第12話 草鹿京一の話

二〇二三年八月一〇日 木曜日 早朝


 警官二人に両腕を掴まれてパトカーに乗せられて、太ももから下の感覚がスーッと抜けていった。

 俺が何をした?

 なんで警察が来た?

 次には、奥野のことが気になっていた。予定では、もうすぐ戻ってくるはずだった。俺が警察に逮捕されたなんて知ったら、彼は驚くだろう。車窓に流れる葉山の街が置き去りにされていく。奥野の別宅で過ごす無為な時間は俺を変えたわけじゃないが、住む世界が違うということをまざまざと見せつけられた。好きに過ごせたのはよかったが、自由に過ごせる時間が残り少なくなっていくのを感じると無常感に苛まれた。別に、家の中に籠りっきりなのはいい。俺は奥野を騙らなければここに居られないという事実が圧倒的な人生の違いを痛感させられた。それが俺にはキツかったのかもしれない。自由にしていたはずなのに、両手首には手錠がかけられている。

 俺が何をしたというのだろうか。


 どこかの建物の裏手にパトカーが停まると、降車させられてうら寂しい入口から建物の中に足を踏み入れる。空調が利いているせいなのか、空気がひやりとしている。小さな部屋に入れられ、写真撮影や指紋の採取が流れ作業のように行われていく。手錠と腰縄で拘束され、警官たちの目に晒されながら冷たい廊下を進むと、鉄扉が現れる。明らかに厳しい監視体制が敷かれている。

「留置場?」

 俺がいうと、答えの代わりに命令される。

「ここに立って」

 有無もいわさずに壁に向かって立たされる。鉄扉の開く音がする。そちらを見ようとするが、警官たちが俺の視界を塞いでいた。扉が開いたその先には、鉄格子のついたドアが並んでいる。やはり留置場だ。

「本当に逮捕されるんですか?」

「早く進んで」

 ぴしゃりと命令されて、俺はなす術もなく留置場のエリアに押し込まれていく。医務室のような小部屋に連れて行かされると、ドアが閉められる。

「身体検査をするので、服を脱いで」

「はぁ? 本当に言ってるんですか?」

「早くしなさい」

 小部屋の中には何人もの警官が立っていて、断れるような空気ではない。

「早くしなさい」

 もう一度いわれて、俺は仕方なく服を脱いだ。


 鉄格子の部屋の中には畳が敷き詰められていて、空調が効いていた。やけに静かで、空虚な空間だった。室温以上に白い照明が無機質で寒々しい。悪夢の中に放り込まれたような感覚に包まれて、腰を下ろした途端にものすごい疲労感に襲われてしまった。

 二八番……それが俺につけられた番号だった。何が何だか分からないまま、番号を呼ばれ家畜みたいに鉄格子の中から連れ出され、狭い部屋に通されて、小さい机を挟んで刑事と向き合わされた。

「奥野夢人さん、知ってる?」

「……なんですか、これ?」

 高圧的な刑事のいきなりの問いかけに俺は身構えていた。ここまでの数時間、俺は完全に犯人扱いされている。

「奥野さんの別宅に正当な理由なく居座ってるってことで逮捕されてるから」

「はあ? あいつに頼まれてやってただけですよ!」

 刑事は俺をじろりと睨みつけて、ぼそりといった。

「認めないってことね?」

「当たり前でしょう!」

「あと、弁護士呼びたいなら呼んでいいから」

 イラっとしてしまった。

「要らないですよ、そんなもの。あいつが戻ってくれば全部はっきりするんだから」

「ここで喋ること裁判で証拠になるけど、いいの? あとで『やっぱりやりました』とかいって反省した振りしても意味なくなるかもしれないよ」

「いや、だから悪いこと何もしてないんですって」

「じゃあ、聞きたいんだけど、奥野さんはどこにいるの?」

「もうすぐ帰ってくるんじゃないですか、知らないですけど。これ本当に逮捕されてるんですか、俺は?」

 刑事はニヤニヤしながら椅子の背もたれをギシリといわせた。

「奥野さんのスマホとか財布を使ってたらしいね」

「使っていいっていわれましたからね」

「そんなことある? なんでそんなことになるわけ?」

 俺の脳裏には奥野の顔が浮かんでいた。彼の言葉を思い出して、こいつらには喋るまいと思った。不倫のことだ。

「別に、それはいいじゃないですか。高校の同級生なんですから」

「高校の同級生だったからっていって、そうはならないでしょ」

 刑事は終始俺をバカにしていた。ここまで面と向かって人間としての尊厳を踏み躙られるとは思わなかった。だからだろうか、俺の胸の中には闘争の炎のようなものがメラメラしていたような気がする。

 留置場の夜は、日の落ちない白夜みたいなものだ。明かりがなくなることはない。横になって天井を見上げる。染みや傷の目立つ古びた天井板が俺を見つめ返す。饐えたようなにおいがこびりついていつまでも漂っていて、世間から切り離された感がある。

 まあ、もともと社会との繋がりは希薄だったのだが。

 あとは奥野が姿を現すまでの辛抱だ。そう自分に言い聞かせて、辿り着いた境地があった。

 今この瞬間を楽しむしかない。



二〇二三年八月一二日 土曜日 午前


 三淵に会ったのはこの日が初めてだった。

 警察が俺を送致して、警察署に三淵がやって来た。取り調べの場所は相変わらずあの狭い部屋で、相手が変わっただけだった。

「容疑を否認しているそうですね」

 言葉遣いが少し変わっただけで、その内容は警察と大差ない。

「もう何百回も説明しましたよ」

 三淵がチラリとこちらに目をやる。

「何百回も取り調べを受けたはずはないですが」

「ふん、もののたとえですよ」

 三淵は、嫌味な奴だった。

「警察はあなたの余罪を追究してます」

 自然と口から溜息が溢れ出した。

「何もしてないって何回いえばいいんですか」

「経済状況が芳しくないそうですね」

 感情のない目で見つめられる。

「……いきなりなんですか」

「そういう背景が犯罪の原因になることが多いんですよ」

「だからといって、俺のことも犯罪者扱いするんですか?」

「奥野さんの財布の中のお金を使ってますよね」

「使っていいっていわれたんですよ。何回もいってるでしょ」

「奥野さんがそういったんですか?」

「そうですよ」

「奥野さんがそういったといっているのはあなただけなんですよ。裏づけが何もない」

「いや、探せばあるでしょ」

「何のために奥野さんの別宅へ?」

「だーかーらー、あいつに頼まれたんですって」

「自分になりすますように、と?」

「そうだってずっといってるでしょ」

「一五〇万以上も使っていいと?」

 話にならなかった。この男は自分の用意した結論に全てを持っていこうとしているだけなのだ。

 そして、午後になって、環紗怜南と名乗る国選弁護士がやって来た。汗だくになりながら。物理的にそうだったのかもしれないが、あの時の俺の目には彼女が輝いて見えた。それなのに、あんな態度を取ってしまったのは気恥ずかしさを紛らわせるためだったかもしれない。



二〇二三年八月一三日 日曜日 午前


 紗怜南は苦笑していた。

 留置場には彼女が俺の自宅から持ってきた着替えの差し入れが届いていた。やっと来ている物の違和感がなくなった。

「草鹿さんのマンション、セキュリティが厳しくて……」

 俺の脳裏には、仏頂面の管理人の顔が浮かんでいた。

「ああ、昔からずっとああなんですよ。何かいわれましたか?」

「何のために来たのか、何を持ち出したのかということを確認されました」

「あの人、元警官らしくて、その辺りの融通利かないんですよ」

「申し訳ないんですけど、今回の件のことはお話させて頂きました。それで納得していただけました」

「まあ、それはしょうがないですよ」

 紗怜南は何か気になることがあるらしく、じっと何かを考えていた。

「どうかしたんですか?」

「草鹿さんの経済状況を見ると、検察側には有利な状況なのかなと感じてしまって……」

「どういう意味です?」

 この女も俺の味方にならないのだろうか……瞬間的にそう感じてしまった。

「あのマンションに住み続けるためには、管理費と修繕積立金を支払い続けなければなりませんよね。今まではお父様の口座から引き落としされているようでした。それが途絶えると、生活はかなり苦しくなるのでは?」

「だからなんですか。しょうがないでしょう」

「そのあたりの支払い計画をどのようにしているのか明確にしておかないと、検察に突っつかれる可能性があります。犯罪の動機として利用されてしまうかもしれないんです」

 深刻そうな瞳だった。思わず、自己嫌悪に陥る。

「いや……、そのことは俺も考えていて……。どうすればいいのかと……」

「お父様の遺品を整理されているんですよね。そこから当分の費用の捻出は……」

「いや、ほとんど相続放棄しているんで」

 紗怜南は黙ってしまった。面会室の空調の音が虚しく響く中、彼女はそっと尋ねてきた。

「お父様は草鹿さんが生まれてから草鹿さんの銀行口座に毎年一〇〇万円ほどお金を移していましたよね」

「ああ……」俺にとっては思い出したくない過去だった。「俺が家を出る時に通帳やなんかを渡されましたよ」

「二〇〇〇万円ほど……」

「あいつは……父は金さえ渡せばいいと思ってたんでしょう。どうせあぶく銭でした」

 紗怜南はアクリル板の前に身を乗り出した。

「そのお金で車を購入されてますよね」

「今はホコリ被ってますけどね」

「その車を売却すれば、管理費と修繕積立金の費用としてはかなり余裕のある状況になるんじゃないかと思いまして……」

 彼女の提案に、俺は雷を食らったような衝撃を受けた。

「あ、そうだ! そうですよ! あれを売れば多少は楽になる!」

「ね! そうでしょう!」

 彼女が目を輝かせていうので、俺も顔が綻んでしまった。

 彼女は俺の味方なんだ。

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