第9話 真実を巡る闘い

二〇二四年二月六日 火曜日 午前


「それでは、開廷します」

 戸倉の粛然とした声が響き渡る。今日も傍聴席は満員だ。ところどころに咳払いがポツポツと湧き上がる中、戸倉が早々に場を進めていく。

「本日第二回期日では、殺人と死体損壊等についての審理を行います。殺人については、検察の主張に対して被告人が否認をしていますので、事実自体を争うこととなります。それに伴って、死体損壊等についてもその事実が争点となります。昨日と同様に、裁判所は然るべき証拠を採用しました。また、検察官から雨澤咲絵さん、岡原弘通さん、そして、奥野皐月さんの証人申請があり、それを受理しました」

 傍聴席が俄かにざわつき出す。戸倉はそのざわめきを制圧するように芯の通った声を発した。

「それでは、検察官は証拠の告知を行って下さい」

 今日はチェック柄のやや目立つスーツに身を包んだ三淵が返事をして立ち上がる。モニターの電源が入れられ、準備が進んでいく中で三淵は壇上の面々に向かって話し始めた。

「まずお話しておかなければならないことは、今回の殺人は凶器も遺体も見つかっていないということです。しかしながら、警察と検察による検証によって殺人が行われたことには合理的な疑いを差し挟む余地がないことだと結論づけられました。ここでは、そのことについて証拠を用いて説明いたします。

 昨日の第一回期日で提出した甲第三~八号証を再度参照頂きたいのですが、これによれば、二〇二三年七月一二日から八月一〇日まで、奥野さんは現金やそれに類するものを持たず、また、通信機器については奥野さんの別宅に置かれたまま被告人が使用することとなりました。これらの証拠は、奥野さんが長期間外出をしたという被告人の供述を否定するものであります。

 次に、甲第一〇号証として、奥野さんの別宅の敷地内に設置されている汚水桝の中から見つかった歯の破片の写真撮影報告書を提示します」

 モニターには物差しと共に撮影された小さな白い破片が表示された。

「汚水桝には、家庭から排出された汚水が一度溜まるのですが、これはその中から見つかったものになります。長辺はおよそ六ミリほどの小さな破片ですが、次の甲第一二号証である歯牙鑑定結果報告書によって、奥野さんのものであることが分かりました」

 三淵は手元の資料を読み上げた。

「──……奥野夢人が通院していた歯科医院(とのやま歯科院)に保存されていた下の右第一臼歯の歯冠部舌側の歯形と一致した……──」

 三淵が資料を読み終えると、場には深い感嘆の吐息が漂った。まるでそれが殺人の事実を決定づけるものであると信じたかのように。だが、三淵は先を続けた。

「甲第一三号証は、二〇二三年七月二五日付の『サンホームセンター』のレシートです。奥野さんの別宅から押収された奥野さんの財布の中に収められていたものです。被告人が『サンホームセンター』で商品を購入した際に発行されたものになります」

 三淵は手元の書類に目を落とす。

「鋸一本、二一七八円。包丁二本、六三五八円。ハンマー一個、四二七九円。寸胴鍋ふたつ、二万一〇七六円。ミキサー一台、一万四八二円。合計四万四三七三円。二〇二三年七月二五日一四時二七分。これらは次の甲第一四号証である、二〇二三年七月二七日付の不良品回収業者『アース・クリーン』の利用明細に記載されている品目一覧を補填するためのものと思われます」

 三淵は滔々と資料を朗読していく。聴衆は耳を傾けているせいで、場がしんと静まり返った。

「──……品目一覧。鋸一本、包丁二本、ハンマー一個、寸胴鍋ふたつ、ミキサーひとつ」

 三淵は朗読を終えて咳払いをひとつする。

「これらの品は奥野さんの遺体解体を目的として使用されたと目されます。すなわち、それは殺害という事実があったということ、そして、殺害が行われたタイミングが二〇二三年七月一二日から二七日の間であることを示唆しています。

 さらに、甲第一五号証は、奥野さんの別宅の水道使用量調査報告書二通です。一通は二〇二三年四月から五月の水道使用量を示しています。検針日は五月二九日。この二か月間での使用量は二・三立方メートルとなっています。もう一通は、七月二八日に検針された二〇二三年六月から七月の水道使用量です。こちらは一四・七立方メートルとなっています。六月から七月は、四月から五月の水道使用量と比較するとおよそ七倍となっています。甲第一〇号証である歯の破片が奥野さんの別宅の敷地内に設置された汚水桝から見つかったことを鑑みると、バラバラに解体された奥野さんの遺体は下水に流されたものと推察されます。その際、大量の水が必要で、この六月七月の水道使用量はそれを裏づけるものです」

 傍聴席で囁き合う声がする。そのざわめきを打ち消すように三淵はさらに続ける。

「甲第一六号証は、奥野さんの別宅の血液反応を調べた鑑識報告書です」彼は資料を読み上げ、口を開く。「ここに記載されているように、奥野さんの別宅内からは血液反応が検出されておりません。遺体を解体したと思われる水回りには血液反応がないのですが、唯一、浴室は殺害が行われたと思しき七月一二日から七月二七日以降にリフォームが行われた水回りの場所となっています。その事実を次の甲第一七号証にて示します。

 甲第一七号証は、二〇二三年七月二三日に『島内創建』が発行した奥野さんの別宅の浴室リフォームに関する注文書です」

 三淵は再び資料を読み上げ、やや早口でまくし立てた。

「ここには、浴室のリフォーム工期が二〇二三年七月三一日から八月三日とあります。

 以上です」

 三淵がそう締めくくると、熱を帯びた空間に得体のしれない興奮が漂っていった。



二〇二三年九月五日 火曜日 午後


 苛立ちの尾を引きずっていた紗怜南は短く息を吐くと、まるで自分を落ち着けるように話し始めた。

「私の父は弁護士なんです。弁護士になれ、とずっといわれて生きていたんです」

 アクリル板の向こうで突然身の上話を始めた紗怜南に草鹿は面食らってしまって固唾を飲んでいた。

「結局、父とは方向性が違うと感じて家を出たんですけど、やっと弁護士になれた頃に父が自分の事務所を私以外の人に継がせたと知って、ずっと私は信用されてこなかったんだと愕然としたんです」

 草鹿は微かに鼻で笑った。

「父親なんてそんなもんだよ。子どものことなんてひとつも考えてない」

 紗怜南は下唇を噛んで目を伏せたが、すぐに顔を上げて尋ねる。

「でも、お住まいはお父様が用意したマンションですよね」

 痛いところを突かれたように草鹿は目を背けた。

「俺が家を出ると知って勝手にあてがわれただけだ。そうやって金を出すことしかできないんだよ。それが誠意だと思い込んでた」

「事件の直前に亡くなられたんですよね?」

 草鹿は遠い目をして溜息を漏らす。

「何も言わずに死んでいったよ」

「病気だったんですか?」

「がんだったらしい。ずっと疎遠だったからよく知らないが」

 紗怜南は記憶の海を漂うように目を泳がせていた。

「私は今回の裁判でなんとしても勝たないといけないんです。そうじゃなければ、父に私の存在を知らしめられない。見返してやりたいんです」

 彼女の真っ直ぐな眼差しに気圧されて、草鹿は口を真一文字に結んだ。そして、忘れ去っていた父への感情に触れたように、座り直すと紗怜南に真正面から向かい合った。



二〇二四年二月六日 火曜日 午前


 宣誓書の朗読は、奥野皐月が姿を現したことでざわめきに包まれて始まった。一連の手順が終わると、皐月以外は一度退室していった。目の下の隈が目立つ色白のその姿を紗怜南は複雑な表情で見つめていた。席についた皐月は草鹿を一瞥すると、思い詰めた様子で目の前の台の上に視線を落とした。

「それでは、検察官から証人尋問をどうぞ」

 戸倉に促されて、三淵は返事をして皐月のそばへ進み出た。神妙な面持ちで三淵は尋ねる。やや沈んだその声色は、彼女への思いやりの表れなのかもしれない。

「あなたと奥野夢人さんはどのようなご関係ですか?」

「……夫婦です」

 皐月は本来顔を向けるべき戸倉の方も見ずに、躊躇いがちに短く答えた。

「いつから夫婦になりましたか?」

「四年前です」

「二〇二〇年ですか?」

「そうです」

「婚姻届けを出された日付は憶えていますか?」

「……六月一日です」

「新型コロナウィルスによる緊急事態宣言が一度解除された頃ですね。ご主人と交際を始めたのはいつ頃でしたか?」

「二〇一五年頃です……」

 皐月の声は震えていた。三淵はその痛ましい姿を壇上の者たちに焼きつけるようにしばらく間を置いた。

「つまり、ご主人と親しい間柄になって長いわけですね?」

 皐月は小さくうなずいた。戸倉は何かをいいたげだったが、黙って成り行きを見守ることにしたようだった。

「ご主人とは普段どのようなやりとりをしていましたか?」

「他愛ないことや何時に帰るとか、あれを買っておいてとか、そういう業務連絡みたいなことをしていました」

「四六時中一緒に居るわけではないと思いますが、どのようにやりとりをされていたんですか?」

「メッセージアプリとか電話で」

「やりとりはどれくらいの頻度でしていましたか?」

「毎日です」

「ご主人は会社の社長ですから多忙な時おあると思いますが、それでも毎日?」

「はい」

「どこかへ出張へ行く時にも?」

「そうです」

「二〇二三年七月一二日から八月一〇日の間、ご主人とやりとりをしていて違和感がありましたか?」

「はい」

「どういうところが?」

「なんというか……、言葉のチョイスがいつもと違うという感じがしました」

「その違和感について直接尋ねましたか?」

「いえ」

「なぜですか?」

「海外出張に行っているという話だったので、いつもとはテンションが違うのかなと自分で納得していたからです」

 三淵は、ふんふんとうなずく。紗怜南は微かに顔を歪めた。ここでの問答はほとんどあらかじめ決まっているものだ。三淵の態度に紗怜南は白々しさを感じたのかもしれない。皐月が鼻を啜る中、三淵はさらに質問を投げた。

「ところで、ご主人は外出する際に決まって持って行くものはありましたか?」

 皐月は中空を見上げる。

「スマホは必ず持っていたような気がします」

「社長ですから、いつでも連絡を受けられるようにでしょうか?」

「そうですね」

「では、スマホを家に置きっぱなしにして外出することは考えられないことですか?」

「少なくともスマホはいつも肌身離さずに持っていたので……、そうですね」

「財布を持たないで外出することはありましたか?」

「それは、あったと思います」

「外でお金を払う時に困っていませんでしたか?」

「スマホで決済ができるので、大丈夫だったと思います」

「ということは、ご主人はキャッシュレス派だったということですか?」

「いえ……、そういう訳ではなかったと思います。キャッシュレスに対応していない店に行くこともあったので、その時のために現金も多めに持っていたので」

「となると、遠出をする時は財布も持って行かれていたんでしょうか?」

「そうですね」

「ご主人がスマホと財布を家に置いて外出すると思いますか?」

「ちょっと考えられないですね」

 三淵は満足そうに皐月を見つめて、戸倉へ頭を下げた。

「以上です」




 皐月の要請で短い休憩が取られた後、手順に従って紗怜南が立ち上がった。彼女は決意を滲ませたような表情で皐月のそばに近づく。

「ご主人の葬儀はされましたか?」

 皐月は目を大きくして紗怜南を見つめ返した。

「……いいえ」

「なぜですか?」

 皐月は見るからに動揺を示した。目は泳ぎ、やや息が乱れる。

「彼の……遺体はありませんでしたし……」

「他にも理由があるんですか?」

「気持ちの整理がつかなくて……」

「単刀直入にお聞きしますが、あなたはご主人が亡くなったと思っていますか?」

「異議あり」三淵が勢いよく声を飛ばす。「弁護人は証人に意見を求めています」

「意義を認めます。弁護人は質問内容を変えて下さい」

 紗怜南はすぐに皐月に尋ねた。その様子では、異議が差し挟まれることを想定していたようだ。

「あなたはご主人の遺体を見ましたか?」

 皐月はさきほどから険しい表情で紗怜南を見つめている。回答までの長い逡巡に戸倉の声が滑り込む。

「証人はこちらに向かって話をするようにして下さい。……辛いお気持ちは理解しますが、正当な審理のためによろしくお願いします」

 皐月はへの字にした口を戸倉たちの方へ向ける。

「彼の遺体は見ていません」

「なぜですか?」

「警察の方が、遺体は見つからなかったと仰ったからです」

「それは警察が遺体を見つけていないというだけで、あなたが遺体を見ていない理由は他にあるのでは?」

「異議あり。弁護人は誘導尋問を行おうとしています」

 三淵の指摘に戸倉が反応する。

「意義を認めます。弁護人は質問の意図を明確にして下さい」

 紗怜南は戸倉に答える代わりに、皐月に問いかけた。

「あなたはご主人が亡くなったと思いますか?」

 その瞬間、皐月の目から涙がひと筋音もなく落ちていった。

「……思っていません」

「ご主人が亡くなったという警察の主張が誤っていると思いますか?」

 皐月が顔を覆って嗚咽を漏らした。今度は、三淵が立ち上がる。

「異議あり。弁護人は証人に意見を求めています」

「以上です」

 紗怜南はそそくさと席へ戻っていった。戸倉が身動ぎをする。

「証人が落ち着いてから検察官から再主尋問をどうぞ」

「大丈夫です」

 皐月が口元を押さえながら応えると、三淵は紗怜南を睨みつけながらゆっくりと皐月のもとへ歩み寄った。

「あなたが警察からご主人が亡くなったと聞いたのはいつですか?」

「去年の八月一八日です」

「それを聞いた時にどう思いましたか?」

「信じられないと思いました」

「去年の八月一八日から今日に至るまでに、ご主人名義のものについて手続を行いましたか?」

「はい。車と不動産と……銀行口座だったりを」

「つまり、あなたにご主人が亡くなったことを納得させるようなものがあったということですね?」

「はい……」

「それは何ですか?」

「警察の方から書類を頂きました」

「死亡診断書ですか?」

「そうです」

「その時に警察からどういう説明を受けましたか?」

「遺体は見つかっていないけれど、亡くなったということは間違いのない状況だといわれました」

「それで納得されたんですか?」

「いえ……」

「警察からは他にも説明を受けましたか? 例えば、亡くなったことが疑いのない状況だということの具体的な説明は?」

「ありました。別宅の下水道みたいなところから主人の……歯の破片が見つかったと」

 三淵は戸倉の方を見て終わりを告げた。




 皐月と入れ替わるようにして席についたのは、黒いパンツスーツに身を包み、長い黒髪を後ろできっちりとまとめ上げた眼鏡をかけた女性だった。彼女は三淵の最初の質問にはきはきと答えた。

「雨澤咲絵です。警察歯科医をしています」

「警察歯科医というものについて簡単に説明して頂けますか?」

「警察の依頼を受けて歯牙鑑定を行い、身元不明人の特定をします」

「あなたは警察歯科医を専門にしているんですか?」

「そうです」

「警察歯科医になってどれくらいですか?」

「一五年になります」

「一五年前というと、二〇〇九年ですか?」

「そうです」

「二〇一一年に東日本大震災があり、大勢の身元不明の遺体があったかと思いますが、その現場も体験されたんですか?」

「はい」

「では、歯牙鑑定についてはかなりの経験をお持ちということですね?」

「そうなると思います」

「今回の事件において、あなたはどのような依頼を受けましたか?」

「歯の破片の歯牙鑑定です」

 三淵は書記に顔を向けた。

「甲第一二号証の画像をお願いします」

 モニターに書類の画像が表示された。「歯牙鑑定結果報告書」とキャプションされている。

「この鑑定書を作成したのはあなたですか?」

「そうです。私のサインもあります」

「奥野さんの別宅の汚水桝から見つかった歯の破片が奥野さんのものであると判断した理由について説明して下さい」

「奥野さんが通院していた歯科医院に保存されていた歯型と照合を行いました。歯の破片は歯冠部の裂溝部という噛み合う部分が含まれていて、そこに刻まれていた特徴的な溝が破片と歯型とで一致しました。他にも、裂溝部の摩耗具合と奥野さんの年齢も大きな齟齬がなく、疑う余地がなく同一人物であるという結論に至りました」

「一般的には歯の破片のみで個人を特定することができるものですか?」

「場合によると思います。髄壁象牙質が残っている場合には、髄壁細胞からDNAを抽出して個人を特定できますが、エナメル質の破片でさらに歯の側面の一部だけとなると特定が極めて困難になることもあります」

「今回は歯の破片に裂溝部が含まれていたために特定が可能だったということですか?」

「そういうことになります」

「なぜ奥野さんの歯が破片となったんでしょうか?」

「原因は分かりかねます」

「歯に傷がついていたりはしませんでしたか?」

「見当たりませんでした」

「ハンマーなどで叩いたことで砕かれたという可能性はありますか?」

「そういう可能性もあるということまでしかいうことができません」

「以上です」

 三淵が席に戻ると、今度は紗怜南がやって来る。

「あなたが参照した歯型は二年前のものだということでしたが、そもそもなぜ歯型を取るのでしょうか?」

「補綴物などは歯科技工士が作るのですが、彼らは直接患者の口の中を見ることはできないので、歯型を取る必要があります」

「二年前も奥野さんは補綴物を作る治療を受けていたということですか?」

「そうです」

「歯型を見てどのような治療が行われていたか推測することはできますか?」

「左側の上下の臼歯が欠けていて、その部分に補綴を行ったのだと思います」

 紗怜南は芝居がかった様子で目を見開いた。

「歯が欠けていたんですか?」

「はい」

「二か所ですか?」

「そうです」

「二か所も歯が欠けるという状況はあり得るんでしょうか?」

「複数の歯が欠けた状態で診察を受ける患者はそれなりにいると思います」

「どういう状況ですか?」

「そういう状態を放置していて、何らかのきっかけがあって、ようやく診察を受けるという場合です」

「歯が欠ける理由にはどのようなものがありますか?」

「様々あります。虫歯が進行していたり、歯に負荷がかかる生活を続けていたり、あとは外部からの衝撃でということもあります」

「歯牙鑑定の際に二年前の奥野さんのカルテを参照しましたか?」

「もちろんです」

「では、二年前、奥野さんの歯が欠けていた理由についてもご存じですか?」

「異議あり。事件と関係のない質問です」

 三淵が辛抱できない様子で口を挟むと、戸倉が紗怜南に尋ねた。

「弁護人は質問の意図を明確にして下さい」

 紗怜南は毅然とした態度で答える。

「今回の事件において、奥野さんの歯が欠けた理由が『遺体の解体』によるものだけなのかを明らかにするための質問です」

 戸倉は少し考えて、小さくうなずいた。

「異議を却下します。証人は弁護人の質問に答えて下さい」

 雨澤は三淵と紗怜南と戸倉の顔を順番に見つめて、やっと口を開いた。

「二年前に奥野さんの歯が欠けていた理由についてはカルテを見て知りました」

「どういう内容ですか?」

「奥野さんは日常的にストレス過多の状況に置かれ続けており、普段から歯を食いしばる癖があったようです。それが長年続いたことによって歯に高負荷がかかっていました。そういった状態では歯が脆くなり、欠けやすくなると見られます。また、奥野さんは飲酒の頻度も高く、酸蝕歯であったようです」

「酸蝕歯とはどういうものですか?」

「酸性の食べ物や飲み物を多く摂取している人は、頑丈なエナメル質が侵されて脆くなっていることがあります」

「歯を食いしばる癖と飲酒の習慣が重なると歯が欠けやすくなるんですか?」

「そうです。現に、二年前の奥野さんの歯の状態は二本欠損しています」

「奥野さんが何か物を食べたことがきっかけで歯が欠けるという可能性もありますか?」

「あると思います」

「つまり、外から衝撃を加えたことで奥野さんの歯が砕けたと断言することはできないということですか?」

「それは私には判断できないです」

「奥野さんが欠けた歯をそのまま洗面台かどこかから流してしまって、それが汚水桝に留まっていたということも考えられるわけですね──」

 三淵が言葉を発送と息を吸ったタイミングで、紗怜南は雨澤に背を向けた。

「以上です」

 場は紗怜南に圧倒され、静まり返っていた。そのほとぼりのようなものに包まれた中で、紗怜南は草鹿と密かに視線を交わす。

 紗怜南の目は微かに笑みを浮かべていた。



二〇二四年二月六日 火曜日 午後


 昼の休憩を経て所定の位置につく面々の表情はより一層の緊張感を孕んでいた。戸倉が再開を宣言すると、騒然としていた傍聴席から静寂がさざなみのように押し寄せてきた。

「では、検察側の三人目の証人尋問を行います」

 戸倉の声の後にやって来たのは、がっしりとした体躯の男性だった。日に焼けた顔に光る鋭い目つきが戸倉たち壇上へ向けられる。

「検察官か合質問をどうぞ」

 三淵は昼の休憩中に気分を一新したのか、午前の最後に見せていた張り詰めた表情とは違う、冷静さを宿したニュートラルな目で男性を見つめた。

「お名前と職業を教えて下さい」

「岡原弘通、警察官です」

「警察の部署はどこですか?」

「刑事部の捜査第一課です」

 こういう場には慣れているのだろう。岡原は淡々と答えていく。

「今回の事件であなたはどんなポジションで、どんな役割でしたか?」

「捜査班長で、被害者の別宅で逮捕された被告人の余罪追及です」

「余罪追及というのは、具体的には?」

「殺人です」

「では、あなたが主体となって現場で殺人の捜査を行い、再逮捕へこぎつけたんですね?」

「そうです」

「では、あなたが捜査に加わり、被告人を殺人の疑いで再逮捕するまでのことを話して下さい」

「二〇二三年八月一〇日に被告人が住居侵入の現行犯で逮捕されたという報せがあり、翌日には殺人の線が浮上して、事件が捜査一課に引き継がれてきました。私は──」

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