第14話 オーメン
二〇二四年二月二日 金曜日 午後
被告人質問の最終確認を終えた草鹿は眉間に皺を寄せたままだった。
「何か不安がありますか?」
紗怜南が尋ねると、彼はアクリル板を突き破るようなギラリとしたものを目に宿して答えた。
「ずっと考えていたんだけど」
「……なんですか?」
紗怜南の声の端と寄せられた眉根には、文字で書かれているように嫌な予感が滲み出していた。
「信じたくはないことなんだ。こんなに長い間、奥野が姿を現さないんなんて、どう考えてもおかしいだろう?」
荷物をまとめていた紗怜南の手が止まる。
「それをこの五か月間、ずっと議論していたんですけど……」
「つまり、奥野が消えたのは理由があるんだ」
呆れたように肩を落とす紗怜南だったが、草鹿はそんなことお構いなしというように熱い視線で先を続けた。
「あいつは俺にいくつも指示を出していた。普通に考えたら、風呂場のリフォームなんて他人にやらせるようなものじゃないだろう。あいつには、どうしても俺に指示した内容をやってもらいたかったんだよ」
反応を求めるように草鹿が言葉を切って紗怜南を見つめる。その熱意に押し切られるように、紗怜南は相槌を返した。
「それで、その理由は何ですか?」
草鹿はニヤリと笑って人差し指を立てる。
「それを説明する前に、俺が高校時代の奥野についてほとんど何も覚えてないってことから話を始めなきゃならない」
自分から話を振っておいて回り道をしようという草鹿に、紗怜南は聞いている風を装うことにしたようだった。
「人間、他人にしたちょっとしたことで恨まれるってことはよくある。例えば、学生時代のいじめってのは、いじめた側はそのことをほとんど覚えていなかったりする」
「……高校時代に奥野さんをいじめてたってことですか?」
思わず疑問を口にして、紗怜南は後悔した様子で目を逸らした。
「そこがミソなんだよ。俺は奥野に対して高校時代にどんな扱いをしていたのか覚えてないんだ」
いちいち紗怜南の反応を窺う草鹿に、紗怜南はついに腹を決めた。
「どういう高校時代だったんですか?」
「まあ、つまらないものだったな。特に親しくしていた友達もいなかった」
「じゃあ、奥野さんをいじめていたなんて事実はないんじゃないですか。いじめなんて、大勢で寄ってたかってやるものでしょう」
「見て見ぬ振りをしているのもいじめっていうだろ。それをあいつが根に持っていた可能性だってある」
「奥野さんが高校時代にいじめられていたっていう証拠はあるんですか?」
「ない」
間髪を入れずに否定されて、紗怜南はガックリと頭を垂れた。
「証拠がなければ意味なんてないんですよ……」
「意味はある!」
草鹿は噛み合わない主張でアクリル板を突き通そうとする。紗怜南は公判を有利に進めることを念頭に置いているのだが、草鹿はそんなことを露とも想像していないらしい。
「あいつが何かのきっかけで俺に恨みを持っていたとしたら、今回のことだって説明がつくだろ!」
「どういうことか喋って下さい」
紗怜南は匙と成り行きを丸投げしてしまった。
「奥野は俺を追い詰めようとしてるんだよ。だから、俺を殺人があったような状況に置いたんだ」
「それをどうやって証明するんですか……」
「きっと奥野は俺の状況をどこかで見ていて、何かのタイミングで姿を現すに違いない」
「そんな突拍子もない妄想を誰が信じるんですか。そんなことをすれば、奥野さんだって罪に問われる可能性がありますよ」
草鹿は表情を曇らせる。
「じゃあ、奥野はネタばらしをするつもりがないってことか?」
「いや、まずは奥野さんが草鹿さんを追い詰めようとしてるっていう妄想をやめて下さい」
「待てよ……」
草鹿は短くそう口にして、顎をさする。紗怜南は固唾を飲んでその様子を見守っていたが、「何を考えているんですか?」と尋ねれば聞きたくもない妄想話を繰り出されるだろうと考えたのだろう、ただ黙って時が過ぎるのを待っていた。
二〇二四年二月七日 水曜日 午前
紗怜南が先週金曜日のことを思い出したのは、彼女がつく卓の前に連れて来られた草鹿の表情があの時と同じように何かを物語っていたからだ。
──余計なことをしてくれるなよ。
身体を強張らせた紗怜南の耳に戸倉の声が届いて、彼女は我に返った。
「それでは、これより開廷します。
本日は建造物等損壊についての審理に加えて、第一回期日から本日第三回期日にかけての審理を受けての被告人質問を行います。その後、最終弁論があります。
建造物等損壊についても、検察の主張に対して被告人が否認をしています。よって事実自体を争うこととなります。本日の審理についても、裁判所は然るべき証拠を採用しました。また、検察官から豊嶋伸幸さんの証人申請があり、それを受理しました。
検察官は証拠の告知を行って下さい」
グレーのスーツに身を包んだ三淵が返事と共に立ち上がる、
「ここで私が証明したいことは、被告人がもともとの浴室の現状を異なるものにし、奥野さんの意思によらないリフォームを行ったということです。また、このリフォームが浴室での遺体解体の証拠を隠滅するために行われたということが合理的な疑いのないものであると示したいと思います。
甲第一八号証は、奥野さんの別宅の浴室リフォームに係る工事請負契約書です」
モニターに書類のPDF画像が表示される。サイン欄には「奥野夢人」と記されている。三淵は書類内容を朗読し、言葉を続けた。
「この書類によって、二〇二三年七月三一日から八月三日にかけて行われたリフォームについて、被告人が自らの意思で契約を結んだことが示されています。このサイン欄の名前は被告人自身の名前ではなく、奥野さんのなりすましを行っていることが分かります。また、この契約書のサインについて、次の甲第一九号証である筆跡鑑定書で被告人本人が自らの手で掻き記したものであることを示します」
モニターの画像が切り替わる。「筆跡鑑定書」と題されている。
「この筆跡鑑定書は、被告人の自宅から押収された被告人の直筆と甲第一八号証である工事請負契約書のサインを比較した内容となっています。この鑑定書には、その比較によって二点の直筆の筆跡が同一のものであるということが示されています。
甲第二〇号証は、奥野さんの別宅のユニットバス設計図になります。こちらは、別宅が着工する直前の二〇二一年二月のものになります。これによれば、リフォーム前の浴室は一六一六サイズのユニットバスで、浴槽の向きは入口から見て縦方向、浴槽のサイズは奥行き七〇〇ミリメートル、幅一四〇〇ミリメートルとなっています」
三淵は資料の詳細を読み上げて、次へと進んだ。
「甲第二一号証は、奥野さんの別宅のユニットバスリフォーム設計図です。リフォームが行われる直前の二〇二三年七月のものです。浴室は一四一六サイズのユニットバスで、浴槽の向きは入口から見て横方向、浴槽のサイズは奥行きが七〇〇ミリメートル、幅は一二〇〇ミリメートルです」
三淵はさきほどと同じように資料を朗読していった。
「リフォーム前後では、浴室の様相は一見して元来の状態とは異なっており、被告人はリフォーム前の現状を被告人自身の意思によって変更しています。ここでひとつ、この浴室のリフォームについて、奥野さんの意思が介在しないと考えられる点をご説明したいと思います」
三淵が合図を送ると、数名の係員がキャスターのついた台に固定された浴槽をふたつ運び入れてきた。浴槽と共にやって来たのは、長身の男性だった。三淵は浴槽と男性のそばに歩み出て、場を見渡した。
「ここにある浴槽は、奥野さんの別宅の浴室に使われていたものになります。ひとつは奥行き七〇〇ミリメートル、幅一四〇〇ミリメートルで、リフォーム前のものになります。もうひとつは、奥行き七〇〇ミリメートル、幅一二〇〇ミリメートルで、リフォーム後のものです。ここにいる男性は、身長一八五センチメートル、体重七六キログラム、股下が八六センチメートルと、奥野さんと同じ体型です。彼にふたつの浴槽に入って頂き、皆さんにはその違いについてご覧頂こうと思います」
三淵が手で促すと、男性はサッと浴槽の側壁を跨いで中に腰を下ろした。男性は浴槽の縁に両腕を乗せて、浴槽の中で脚を伸ばした。
「この浴槽はリフォーム前のものとなります。ご覧頂いたように、ゆったりと湯船に浸かれています。では、もうひとつの浴槽に入って頂きましょう」
男性は素早く浴槽を出て、並べられたもうひとつの浴槽に入り込んだ。浴槽の縁に両腕を乗せた彼は、脚を曲げている。
「この浴槽サイズでは、彼は脚を伸ばすことができていません。つまり、この浴槽では奥野さんもゆったりと脚を伸ばすことができないわけです。被告人は奥野さんの指示によって浴室をリフォームしたと主張していますが、その主張には矛盾があります」
傍聴席からはざわめきが漏れる。昨日の紗怜南による攻勢がぐらついたのかもしれない。木立がざわざわと囁くような中、浴槽と男性が出ていく。
「それでは」戸倉が声を発すると、再び静寂が訪れる。「証人尋問を行います」
今度は太った短髪の男性がやって来て、昨日までと同じように宣誓書の朗読を行った。彼が席につくと、三淵がそばに近づく。
「あなたの名前と職業について教えて下さい」
「豊嶋伸幸です。島内創建でリフォーム施工管理をしています」
年増は緊張気味に答えると、唇を舐めた。
「あなたが奥野さんの別宅の浴室リフォームに携わったんですか?」
「そうです」
「リフォームの施主は誰ですか? 名前を教えて下さい」
「奥野夢人さんです」
「奥野さんとやりとりをしてリフォームを進めていったんですね?」
「はい」
「その相手はこの法廷に居ますか?」
「はい」
「誰ですか? 教えて下さい」
豊嶋は紗怜南の卓の前に係員に挟まれて腰を下ろす草鹿を指さした。
「彼です」
「今となっては、彼が奥野さんではないことはご存知ですね?」
「そうですね」
「被告人はあなたが働いている店舗へ来店したんですか?」
「はい」
「被告人が来店するまでの経緯を教えて下さい」
「七月二三日に電話がありまして、至急で浴室をリフォームがしたいと。それで、翌日ご来店されて話を詰めました」
「リフォームの工事が七月三一日から始まってますよね。工事に入るまでかなり早いですよね」
「至急ということだったのと、閑散期だったこともありまして」
「どのような依頼だったんですか?」
「ユニットバスのサイズを若干小さくするということと、それに伴って浴槽の向きを変えるというご依頼でした。洗面所などはそのままで、浴室内のみ既存のユニットバスを別のユニットバスに入れ替えるというものです」
「浴室の内装を全て入れ替えたんですね?」
「そうです。天井から壁から床まで含めた全体の入れ替えですね」
「その時の被告人はどのような様子でしたか?」
「現状の設計図などをお持ちいただきまして、ご来店前に細かく計画を練られているようでした。急いでおられるようでしたが、淡々としていました」
「ユニットバスのサイズが元のものから変わったんですか?」
「変わりました」
「何から何に変わりましたか?」
「一六一六から一四一六になりました」
「そのサイズについて簡単に説明して下さい」
「浴室の内寸が一六〇〇ミリメートル×一六〇〇ミリメートルなのが一六一六サイズで、一四〇〇ミリメートル×一六〇〇ミリメートルになると一四一六サイズになります」
「一六一六サイズから一四一六サイズになると浴槽のサイズも変わりますか?」
「変わらないままでもリフォームはできます」
「今回の場合はなぜ浴槽のサイズが変わったんですか?」
「もともとの浴槽の向きが変わって浴室内寸の短辺に沿う形になったので、幅もそれに伴って短くなりました」
「被告人は浴室をなぜリフォームしようと思ったのか聞きましたか?」
「聞きました」
「被告人は何と答えましたか?」
「現状が気に入らないので、と」
「どういう部分が気に入らないといったんでしょうか」
「浴槽の向きが気に入らないと仰っていました」
「浴槽の向きだけが気に入らないという理由でユニットバス全部を入れ替えるということはよくあることですか?」
「いえ、ないと思います」
「なぜですか?」
「状況によりますが、浴槽だけの入れ替えもできます。その方が費用も安くつくので」
「奥野さんの別宅の浴室の場合、浴室の向きを変えるとしたら、どれくらいの費用がかかると考えられますか?」
豊嶋は少しの間、首を捻った。
「あくまで概算ですが、三〇万円程度で事足りるかと思います」
「つまり、浴槽の向きが気に入らないのであれば、一二〇万円もかけずとも、リフォームはできるわけですね?」
「そうですね」
「不自然なリフォームだったと思いますか?」
「異議あり。誘導尋問です」
紗怜南が声を上げる。戸倉は三淵へ顔を向ける。
「検察官は質問を変えて下さい」
「では、豊嶋さん、あなたは被告人により費用を低く抑えられるという提案をしましたか?」
「しました」
「被告人の返答はどうでしたか?」
「それでもユニットバス全体を入れ替えたいということでした」
「以上です」
三淵が席へ下がっていくと、戸倉に促された紗怜南が豊嶋のつく席のそばに近寄った。
「浴槽の向きが気に入らないという理由で浴室をリフォームするというのはよくあることですか?」
「そうですね」
「浴槽のサイズを変えたいという要望もあるんでしょうか?」
「あります」
「大きくしたいという声の方が多いんでしょうか」
「小さくされたいという方もいらっしゃいます」
「どういう場合ですか?」
「そうですね……、例えば、浴室の洗い場を広くしたいという場合ですとか、浴室を小さくして洗面所や他の部屋を広くしたいという比較的大規模なリフォームを考えている方もいらっしゃいます」
「そういう方は浴槽が脚を伸ばせない幅になってしまって不満はないのでしょうか?」
「足を伸ばせる浴槽をお求めの方もいれば、そうではない方もいらっしゃいますので」
「足を伸ばせない浴槽に変えるというのは、不自然なことではないんですね?」
「そう思います」
傍聴席が微かにどよめく。さきほど三淵が行った実験による結論が宙ぶらりんになったせいだろう。
「今回のリフォームで、浴室はどのように変わりましたか?」
「浴室自体が若干入口から見て縦長になりました。それから、さきほどからお話のある浴槽の向きが変わりました」
「つまり、浴室の向きを変えるだけでなく浴室をやや狭くしたわけですね」
「そうなります」
「浴室を狭くすると、天井や床を全て張り替える必要も出てきますか?」
「状況によってはそうなります」
紗怜南は短く「以上です」といって下がっていった。
「検察官から再主尋問はありますか」
三淵は返事をして速足で豊嶋のそばに歩み出た。
「浴槽のサイズを変えるために浴室のサイズを変えるということはよくあることですか?」
「どうでしょうか、なんともいえません。あるといえばあると思いますが、私はあまり聞いたことがありません」
「浴室のサイズを変えなくても浴槽のサイズを変えられるんですか?」
「もちろんです」
「浴槽のサイズを小さくする時にも同じことがいえますか?」
「はい」
「その際には、もちろんユニットバス全てを入れ替えなくても済むわけですね?」
「そうです」
「以上です」
三淵は険しい表情で終わりを告げた。
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