんで来るんだよ」

背後からは、入口からこちらを覗いたお正ちゃん。見えないけれど、他の同僚達もこちらの様子をどこかから見ているだろう。

あんな話をした翌々日、あっさりと私には外出の許可が下りた。それが平助が楼主に掛け合った結果なのだとは、少し考えてから気がついた。

「え、ええ」

木札を握りしめ、平助の傍らに駆け寄る。一歩、また一歩と島原の出口へと近づく。

門番に木札を渡すと、呆気なくその先へ通された。あの木札がお金に換わるのだという。

銀子二十匁でここに売られてきて十年。初めて、私は島原の外へと出た。

 「わあ」

別になんてことはない。廓の中だろうと外だろうと、同じもののはず。

けれど、その時に見た空はあまりにも高く広く、そして青かった。

こんなことが許されたのは、きっと平助が世間に名を轟かせた侍であること。それにうちが小さな小さな見世だったからだろう。いくら相手が偉くても、大見世の太夫ならば、こうはいかない。彼は私の見世が数年はやっていけるくらいのお金を、ここ何日かだけで使ってくれていた。

「あの御方をずっと捕まえておくんやで」とは、いつだったか酔って上機嫌になった時に楼主にふくまれた言葉。あの様子からすれば、私に今回の特例を出してくれたことも納得がいった。

 「どうした?」

とはいえ、その張本人はといえば特に何も考えていなさそうだった。

すたすたと島原を離れる振り向き顔には何の感動もない。それはそのはずで、彼にとっては“こっち”が居るべき場所。私の身を置く遊郭こそが、ふらっと足を向ける気まぐれなのだから。

 その日は、名所を回って、途中で昼飯を食べた。京に住んで十年にもなるというのに初めて神社やら仏閣を見て驚く私を、平助はただ微笑んで見てるだけだった。

これが夢なのだと、自分の足で歩きながら思った。ずっと籠の鳥のはずだった私が大手をふるって陽の下を歩くなんて、悪い夢でなくて一体なんだというのか。

 「俺、この辺りに住んでるんだ」

歩き回ってさすがに疲れた夕暮れ、ふと平助が呟いたのはとある寺の手前だった。

「え?」

今日観てきたものに比べれば小ぶりな門構えの中に、すたすたとその背中は入って行く。

高台寺

山門にはそんな名が掲げられていた。

「平助は、何の仕事をしているの?」

敷地を横切りながら歩く背中を追いかけ、今まで聞いたことのなかった問いが自然に口から出ていた。

別に詮索したかった訳じゃないが、私は島原にいる時以外の平助を何も知らないのだと、初めて気がついたのだ。

「それは、難しい問いだな」

ふいに立ち止った横顔は、夕陽に照らされたせいか別人のように見えた。

「難しい?」

自分の仕事なのに? 不思議な思いで首を傾げても、勘の悪い私を馬鹿にするようないつもの意地悪は影をひそめたまま。

「最初は信念があったはずだった。なのに、今は自分が何のために ここに居るのか分からない」

零れた言葉の真意など私には分からないが、寄せられた眉間の皺がその苦しみ深さを物語っている。

それはきっと新撰組を離れたという話と関係あるのだと、何となく察せられた。

「平助は……」

正直、私には何を言って良いのかなんて分からない。それでも、今ここで平助に声をかけてあげなければいけない気がした。そんな謎の焦燥感にかられ、口を開きかけた時。

「藤堂」

中途半端な唇は、別の声によってかき消された。

「あ」

驚いて振り向くと、そこには背の高い痩躯の男が立っていた。

整っているものの、神経質そうな容貌。全身から滲み出るその凄みは、戦いのことなんてまるで素人の私から見ても、この人は人を斬ったことがあるのだと感じ取れるほどだった。

「よお」

けれど意外だったのは、そんな彼に対してあの平助が当然のように手を上げ応えたこと。

私の中では、河原を駆けていた少年と、この恐ろしい男がどうしても結びつかないでいた。

「知り合いか?」

私の動揺など知る由もなく、あの冥府の番人のような男が近づく。

「ああ、餓鬼の頃の幼馴染なんだ」

そう紹介されたから、慌てて小さく頭を下げる。

「これは斎藤。俺と一緒に新撰組から御陵衛士に移ってきた奴なんだ」

小さく頭を下げると、彼もあの鋭い目で目礼をしてくる。

そんな説明で私のことをどう理解したのかは分からないが、この全て見透かしたような目には心の中まで覗かれているのではと怖ろしさを感じるほどだった。

「どこかに行く予定だったのか?」

「ああ、出してた刀を受け取りにな」

それでも平助は平然と彼と視線をあわせている。

「そうか。じゃあ俺達もつきあうか」

そして、勝手にそんなことを決められてしまった。

「え」

「島原のすぐそばの店だ。送りがてら、いいだろう」

あっけらかんと言われるけれど、この斎藤という人物と出会ったばかりの私には素直に頷けない。きっと何度会ってもこの恐怖心は拭えないのではないかと思うほどだった。

「いいだろ?」

でも、そう明るい笑顔で言われてしまえば、本人を前に断ることも出来ない。

「え、ええ」

気まずく承諾する私に、能天気な平助は何も気づかず、斎藤さんはやはり無表情のまま、奇妙な三人組で歩き出すことになってしまった。

 その道々は、ひたすら何かを楽し気に話す平助にただ私が頷き、隣の斎藤さんはまるで我関せずという風に黙りこくっていた。かといって男二人は仲が悪い訳でなはく、それどころか同い年と聞いた時は、十は年が違うだろうと思い込んでいたので驚いてしまった。

試衛館という新撰組の前身である江戸の道場の話。京に来る道中のこと、壬生浪士隊を結成した頃のこと。それらを語る平助の顔は活き活きとしていて、そんな顔をさせるなら斎藤さんはこう見えて悪い人ではないのかもしれない。

「同い年は、二人だけだったの?」

少しずつ斎藤さんにも慣れた私は、島原が近くなった頃、漸く彼等の会話に参加することが出来た。

「いや、もう一人いた」

あっさり答えたのは、意外にも斎藤さんのほう。

「そう、なんですか」

「ああ、化け物みてえな奴がな」

軽く相槌を打った平助の表情はどこか複雑そうなのに、決して嫌そうではない。

そもそも、世の中で世情に疎い私でさえ平助や斎藤さんが名を轟かせる剣客であることは知っている。そんな人が化け物と評するとは、一体どんな人物なのか。

そんなことを思い、こくりと首を傾げた時だった。

「おいおい、本当かよ」

ふと顔を上げ、路地の向こうを見つめた平助が信じられないように苦く笑う。

「噂をすれば、というやつか」

斎藤さんまで意味ありげに呟くから、何かとんでもないものが現れるのではないか。そんな不安から、少し躊躇い目を向けた先には

「あれ、奇遇ですねえ」

気の抜けた顔でへらへらと笑う青年の姿があった。

「え?」

「おい、今は敵同士。立ち話なんてよくないだろ」

「いいじゃないか、せっかく久しぶりに会ったのに」

立ち尽くす私の前で、眉をひそめる平助と、やっぱりのほほんと微笑むまだ少年の面影を残した人。

「藤。こっちは沖田、新撰組での同僚だ」

ぽかんと成り行きを見守っていた私は、我が耳を疑うこととなった。

「沖田、様?」

だって、“新撰組”で“沖田”といえば、そこから導かれる人物は。

「あ、お連れさんがいたんですか」

こちらに向けられる目は明るく輝き、平助よりもっと年下に見えるかもしれない。

世間の汚さすら知らなさそうに微笑む人が

「沖田総司といいます」

あの、世に聞く鬼だなんて。

「……は、初めまして。平助の昔なじみで、藤といいます」

つい言葉が震えてしまったのは気づかれなかっただろうか。

「へえ、そんな人がいたんだ」

攘夷派にとっては怖れの名、幕府方にとっては誉の旗。その武勇と人並外れた強さは、すでに生ける伝説と化している。

この人の恐ろしさを知らぬ者は今やいないだろう。私の客だった長州の浪人など、酔った拍子に彼の名を聞いて震え出したほどだ。

新撰組一番組長 沖田総司

その人は他の誰とも違わぬように、あの幕末の日、確かに私の目の前にいた。

「大体、なんでお前がこんな場所にいるんだよ」

「そこに新しい甘味屋が出来たんだ」

「供もつけずにうろつく馬鹿がいるか」

目の前で平助とくだらないやり取りをする様子は、そこいらの友人同士となんら変わらない。

「とにかく、こんなところを見られたらお互いに密偵の疑でもかけられる。さっさと帰れ」

周囲に目を配った冷静な斎藤さんが諭したところで、この偶然の出会いはお終いとなった。

外から会話だけを聞いていれば随分と気の置けない関係。斎藤さんとてその口調は柔らかい。

元々は、同じ釜の飯を食べ同じ夢を目指した同志。けれど今は、新撰組に残った沖田さんと、飛び出した平助と斎藤さんという立場に隔てられてしまっている。どうしてか、そんな間柄を関わりのない私が寂しいと思ってしまった。

「はいはい」

素っ気ない斎藤さんの言葉に沖田さんがわざとらしく肩をすくめ、この瞬間からまた三人は敵同士に戻る。

「それじゃあ」

私に小さく会釈をして、この横を通り過ぎてゆく飄々とした姿。少しだけ名残惜しそうな表情をみせる平助、やっぱり無表情のままの斎藤さんの前を横切り、沖田さんは一陣の風のように去っていった。

「俺も、ここで別れる」

その時、私がふと感じた疑問を形にする前に、斎藤さんが平助に声をかけた。

「ああ。それじゃ」

気軽に応じる平助もいつも通り。この二人は沖田さんと違いまた会うことが必然なのだから。

だけど……。

「どうした? ぼうっとして」

斎藤さんが愛想なく去っていった方向を釈然とせず眺めたままの私に、平助は不思議そうに声をかける。

「斎藤さんと沖田さんて、どれくらい会ってないの?」

更にそんなことを聞けば、その顔は怪訝なものになった。

「俺と一緒だから、春に別れて以来だろう」

季節はすでに秋が深まっている。

「なんだよ、そんなこと聞いて」

「ううん」

うまく言葉には出来なかったから、私は大人しく口を噤んだ。後から思えば、何かを感じたのは女の勘というやつだったのだろうか。

すれ違った瞬間の斎藤さんと沖田さんの雰囲気が、なんというか平助に対するそれとはどこか違う気がしたのだ。

「ほら、行くぞ」

そんな私を呆れたように振り返り、何も気づいていない平助は右手を差し出す。

その先には夕焼けの河原ではなく、島原の大門が私を待ち受けていた。


 平助とあんなに自由に会えたのは、うちが弱小な見世であったことと、彼自身が名の知れた剣客だったからだろう。ともすれば遊郭の中だけで会っていても足抜けしてしまう客と遊女がいる中で、平助にはその心配がない。

 「壬生狼さん、揉めとるらしいな」

帳場にたむろっていたの下男達の会話を、ふと耳に挟んだことがある。

新選組とたもとを分かった伊東派とよばれる御陵衛士。表向きは話し合いの末、という事になっているが、それが建前であることは皆が知っていた。新選組は伊東達を「裏切り者」と罵り、逆は「時代遅れ」と陰口を叩いているというのは、私が疎いだけで有名な話だったらしい。

誰も公然とは口にしないが、それはべっとりとした影のように不気味にこの京の町をおおっていた。

だから逆をいえば、そんな注目を集める平助が女にほだされて駆け落ちなどすることなどあり得ないのだ。目立ちすぎるし、天下の一大事を捨てて冴えない遊女にかまけるようなつまらぬ武士ではない。その心があればこそ、うちの楼主も安心して私の外出も許してくれていた。


 「明日の夜、出られるか?」

ふいに平助がそんなことを呟いたのは、もう風も身を切る寒さとなった暮秋の頃。

「ええ、大丈夫だと思うけど」

言えば許可はもらえるだろうが、それは珍しいことだった。彼とは夜ここで会い、都合のあった昼に出掛けるのがこれまでのお決まり。

「それじゃあ、夕暮れにあの銀杏の木の下で待ち合わせだ」

告げられたのは、この島原を出て少し歩いた所にある神社のことで、小さな社だが私の両の手を広げて間に合わないくらい太い銀杏の木がある。何故か平助は、その老木がお気に入りだった。

「分かったわ。でも、なんで」

「じゃあ、決まりな」

急にそんな時間に? と聞きかけた私の問いはあっさりと遮られてしまった。

問いただそうと思ったが、どうせ無理だろうと諦めた。気儘な平助のこと、私がムキになって聞けばどうせ面白がって教えてはくれまい。

「明日も寒そうだから、温かい恰好して来るのよ」

目の前の食べ散らかした皿を片付けながら言う私に、何故かその寝転がった横顔はにやにやと笑っていた。

 翌日。息をきらせた私の目に、ようやくあの銀杏が見えてきた。もっと早く着くはずだったのに、お正ちゃんに頼まれた用事に時間がかかり、出るのが遅くなってしまった。

ここからが本番と、灯り始めた島原の街を後にする行為は、なんとも不思議な気がした。

夕方と言われたけれど、すでに夜のとばりが下りる時間。すっかり暗くなってしまった神社で、平助は怒っているだろうか? 拗ねる姿を想像して、顔をしかめながら苔で覆われた石階段を駆け上る。

しかし、到着してみれば、闇が忍び始めた銀杏の前に目的の姿はなかった。

「あれ?」

いくら近づいて目をこらしてみても、やはり人影すらない。樹木の前に立ったまま、私は拍子抜けしてしまった。

けれど、すぐに急な不安に襲われた。まさか、怒って帰ってしまったのだろうか。いや、それなら良い。まさか途中で何かあったとか。もしや私が日にちか時間を聞き間違えたのだろうか。

どんどん暗くなってゆく空と、真上から聞こえる鴉の不気味な鳴き声。そんなものに、この胸はざわついた。

どうしよう、御陵衛士の屯所まで行ってみるべきか? それとも見世に一度戻ったほうがいいだろうか。

回らない頭で必死に考え込み、とりあえず階段を引き返そうとした私は

「わっ!」

「きゃああああ」

ふいに背後から添えられた腕に、大声を響き渡らせていた。

「驚きすぎ」

びっくりして腰が抜けかけた背後から、聞き慣れた声がする。

おっかなびっくり振り返った先には、笑い過ぎて顔を真っ赤にした平助の顔があった。

「なっ」

「ほんと、子供の頃から成長してないな」

お腹をかかえてケラケラと笑い続ける苦しそうな顔。

その時になって、ようやく私は状況を理解した。

こいつは、悪戯をするために隠れていたのだ。この寒い中を、恐らく何時間も。

「もうっ、なに考えてるのよ」

それに気がつくと、怒りよりも馬鹿らしさのほうが勝ってしまった。

「藤の驚いた顔が見たくて」

目に涙すら浮かべながら語るのは本音なのだろう。そういえば、十年前もよくこうやってからかわれた事を思い出した。毎回毎回同じ手法に引っかかる私を今と同じように平助は笑っていた。

「もう、知らない」

そして、私が本気で怒ってみせれば。

「悪い、悪い。もうしない」

口だけ取りなすように謝って、いつもより優しくこの手を取る。子供の頃とまったく違わぬ仕草で。

その顔を睨みつける私は、当時とは大分変わってしまったけれど。

「行こう」

こうして手を引かれれば、どうしてかすぐに怒りなどどこかへいってしまう。

まるで、あの夕焼けの河原で二人手を繋いでいた時と、同じように。

 「ねえ、どこ行くの?」

その日。平助は私をいつもはあまり行かない方角へと連れ出した。

鴨川のほとり。川でも見たかったのかと思ったが、それならば昼間でも良かっただろう。

「秘密」

幾度聞いてみても、こうして少し振り向いた何かを企む笑みが返ってくるばかり。

「もう」

普段は廓の中で大して歩きもしない私にとっては、それは大分長い距離に感じられた。鼻緒が食い込んだ足は痛いし、風に煽られて髪もぼさぼさ。なのに少し前を行く背中は、気遣ってくれる素振りもない。

こんな扱いは慣れているけれど、そろそろ私だって堪忍袋の緒が切れる。ただでさえ寒い冬の真夜中に、一体どこへ行くというのか。遂に文句の一つもその背中にぶつけてやろうかと思った、その時だった。

「え?」

目の前に、白い破片がひとひら舞った。

雪? 今の季節を知っていれば、そう思うことが自然だろう。けれど、それは違っていた。

「こ、れ」

平助の背中だけを追いかけていたから気がつけなかった。

その体がよけた先に、白い白い世界がひらけている。

「桜?」

そう、それは間違いなく桜の花弁だった。

「すごいだろ。狂い咲きらしい」

隣から聞こえる平助の得意気な声に返事も出来ず、ただその光景に見入ってしまう。だって、こんな寒い中で春の花が咲いているなんて、とても信じられない。

今が盛りと咲き誇った、白く淡い光。微かな風が吹く度、冥土へ誘うように花びらが舞って、見ているだけでどこかへ吸いこまれてしまいそうだと思った。

それは、まさに現でうつつはない。その時、確かに私はあの世と現世の狭間にいたのだ。

 「どうだ、綺麗だろう」

こうして少し照れたように話す平助の声だけが、私をその場に繋ぎ止める。

「ええ」

彼がこんな場所に来た理由を、ようやく理解した。これを私に見せるため。二人で、並んでこの奇跡を眺めるため。

「ありがとう」

桜にあてられ珍しく素直に微笑んだ私を見る目が見開かれる。

「まあな」

頬をかきながらあっちを向かれてしまったけれど、この心の中でははある気持ちがはっきりと形となった。

私は、平助が好きだ。

本当は、もうずっとずっと昔から好きだった。でも、もう会うこともない人、叶わぬ夢だからこそ無責任に戯れていた。

でも、今だからこそ自信を持って言える。

どこまでも真っ直ぐで、意地っ張りで、強くて、苛烈で、怒りっぽい、そんな平助が、私は好きだ。幼い恋心ではなく、一人の女として。

「……寒いな、行くか」

じっと桜を見つめていた横顔が、ぶっきらぼうに言う。

「ええ」

「風邪ひいちまうな」

さっきと同じようにこの手を握る指先は冷たくて、この手があの大きな刀を振るっているなんて未だに信じられないような気がした。

「そうね」

私が何となく呟いた後は、静かな沈黙が訪れる。

刻は夜。幻の桜の木の下。ここに居るのは手を繋いだ二人きり。

隣の平助は黙ったまま。何か私からの言葉を待っているのだろうか。

ひらりひらりと、散らばる花びらは私達の心のよう。大切なものほど上手くつかまえられない。

一介の遊女である私が想いを告げるなんて図々しいだろうか。それに、もしも平助にその気がなかったら、もう明日から私には会いに来てくれなくなるかもしれない。

平助は、私をどう思っているのだろう。同じ気持ちで好いていてくれるなんて都合が良すぎるだろうか。でも、もしも、それでも……。

色んな想像が頭の中を巡って、この寒いのに悶々と考え込んでしまっていた私は

「あ」

ふいに歩をゆるめた平助の背中に危うくぶつかりそうになっていた。

危ない。 つい出そうになった声は寸でで止まる。

彼が少し驚いたように見つめる先に視線を向ければ、桜を挟んだ反対側から二つの人影が現れる。まさか幽霊かと咄嗟に平助の袖を握ろうとしたけれど、意外なことにその影に私は見覚えがあった。

三つ又に分かれた道。その左手側。ふいに月が雲間から顔を見せた。

少し離れて歩く、二人の男女。それは、あの時会って以来の新選組の沖田総司だった。

どうして、という疑問が沸き上がる前に私の目線はその後ろを歩く女性に奪われていた。

透き通るように白い肌、造り物のように整った目鼻立ち、どこか物憂げな沈んだ眼差し。白い着物をまとう人は、島原の太夫でも敵わぬような、それは美しい人だった。

その光景に見とれていたから、右手側から近づくもう一つの影に、今度こそ私は飛び上がりそうになった。

木の影から現れたひょろりと高い背。これまた、以前に挨拶を交わしたきりの斎藤一その人だ。

真っ直ぐに前だけを見据える視線は、私達や沖田さんの姿などまるで見えていないよう。前回と同じさすがの無表情なのだが、ただ今回は違うことが一つ。その傍らには、ちょこんと小柄な少女が寄り添っていた。

一見すると、まるで兄と妹のよう。けれど、まさか兄妹でこんな場所を歩くはずはない。ということは、好きあった者同士……なのだろうか。

まだ世間のことも知らぬ年端もゆかぬ少女。失礼ながら、手練れの斎藤さんに上手くかどわかされているのではないかと心配になる。勿論、大きなお世話とは分かっているのだが。

しかし。まさか、こんな時間にこんな場所で知り合い同士が顔を合わせるなんて。

一瞬、待ち合わせか何かだったのかと疑ったが、前の平助は気まずそうに頬をかいただけ。ばつが悪い時の、子供の頃からの癖だ。

だとすると、これは本当に偶然だったらしい。そんなこともあるのかと、何だか逆に感心してしまった。

けれど、もう二度と交わるはずのなかった私と平助が再び出会ったのだ。そういうことが多々起きるのが、もしかしたら人生というものなのかもしれない。

 そんなことを考えながら桜の下をくぐり、沖田さん斎藤さんとすれ違い、私達の足はやがて鴨川のほとりへと辿り着いていた。

「驚いたな」

やっと平助が口を開いたのは、川のせせらぎが聞こえてきた頃。

「お二人に会ったのは、偶然だったの?」

「当たり前だろ。こんな場所であいつらになんて会いたくねえ」

そう大きなため息がつかれる。やはりあの顔合わせは平助にとっても相当に意外なものだったらしい。

「でも、なんだかヘンなかんじ」

「うん?」

もう姿の見えない背後を振り返り呟くと不思議そうな声を出された。

「連れていた女の人よ。組み合わせが逆ならしっくりきたのに」

大人っぽい斎藤さんには、あの凛とした美しい人。幼さの残る沖田さんには、可愛らしい小柄な少女。そんな並びなら、きっと誰が見たってお似合いだと思うだろう。

「こればっかりは当人同士にしか分からないさ。少なくとも、斎藤はあのチビに相当入れ込んでる」

「知ってるの?」

「いつも奴を待って高台寺の辺りをウロウロしてるからな」

楽しそうに話す平助の口ぶりが、斎藤さんの隣にいた子とは親しい間柄であろうことを感じさせた。

「沖田さんのお連れの方も?」

「あっちは知らなかったな。あんな美人捕まえるなんて、あいつも隅に置けねえな」

今は対立する、世間に知られた剣客同士。けれど世話話になればそこらの町衆と変わらぬようだとつい微笑ましくなってしまったが、ふと気づいてしまった。こちらがこうして話しているということは、向こうでも私達の噂話をされているかもしれない。

他の人から見て、私と平助は一体どんな間柄に映ったのだろう。

一度は影を潜めたはずの悶々とした気持ちが、再び胸に沸き上がってきてしまった。何を思ったのか、平助も申し合わせえたように口を閉ざしてしまう。

見上げれば空は星月夜だった。

場所は、かなり川の上流に達しただろうか。半口を開けて月を見上げていた私の視界に、二階造りの建物が現れた。

こんな場所に旅籠だろうかと思ったのは一瞬で、この辺りには知る人ぞ知る出会い茶屋があるのだと、いつか噂で聞いたことがあった。きっと、あれがそうなのだろうとはいえ、日々を遊郭に身を置く私にとっては別段なんとも思わない。

少し物珍しく、遠目に茶屋を眺めていただけだったのに

「え」

突然隣から握られた手に、不覚にも狼狽えてしまった。

驚いて見上げれば、半身を向けたままの平助の顔は見えぬ。有無を言わさず進む足取りは、よくよく考えれば茶屋のほうへと確かに向かっている。

もしやそういうことなのか、と鈍い私は今更ながら気がついた。

説明するまでもない、男女が密会する空間。そこに連れ込まれるということは……。

そんな行為自体には飽きるほど慣れている。遊女にとっては、飯を食べるのと同じくらい日常のこと。

なのに、この手を取っているのが平助だという事実が私を混乱させた。これは本気なのか、ならばどうして見世ではなく今? そもそも、平助は私をどう思っているのか?

次々と疑問は溢れるけれど、引っ張られる力について行くのに精一杯で上手く頭がまとまらない。気がつけば、そのひっそりとした影のような建物はすぐ目の前だった。

されるがまま茶屋が近づく。その背後に見える月がやけに大きく感じたのを覚えている。

一歩、また一歩。足音に共鳴し、心の臓がドクドクと高鳴った。その入口まで、あと数歩と迫る。

「あ」

だが、この手を握りしめたまま、平助はそこを通り過ぎていった。

呆然とするうちに、茶屋は遠ざかる。

「平助」

相変わらず強い手の力に抗議できるようになったのは、更にしばらく歩いた頃だった。

「ああ、悪い」

そう言って緩めたものの、離されることはない熱い手。言いたいことはあるのだが、「どうして茶屋に入らなかったの?」なんて女のほうから聞けるはずはない。

でも、あの時の平助は間違いなく何かの一線を越えようとしていた。その気持ちは、この繋いだ手と手から自然と感じられていたから。

いつの間にか道を引き返した私達の足は再び島原へと向かっていた。

「……今、俺は金を払って藤を連れ出してる」

「ええ」

ぽつりと当然のことを言う背中に静かに相槌をうつ。それが幾らかは知らないが、きっとかなりの花代を楼主に渡しているはずだ。

「それじゃ、金を払って藤を“買う”ことになる」

「買う?」

やっと平助が語ってくれた本音は、どこか拍子抜けするものだった。

私にとって“買われる”ということは当然のこと。むしろ誰かに買ってもらわねば生きてゆけぬ。

「そんな関係は、嫌なんだ」

なのに、平助はそう言い切る。

正直に言えば、女にとってはどんな形だろうと抱かれるという事実に違いはない。ましてそれが好いた男なら、そこが地獄だろうと極楽だろうと、売買だろうと関係ない。

「客の俺が女郎の藤を買うなんて、そんなの嫌なんだ」

それでも、平助は駄々をこねる子供のように言葉を続けた。

それは、殿方にとってそれほど大切なものなのだろうか。誇りとか、こだわりとか、見栄とか。私にはよく分からない。

「だから、もう少し待ってくれ」

弱まっていた手に力がこもり、それが口下手な平助の想いや葛藤を伝えているようだった。

「……うん。分かった」

そう呟いたのは本心でもあったし、実はちょっと呆れてもいた気もする。

私達の会話が終わる頃、煌々とした島原の街の灯りが蜃気楼のようにぼんやりと近づいていた。


 翌日も私は平助を会う約束をしていた。こんなに私とばかり会っていて仕事は大丈夫なのかと、そちらのほうが心配になってしまう。

夕刻には用事が終わると聞いていたから御陵衛士の屯所を訪ねたのだが、まだ帰ってきていないという。

「また来ます」

じろじろと向けられた視線から逃げるように、私は仕方なく近くの寺に足へと向けた。

何度か散歩で来たことのある高台寺は相変わらず静かに夕雲の下佇んでいたが、山門を潜ったと同時にばさばさという羽音がどこかから届いた。目を向ければ、紅色の着物を着た少女が境内の鳥を追いまわして遊んでいる。そこそこの年だろうに、まるで子供のような行動に思わず吹き出してしまいそうになってしまった。

けれどその横顔が傾き僅かに顔が見えた時、「あっ」と思わず声が漏れる。それは昨夜あの狂い咲きの桜の下で見た、斎藤さんの隣にいた女の子だった。

「あの」

そんな偶然の出来事に、深く考えもせず私はその背中に近づき声をかける。

びくりと振り向く、まだあどけなさを残した純粋そうな顔。彼女のほうもしばらく不思議そうに固まっていたけれど

「あ」

はっと丸くなった目が、私の記憶が間違えでなかったことを証明してくれた。

「あ、やっぱり。斎藤さんの」

更に歩み寄ると、小さく会釈した唇が開く。

「……あの。なつめっていいます」

そう少し遠慮気味に挨拶を交わしたのが、棗ちゃんとの出会いだった。

 それから、私達は少し話をした。

といっても、後から考えれば一方的に私が質問をぶつけていたように思う。だって、この幼い少女と人生を達観してるような斎藤さんの関係はやっぱり不思議だったから。

戸惑いながらも、棗ちゃんは私の好奇心に丁寧に答えてくれた。

「あの、父の店に出入りしてたお客さんで。今日は、ちょっと買い物に」

「そうなの」

だが、話を聞くとそれほど不自然なこともなかった。なにより彼女が斎藤さんのことが本当に好きなんだという気持ちが、言葉の端々から感じられたから。

本当はもっとお喋りをしたかったけど、それは当の本人の登場により終焉となってしまった。

ふらりと現れた境内に現れた細長い影。あの夜桜の中では神秘に拍車がかかっていた姿もこの夕空の下では幾分人間らしく見える。もしかしたら、棗ちゃんの話を聞いて少しはその素顔に触れられたからかもしれない。

「こんにちは」

「ああ。藤堂も、屯所に戻って来ていたぞ」

会釈をする私に、素気なく斎藤さんは言った。

「ありがとうございます。棗ちゃん、またね」

やっと平助に会えるという浮かれる心を気づかれないよう頭を下げて立ち上がる。すると棗ちゃんも小さくお辞儀をしてくれて、その仕草が何ともいえず可愛いと思った。

少し呆然とする二人を残し、平助に会うため私は高台寺を後にした。


 縁とは不思議なもので、一度会うとその後何度も私達は顔をあわせた。

平助を待って高台寺へ行くと、やっぱり暇そうに境内を駆け回っている細い細い背中が見える。

「棗ちゃん」

「あ、こんにちは」

振り返った彼女は、今回は私の顔を見て笑顔になってくれた。はにかんだ様子から、人見知りで恥ずかしがりやな性格なのかもしれない。

年は私より十は下か。もし妹がいたら、こんなかんじだったのだろうか。

「今日も斎藤さんを待ってるの?」

「今日も藤堂さんを待ってるんですか?」

言いあうと、どちらからともなく笑った。

 それから話しをするようになると、棗ちゃんは明るく素直なとても良い子だった。本当にあの無口な斎藤さんと会話が出来ているのか心配なくらいに。

「藤さんて本当に色んなこと知ってるんだ」

別に私にとっては大したことない話をいつも興味深げに聞いてくれる。私、というようりは世の女にとっては当たり前のことばかり。料理とか、裁縫とか、お洒落とか。商家の娘さんという話だったが、今までどんな生活を送ってきたのだろう。

「藤堂さんの上総介兼重はすごい名刀なんですよ。実戦には向かないかもしれないけど」

かと思えば、やけにヘンなところに詳しかったりする、本当に不思議な子だった。

けれど私が話す上手くもない料理のことなんかを頼ってくれて、いつしか彼女に会うことが私の楽しみの一つにもなっていた。

 「今度買い物でも行こうか」

「いいの?」

ある日、さりげなく言った言葉に棗ちゃんの大きな瞳がひと際輝いた。そういえば姉妹や女友達がいないから、そういうことに憧れていたと以前言っていた。だから深く考えもせず口にしたのだが、こんなに喜んでもらえるとは。

「もちろん」

「ありがとう」

その笑顔が心から嬉しそうで、ついつい私も楽しくなる。

「四条を過ぎた所に綺麗な簪をたくさん売る行商が来るの。そろそろ仕入れから帰ってくる頃だから行ってみようか」

商売柄こういう情報だけは町の人達よりも早いので、そんな提案をしてみたのだが。

「うーん、簪はいいかな」

予想に反して棗ちゃんの答えはかんばしくなかった。

「あら、そう?」

「うん、間にあってるの」

その髪には、棗ちゃんの年にしては随分大人びた鼈甲の簪が差さっている。どんな着物を着ていても、いつも同じものをつけているから、気を利かせて誘ってみたのだが。

「もしかして、それ斎藤さんからの贈り物?」

はっと気がついた私が声に出すと、その頬は急速に赤らむ。これしか持っていないのじゃない。これしか身につけたくないのだと漸く気づいた。

「なるほどね」

にやにやと納得する私に、少し恥ずかしそうな口元が緩む。

「貰った物って、これくらいしかないの」

やにわに髪からはずした簪を見つめながら呟く。それは不満なのか自慢なのか、よく分からない口ぶりだった。

そういえば、私も平助に何かを貰ったことはない。互いに贈り物などには無頓着な性格だからか、あまり気にしたことはなかった。

「それって」

その渋めの髪飾りを見た私はふと思った。

今の子供っぽい棗ちゃんには不似合いな簪。これが似合うようになるのは、きっとあと何十年も先。もしかしたら、その時まで一緒にいたいという斎藤さんの願いが込められているのではないか。

それは女特有の感情で、考え過ぎだろうか。

「なあに?」

そんなことには まるで気づいていないだろう棗ちゃんは目を丸くして首を傾げている。

「ううん。それじゃあ、お香でも探しに行こうか」

自分の予想を上手く形に出来ず、私は言葉を濁した。それはもし真実であっても、他人の口から言うことではないだろう。

「うん、楽しみ」

再び簪を差し直してにっこり笑う赤い頬に、大きな夕陽が降り注いでいた。

私には平助がいて、棗ちゃんには斎藤さんがいて。高台寺の境内には、またた夕闇と夜が来る。

移りゆく景色を見ながらも、私の心はとても満ち足りていた。


 人というのは、同じ鉢の中をぐるぐると回っている金魚のようなものなのかもしれない。一度あることは二度ある。そしてそれは偶然ではなく、最初から与えられた定めとして。


 「あれ」

高台寺に辿り着いた私は、きょろきょろと辺りを見回した。

いよいよ昼が短くなった空はもう暗く、雨まで降り出しそうな気配。こんな時間では棗ちゃんもいないし、それどころか周囲は夜の準備のためにひっそりと静まり返っていた。

指定したのは平助のほう。ここのところ何かと忙しく島原に来る暇が取れないというので、今日みたいに私から出向くことが増えていた。

「平助」

吸いこまれてしまいそうな暗闇に、恐る恐る呼びかけてみる。

静寂だけが佇む空間は不気味で、いつも棗ちゃんと楽しくお喋りをしているのとは全く別の場所のように感じる。

まだ来てないのだろうか。なら、こんな所からは離れたい。でも行き違いになってしまったら。

寒い風に煽られて段々と心細くなるけれど、それが落ち着くとふいに怒りがわいてきた。そもそも、なんで私がこんな怖い思いしなくちゃならないのか。

「平助!」

苛立ちから、居るはずもない名前を怒鳴ったのだが。

「わっ」

「きゃああ」

返ってきたのは、思いもよらぬ脅かしだった。

びっくりしすぎて立ったまま腰を抜かしてしまった私を、平助は大きく両手を広げ面白そうに見下ろしていた。

しばし放心した後、ようやくその意味に気がついた。

「このっ」

また、いいように驚かされた。

「なにすんのよ」

「この間ひっかかったばっかじゃねえか」

怒りの表情に変わる私を、やっぱり平助はげらげらと笑い出す。こんな子供騙しに何度も馬鹿みたいにかかる女がいるのだから、それはそれは楽しいだろう。

「もう」

今どき子供でもしない悪戯をされるほうもどうかと思うが、するほうもするほうだ。一度冷静になるといっきに怒りが込み上げてきて、感情のまま平助につめ寄ろうとしたのだが。

「悪い悪い、これで許してくれ」

すっと差し出された包み紙に、その動きを止めた。

「……なによ」

そんな懐柔には乗らないという意思表示だったのだが

「金平糖。斎藤が分けてくれたんだ」

その一言に、私は目を輝かせていた。

「あのチビのために有名な店のを取り寄せたんだと。ついでにお前にもって」

確かにそれは見世で一度だけ見たことのある、名店の金平糖。女郎同士で取り合いの大喧嘩になったのだから忘れるはずもない。

「こんなもので、騙されないから」

「じゃあ、いらないんだな」

その手を引っ込められそうになり、私は降参するしかなかった。

「……今回は、金平糖に免じて許してあげるわ」

悔しいながらも告げると、「よし」と笑いながら平助は包み紙を私の手に握らせてくれた。

 「しかし、あいつもああ見えてまめだよなあ」

並んで境内に腰かけ、そそくさと金平糖を開いた私の横でしみじみと平助が呟く。

「斎藤さんのこと?」

「この間だって、呉服屋で反物を頼んでやってたり、若い奴等に団子の美味い店を聞いたりしててさ」

当然、それは全て棗ちゃんのため。

「すごいわね。平助にもちょっとは見習って欲しいくらい」

そう茶化したものの、最初は訝しく思っていた斎藤さんと棗ちゃんの関係は、今では微笑ましく見守れるものになっていた。

「斎藤の奴が入れ込んでるって言った意味が分かっただろ?」

「そうね」

確かに、斎藤さんが棗ちゃんに向ける穏やかな表情を見れば、それも大袈裟ではない気がする。

「あの二人だと、どんな子が生まれるのかしらね」

ふと思いつきで言った言葉は、我ながら興味深いと思った。正反対の男女が結ばれたら、その子供の容姿や性格はどうなるのだろう。そんな空想を口にしただけだったのだが。

「え?」

隣を歩いていた平助の歩が突然止まり、彼を追い抜いてしまった私は慌てて立ち止った。

「なに?」

何かヘンなことでも言っただろうか?

「いや、そんな突飛とっぴなことを言うから」

気を取り直したように言い繕う平助の声は、まだ浮かないままだから。

「そうかしら」

恋し合う男女がいたら、将来の話をすることは不自然だろうか。

「そうだよ」

なのに、それすらもどこか投げやりに返されてしまう。

最近の平助は、こんな時が多くなっていた。さっきまで元気だったのに、急に塞ぎこんだり怒りっぽくなったり、どこか不安定だった。

高台寺からしばらく歩いた私達の足は、すでに京の中心地に差しかかっている。こんな夜だから、すれ違う人影はない。会話はあれで止まってしまって、とぼとぼと長い距離を無言で歩いた。

その隣で、私は静かな月を見つめ

「何か、あったの?」

意を決して、遂にそれを尋ねた。

平助は不意をつかれたようにきょとんとしていて、子供のような表情。

「最近、元気がないから」

そうは言いつつも、平助が黙り込んでしまった理由に私は心当たりがある。

斎藤さんと棗ちゃんの将来の話をしてからこんな調子になってしまったということは、きっと悩みの種は仕事、御陵衛士に関すること。

本来なら、大義を持って生きる武士の領分に私などが首を突っ込んで良いはずがない。でも私にはこんな平助を見過ごすことが出来なかった。

「……うん」

けれど、その返事は拍子抜けするくらい素直なものだった。

「伊東先生のこと?」

顔を覗き込むように聞くと、その横顔は青白いまま。

一体、彼やその周囲で何が起きているのだろう。何だか胸がざわざわと波立ち、次の言葉を急かそうとした時。

それまで人気ひとけのなかった道の向こう側から、誰かの声が聞こえてきた。

「今朝、河下で」

見れば行商風の男が二人並んで歩いてくる。

平助の唇はかたく結ばれてしまったが、すれ違う彼等は私達のことなど気にも留めてはいない。

「辻君の死体が見つかったんだと」

「体を売って生きる女なんて、ろくな死に方しねえな」

そんなどこにでも転がっている世間話をしながら、騒がしい会話は遠ざかっていった。

「……ごめん」

そのまま歩き続けていた私に、ふいに横から苦しそうな声が聞こえた。

「え、何が?」

突然なぜ平助が謝るのか、まったく意味が分からなくて思わずその横顔を仰ぎ見た。

「ごめん」

それでも繰り返される聞き慣れない言葉。どんな時だって素直になんて謝らないくせに。

「だから、何がっ?」

つい、平助の腕を着物ごしに掴んだ。

「ねえってば」

どうしてか頭に血が上ってしまって、この手には知らず力が入る。

「ずっと、藤には悪いと思ってた」

そんな私から目を逸らし、やっぱり平助は力なく謝る。

「藤が見世で何て言われてるか。それを藤自身どう思ってるか、気がかりではあったんだ」

なのに、ぽつりぽつりと語られ始めたのは、どこか噛み合わない言葉。

「え?」

「こんな宙ぶらりんな状態じゃ、見世にだって居心地が悪いだろうし」

「ちょっと」

「俺だって、このままじゃ良くないって一番分かってる」

訥々と始まった独壇場に、私は全くついてゆけないでいた。

頭を冷やすため、一度その場に立ち止まった。そんな私を見つめる平助の目はいつもとは別人のように仄暗い。

足りない頭で、今までの平助の言葉を考えて、考えて。

「え」

私は、ある一つのことに思い至ってしまった。

だって、それはあまりにも厚かましい、私に都合の良い展開。流行りの人情本の読みすぎではないかと自分に問いかけてみる。何かの勘違いではないかと何度も何度も考えを打ち消しては、またその結論にたどり着く。 

 もしかして、平助は私との将来のことを考えてくれていた?

この感情の変化に向こうは気づいたのだろうか。突然、ぎこちなくではあるが付かず離れずだった体に腕が回される。

「ちゃんと、考えてた」

急な力で引き寄せられ、ぐっと顔と顔が近づく。

「へ、平助」

「藤は、俺のことなんて年下で頼りないって思ってるかもしれないけど」

堰を切ったような言葉は熱を帯びていて。戸惑いつつも、ついつい私はその波に飲まれてしまう。

「俺は、これからずっと藤と……」

それは、私達にとって決定的になったかもしれない瞬間だった。

お互いにどこかで感じつつも形にできなかった感情が、何かをきっかけに結実しようとしている。

だから、あの時あの言葉が、最後まで続けられていたならば、きっと私は。

「いや」

しかし、ふいにこの肩に食い込んでいた指の力が抜ける。まるで夢から醒めてしまったかのように、萎んでゆく声量。地面へと落とされてしまう目線。

そんな姿を見たから、てっきり平助は場の勢いで心にもないことを言いかけ後悔をしたのじゃないかと思った。

「あの」

「少しだけ、待っててくれ」

けれど、再び私へ向けた視線は先ほどの熱を失ってはいない。

「……待つ?」

「この悶着が終われば、俺も落ち着くし、まとまった金も手に入るかもしれない」

真っすぐ告げられる言葉に偽りはない。むしろ私のほうが気圧されてしまうほどに。

「そうしたら、必ず。だから、もう少しだけ」

そう言って私を抱きしめる、強い力。

平助がいれば、何も要らないのに。そう思った声は、苦しみながら胸の奥に飲み込んだ。

「分かった」

温かな背中を抱き返しながら、私は頷いた。


 その日、いそいそと私は高台寺への道を急いだ。

手にしているのは、籠に入れた幾つかの野菜。これで作れるものは僅かだけれど、初めて挑戦する人には十分だろう。

 事の始めは、三日前のこと。

「芹はね、根まで使えるから。ご飯と一緒に食べてもいいのよ」

そんな所帯じみた私の話を、高台寺の境内でいつも通り棗ちゃんは興味深げに聞いてくれた。薬草なんかには割と詳しいくせに、食べる野菜のことになると蕪と大根の葉の区別もつかないらしい。

「斎藤さんも、棗ちゃんにご飯作ってもらったら嬉しいんじゃないかしら?」

こんな話を一つ一つ感心して聞いてくれる姿が嬉しくて、つい思いついた言葉を口に乗せていた。

でも、それは前々から思っていたことだった。

「でも、美味しくないだろうし」

「そんな事ないわ、気持ちが大事なんだから!」

何故なら、それがどんな結果であれ斎藤さんは大層喜ぶだろう。ずっとこの二人を見てきて、それだけは自信を持って言うことが出来きた。

「じゃあ、お願いします」

もじもじと渋る棗ちゃんを頷かせると、こちらも俄然やる気が出てくる。

「決まりね。では三日後に、またここで会いましょう」

ほぼ強引にそんな約束をして、私達は別れたのだった。

 その三日後というのが今日。途中で仕入れてきた野菜とお米。場所は棗ちゃんの知り合いの宿の厨を使わせてもらえるらしい。

私だって決して料理の腕がある訳ではないけれど。誰かの恋の役にたてるのだと思うと、何だかうきうきと楽しくなってきてしまう。

そのことを平助に話したら

「まったく、まま事かよ」

なんて少し呆れて笑っていた。

でも彼もあの二人を応援している。最近では、いつか四人で出かけたいね、なんて話すら出るくらい。その光景は、なんだか幸せでむず痒いような気がした。

楽しい空想に足取りも軽く、すでに通い慣れた高台寺の中へと入る。まだ棗ちゃんは来ていないようで、境内に人影は見当たらなかった。

小さく息をついて、いつもの境内に腰かけようとした時。

「藤!」

「きゃあっ」

むんずと乱暴に腕を掴まれた私は素っ頓狂な声をあげていた。

「馬鹿」

けれど、背後からしたのはあまりにも聞きなれた声。体を翻し見返すと、そこには青白い顔をした平助の姿があった。

なんだ、また驚かされたのか。引っかかる私も馬鹿だが、本当に大人気ない。小さく溜め息をつき、毎度のように文句の言葉を口にしようとしたのだが

「ちょっと来い」

意外に、その平助にはその気はなかったらしい。

「え?」

「早く」

こちらの反応などまるで気にもせず、掴んだままだった私の手をぐいぐいと更に引っ張ってゆく。

「ちょっと」

そのまま連れ込まれたのは、いつもは外から見ているだけだったお堂の中だった。物置なのか、昼間だけど陽の当たない室内は薄暗い。

「もう、なんなのよ」

ここまで来て、痛かった腕を振りほどくと漸くその顔を正面から見ることが出来た。

そこには、いつもの気の抜けた平助はいない。眉を寄せた真剣な視線が、私を見返していた。

「どうしたの? 急に」

「いいか、これから言うことは口外するな」

さすがに何か普段と違う様子に眉をひそめると、囁くような声がお堂の中に微かに響く。

「公務、のこと?」

私に気を許している平助は、仕事おことでも大抵は打ち明けてくれた。だが、これほど慎重になるのは相当のことなのだろう。

小さく頷くと少しの間平助は黙った。何かを考えているのか、まだ心を決めかねているのか。次の言葉を待つしかない私は、沈黙に耐えきれなくなる。

「どうしたの? 急に」

不安に痺れを切らせ、こちらから問いかけた声に

「近いうちに、伊東先生は新撰組を襲撃する」

平助は、あまりにも衝撃的な一言を告げた。

「え?」

新選組から飛び出したものの、表面的には友好を保っていたはずだった伊藤甲子太郎。それが襲撃を企てるとは、どれほど重大な事態なのかすぐには想像もつかない。

「詳しくは言えないけど、危険だからしばらくはここへは来ないほうがいい」

様々な疑問が頭をよぎるけれど、それを遮るように平助は言う。きっと、これ以上は私にでも話せないのだろう。

「分かったわ」

そうなってしまえば、もう何も聞くことは出来ない。そもそも、目の前でこんなことを言われても私にはどこか現実味がなかった。それがどれ程のことで、どんな影響があるのか、まったく想像することも難しいのだから。

「藤はしばらく見世にいろ。落ち着いたら迎えに行くから」

この肩に両手を置いて平助が口早に告げる。

「うん」

「また、会いに行く」

そう私から離れると、慌ただしくその背中を向けてしまう。

まったく、いつも落ち着きがないんだから。

躓きそうになりながらお堂を出ていく後ろ姿に、心の中で小言を言った。

「あ、待って」

開けた戸から、寒い北風が流れこんでいた。

「ん?」

「これ」

晒された首元が寒そうだった平助に近づき、籠の中に入れてきた手拭いをかけてあげる。襟巻にするには不足だが、何も無いよりはいいだろう。

「恥ずかしいだろ」

「文句いわないの」

確かに赤い梅文様の女ものは無骨な武士には不似合だが、傷だらけで河原を走り回る少年には十分だ。

「仕方ねえな」

そうこぼした顔は、少しだけいつもの彼に戻っていた。

「無理しないでね」

「ああ」

顔をしかめた私に、手拭いを巻いた首がゆっくりと頷く。

ようやく微かに笑うと、平助は今度こそ振り返らず寒い冬空の下へと去って行った。

なんだか色々なことが突飛すぎて、まるで嵐のようだった。まだ ぼうっと現実を受け止められないでいる私も仕方なしにふらふらと外へと出る。

「あれ?」

その時、視界の端を寺の木陰へと消えてゆく小さな影。

ほとんど見えなかったから、確信はないが

「棗ちゃん?」

あの後ろ姿は、確かに彼女の気がした。

けれど、彼女だったら何故? 事情など知らぬ私は、その場で首を捻ることしか出来ない。そして、結局いくら待ってもその日棗ちゃんが現れることはなかった。

日が暮れるまで待った私は、しなびてしまった野菜を持ってとぼとぼと島原へ帰った。


 あんな大層なことを言われたにも関わらず、その後 京の町は平和だった。

相変わらず武士や浪人は威張っているし、嫌な酔っ払いは引きも切らない。そして、ずっと平助は姿を見せなかった。

 「ぼうっとしちゃって、良いご身分だねぇ」

見世の空き部屋で明け行く空を見ていたら、お勤めが終わったらしいお正ちゃんがふらふらと姿をみせた。

「ああ、まあ」

「もう今日の客もしつこくてさ。嫌になっちゃうよ」

はだけた着物を直そうともせず、気怠そうな声がこの隣に腰を下ろす。

「お疲れさま」

「また、こんな時間まで起きてたのかい?」

「……ええ」

平助はこの見世に大量のお金を置いていってくれていた。それこそ、私の年季すら払えてしまえるような。正式に身請けされてはいないが、そうすると楼主としても他の客を取らせることも出来ず、遊郭にいながら私は遊女の職務から放免されてるというわけだった。

だけれど、やっぱり自分だけ夜ぐっすり眠るのは申し訳なくて、せめて仲間が仕事をしている時間は起きていようと決めていた。

「まったく律儀だねえ」

呆れたように笑いながら、お正ちゃんは肩をすくめる。

「だって、他にすることもないもの」

窓の外では、白んでいた空にちょうど朝陽が射し始めるところ。

「なら、藤堂さんに会いに行ってみたらどうだい?」

何気なく言われた提案に、はっと私は彼女の顔を見返した。

「……でも、邪魔じゃないかしら」

そうは言いつつ、心の片隅ではその気持ちが急速に膨らんでいた。

実際、あんなことを言ったけれど実際には何も起こらなかった。バツが悪くて、平助は私に会いに来るに来れないのじゃないか。それが、真実のように思えた。

「あんたが顔見せてくれれば嬉しいに決まってるだろう」

そんな威勢の良い声が私の気持ちを後押ししてくれる。

「善は急げだよ。天気も良さそうだしね」

着物を脱ぎ捨てながら、お正ちゃんはこの背中を強く叩いて出て行った。

「そうね」

会いに行ったなら、きっと平助は私を見て困ったような怒ったような顔をする。でもすぐに機嫌が直って笑いかけてくれる。そんな光景が、やすやすと頭に浮かんだ。

そうだ、もし忙しそうなら帰ってくればいいだけの話なんだし。

思い立ったが吉日。私は急いで支度を整えると、小半刻後には見世の玄関を飛び出していた。


 明け方なだけあって、そこかしこで見世を出る客と見送る遊女達の姿が見える。そんなものを横目に、既に慣れた手付き私は島原の大門をくぐり抜けた。

向かうは御陵衛士の屯所だが、よくよく考えればこんな早朝に平助は起きているだろうか。

まあ、早いようなら少し高台寺で待ってみよう。あれ以来棗ちゃんとも顔を合わせられていないから、どこかで会えればいいのだけれど。

そんなことを考えながら歩いていると、京の町の角に人だかりが見えた。この近所の住人だろうか、男女が数人ずつ輪を作って何やら話している。

こんな時間に珍しいとは思ったが、いつもならただ通り過ぎていただろう。けれど、何故かその様子が気になった。

「どうしたんですか?」

立ち止って声をかけると、彼等は互いの顔を見合わせる。

「知らんのかい?」

輪の中心にいた年かさの男が口をひん曲げながら言う。

「ええ」

「そこの辻を出てみるとええ。面白いもんが見れる」

その隣にいた女も言うから、私は心の中で首を傾げた。何か芸でも披露しているのだろうか。

どちらにしろ平助の所に行くにはまだ早すぎると思っていたから、少し寄り道をしても問題はないと足を向けたとある路地。

そこには、斬り刻まれた平助の体が打ち捨てられていた。


 次に覚えているのは、半狂乱で叫ぶ自分の声と、この体を押さえつける誰かの乱暴な腕。髪を振り乱して奇声をあげる私の先では、何故か時間が止まったようにゆっくり流れていた。

冬にしては暖かな朝だった。そよそよと吹いた風が、血をしみ込ませたむしろの端をはためかせている。なまこのように刻まれた体は、ぴくりとも動かない。

地面に置かれた体は僅かに傾いていて、どんな表情をしているのかはっきりとは分からなかった。平助は、最後の瞬間に一体どんなことを思ったのだろう。

そして、命絶えるその時に、少しでも私のことを思い出してくれたのだろうか。

昇り始めた陽の下で、首に巻かれた赤い梅文様の手拭いだけが相変わらず風になびいていた。


 日常が失われるのには、それはあまりにも呆気ないものだった。言葉も交わさず、予感すらなく。せめて心の準備が出来ていたら、なんて考えるのは贅沢な願いなのか。

それからの数年間のことは、ほとんど思い出せない。引きずるように連れ戻された見世の中で色んな人から言葉をかけられた気がしたが、既にまともに話す力を私は失っていた。

後から聞いた話だと、翌日には黒髪の半分が真っ白になっていたという。

死んだように数日間動かなかったかと思うと、突然泣き喚き暴れだしたり。当然だがそんな私を、かつての仲間や同情的だった人々も手に負えないと避けるようになっていった。

それまで好意で見世に置いてくれていた楼主も、遂には私を寺に預けることに決めたらしい。

捨てられるように置いてゆかれたのは山奥の尼寺で、朝晩が繰り返すだけの世の中から忘れ去られたような場所だった。

やっぱりここでも私は狂人の如く振る舞った。泣き喚き人を引っ掻き、引っ込み思案だった自分がどうしてそれほど狂暴になれたのか後から思えば不思議だが、そうでもしないと平助の死という事実に心ごと壊されてしまいそうだったのかもしれない。

 長く短い時間を、私はそこで過ごした。寺の人々はみんな優しくて、そして私のように何かの事情をかかえたような女ばかりだった。

こんな動乱の世では、当然のように男が死んでゆく。すれば、その数だけ悲嘆にくれる女がいる。そういう傷をなめ合い寄り添うのが、あの寺だった。


そんな人々に支えられて、元通りとはいかないが私は本当に少しづつだが立ち直っていった。

それでも、まだ現実に目を向けることは怖かった。外の世界との関わりを避け、自分の殻に閉じこもって生きる。その時の私には、自分を守る術がそれしかなかった。

 そんな日々が続いていた中で、転機となったのは 外の世界から伝え聞いた衝撃的な報せだった。

「幕府が倒れ、新しい治世が始まった」

時代が終わり、変わった。その瞬間、鍵をかけていた心を無理矢理にこじ開けられるような感覚を覚えた。

「これから、どうなるのかしら」

「心配ねえ」

ひそひそと囁き合う尼僧たち。きっと世間の誰もが同じ気持ちだったに違いない。

今この国は籠っていた殻を捨て、自らの足で大海原に乗り出した。

そんな歴史の激流を前に、小さな泡ほどの存在である私は、ふと思った。

ここから先は、平助達が立場は違えど命を懸けて作ろうとした明日が広がっている。それがどんな未来であろうと、その行く末を生き残った者達は見届けなければならない。

 「貴女が、死んだ者の願いを果たしてあげるのですよ」

寺を出てゆく際に庵主あんじゅが言ってくれた一言も、私が歩き出す支えとなった。

とりあえずは、平助が果たしたかった願いを探す。それが、私の生きる目的であり、糧となった。

ただ、私を平助がどう思っていたのか、結局きちんとその口からは聞けず終いだった。けれど仕方ない。どこを探しても、もうその答えを見つけることは出来ないのだから。

しかし、こんな感傷を持てるだけ私は幸福なのかもしれないと、あの寺での日々で思うようになた。歴史という大河の中では、その痕跡すら残せずに姿を消した女達もきっと沢山いたはずだ。

そんな女達に、私は心の中で静かに手を合わせることしか出来ない。


 「さて、どこに行こう」

寺を出て山頂から見下ろした先には最後に見たのと変わらぬ風景が広がっている。

もうそこは私の知っている国ではないが、私はもういない愛しい人の面影を探して歩き出す。

手荷物は僅かな金と守り刀、それに赤い梅文様の手拭いだけ。そのほうが気楽で良い。

真新しい世界に、私は古びた草鞋わらじで一歩を踏み出した。










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