第17話 瓦解

二〇二四年二月九日 金曜日 午前


 戸倉たちが姿を現し、音もなく席につく。

 草鹿が呼ばれ、戸倉の眼前にある台の前に立つ。三淵と千種、紗怜南、壇上の面々、そして詰めかけた大勢の傍聴席の人々が静寂の暗幕を被っている。

 淡々と草鹿の身柄の確認が行われ、ついに戸倉が厳かな光をその瞳に宿した。

「それでは、判決をいい渡します」

 実際の裁判での判決はシンプルだ。裁判長が主文と理由を読み上げるだけだからだ。

 静寂が最高潮に達し、戸倉の所作に全員の注目が集まる。

「被告人は、無罪」

 誰かが声を上げるということはなかった。しかし、森閑とした静けさの根底にうねる熱の波が犇めき合って轟音を響き渡らせているのを誰もが聞いた。その音のない興奮のさなかに読み上げられた無罪理由を草鹿は何ひとつ覚えていない。

「──……よって、刑事訴訟法三三六条により、無罪のいい渡しをすることとし、主文の通り判決する」

 草鹿はその言葉を自らの身体に染み渡らせるようにじっと目を閉じ、そして、やがて小さく嘆息した。

「本法廷は、これにて閉廷とします」

 その瞬間、傍聴席が沸き上がった。席を立って外に走り出す者もあれば、不満があるのか声を上げる者、席に座ったまま茫然と草鹿の背中を見つめる者と様々だ。その中には、奥野皐月の姿もある。彼女はハンカチを目頭に当てて静かに肩を震わせている。

 手錠と腰縄を打たれ、係員に両脇を抱えられた草鹿が控室へ歩いていく。その後をついていた紗怜南が声をかける。

「草鹿さん」

 振り返る草鹿の目は熱く潤んでいる。

「ありがとう」

 短くいい残して、彼は向こうの部屋へ消えていった。




 バッグを肩から提げた草鹿は自宅のマンション前に辿り着いて、灰色の空を背景に立つその建物を仰ぎ見た。帰るたびに溜息が出そうになっていたこの場所に半年以上振りに戻ってくると、奥底から湧き上がる感謝の念に眩暈がしそうだった。

「話は聞いてるよ。お疲れさん」

 マンションの管理人がエントランスで草鹿を出迎える。いつもは不愛想で素っ気ないその声が草鹿の心に染み入った。

「ご迷惑をおかけしました」

「弁護士の子がよろしく、と」

 草鹿は微笑んでうなずいた。

「ずいぶんお世話になったんで、お礼をしないといけないですね」

 顔を合わせても言葉を交わすことなどほとんどなかった管理人に、草鹿は素直な気持ちを吐露していた。人との関わりを心のどこかで欲していたのかもしれない。

 管理人と別れてエレベーターに乗り、三階へ上がる。自分の部屋の前に立って、鍵を鍵穴へ差し込む。

 家に戻って来たのだ、という実感が草鹿の魂を震わせた。

 見慣れたリビングにバッグを置いて、ソファに深く腰をかける。部屋の中はここを出た時と変わらない。ホコリが溜まっていないのは、紗怜南がここに着替えを取りに来た時に掃除をしてくれたからだろうか。

 壁に係る古い西洋画に目をやって、彼の父である錦司が遺した目障りなものだったはずが、今は何か安心感を与えてくれた。モノクロの市松模様の床、窓から柔らかい光が差し込む中、三人の人物が音楽を奏でている。その微睡むような午後の暖かさを眺めていた草鹿の目から一筋の涙がすっと流れ落ちた。堰を切ったように涙が溢れ、草鹿は嗚咽を漏らした。その胸中に去来したのは、これまでの人生への後悔かもしれない。

 ひとしきり泣いた草鹿は空腹に気がついて、財布とスマホを持って外に出た。薄明るい空から冷気が滝のように降りてきていた。草鹿はコートの前をしっかりと止めて、近くのコンビニに向かって歩き出す。スマホを取り出したものの、紗怜南が契約を解約したといっていたことを彼は思い出した。

 コンビニで弁当や菓子を買って部屋に戻る。玄関のシューズボックスの上に紗怜南が集めておいただろう郵便物の山がある。それが草鹿を現実に引き戻す。

 また明日から元の生活を始めなければならない。

 数分歩いて身体を動かしたこともあるのか、さきほどひとり泣いていた草鹿の目は未来の方向を見据えているようだった。コンビニの袋をリビングのテーブルに置いた草鹿は、食欲を満たすよりも前にずっと胸の中に居座っていた疑問に向き合おうをしていた。

 ──真犯人は誰なんだ?

 コンビニで温めてもらった弁当を置きっぱなしにして、草鹿はマンションの駐車場に向かった。長い間触れることのなかった車に乗り込んで、エンジンをかけた。カーナビで葉山へのルートを表示させると、草鹿はアクセルを踏んだ。




 草鹿が葉山に到着したのは、午後三時少し前だった。葉山は草鹿の自宅のある船橋とは違って青空が広がっていた。陽は落ちかけていて、それが哀愁のようなものを草鹿に覚えさせる。

 住宅地をゆっくりと走らせ、ついに奥野の別宅へやって来た。家の前に車を停め、門の中を覗き込む。しんと静まり返っていて、人の気配はない。草鹿は奥野の姿を目にすることを夢に見ていたのか、太い溜息をついた。

 たまたま近くを通りがかった近隣住人を捕まえて声をかけるも、

「ずいぶん長い間、誰も使ってないですよ」

 と返されて、途方に暮れてしまう。

 ──あの件以来、奥野は戻っていないのか。

 その事実が彼の死を確かなものにしているように草鹿には思えた。車に戻り、カーナビに警察署の入力する。

 空腹も忘れて草鹿はアクセルを踏み込む。今の彼には、真実の探求だけが原動力になっていた。

 一五分ほどで葉山警察署に到着する。草鹿は半年前の記憶を手繰り寄せようとしたが、連行される車窓の景色を思い出すことはできなかった。すぐそばの駐車場に車を停め、警察署の入口へ駆け込んだ。交通課の窓口カウンターを飛び越えんばかりの勢いで押しかける。

「刑事課はどこですか!」

 あまりの剣幕に対応した署員は目を丸くしたが、すぐにそばのベンチに草鹿を座らせて刑事を呼びに行った。

 数分して、スーツに身を包んだ強面の男が草鹿のもとにやって来た。

「どうされました?」

 草鹿を探るような鋭い眼光。その眼は怪訝そうに細められている。

「奥野夢人の事件はどうなりましたか?」

 草鹿が尋ねると、刑事はさらに顔をしかめる。

「なんですか?」

「奥野の家で死体がバラバラにされた事件ですよ!」

 署内に草鹿の声が響く。刑事は周囲の視線を浴びて、慌てて草鹿に身を寄せた。

「落ち着いて下さい。いつの事件ですか?」

「去年の八月に僕を逮捕したでしょう!」

「ちょっと待って下さい。一緒にこちらへ」

 刑事は草鹿を伴って刑事課の部屋へ向かう。

「おい、ちょっと」刑事は同僚たちに問いかける。「この人が聞きたいことがあるそうだ」

 どの刑事も草鹿が熱を持って話した内容に疑いを隠すこともせず耳を傾けた。

「葉山の事件ですか?」

 若い刑事が草鹿に質問をする。

「だから、そうだってさっきからいってます!」

 刑事たちは顔を見合わせた。気味の悪い空気に草鹿は吐き気を覚える。

「すみませんが」草鹿を出迎えた刑事が柔らかい口調になる。「そんな重大な事件の報告はありません」

「去年の夏のことですよ!」

 刑事たちはついに呆れたような笑みを交わして自分たちの持ち場に散っていく。

「何か勘違いをされているんじゃありませんか? 本当に葉山でのことですか?」

「さっきも奥野の家を見てきたんだ! 間違えるわけないだろ!」

「クスリでもやってるのか」

 部屋のどこかから野次が飛んだ。草鹿を出迎えた刑事が叱責を飛ばす。そして、草鹿には猫撫で声をかけた。

「一度落ち着いて詳しく話を聞きますよ」

「もういいですよ!」

 草鹿は叫び声を上げて警察署を飛び出した。


 車に戻った草鹿はハンドルを殴りつけて叫び声を上げた。そこでようやく冷静になれたのか、藁にも縋る様にして財布をポケットから引き抜いて、その中から一枚の名刺を抜き出した。

 名刺には「市川法律事務所 環紗怜南」とある。初めて会った際に彼女に渡されたものだった。裏返すと、携帯電話の番号が手書きで走り書きされている。

 草鹿はすぐに車を走らせて、しばらく行ったところで見つけた公衆電話ボックスに飛び込んだ。名刺を片手に素早く番号を打ち込む。しばらくして、受話器の向こうから機械音声が流れる。

『おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって……』

 勢いよく受話器を置いて、今度は慎重に番号を確かめながらボタンを押したが、結果は同じだった。

「なんなんだよ!」

 草鹿は怒りを露わにしながら車に戻ると、カーナビに名刺に記載された住所を入力した。横須賀へのルート案内が開始される。草鹿が思い切りアクセルを踏むと、タイヤが軋む音を立てながら回転した。

 横須賀に辿り着いた草鹿は車を流しながら、該当のエリアで紗怜南の所属する事務所を探した。カーナビではピンポイントのルート案内ができず、結局は目で探すハメになったのだ。仕方なく、目に入った法律事務所に向かうことにした。

 入り口の目の前にある受付に草鹿は紗怜南の名刺を叩きつけた。

「この事務所、どこにあるか分かりませんか?」

 受付の女性は丁寧に名刺を両手で取り上げてしばらく悩んでいたが、断りを入れて奥に引っ込んで行った。男の所員がやって来ると、彼は草鹿に名刺を戻しながら、目湯尻を下げた。

「ここで一〇年以上事務所やってますけど、横須賀にはこんな法律事務所ありませんよ」

 草鹿は全身に鳥肌を立たせて、声を震わせた。

「なにを……、何をいってるんだ?」

 男は名刺の紗怜南の名前に添えられた番号を指さした。

「その弁護士番号で検索しましたが、環紗怜南という弁護士は存在していません」

 草鹿の足から床を踏む感覚がスーッと抜けていく。

「大丈夫ですか? どこでその名刺を?」

 男の尋ねる声も草鹿には届かず、フラフラと事務所を出る。夕闇の中、草鹿は眩暈を感じて、歩道の真ん中で倒れそうになる。そんな彼の身体を支える細腕があった。

「ブラジルではおはようございます」

 よれよれのコートに皺だらけのシャツ、天然パーマでガリガリの身体。

 その男はいった。

「ようやく見つけた」

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