第18話 変なおじさん
二〇二四年二月九日 金曜日 夜
「なんでうちに来るんだよ……」
横須賀から船橋まで爆睡で助手席を独占してきた謎の男をマンション前まで連れて、草鹿はいった。長い運転でようやく冷静さを取り戻したものの、今の状況が整理できていないのは変わらない。
「まあ、いいじゃない」男は答える。「自分の家だと思ってくつろいでさ」
「自分の家なんだよ。それから、ずっと聞いてなかったんだけど、あんた誰なんだ?」
「あれ? 名前言ってなかった? おかしいなぁ……、一昨日、警察に職質かけられた時に名乗ったんだけどなぁ」
「そこに俺が居なきゃ意味ないだろ。しかも警察に怪しまれてんじゃん……」
しんどいやりとりに草鹿は溜息をつく。
「細かいことはいいからさ、早く中に入ろうよ。寒くて死にそうっていったらいい過ぎだけど。夏が恋しくなっちゃってるからさ」
背中を押されて無理矢理エントランスに向かわせられる草鹿は身体をよじって男に対峙した。
「何者なのかいえよ。警察呼ぶぞ」
男は仕方ないというように懐から名刺を取り出して草鹿の眼前に突き出した。真っ白なカードには何も書かれていない。
「なに、これ?」
「炙り出しで名前が出てくる」
「火は?」
「持ってない」
「じゃあ意味ねーだろ」
「僕もそう思って最初から字が出てる名刺を作ったんだ」
「なんだよ『最初から字が出てる名刺』って。それが普通だろ。それを最初に出せよ」
「すまんが、その名刺を忘れてきた」
「早く名前いえ!」
男は天然パーマの頭をボリボリと掻いてお辞儀をした。
「どうもはじめまして、トム・クルーズです」
「そんなわけあるか」
「光永有覧です。探偵です」
「探偵?」
草鹿の声が不信感で捩じれる。
「まあ、混み入った話は中で……、ね?」
◇
「で、あんたは何者なんだ?」
リビングに光永を通した草鹿は、勝手にソファに腰を下ろす不届き者に尋ねた。
「温かいココアでもあったら口が回るんだけどなぁ」
光永は文句を言いながら、テーブルの上に放置されたままのコンビニの袋を物色しだす。
「勝手に触るな」
草鹿の警告を無視して袋の中からミルクプリンを取り出した光永は蓋を止めるシールを爪の先で裂いて開封してしまう。
「僕は依頼を受けてここに来たんだ。……これ生クリームが油っぽいなぁ」
「勝手に食って勝手に文句いってんじゃねえよ。依頼ってなんだよ」
「依頼の詳細は守秘義務があるからいえないが、木崎星矢という弁護士から環紗怜南の身辺調査を頼まれたんだ。彼は環紗怜南の父親から法律事務所を継いで運営しているんだ」
「めちゃくちゃ守秘義務破ってるじゃねえか。信頼なくすぞ」
草鹿は小言を飛ばして、数秒経ってから声を上げた。
「……紗怜南の身辺調査?」
「写真たくさん撮ったんだぞ」
光永はそういってスマホの画面を草鹿に見せた。街中を行く紗怜南の姿が何十枚と収められている。中には、どこかの商業施設の中でかなり接近して撮られたものもある。
「こんなに写真撮って怪しまれただろ」
「いや、大丈夫。なんだこいつって目で見られただけだから」
「それ怪しまれてんだよ。なんでこんな写真撮ったんだよ」
「環紗怜南は九年前に実家を出て、長らく家族と音信不通だった。かつては弁護士を目指していたが、結局は志半ばで挫折したらしい。で、その父親が木崎を使って行方を捜し続けていたんだ。結論からいうと、環紗怜南は詐欺師だ」
「いや……、えっ?」
あまりに飛びすぎた結論に草鹿は言葉を失ってしまう。
「かなり大規模なヤマを仕掛けているようだったが、そのターゲットがあんただったってわけだ」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ! 何をいっているの分からない」
光永はテーブルの上のコンビニ袋を指さした。
「ねえ、このお弁当食べないなら温めて食べてもいい?」
「いや、全部説明しろや!」
「その前に、あんたの話を聞きたい。今までずっとどこにいたのか」
光永の真剣な眼差しに気圧されて、草鹿は思わず話し出してしまった。
◇
草鹿が話し終えた頃には夜も更けて、光永はソファの上で横になって目を閉じていた。
「寝てるだろ」
「んあっ! 寝てない寝てない。すっごい良い話だった。泣けるね。涙袋がふやけそう」
光永は飛び跳ねるようにソファの上で身を起こした。口の端がよだれでふやけそうになっている。
「良い話をした覚えはないんだが」
「だが、おかげで分かったことがひとつある。……ふたつかもしれない」
「どっちなんだよ」
呆れる草鹿を前に、光永は寝ぼけ眼を擦って大きなあくびをした。
「新宿の居酒屋であんたが奥野から腕時計を貰った理由だよ」
「自分になりすましてくれるお礼にあいつが前払いしたんじゃないのか?」
「そんなわけないだろ。その時、まわりがどういう状況だったのか覚えてないのか?」
「普通の居酒屋だったぞ」
「奥野があんたに時計をやったのは、自分に視線を寄せたかったからだ。その時、テレビではニュースが流れてたんだろ。奴はそのニュースをあんたに見せるわけにはいかなかったんだよ」
「ニュース……?」
「三四年前の盗難事件」
「覚えてない」
「七〇〇億円」
光永の短い言葉に草鹿の目が細められる。
「あ、なんか思い出せそう……」
「一九九〇年三月一八日、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館から大量の美術品が盗まれた。その中に一枚の絵画が含まれていたんだ」
「急に何の話してんだよ」
光永は壁にかかった古い西洋画を指さした。
「フェルメールの『合奏』」
草鹿は身体を捻って見慣れた壁の絵を振り向いた。
「フェルメール? これが?」
光永は立ち上がって絵画の前に仁王立ちした。
「価値は二億ドルともいわれている。約三〇〇億円」
「嘘だろ……?」
「居酒屋のニュースで流れていたのは、ガードナー美術館のニュースだった。しばらくすれば、画面に『合奏』の写真が流れる可能性があった。だから、奥野は自分の腕時計をあんたにやって、テレビから視線を引き剥がしたんだ」
「いやいや……、奥野が? 紗怜南の話はどうなった?」
「奥野も環もグルだ。あんたが巻き込まれた殺人事件なんて、世間じゃ報道されていないぞ。なぜなら全部作られたものだからだ」
「ちょっと待てよ……」草鹿は頭を掻き毟る。「俺は牢屋に入れられて裁判もやったんだぞ!」
「そりゃ全部でっち上げだ。事件も裁判も存在しない」
サラッと告げる光永に草鹿はその場で失神してしまった。
◇
物音がして草鹿は目覚めた。
リビングのど真ん中、カーペットの上に仰向けに横たわっていた彼は、壁際に見慣れない人間たちが肩を並べているのに気づいて声を上げてし合った。
「なんなんだ、お前ら!」
「あ、起きた」
見知らぬ人間の中から光永が顔を覗かせる。
「なにしてんだ! 誰だ、こいつら!」
草鹿は感情を爆発させながら、光永の前で目の前が暗くなって倒れた時のことを思い出していた。すでに窓の外は明るくなっている。この部屋の主はカーペットの上で倒れたまま放置されていたようだ。
「美術品鑑定のプロだよ。この絵を調べてもらう。アマじゃなくてプロでよかったな」
「本当に本物なら世界がひっくり返りますよ」
美術品鑑定のプロと呼ばれた人物は興奮しながら、絵の梱包の指示を出した。
「だけど……、絵に傷が……」
彼らが指さす先、絵画の右下には激しく擦ったような跡がある。草鹿にとっては特に気になるようなものではなかったが、彼らの間には失望感が漂っている。
「それに、この環境は保管には向かない……」
すぐに梱包が終わり、鑑定のプロたちは撤収の準備を始めた。
「鑑定までは数か月かかると思います」
そう告げられ、絵は運び出されて行った。
「いや、だけどさ、あの絵は俺の親父が勝手に持ってきたものなんだぜ」
「大袈裟なことになったけど、僕の考えじゃ、あの絵は偽物だ」
草鹿はソファにドカッと腰を落とした。
「もうついていけん。何があったのか説明しろ」
「事件や裁判がでっち上げだとしたら、相当でかい規模であんたを騙していたことになる。それなりのリターンがなきゃやってられんだろ。そのリターンってのが、フェルメールの『合奏』なんだよ」
「俺は留置場とか拘置所に入ってたんだぞ」
「そもそも、奥野が殺された事件すらないって警察にいわれたんだろ?」
「でも……」
「奥野も偽者だろう。あんたは最初から最後まで騙され尽くしだった」
「信じられん。卒業アルバムにいたぞ」
「だが、そいつのことは憶えてなかったんだろ? なりすましてたに決まってる。奥野もその知人も警察も弁護士も検察も裁判官も法廷に居合わせた人間も、全員あんたを騙すために動いてたんだよ」
「あの絵を目当てにそんなことを……?」
光永は絵のなくなった壁を指さした。
「このマンションはセキュリティがしっかりしてる。連中はここから絵を盗み出したかった」
「そもそも、なんでここに目当ての絵があるって分かったんだよ。俺は社会とほとんど接点がないんだぞ」
「バズっただろ」
光永は草鹿が投稿した写真をスマホに表示して印籠のように掲げた。剥がれない蓋に引っ張られて信じられないくらい変形したヨーグルトの容器が写っている。その背後には、壁の絵が見えている。
「これを見て? そんなバカな……」
「鑑定のプロたちがいってただろ。絵には傷がついてた。連中はガードナー美術館から盗まれた『合奏』に傷がついてると知ってたんだろう。SNSでその特徴に合致する絵を見つけた。そして、あんたから絵を奪う計画が動き出したんだ。だが、セキュリティがしっかりしたこのマンションから絵を盗み出すことが難しいと思い知った。そこで、あんたから絵を騙し取ることにした」
「どうやって……?」
「あんた、環にこの部屋の鍵を渡しただろ」
「あっ……!」
「それが連中の狙いだったんだよ。あんたは環に心を許してた」
「許してない」
「いや、許してた。あの女へのなびき方は弱者男性そのものだぞ。みっともない」
「やまかしいな!」
「半年以上もあんたを拘束した理由はひとつしか考えられない。『合奏』の贋作を作って、元の絵と入れ替えようとしたからだ」
「なんでそんな面倒なことを……」
「盗まれたことも悟らせたくなかったから」
草鹿は頭を抱えた。
「本当にそんなすごい絵がここにあったんだったら、俺の親父って何者なんだよ……」
「『合奏』が日本にあるって説は昔からあった。一九九四年四月にガードナー美術館が受け取った手紙には『買い手が法的所有権を主張できる国に絵が保管されている』と書かれていたんだが、当時の日本では、盗品も二年すれば元の持ち主は返還請求ができなくなる状態だった。一九九四年には、『合奏』はその時の持ち主が自分の所有物だと主張できた。日本にあったとすればね」
「親父が……絵を盗んだと?」
とすれば、父が自分のことを話さなかったのもうなずける……草鹿は寡黙な父の背中を思い返して目の前が真っ暗になってしまった。
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