第11話 攻防戦

二〇二四年二月六日 火曜日 午後


 三淵は岡原の話を聞き終えて、しばらく沈黙の時間を作っていた。傍聴席では、固唾を飲んでこの先の展開を見守ろうという眼差しが焦れているようだった。

「今回の事件は被害者の遺体が発見されませんでしたが、そういった事件では、どのように殺人があったと判断するんでしょうか?」

 三淵の質問に岡原は真っ直ぐと戸倉へ目を向けながら答える。

「収集した証拠から総合的に判断します」

「今回の事件で、どのようなポイントが殺人があったことを示していると考えられますか?」

「まずは、奥野さんの七月一二日以降の行動が追えなかったことです」

「そのポイントについて詳しく教えて下さい」

「入国管理局へ問い合わせて、奥野さんの出入国記録が七月一二日以降にないということを確認しました。その後、国内での行動経路を調査しました。ですが、奥野さんの別宅には、普段彼が乗っている自家用車が置かれたままでした。その車自体は七月一二日以降に被告人が使用しています。奥野さんの別宅がある住宅街に自治体が設置している防犯カメラはないのですが、南に行くと国道にぶつかる場所にカメラがあります。しかし、そのカメラ映像を精査した結果、奥野さんは映っていませんでしたし、彼がタクシーを使った形跡もありませんでした。そもそも、奥野さんの別宅には彼のスマホと財布が残されたままで、その状態でどこかへ出かけるということ自体が大いに疑問のあることです」

「つまり、奥野さんは彼の別宅から移動していないというのが警察としての見解だったわけですか?」

「そうなります」

「奥野さんの別宅の敷地内は鑑識によって詳細に調べられたんですか?」

「もちろんです」

「その際に、奥野さんを見つけることはありましたか?」

「ありませんでした」

「他に殺人があったことを示すポイントについて教えて下さい」

「被告人の証言内容についての信憑性が薄かったことです」

「どのような内容ですか?」

「まず、これは心証面の問題なのですが、警察の捜査に対し、どこか嘲るような印象を受けました。その上で、裏づけのない証言ばかりでしたので、嘘の証言をしているように見受けられました」

「具体的にはどのような証言ですか?」

「奥野さんに不倫相手がいるというものです。被告人は、奥野さんから不倫相手と出かけるからその間に自分の振りをするように頼まれたといっていますが、奥野さんに不倫相手がいるという事実は見つかっていません」

「どのような調査を行いましたか?」

「奥野さんの交友関係について、通信履歴や郵便物、周辺人物への聞き取りを行いました」

「どのように不倫相手がいたという事実に疑いを立てたんですか?」

「通常、そのような不貞の事実はメッセージアプリなどのやりとりによって明らかになりますが、奥野さんに関してはそのようなものがなく、奥様との関係性についても様子が変わったという声は聞かれませんでした。念のため、奥野さんの素行調査も行いましたが、ホテルの利用や出入りしていた場所でも、不貞の事実を確認することができませんでした。また、被告人から奥野さんに不倫相手がいるということを示す証拠の提供もありませんでした」

「被告人からは奥野さんの不倫相手の名前を聞くことができましたか?」

「いえ。知らないとのことでした」

「被告人は奥野さんが不倫相手と出かける間、奥野さんの振りをするようにいわれたと供述していますが、仮にそれが嘘だとしたら、なぜそのような嘘をついたと考えられますか?」

「異議あり」紗怜南は素早く声を上げる。「検察官は証人に意見を求めています」

 戸倉は冷静に応じる。

「異議を却下します。検察官は事件の捜査班長である証人に対して、専門家としての見解を質問をしていますので」

 紗怜南はムッとした顔で身を引いた。

「奥野さんが不在であることと被告人自身が奥野さんの別宅に滞在していたことを、奥野さんが不倫相手と長期間にわたって外出するという状況で説明しようとしたのではないかと思います」

「殺人が行われたことを示すポイントについて他にもありますか?」

「あります。もちろん、奥野さんの別宅の敷地内に設置された汚水桝内から見つかった歯の破片もそうですが、それらの殺人を示す状況証拠に加えて、遺体の解体を行ったと思しき証拠が挙がったことが大きいです」

「殺人と死体損壊の状況証拠の相互的な関わりから判断したということですか?」

「そうです」

「死体損壊を示す証拠について教えてい下さい」

「第一には、奥野さんの別宅の水道使用量です。通常の七倍もの水量が使われていました。そして、被告人がホームセンターで購入した商品と浴室のリフォームを行ったという事実によって、少なくとも浴室で遺体の解体を行ったであろうことがごく自然に導き出せるかと思います」

「浴室以外で遺体の解体を行った可能性はありませんか?」

「奥野さんの別宅内からそれと思しき血液反応が見つかった場所がないので、考えにくいかと思います」

「浴室から遺体解体の痕跡が見つからなかったのはなぜですか?」

「犯行後にリフォームされたからです」

「なぜ被告人は犯行後に浴室をリフォームしたんでしょうか?」

「犯罪の証拠を隠滅するためだと思います」

 三淵は大きくうなずいた。

「以上です」

「それでは」戸倉が紗怜南に声を向けた。「弁護人か反対尋問をどうぞ」

 紗怜南は勢いよく立ち上がって、岡原に質問を投げる。

「奥野さんが別宅から移動していないと仰いましたが、奥野さんが誰かの車に乗って移動した可能性はありませんか?」

「住宅街の南北に設置された防犯カメラに映っていた車両の追跡調査を行っていましたが、奥野さんの別宅の汚水桝から派の破片が見つかり、それが奥野さんのものであると分かったため、捜査の方針が変更になりましたので、その可能性はないと思います」

「その歯の破片がいつ頃汚水桝に流れ込んだのか分かりますか?」

「被告人が遺体を解体した頃でしょう」

「それをどのように証明するのですか?」

 岡原は初めて言葉を詰まらせた。紗怜南は彼をじっと見つめながら、さらに口を開いた。

「では、質問を変えましょうか。汚水桝から見つかった歯の破片が遺体解体の際に出たものだと証明はできますか?」

「他の状況証拠から総合的に判断ができるかと思います」

「浴室の排水管からは奥野さんの遺体の一部などは見つかりましたか?」

「いえ」

「では、浴室で遺体を解体したという警察の見解には明確な根拠がないということですか?」

「被告人は浴室をリフォームしていますし、七月の水道使用量が通常よりも七倍あったことが遺体の解体を示唆するものであると考えています。また、浴室の排水管は歯の破片が見つかった汚水桝に繋がっています」

「つまり、被告人が浴室をリフォームしたのは、証拠隠滅のためということですか?」

「さきほど検察官に答えた通り、そうだと思います」

「あなたの考えでは、被告人は殺人と遺体解体を行った後も奥野さんの別宅に滞在し続けていたことになりますね?」

「そうなります」

「証拠隠滅を図った被告人が現場に留まり続けたという点についてのあなたの考えを聞かせて下さい」

 岡原は再び言葉を詰まらせたが、すぐに答えた。

「それは、私にも理解ができません」

「矛盾点があるということですか?」

「犯罪を行った者は、支離滅裂な行動を取るケースもあります」

「あなたのお話では、犯罪者が取り調べの際に自分の状況が分からずにフワフワした態度を取ることがあるということでしたね」

「そうですね」

「被告人に対してもそのように感じましたか?」

「はい」

「被告人は自分の状況が分かっていないように見えましたか?」

 岡原は紗怜南の方を一瞥した。一瞬前に答えた内容をもう一度聞かれたことに対するちょっとした不満があったのかもしれない。

「はい」

「仮に、被告人が、自分がなぜ逮捕されたのか分からないのだとしたら、自分の状況が分からずにフワフワした態度になるのではありませんか?」

「それは、なんともいえません」

「表面上はフワフワした態度であることは変わりませんよね」

 三淵が手を挙げる。

「異議あり。弁護人は重複した尋問を繰り返しています」

 戸倉が三淵の指摘を受けて紗怜南に問いかける。

「質問の意図を明確にして、簡潔にまとめて下さい」

 紗怜南は岡原を見つめて、質問をした。

「被告人が罪を犯したことでフワフワした態度になったのか、純粋に自分の状況が分からずにフワフワした態度になったのか、どのように見分けるのですか?」

 岡原は黙ってしまった。戸倉が彼の顔を覗き込む。

「証人は質問に答えて下さい」

「被告人は……」岡原は言葉を探すように視線を彷徨わせる。「被告人はすでに住居侵入で逮捕されていました」

「だから、罪を犯したことでフワフワした態度になったということですか?」

「そうです」

「捜査一課として殺人の捜査に乗り出したことで、被告人が殺人を犯しているという先入観を持っていたのではないですか?」

「異議あり。誘導尋問です」

 三淵が声を発する。

「意義を認めます。弁護人は質問を変更してください」

 紗怜南は息をついて岡原に目をやった。

「あなたは被告人に対して、警察を嘲るような印象を受けたと仰いましたね」

「いいました」

「それがここでいうフワフワした態度というものでしょうか?」

「そうなりますね」

「だからこそ、裏づけのない証言ばかりで嘘だと思った、と」

「はい」

「裏づけの取れない証言は全て被告人に不利に解釈されるのでしょうか?」

「そんなことはありません」

「あなたの話では、他の捜査員が被告人の取り調べをした状況を聞いて、罪を犯した人間はフワフワした態度になると考えたそうですね」

「……はい」

「それは被告人の証言の裏づけを取る作業の前の話ですよね?」

「そうです」

「あなたは殺人の捜査に着手したばかりでしたね」

「はい」

「その段階で、なぜ被告人の態度と罪を犯した人間の態度を結びつけたのですか?」

「それは……、被告人の取り調べの様子を聞いて判断しました」

「あなたは被告人の心証に問題があると仰いましたが、その心証が形作られたのは同じタイミングですか?」

「それはちょっと記憶にはありません」

「捜査一課に事件が引き継がれたのは、状況的に殺人があったのではないかという推測が元になっていたのですか?」

「そうです」

「あなたは初めから殺人があったという前提を抱いていたのですか?」

 岡原は溜息をついた。

「そうでないといえば嘘になります」

 紗怜南は戸倉に晴れやかな顔を向けた。

「以上です」




「弁護人から証拠の告知を行って下さい」

 岡原が退室し、戸倉がそう告げる。紗怜南は立ち上がり、資料に目を落とした。

「弁第三号証は、奥野さんの別宅の排水管および汚水桝内から見つかった物質のDNA調査報告書です。作成日付は二〇二三年八月一六日になっています」

 紗怜南は書類を読み上げていく。さきほどの岡原への尋問で空気感が変わりつつある傍聴席はしんと静まり返って、彼女の読み上げる内容に耳を傾けているようだった。

「今読み上げたように、奥野さんの別宅の排水管および汚水桝内からは人間のDNAと特定されている者は検出されておりません」

 紗怜南がアイコンタクトを送ると、戸倉がうなずく。

「弁護人からは縣友哉さんの証人申請がありました」

 髪型を七三に分けてきっちりとセットした中年男性がやって来て、宣誓書を朗読した。彼がそのまま席につくと、戸倉が先を促した。

「それでは、弁護人から尋問を」

 紗怜南は縣に歩み寄って質問する。

「縣さんの職業を教えて下さい」

「法医学者です」

「どこにお勤めですか?」

「民間の研究機関です」

「何を専門にされていますか?」

「DNA型鑑定を主に行っています」

「あなたには、事前に奥野さんの別宅の排水管および汚水桝内から見つかった物質のDNA調査報告書を見て頂きましたね」

「はい」

「排水管や汚水桝からDNAが見つからなかったという点について、どう思われますか?」

「妥当な結果かと思います」

「その理由を説明して頂けますか」

 縣は咳払いをひとつして話し始めた。

「排水管や汚水桝の内部は、特に夏場は高温多湿の状態に保たれ続けています。元来、汚水の通る環境下ではバクテリアが存在しており、特にバシラス属の腐敗細菌にとっては繁殖に好条件です。バシラス属はエンドペプチダーゼという酵素でタンパク質を分解するのですが、その働きによってDNAもバラバラに破壊されてしまいます。ごく短い期間であれば、タンパク質内には分析に必要なDNAが残存するのですが、長い間晒され続けることによって個人を特定するために必要な長さのDNAは破損してしまいます」

「具体的にはどれくらいの期間でDNAは分解されてしまうのでしょうか?」

「この環境の気温がどれくらいなのか分からないのであくまで推測にはなりますが、ペースト状のタンパク質であれば二、三週間で分解されるだろうと思います」

「DNA調査報告書が八月一六日に作成されていますから、早ければ八月二日、遅ければ七月二六日より前にタンパク質が排水管や汚水桝に放出されたとしても、DNAが検出できない可能性が高いということになりますね?」

「そうですね」

「DNAを用いて奥野さんの遺体が下水に流されたということを証明することは難しいですか?」

「そう思います」

「奥野さんの遺体が下水に流されたという可能性は考えられないということですか?」

「というより、遺体が流されたか流されていないかを判断することはできないと思います」

 紗怜南は三淵を一瞥した後、戸倉の方を向いて終わりを告げた。

「以上です」

「検察官から反対尋問は?」

 三淵は渋い顔のまま立ち上がって、おずおずと縣の前に歩み出た。

「排水管や汚水桝から奥野さんの肉片とDNAが検出されなかったという事実は、被告人が奥野さんの遺体を解体して下水に流さなかったということを示すんでしょうか?」

「いえ、そういうことではないと思います」

 三淵は微かに溜息をついて顔を上げた。

「以上です」




「いけそうなんじゃないか?」

 紗怜南と三淵の攻防が終わり、続きは明日に持ち越された。ひりつくような空間から出て、移送を待つ草鹿が興奮気味に紗怜南にいう。

「まだ油断できませんよ」

「いやいや、ここまでできると思ってなかったよ」

 そういう草鹿の表情はパッと花が咲いたようだ。昨日の朝とは大違いだ。紗怜南とは対照的だ。

「裁判員がどいう判断をするのかは彼ら次第なんですから、楽観的にならないで気を引き締めて下さい」

 草鹿はニヤリと笑った。

「国選弁護人なんて手を抜く奴かと思ったけど、紗怜南さんが来てくれて助かったよ」

 紗怜南は草鹿を睨みつけた。慣れない呼び名に虫唾を走らせるように。紗怜南が口を噤んでいると、草鹿は勝手に喋り出した。

「本当に訳が分からなかったんだよ、あの時は──」

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