第16話 画竜点睛を欠く
二〇二四年二月七日 水曜日 午後
審理の場から別室に場を移して、戸倉と三淵、千種、紗怜南、そして草鹿はテーブルについた。溜息交じりに戸倉が切り出す。
「正常な審理が困難になりかねない状況だったので休憩としましたが……、草鹿さんにお伝えしたいのですが、この法廷はあなたが問われている罪についての審理を行うことを目的としています。そのことを改めて頭に入れて下さい」
草鹿は真剣な顔で身を乗り出す。そばの係員が神経質に身構える。
「氏川について調べて下さい。そうすれば──」
「いい加減にして下さい!」
テーブルを叩く音と共に怒号が飛んで、紗怜南が鬼の形相で草鹿を射すくめる姿が浮き彫りになる。
「順当に話を進めていたのに、勝手なことをしないで下さいよ!」
「ちょっと、落ち着いて……」
戸倉が慌てて遮ろうとするが、草鹿も冷静さを取りこぼしつつあった。
「こっちは半年以上もずっと牢屋に入れられて、何が何だか分からないままここまで来てんだ! これくらい許せよ!」
「ふたりとも、落ち着きなさい」
戸倉の声も虚しく、紗怜南と草鹿は掴みかからんばかりにいい争いを始めてしまった。三淵はしばらくの間、千種と顔を見合わせて薄笑いを浮かべていたが、やがて立ち上がって口を開いた。
「環さん、ちょっと」
三淵が声を張ったわけでもないのに、紗怜南はハッと息を飲んで、彼が親指で示すのに従って部屋の外に出て行った。ふたりが退室した後の部屋の中には、感情をぶつけあった熱の残りが静かに漂っていた。冷たい視線の中、草鹿はそっと椅子に腰を下ろすしかできなかった。
一分もしないうちに、しずしずと戻って来た紗怜南が着席すると、三淵が戸倉に小さく頭を下げた。
「とりあえず、この後の最終弁論から通常の手筈で続けた方がよろしいかと思います」
戸倉は三淵と紗怜南、そして草鹿へと視線を移して、深くうなずいた。
「そうですね。裁判員には話をしておきます。いいですか、環さん?」
諭すような戸倉の瞳を受けて、紗怜南は「はい」と短く返事をした。
「草鹿さんもいいですね?」
「俺の印象が悪いまま進めるのか?」
三淵が笑った。
「それはあなたが蒔いた種でしょう。せいぜい最終弁論で頑張ることです」
まっとうな正論をぶつけられて、草鹿も紗怜南も何もいい返すことができないようだった。この後の方針が素早く決まり、休憩を切り上げる面々の中で、草鹿はじっと紗怜南の目を覗き込んでいた。
「さっき三淵に何をいわれたんだ?」
「……別に何でもないですよ」
紗怜南はさっさと立ち上がって出て行ってしまった。
◇
戸倉たちが戻る頃には、傍聴席も居住まいを正したように静まり返っていた。
「これより、双方の意見陳述をを行います。では、検察官から論告をどうぞ」
三淵はすっと立ち上がる。
「公訴事実について、合理的な疑いを入れない程度の証明を示したと考えます。殺人の事実、その後の遺体解体と証拠隠滅の手順について漏れなく説明しています。被告人は奥野さんの裕福な生活に憧れる中で、その生活を奪う機会を得たことで犯行の決行を意図しました。その犯行動機は身勝手なものであり、情状酌量の余地はありません。被告人は遺体解体という証拠隠滅を図っており、一貫性のない供述はその延長線上にあるものとみられます。これらの犯罪計画は衝動的な感情に基づくものですが、周囲の目を欺く工作を巡らせ、非常に悪質なものであります。以上を考慮し、被告人を懲役二五年に処するのが相当であると考えます」
その数字に傍聴席からは息を飲む音がする。草鹿がじっと三淵を見つめていた。
「弁護人から弁論をお願いします」
力のない返事を上げて、紗怜南が立ち上がる。
「公訴事実について、被告人が奥野さんの金品と生命を奪い、その犯罪事実を隠滅しようとしたという事実はありません。被告人は奥野さんによる頼みごとを遂行したにすぎません。その行為は、高校時代のクラスメイトである奥野さんの事情を汲んだ被告人による善意そのものであり、逮捕された当初にも、奥野さんの社会的な信頼を傷つけまいと、奥野さんの頼みごとの理由について口を閉ざしていました。また、検察による証明は被告人が犯罪を行ったという仮説を念頭に置いて組み上げられたもので、都合の良い間接証拠を並べ立てています。殺人と死体損壊については、その事実を証明する手段が存在しないということはすでに示した通りです。よって、被告人は無罪であり、一刻も早い身柄の解放を望みます」
紗怜南が席につくと、戸倉は緊張の面持ちで草鹿に目を向けた。
「被告人は前へ出て下さい」草鹿はそっと立ち上がって、戸倉の正面に歩み出た。「最後にいっておきたいことはありますか? くれぐれも発言には注意して下さい」
草鹿は乾いた唇に舌を這わせた。
「僕は奥野を殺していません。奥野の頼みを聞いていたら、こうしてここに立つことになりました。急に街中で高校時代のクラスメイトに再会して、よく分からないままに流れに乗せられて、気持ちを整理する暇もありませんでした。今にして思えば、父が死んだことで自暴自棄になって現実逃避したかったんだと思います。だから、奥野の一見おかしな頼み事もほいほいと受け入れてしまっていました。奥野とは親しかったわけでもありませんし、不倫をしているといわれてその言葉をそのまま飲み込んで、その手助けをしたつもりでした。本当にこんな大事になるとは思わず、早く日常を取り戻したいという気持ちが大きいです。僕は無実です」
草鹿が話し終えて、意外に無難に着地したことに安堵したのか、戸倉はやや言葉を詰まらせた。
「それでは、これで閉廷します」
二〇二四年二月八日 木曜日 午後
紗怜南の手帳のカレンダーには、今日の日付に「評議」と書かれている。
裁判員裁判では、公判が結審した後、三人の裁判官と六人の裁判員が評議を行い、判決について話し合いをする。その場は完全に非公開で、弁護士や検察官が同席することはない。
紗怜南は翌日の「判決」という文字に目をやって、重い溜息をついた。
──やれることはやった。
そういい聞かせて、彼女は寒空の下を歩いていた。
草鹿に恨みがないわけではない。せっかくの舞台を汚されたのだ。紗怜南は消化不良のまま今日を迎え、そして、明日を待つ。
街はバレンタインデーの装飾が目立つ。高い青空の下、身を寄せ合って歩くカップルが目に入るたび、紗怜南の胸は重たくなるのだった。浮かれた人々の生活が自分の日常に染み込んでいるような感覚。本意ではないものの、彼女はそこに一線を引きたがっていた。
芳しい香りの漂う入口をくぐって、デパートの中に足を踏み入れる。温かい空気が紗怜南を労うように包み込んだ。そばの化粧品売り場から立ち上る香りを尻目に、紗怜南は地下へ向かう。
エスカレーターには、地下から湧き上がるような焼き立てのパンのにおいが漂っていた。エスカレーターを降りて、紗怜南は目星をつけていた店を回る。金に糸目をつけずに惣菜からスイーツまでの袋を抱える頃には、紗怜南の中に満足感が嵩を増していた。
その足で同じフロアのワインショップへ向かう。店の一角に高級銘柄が並ぶコーナーがある。
落ち着いた木の棚に鎮座する一本の赤ワインに手を伸ばそうとした紗怜南の横合いから不意に声がした。
「ブラジルならおはようございます」
生まれてこのかた聞いたことのない挨拶に紗怜南が目を向けると、よれよれのコートの胸元から皺だらけのシャツを覗かせているうだつの上がらないガリガリの男が立っていた。紗怜南が怪訝そうに見つめる中、天然パーマの男は首を傾げた。
「白浜美咲さんに似てるっていわれない?」
「ええと……、誰ですか?」
「今テキトーに考えた名前なんだけどね。似てるわけないか。似てたら怖いよね」
冗談みたいな言葉だが、その表情には生気が感じられない。怪しい人間だと察知して、すぐにその場を立ち去ろうとする紗怜南に男の声が追いすがる。
「ワインって想像と違う味がしない? 子どもの頃にぶどうジュース飲まされて育ったせいだよね、絶対」
紗怜南はワインを諦めて足早にワインショップを後にした。チラチラと後ろを振り返りながらデパートを出て、ほぅ、と白い息をつく。
──一体何なのよ、あの不審者。
せっかく食べたいものだけを集めたディナーのためにここまでやって来たのに、全てが台無しになった気分だった。
雪辱を晴らすようにスマホで調べた付近のワインショップでお目当てのボトルを手にした紗怜南は、車道を挟んだ向こう側の歩道からこちらを見るさきほどの不審な男の姿を認めて、肝を冷やした。
すぐに背中を丸めて人ごみに紛れるように歩き出す。紗怜南は記憶を辿って男の顔を頭の中で検索した。だが、思い当たる人物などひとりもいない。それなのに、道の向こうから紗怜南を見つめる様子は、明らかに彼女を目がけている。
巣穴に逃げ込むように地下鉄の駅に向かう階段に身を投じた紗怜南は、そのまま寄り道をすることなく帰路についた。
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