第13話 スーツを脱いで
二〇二四年二月六日 火曜日 夕方
草鹿が話す間、紗怜南はじっと耳を傾けていた。その熱のこもった眼差しには間違いなく、彼女への思いが秘められていた。そこには拭いきれぬほどに情がありありと塗りこめられている。
草鹿の口振りから距離感が消えたタイミングを紗怜南は思い出すことができない。だが、その移り変わりに草鹿の感情が伴っていることは容易に想像ができた。
「依頼人は得てして味方である弁護士に好意を抱きがちだ」
とは、紗怜南の父である郁也の言葉だった。そして、時にはその依頼人の感情を利用して情報収集を円滑に行うことも必要だと郁也はいっていた。紗怜南はその言葉に直面して、なんともいえない気持ちになっていた。草鹿には表立って彼の無実を声高に訴えるような味方はいない。彼にとって紗怜南は唯一の寄る辺であり、長らく社会との繋がりを遠ざけ続けてきた彼にとって、これほど濃密な異性との接触はほとんど初めてのことのはずだった。
「相手の好意をいかに成功という形で昇華させられるかが弁護士としての真価だ」
郁也はそう結んでいた。薄情な人間だ、と当時の紗怜南は感じていた。だが、今になって父の言葉の重要性にぶち当たっていた。
草鹿は、まだ明日があるというのに勝ち誇ったような表情をしていた。
「こりゃあ、これが終わったら祝杯だな」
その言葉の端々に、自分を掴んで離さないようなジュクジュクとしたエネルギーが迸っているのを紗怜南は敏感に感じ取っていた。
しばらくして、草鹿は部屋を出て移送されて行った。残された紗怜南はひとり深い溜息をついた。
夜になって、紗怜南は自宅マンションの一室で落ち着いた時間を過ごしていた。部屋の中には資料が散乱していた。全ては草鹿に関するものだ。中には、彼の父親に言及するものも含まれている。
草鹿錦司は二〇二三年五月一八日に他界している。ひとり息子である京一に二〇〇〇万円を残したり、一人で住むには十分すぎるほどのマンションの一室を与えたりと、経済的には余裕がありそうだった。しかしながら、錦司の住む家は質素で、とても生活に余裕を持った人間の暮らしぶりではなかった。妻の佐和は京一が小学校に上がる頃に病死していた。錦司は古物商を営んでいたが、それで息子に大金を残せたかどうかは疑問が残る。
一枚の写真がある。錦司が開いていた骨董品店の店先で恰幅の良い男性と笑顔で映っている錦司のものだ。一九九〇年四月二三日の日付が入っている。錦司が映っている写真はこれが最後だ。三三年もの間、写真を残さない人間がいるとは、紗怜南には驚きだった。葬式の時には遺影に苦労したろうと彼女は想像したが、京一は錦司を直葬しており、その辺りは特に困ったわけではないようだった。それだけ親子が疎遠だったということだ。すっかり冷めきっていたのかもしれない。紗怜南は複雑な思いに駆られてしまう。
自然と紗怜南の意識は父である郁也の方へ向けられていた。
草鹿の件にのめり込んでいた。その根底には、父を見返せるかもしれないという光明のようなものが差し込んでいた。しかし、それとは裏腹に、父に今の自分を見せることができないという思いもあった。
「父のことはなにも知らない」
草鹿はそういっていた。一方で、紗怜南は父のことをよく知っていた。幼い頃は弁護士だという父を自慢に思っていた時期さえあった。
草鹿の父は草鹿に多くのものを遺した。一方で、紗怜南の父が何を残したのかといえば、彼女には何も思い至らないのだった。
椅子にかけたジャケットに光るバッジが紗怜南の目に入る。ひまわりの花弁をモチーフにし、中央には秤の絵が彫られている。あのバッジは郁也の面影を否応なしに思い起こさせる。
「弁護士バッジはな、銀色になってからが一人前だ」
郁也は自慢げに自分の弁護士バッジを指さして語っていた。表面の金メッキがひとりでに剥げて初めて、弁護士として自分の足で立つことができるというのが郁也の弁だった。ジャケットに輝く紗怜南のバッジはまだ金色に光っている。
スマホが鳴る。画面には木崎星矢の表示がある。メッセージが着信していた。
〈昨夜はすみませんでした〉
彼からのそのメッセージに目を通している間に次のテキストが表示される。
〈困っていることがあったらいつでも相談に乗ります〉
紗怜南は頭を抱えて溜息をついた。
──なんでこんなタイミングで、こんな奴と出くわしてしまったんだろう?
過去を悔やんでも仕方がないが、紗怜南が舌打ちせずにいられなかった。もしかすると、郁也の差し金なのかもしれない。家を飛び出して行った娘を引き戻るために、探偵まがいのことをしたのだとしたら……。
──もう少しで全てが終わるのに。
紗怜南は木崎に返信せずにスマホをベッドの上に放り投げた。スマホは何度か飛び跳ねて、ベッドと壁の隙間にダイブしたようだった。
ばさりと音がする。
山のように積んだ資料が雪崩を起こしていた。写真が何枚も斜面を滑り降りてカーペットの上にシュプールを描く。さんざんな状況に口角を下げながら紗怜南は一枚一枚を拾い集めていく。錦司が撮影した写真には、一九八八年から一九九〇年にかけてのボストンの街並みが収められていた。
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