第15話 大暴れ
二〇二四年二月七日 水曜日 午後
「これより被告人質問を行いますので、被告人は証言台へ」
昼休みを経て、ややゆったりとした空気が漂っていた。草鹿はゆっくりと立ち上がって、席についた。
「弁護人から質問をどうぞ」
紗怜南は草鹿の様子を窺うようにおずおずと足を踏み出した。そして、ふっと息をつくと、意を決したように口を開いた。
「まずはじめに聞きたいのですが、あなたは二〇二三年七月一二日に初めて奥野さんの別宅を訪れたのですか?」
草鹿は紗怜南に向かってうなずいた。
「そうですよ」
「あなたが奥野さんの別宅に滞在していた間、水道を頻繁に使いましたか?」
「いや、普通だったと思います」
「水道使用証明書によれば、二〇二三年六月と七月に一四・七立方メートルの使用が記録されています。水を出しっ放しにしたり、水漏れがあったなどの記憶はありますか?」
「ないです。そもそも、僕が奥野の家に居た時に水道が使われたとは限らないんじゃないですかね」
思いを秘めたように早口でまくし立てる草鹿に紗怜南は一瞬だけ戸惑ってしまった。
二〇二四年一月一〇日 水曜日 午前
「検察は突っ込んでも不利になるようなポイントを深追いしてこないですから、こちらからそのポイントを取り上げることで、相手の出鼻を挫くことができます」
紗怜南はアクリル板を挟んで草鹿との戦略会議を進めていた。
「だからってどうすればいいいんだよ?」
「被告人質問を利用すれば、検察のウィークポイントを突くこともできます。検察は証明できないことを主張することはありませんから」
草鹿の表情が俄かに晴れ渡っていく。
「どこがあいつらの弱点なんだ?」
「まずは、水道使用量です」紗怜南は資料を取り出す。「水道使用量と遺体の処理を結びつけていますけど、そのタイミングについては推測の域を出ない。水道メーターがスマートメーターでなく、毎日使用量をチェックしていないのならば、二か月の合算値しか分からないからです。彼らにとってそこは証明ができないポイントなので、突っ込まれれば苦しいはず」
草鹿は紗怜南の言葉を聞きながら、何かを考えているようだった。そして、ボソリと、
「大量の水は使われてるのか……」
と呟いた。紗怜南には微かな彼の声は届いていなかったから、彼女は次のポイントに意識を向けていた。
「どうやら検察は七月二三日頃に殺人が行われていると考えているようです」
「え、なんで?」
「草鹿さんがリフォーム依頼の電話をかけたのが七月二三日。ホームセンターで工具を買ったのが七月二五日。水道メーターの検針日は七月二八日なので、それよりは遺体解体が前だと考えているみたいです」
草鹿は鼻で笑った。
「バカみたいなことに頭を使ってるんだな」
「仮にこの考えを採用すると、説明が難しいところが出てきます。まずは、草鹿さんが奥野さんの別宅に滞在する初日の七月一二日から検察が考えている殺人や遺体解体のタイミングが離れすぎているということ。七月一二日に奥野さんが殺され、時間を置いて遺体を解体したとすると、奥野さんが本来会おうとしていた人物がコンタクトを取ろうとしてこなかったことが不可解になります」
「検察は奥野が海外出張に行くと思ってたんじゃなかったか?」
「実際には、奥野さんは飛行機のチケットを取っていません。となれば、本来であれば、検察は奥野さんが誰に会おうとしていたのかを掴まなければなりませんが、未だにその様子はありません」
「あいつの不倫相手が誰なのか、誰も知らないからな」
「この辺りの宙ぶらりんなポイントを明確にすることで、十分に犯罪の証明ができていないという印象を裁判員に与えることができます」
紗怜南は熱を帯びてそう話した。その目は輝いていた。
◇
「弁護人は質問を続けて下さい」
戸倉の声で紗怜南は回想の海から打ち上げられたように、ハッと顔を上げた。
「失礼しました。では、質問を続けますが」そう取り繕って、目の前の草鹿に顔を向ける。「あなたは奥野さんの別宅に滞在する間、水道メーターを毎日チェックしていましたか?」
「そんなことしません」
「では、別の誰かが毎日水道メーターをチェックしていたということはありませんか?」
「そんな奴がいたらすぐに分かりますよ」
「つまり──」
「毎日メーターをチェックした人間がいなかったんなら、いつどのタイミングでどれくらいの水が使われたのか、誰にも分からないってことです」
自分の言葉を遮ってひと息に草鹿がそういうのを目の当たりにして、紗怜南はさきほどの昼休憩のことを思い返していた。
二〇二四年二月七日 水曜日 昼
「被告人質問は俺が何かをいおうとすれば聞いてもらえるんだろ?」
草鹿にそう問いかけられて、紗怜南は言葉を詰まらせてしまった。草鹿の目には光が宿っていた。長い間、黙って紗怜南と三淵の応酬を見守ることしかできなかったことが、彼の中に何かを芽生えさせてしまったのかもしれない。
「せめて最後に意見をいえるタイミングまで待って下さい……」
草鹿は紗怜南を見て笑った。
「分かってるさ」
彼が何をどう分かっているのか、紗怜南には分からなかった。反応できないでいる紗怜南に、草鹿は熱い眼差しを送る。
「おかげで、俺も刺激をたくさん受けたよ」
その言葉の意味を測ることができないまま、紗怜南は持ち場に戻らなければならなかった。
◇
「ずっと思っていたんですよ。一体何が起こっていたのかって」
ついに草鹿は語り出した。紗怜南にとっては「語り出してしまった」と表現すべきかもしれない。じっと耳を傾ける戸倉に、草鹿は勢いよく言葉をぶつけた。
「奥野が消えてから、もう半年以上も経つ。その間、あいつから何の音沙汰もないのはどう考えてもおかしい。雲隠れしているとしても、金の問題があってどうやって生活しているのか全く分からない。ということは、奥野は死んだってことだ」
場は騒然となる。紗怜南は草鹿のそばで立ったまま項垂れ、壇上では戸倉たちが思案げに草鹿を見つめている。そんな中で、三淵は密かにほくそ笑んでいた。三淵と戸倉の視線がぶつかる。
「草鹿さん」戸倉はすっと通るような声で口々に囁く人々を制した。「ここでは、あなたの発言は有利にも不利にも働きます。そのことは初日に説明したはずです。そのことをしっかりと理解していますか?」
「してますよ」
草鹿は迷いなく答えた。三淵が立ち上がる。何かを企むような笑みを浮かべながら。
「いいじゃないですか。彼の話を聞きましょうよ」
戸倉はうなずいた。
「被告人は続けて下さい」
「ですが……!」
紗怜南の異論は戸倉の一瞥で一蹴されてしまう。呆気に取られる紗怜南のそばで、席についていた草鹿が立ち上がった。
「問題は奥野がいつ死んだのかということだ。そして、そのことによって、リアクションを起こさなきゃならない人間がいたはずだった」
「それは誰ですか?」
三淵が質問すると、紗怜南は弾かれたように声を上げた。
「今は弁護人質問の場です!」
「じゃあ、あなたが被告人の話を聞くべきじゃないですか?」
不敵な笑みで自分の席に戻る三淵を紗怜南は睨みつける。
「大丈夫だよ。俺の中では全部はっきりしてる」
草鹿は紗怜南にそういったが、彼女は憤りを押し込めた目で声もなく受け止めるしかなかった。草鹿はそれを後押しだと感じたのかもしれない。すぐに先を続けた。
「奥野の不倫相手ですよ。あいつは不倫相手と会う予定だった。だから、俺と別れてからその人物のもとに向かったはずなんだ」
戸倉と三淵がチラリと紗怜南を見たが、彼女は黙ったまま草鹿が喋るのを見ていた。
「その不倫相手からしたら、予定が崩れ、連絡も取れないはずの奥野のことが心配だったはずだ。それなのに、何のアクションも起こさなかったということは、あるひとつの可能性を示唆している」
草鹿は勿体ぶって言葉を切った。彼の頭の中には、紙の上で活躍した往年の探偵たちの立ち振る舞いがいくつも浮かんでいるのかもしれない。現実的に見ると、芝居がかりすぎている。誰も何もいわないのを残念そうに、草鹿はさらに話を進めた。
「その可能性というのは、不倫相手が奥野を殺した犯人だということだ」
彼がいい放つと、どよめきが訪れた。
「テキトーな当て推量でいい逃れようとしてるんじゃないんですか?」
三淵が辛抱ならないといった様子で口を挟むと、草鹿は水を得た魚のように首を横に振った。
「奥野の周囲にひとりだけアクションを起こした人間がいる」
草鹿が人差し指を立てると、静寂がやって来る。誰もが固唾を飲んでいるのだ。
「奥野の部下、氏川茜」
三淵は耳を疑うように笑ってしまった。
「氏川さんが奥野さんを殺したというんですか? 何を根拠に?」
「まず、奥野が不倫関係をにおわせるやりとりをしていなかったという前提がある。じゃあ、奥野はどうやって不倫相手とやりとりをしていたのか。誰にも気取られずにやりとりをするには、ふたりが近い距離にいることが必要になる。その上で、痕跡が残らなかったり、すぐに処分できるような方法でやりとりをしていたんだろうと想像できる」
「そんな方法ありますか?」
三淵は場を煽るように相槌を放り込んで、卓についている千種にメモを取るように指示をした。紗怜南は、三淵の思惑に気づいたように目を見開いたが、すでに時は遅かった。
「氏川はパソコンのモニターの枠に付箋を貼っていただろ。お互いにその付箋で連絡を取り合っていたんだよ」
「仮に、彼女が奥野さんの不倫相手だとして、奥野さん失踪に対するリアクションというのは?」
紗怜南には、三淵のカットインを止める手立てはもはやなかった。
「氏川は奥野の様子がおかしいといい出して、まわりを巻き込んで俺を炙り出した。そうやって、俺に疑いの目が向くように仕向けたんだ」
「そう都合良くいくでしょうか?」
「氏川から奥野に指示を出したんだよ。海外出張に行くという嘘の理由をでっち上げて、ふたりでどこかへ出かけよう、と。そこで、俺に白羽の矢が立てられた。俺に奥野の振りをするように。それで色々と理由をつけて工具の購入や不良品の回収、浴室のリフォームを俺にやらせたんだ」
どよめきを通り越して静まり返った空間のど真ん中で、草鹿はじっと間を取った。注目を一身に受け、気分が高揚しているようだ。
「氏川は七月一二日に俺と別れて家を出た奥野と合流して殺害した。そして、その罪を俺になすりつけたんだ」
「では、なぜ奥野さんの別宅の汚水桝から奥野さんの歯の破片が見つかったんですか?」
三淵の指摘に草鹿は即答する。
「昨日、話してただろ。あれが遺体解体のタイミングで流れ込んだとは限らないって」
思わぬ真犯人候補の指名に、波が戻るようにざわめきがやって来た。その騒々しい空気の中に三淵の声が飛んだ。
「つまり、あなたは、奥野さんが亡くなっていると考えているわけですよね」
波が寄せては返すようにしんと静まり返る。紗怜南はすでに卓に戻っていて、そこで頭を抱えていた。
「だからなんだよ?」
草鹿は反発心を掲げて応戦する。
「亡くなったと考えていないんですか? さきほどの主張と食い違っているようですが」
「そんなわけないだろ。この状況はどう考えてもあいつが死んだことを示してる」
三淵はニヤリと口の端を歪める。
「これまでの供述で、あなたは一貫して奥野さんは生きていて、やがて姿を現すと仰っていますよね。その供述を覆すわけですか?」
「異議あり!」ついに紗怜南は立ち上がった。「検察官は被告人を焚きつけて証言を誘導しました」
戸倉は首を振る。
「却下します。検察官は被告人の自発的な発言をもとに質問をしています。もちろん、被告人は答えたくなければ答えなくてもいいですよ」
そういわれて、草鹿はムキになったように口を開いた。
「別に証言を覆しているわけじゃない。不可解な状況について考えた結果、この真相に辿り着いただけだ」
「あなたはこの法廷でふたつの異なる主張をされています。あなたが本当に訴えたいのはどちらなんですか?」
「だーかーらー! 奥野は氏川に殺されたんだよ!」
「あなたは氏川さんが奥野さんの不倫相手だと仰いましたね?」
「ああ、いったね」
草鹿は引っ込みがつかなくなったように応じた。
「彼女を犯人だと断言するのであれば、あなたにはそれを証明する義務があるかと思います。氏川さんが奥野さんの不倫相手である証拠はありますか?」
草鹿は黙ってしまった。すかさず紗怜南が助け舟を出す。
「検察の質問は今回の審理内容とは関係のないものです」
「異議を認めます」戸倉は騒然とする場を鎮めるような強い語気だった。「検察官は今回の審理に関わることを質問するようにして下さい。いうまでもないことですが、被告人に証明責任はありませんので、検察官は自重して下さい」
三淵は悪びれる様子もなかった。
「奥野さんの別宅の六月と七月の水道使用量についてですが、あなたが滞在している間に使われたものではないというのは確かですか?」
「確かです」
草鹿が毅然とした態度で返答する。
「あなたのお話では、奥野さんはあなたと別れて別宅を出た七月一二日以降に氏川さんに殺害されたとのことでしたが、大量の水道の使用についての説明がつかないんじゃありませんか?」
「氏川の指示を受けた奥野が俺を陥れるようにわざと水を大量に使ったんですよ」
草鹿の解釈を飲み込むように沈黙が流れる。それを受けて、戸倉が壇上で咳払いをひとつした。
「ここで、一五分間の休憩とします。検察官と弁護人と被告人は来て下さい」
聴衆は一気に沸き立ち、係員たちの制する声が飛んだ。
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