第10話 岡原弘通の話

二〇二三年八月一一日 金曜日 午前


「どういう状況なんすか」

 いつにも増して不機嫌そうな馬場あずみがぶすくれた表情でいう。葉山とはいえ、うだるような暑さだ。馬場は夏が死ぬほど嫌いらしい。手に握ったポータブル扇風機の風をこれでもかと首筋に当てている。車から降りたばかりで汗ばむ炎天下には蝉の鳴き声が飛び交う。目の前には白い壁に囲まれた民家が建っていて、警察車両が取り囲んでいた。規制線を張った周囲には、暇を持て余した数少ない野次馬が頭を振り子のように揺らして中の様子を窺おうとしている。

「他人の家に居座ってた男が逮捕されて、被害者の知人が異変を訴えてるらしい」

「殺しなんすか」

 刑事部屋で毒されたような無骨な声に俺は思わず顔をしかめてしまう。二人で現場となる家の門をくぐった。敷地内には大勢の捜査員たちが忙しなく動き回っていた。

「それを調べるんだよ。この家の名義人は奥野夢人さん。アパレル会社の社長らしい。その会社の従業員によれば、知らないうちに奥野さんが消えたらしい。で、この家にいつの間にか居座ってたのが草鹿京一という男だ」

「絶対そいつがクロっすよ」

「いや……」結論を急ぐ馬場を振り向いた。「決めつけるな。奥野さんだってどこかに出かけてるだけかもしれないだろ」

「あー……、クソ暑いっすね」

 俺の言葉に納得したわけじゃないらしい。玄関を開けて家の中に足を踏み入れると同時に馬場が溜息をつく。シャツの胸元を引っ張って小さい扇風機の頭を突っ込んでいる。

「クーラー入ってないんすか」

「入ってるわけないだろ……」

 すでに現場入りしていた部下とリビングで合流する。汗だくになった男が報告を寄越してきた。

「この家の中と敷地内はくまなく探したんですが、奥野さんは見つかっていません」

「どこかに隠れていたり、隠されているわけじゃないのか」

 嫌な想像だが、この時から俺の頭の中にはバラバラにされた奥野夢人の図が浮かんでいた。

「全体的に血液反応も鑑識が調べているんで、もしかしたら何か見つかるかもしれません。それから、奥野さんのスマホや財布なんですが、草鹿が使っていた形跡があります」

「明らかに異常っすね」

 けだるげな目をリビングのあちこちへ向けながら馬場が呟いた。はしたなくシャツの胸元を開けている。

「岡原さん!」リビングに別の部下がやって来た。血気盛んな若手だ。「近隣の住人に聞くと、二、三週間くらい前からこの家の様子がいつもと違っていたみたいですね」

「というと?」

「普段、奥野さんは休日なんかにこの家を使っているそうなんですが、二、三週間くらい前から毎日家に誰かがいるのが目撃されています」

「奥野さんを見たのか?」

「いえ、夜になると家の明かりがつくんで、それで分かったようです。それから、一週間くらい前にリフォーム会社が出入りしていたそうです」

「リフォーム会社?」

「島内創建という業者で、大掛かりなリフォームをやっていたようです」

「その会社に行ってみてくれ」

「分かりました!」

 若手が去って行くと、そばに居た部下が口を開く。

「警察に通報してきた奥野さんの会社の従業員が署に居ますけど、話聞きますか?」

「そうだな。後は頼む」

 現場を部下たちに任せて、俺と馬場は車に戻った。運転席に乗り込んでエンジンをかけるなり、馬場はクーラーを全開にして溜息をついた。

「寒い時期に事件が起こればいいんすけどね……」

「なんてこというんだ……。あと、はしたないからシャツのボタンはちゃんと留めろ」

「別に見られてどうこうってわけじゃないっすよ」

 生気のない目をこちらに向けて、彼女は口の端を歪めた。

 そういう話ではないのだが。




 氏川茜は心ここにあらずというような様子だった。ちょっとでも間が開くと視線を彷徨わせている。

「で、やりとりに違和感が出てきたのはいつ頃ですか?」

 俺がそう尋ねると、彼女の目の焦点が定まる。

「ちゃんと気づいたのは、今月の二日頃だったと思います」

「薄々感づいたタイミングもあったわけですか?」

 氏川は顎に手をやる。

「七月の……中頃くらいでしょうか」

 俺は椅子の背もたれに寄りかかって息をついた。彼女の話によれば、草鹿はずいぶん長い間、奥野の振りをしていたことになる。それにしても、不可解なところがある。

「ところで、奥野さんは海外出張へ出かけている予定だったんですよね」

「そうなんです!」彼女は弾かれたように反応した。「それなのに、自宅にもいないみたいで……」

「奥野さんのご家族に確認されたんですか?」

「しました。でも、皐月さんも出張に行くとしか聞いていなかったみたいです」

 これはこちらの調べでも同様の報告が来ている。ということは、奥野は家族に予定を偽っていた可能性がある。入国管理局の出入国記録には、ここ最近の奥野の情報は記録されていない。それどころか、奥野は飛行機のチケットを取ってすらいなかった。

「奥野さんがどこへ行ったかの心当たりはありますか?」

「いえ……、ないです」

 奥野がどこへ消えたにせよ、スマホも財布も持たずにどこかへ行ったとは考えにくい。事件に巻き込まれた可能性は高い。だからこそ、俺たちが駆り出されているのだろうが。

「この後、作成した書類を確認していただきますので、お待ちいただいてよろしいですか」

 氏川を部屋の外に送り出し、自販機のあるラウンジスペースで馬場と合流する。氏川の同僚に話を聞いていた彼女と情報を共有すると、ほとんど齟齬はない。

「奥野さんは真面目だったみたいっすね」

「過去形で話すなよ」

「経費ちょろまかしの線はなさそっすね」

 俺の指摘を無視して馬場はしれっと口にする。冷房が効いているせいか、さきほどよりも態度が柔らかい。シャツのボタンもきちんと留めている。

「岡原さん!」向こうからリフォーム会社に聞き込みに行っていた若手が駆け寄ってくる。「島内創建には、草鹿本人がリフォームの依頼をしたようです。メールの履歴をもらってきました」

「リフォームはユニットバスか?」

「そうです」

 奥野の別宅からはリフォームの注文書が見つかっており、ユニットバスに一二〇万円強を支払っていることが分かっている。

「リフォームの工事中はあの家に業者が出入りするだろう? その話は聞けたか?」

「草鹿が家に居て対応したようです。他には誰もいないようでした」

「なるほど。分かった」

 若手が去って行くと、馬場が鼻で笑った。

「高木、張り切ってますね」

 今の若手のことだ。

「刑事になった奴だ。あれくらいの気概は必要だぞ」

 馬場に当てつけるようにいったが、通じていないようだった。

「草鹿、弁護士を呼んでないみたいっすよ」

 弁護人請求権については逮捕時に被疑者に告知することになっている。それを聞いてなお弁護人を呼ばないのは、その必要性を感じていないからなのだろうか。

 刑事部屋に戻ると、取調室から戻って来た刑事が頭を掻きながら近づいてきた。笹尾だ。

「草鹿の奴、警察を舐めてますよ」

「何かあったのか?」

「それが──」



取り調べの場にて


 簡素な机を前に椅子に座る草鹿はニヤニヤしながら狭い部屋の中をキョロキョロと見回している。

「こんなんなってるんですね」

「ずいぶん余裕がありますね」

「だって、大袈裟じゃないですか。なんでこんなことするんですか」

 両手を広げて笑みを浮かべる草鹿からは緊張感が感じられない。机の向かい側に腰を下ろす笹尾はメモ帳とペンを手に疑いの目を向けた。

「大袈裟というのは?」

「奥野ならすぐに出てきますよ」

 笹尾は顔をしかめる。

「……どういう意味です?」

「いや、だから、これ別の人にも話しましたけど、奥野に頼まれてやってるんで」

「頼まれてあの家に居たというんですか?」

「だーかーらー、そうだっていってるでしょ」

 心底相手をバカにしたような笑顔だ。

「どうしてそんなことを?」

 草鹿はニヤニヤとし始める。

「それはいえないですよ」

 笹尾は鋭い眼で草鹿を睨みつける。

「あなた、最初は奥野夢人だと名乗ってましたよね。で、それが嘘だとバレてご自分の名前を」

「だって、それはもうバレたらいうしかないじゃないですか」

 笹尾は聞こえよがしに溜息をついた。

「で、奥野さんは今どこにいるんですか?」

「だから、そのうち出てきますよ。待ってて下さい」

「あなたから連絡とれないんですか?」

「約束じゃ、一か月くらいで戻ってくるっていってたんで」

 笹尾はメモを取る手を止めて、草鹿の顔をじっと見つめた。

「逮捕されてるって自覚してますか?」

「まあ、これも小説のネタにしますよ」

 要領を得ない返答に笹尾はこめかみをピクつかせる。

「小説?」

「今は雑用してますけど、小説家になるんで」

 笹尾は返す言葉もなくなってしまった。そんな彼の思いも露知らず、草鹿はいった。

「留置所で一泊なんて、そんな機会なんてないですからね」




 俺は笹尾と馬場と顔を見合わせてやるせない気になってしまった。

 実のところ、罪を犯して得体のしれないハイになった連中の中には、このように夢見心地でフワフワした者も見かける。状況が自分でも想像しえなかった方向に突き進んだせいで現実感を喪失しているのだろう。草鹿もその類だと思えた。



二〇二三年八月一五日 火曜日 午前


「どうです、これ。やばいっしょ」

 馬場がギラギラした眼を据わらせると、いよいよ捜査が大詰めになってくる証拠だ。今まさに彼女がその眼差しを俺に向けていた。俺の机の上には、彼女が手に入れてきた書類が鎮座している。奥野の別宅の水道使用証明書二通だ。

「七倍っすよ、七倍」馬場が右手の指を四本、左手の指を三本立てる。「四月と五月が二・三立方メートルで、六月七月が一四・七立方メートルっすよ」

「こりゃあ、決まりかもな……」

 奥野の別宅から見つかったホームセンターのレシートは鋸や包丁、鍋などを購入したことを物語っていた。そのホームセンターの防犯カメラには草鹿がそれらの品を購入していく様子が収められていた。草鹿は同じような品々を不良品回収業者に渡しており、明らかに怪しい動向だ。

「奥野さんが出てこないわけっすよ。殺しとバラバラっすね」




 葉山の奥野別邸での鑑識調査を手配して、俺も馬場と共に署を車で出た。俺も実際に現場を見ておきたいと思ったからだ。馬場の荒い運転に揺られながら、運転席の彼女に尋ねた。

「この事件のストーリーを時系列順に再現するとしたらどうなる?」

「最初は草鹿がいっている通りなんじゃないっすかね」

 草鹿は度重なる取り調べの中で次第に事件のことについて喋るようになっていた。草鹿は街で偶然奥野と出会ったと話していた。

「久しぶりに会った高校の同級生が社長になってた上に、居酒屋でポンと高い腕時計もらったせいで邪な心が疼いたんじゃないっすか。草鹿はカネに困ってたっぽいっすから。そうとは知らず、奥野さんがガンガン距離を詰めて来ようとするんで、魔が差したんすね」

 七月六日からの数日間に奥野と草鹿のやりとりでは、奥野が草鹿を別宅に誘っている様子が見られた。その後、七月八日に二人で新宿から葉山の別宅までタクシーで移動していることも分かっている。

「水道使用量からしたら、六月から七月の間に大量の水が使われてるんで、その時期が怪しいのは明らかなんすよね。七月二五日にホームセンターで鋸とか買ってますし、七月二七日には不良品を業者に回収してもらってるんすよ。七月二八日が水道の検針日で、その日までにバラしてる感じっすかね。浴室をリフォームしたのは十中八九、証拠隠滅のためっすね。たぶん、そこで死体をバラバラにしたんすよ。ただ、家に居座ってウーバーとか頼んでるってのがマジで理解できないんすよ」

 馬場のいう通りだった。普通の犯罪者なら殺人現場から一刻も早く離れたいはずで、調べたところ、草鹿は一か月ほど奥野の別宅に滞在している。奥野の別宅に不当に滞在していることに気づいた氏川たちの通報で駆けつけた地域課の警察官には、奥野夢人だと名乗っている。

「サイコパスっすかね」

 馬場がボソリといったその言葉になびきそうになる。




 奥野の遺体を探すために、邸内の鑑識が家をひっくり返すようにしていた。水道使用量の変化を掴んだことで、すでに敷地内の公共桝の中が浚われていた。公共桝は家の汚水が一か所に集まる。

 じりじりと焼けるような日差しとじわりと漂う異臭の中、鑑識の作業を見守っていると、思わしくない声が囁かれているのが聞こえてくる。

「これ残ってるかなぁ……」

 俺の隣で馬場が背中を丸めて立っている。

「これ、何か見つかんないといよいよ面倒なことになりそうっすね……。またワイドショーもふざけた煽り報道してるし……」

 今もマスコミの車が近くに集まっている。「消えた社長の謎」は彼らの格好の餌食だ。

「岡原さん」唐突に声をかけられてそちらを見る。鑑識の人間が立っていた。「ちょっと見てもらいたいものが」

 馬場と共に鑑識が汚水桝からすくい上げたヘドロの中身を選り分けている現場に向かう。

「うえっ……」

 馬場が臆面もなく顔をしかめる。悪臭がぬるい風に乗ってきた。

「何か見つかったのか?」

 シャーレに載った白い破片が運ばれてくる。鑑識が真剣な眼差しで口を開く。

「おそらく、人間の歯の破片です」

 指先で摘まめるほどの小さな破片だ。

「個人を特定できそうか?」

「詳しくは科捜研と歯科医に見てもらう必要がありますね」

「他には何か出たか?」

「詳細不明のヘドロばかりですね」

「あの……」ハンカチで口元を押さえているせいで、馬場の声はくぐもっている。「そのヘドロが人間の肉のペーストってことはないっすか?」

 草鹿が不良品回収に出した品の中にはミキサーや鍋も含まれていた。だから、我々の見解は、草鹿は鍋で解体した遺体を煮るなどして肉と骨を分離させ、または、切り取った肉塊をミキサーにかけて下水に流しやすいようにしたのではないかというものだった。馬場の質問に鑑識ははっきりとうなずきはしなかった。

「可能性はありますけど、排水管や汚水桝が高温多湿の状態なので、DNAなんかが判別不能に破損しているんじゃないかというのをさっきみんなで話していたんです。まあ、それも科捜研の分析を待つ必要がありますが」

 馬場の重苦しい溜息が漏れる。


 三日後、歯の破片が奥野のものと一致したという報せが入った。その翌日、逮捕状を請求し、草鹿京一を殺人と死体損壊等で再逮捕した。長い闘いというわけではなかったが、ほんのひと摘まみの証拠が明暗を分けた形となり、我々は胸を撫で下ろした。


「俺は殺してない!」

 弁解録取書の作成に当たって草鹿に話を聞くと、彼は必死に唾を飛ばした。この期に及んで、ようやく事の重大さを認識し始めたらしい。

「じゃあ、奥野さんはどこに?」

「知らないって!」草鹿は血走った目で答える。「不倫相手と出かけるからって、俺はあいつの振りをするように言われただけなんだって!」

 初耳だった。

「なんで今までいわなかった?」

「だって、誰にもいえないだろ! あいつが不倫してるなんて!」

「以前は確か、奥野さんは一か月ほどで戻ってくるといっていたが、なぜ未だに奥野さんは姿を現さない? もう八月も下旬だぞ」

「知らないって!」

 俺は机の上に肘をついて、草鹿に顔を近づけた。

「草鹿、お前の話をちゃんと聞いてやりたいが、何も裏づけがない。信用したくてもできない状態なんだ」

 草鹿が奥野から自分になりすますように頼まれたという話自体、メッセージアプリなどにやりとりの履歴があるわけではない。奥野の許可を得て彼の別宅に滞在し、生活していたというのも、草鹿の証言ひとつしかない。

「なんでこんなことに……!」

 草鹿は頭を掻き毟って叫んだ。

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