第8話 過ぎたこと

二〇二四年二月五日 月曜日 夜


 ひと仕事を終えた紗怜南は、とあるバーへ足を運んでいた。

〈久しぶりに飲みませんか?〉

 木崎星矢からポンと送られてきたメッセージに、紗怜南は軽い気持ちで応じてしまったのだった。

 待ち合わせのバーのドアを開くと、カウンターの奥で手が挙がった。短髪に精悍な顔立ちの白いシャツを着た男が小さく微笑んでいる。

「遅くなりました」

 パンツスーツ姿の紗怜南が隣に座るのをまじまじと見て、木崎はいった。

「忙しいみたいですね」

 木崎と目を合わさずに、紗怜南はハイボールを注文した。

「こちらも順調ですよ」

 木崎が紗怜南の横顔にいうと、彼女は鼻で笑った。

「別に、そんなこと聞いてないですよ」

 カウンターに置かれたハイボールをグビリと一口やるのを待って、木崎は声に溜息を混じらせた。

「まだ戻る気はないんですか?」

「勝手に飛び出して行った娘が戻る場所なんてないと思いますけど」

「そんなことは……」

「父はあなたをあの事務所の跡継ぎに選んだ。ただそれだけのことですよ」

 グラスを傾ける紗怜南に木崎はバツの悪そうな笑みを浮かべる。

「お父さんは今でもたまにあなたの名前を口にしていますよ」

 紗怜南はガックリとうなだれた。木崎の言葉に返したのは、その疲れたような反応だけだった。

「今は何を──?」

 木崎が紗怜南の顔を覗き込もうとすると、彼女は跳ね上がるように顔を向けた。

「私のことは詮索しないでっていいましたよね」

「申し訳ありません」

 目を伏せる木崎に追い打ちをかけるように紗怜南は息を吐いた。

「連絡先交換するんじゃなかった」



二か月前


 灰色の空からは雪が落ちそうだった。

 草鹿のもとを後にして街を速足で行く紗怜南に近づく男の姿があった。木崎だ。

「環紗怜南さんですよね?」

 そう声をかけられて、紗怜南はギョッとしたように目を見開いた。コートに身を包んだ木崎はじっと立ち止まって紗怜南を見つめている。紗怜南は木崎の頭の先からつま先までをじっくりと舐め回すように見て、ようやく返答した。

「……誰ですか?」

 木崎はコートの胸元を開けて、その奥のスーツの内ポケットから名刺入れを引き抜いた。

「環法律事務所の代表をしております、木崎星矢と申します」

 差し出された名刺を見て、紗怜南は反発するように鋭い眼光を木崎にぶつけた。見た目の年齢は彼女とそう変わらない。紗怜南は名刺を受け取るのを拒否して木崎の横を通り抜けようとしたが、その背中を彼の声が呼び止めた。

「環さんに──あなたのお父さんにがんが見つかりました」

 振り返った紗怜南の目は木崎を通り越して、遠くを見つめていた。



九年前


 司法試験をパスしないまま大学時代を終えた紗怜南は玄関口で母の加奈子に背中を向けていた。

「出て行かなくてもいいのに」

「もう決めたから」

 郁也は事務所の手伝いを欲していたようだった。だが、紗怜南は彼に相談もすることなく、家を出ることを選んだ。後ろ髪を引かれることもなく自宅の玄関を出て、キャリーケースを転がしながら通りへ足を踏み出す。

「紗怜南」

 行く手を阻むように父の郁也が立っていた。冗談でも他人が割り込めないようなヒリヒリする空気が漂う中、郁也は口を開いた。

「逃げるのか」

「私はお父さんについて行くことはできない」

「お前にそんなことをいう資格はない」

 紗怜南はギリッと父親を睨みつけた。

「そういうところも嫌い」

 そう吐き捨てるようにキャリーケースを鳴らして郁也の脇を大股で歩いていく。

「待ちなさい!」

 背中で郁也の声が爆発するが、紗怜南に迷いはなかった。だから、家族の連絡先もしばらくして全て消してしまった。

 それが呪縛から解き放たれる唯一の方法だと信じていたから。



二〇二四年二月五日 月曜日 夜


「いまさら戻れるわけないじゃないですか」

 酔いが回って来たのか、紗怜南の声からは棘が抜け落ちていた。

「そんなことないですよ。お父さんも内心ではあなたのことを考えていますよ」

 紗怜南はグラスを傾けながら、何かを思うようにカウンターの上に視線を滑らせた。

「助けになりますよ」

 木崎が絹のように声をかけると、途端に紗怜南の表情が強張る。

「要りません、そんなもの」

 財布を取り出して、一万円札をカウンターの上に叩きつけるようにした。参ったというように額を撫でつけて立ち上がろうとする木崎を、紗怜南は手で制した。

「ついてこないで下さい」

 木崎は無害であることを示すように軽く両手を挙げてスツールに腰を下ろした。靴音を鳴らしてバーを出て行く紗怜南の背中を見送って、木崎は肩を落として溜息を落とした。

 カウンターに向き直った木崎は残った琥珀色の液体を呷ってグラスを干すと、スマホを取り出して操作をし始めた。電話帳から番号をひとつ選ぶと発信をして、スマホを耳に押し当てた。しばらくして電話の向こうから応答があると、木崎は真剣な表情で小さく口を開いた。

「夜分遅くすみません。ちょっとした頼みごとが……」

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