第4話 それぞれの事実
二〇二四年二月五日 月曜日 午前
戸倉が咳払いをすると、草鹿が席に着く間の沈黙のうちに微かに緩んでいた空気が再び張り詰めた。
「では、検察側と弁護側、双方の主張をこれから伺います。まずは検察官から冒頭陳述を」
「はい」
三淵がよく通る声で短く返事をした。それだけで場の主導権を握るかのようだ。彼は立ち上がって、手元にあった数ページの紙を持ち上げた。そして、戸倉たちの両脇に陣取る六人へ熱い視線を向ける。
「私が証拠によって証明しようとしている事実についてお話します。
被告人は高校時代の友人であった奥野夢人さん──当時二八歳──を、金品窃取の目的で、奥野さんが別宅として使用していた住居内で奥野さんを殺害し、同所の浴室内で遺体を解体、排水溝に流して証拠隠滅を図ったばかりでなく、その後も同所に不当に滞在し続け、奥野さんを装い、奥野さんの知人らに対して奥野さんが生きているかのように振る舞いました。
被告人は大学を卒業後、定職に就くことなく、インターネット上で日々の仕事を探して生活費を稼いでいました。それだけに、余裕のある生活を送れていたというわけではありません。交友関係もほとんどなく、私生活では家族を亡くしています。前科、前歴については我々が調べた限りではありませんが、犯行当時は情緒も不安定であったことが窺えます」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだ」
辛抱堪らずといった様子で草鹿が口を挟む。その背後で紗怜南が目頭を押さえる。戸倉がすぐさま厳しい視線を投げた。
「被告人は落ち着いて検察側の主張を聴いて下さい。再三注意したはずです」
聴衆からもさきほどのような嘲るような笑いから、不信感のある空気が発せられていた。戸倉はじっと草鹿を見つめたのちに、三淵へ手を伸ばした。
「では、続きをどうぞ」
三淵はうなずいたのちに、口の端を歪めた。
「被告人が犯行当時だけでなく、情緒不安定的であるということは皆さんにはお分かりいただけたかと思いますが」戸倉たちの脇で、判断を委ねられた六人が互いに顔を見合わせる。「被告人は、そういった経済的、精神的に逼迫した状況の中にあった二〇二三年七月六日 午後二時頃に被害者である奥野夢人さんと偶然再会することになります。共に通っていた高校の三年生以来の再会でした。そこで二人は連絡先を交換し、二日後の七月八日に東京都新宿区歌舞伎町二丁目二五番一二号の『さくまや』という飲食店で、次のように奥野さんに話を持ちかけられたと被告人は主張しています。
『俺の身代わりをやってくれないか?』
そこで、被告人は時価およそ二〇〇万円の高級腕時計を受け取りました。被告人によれば、奥野さんは、
『一か月くらい出張に行く振りをして、羽を伸ばそうと思っている』
といって、奥野さんの別宅である神奈川県三浦郡葉山町長柄七〇八番一二四号に滞在するよう要請を受けたとしています」
滔々と語る三淵の後ろで千種が用意されていたモニターに件の建物の写真を表示させた。外観や広いリビングなどの写真が次々と現れる。そこが豪邸であると認識したように、多くの目が細められた。三淵はその波紋が伝わりきるまで待つように間を取り、ようやく先を続ける。
「すでに述べたように、被告人は経済的に逼迫した状況に置かれていました。また、被害者である奥野さんは会社経営者として比較的豊かな生活を送っており、被告人にはその様子を垣間見る機械がありました。したがって、奥野さんから腕時計を受け取った際に、苦しい現実から逃れようという衝動が湧き上がり、奥野さんに言葉巧みに取り入り、その生活を乗っ取ろうという考えに至りました」
草鹿が息を吸ったそのタイミングで紗怜南がその肩に強く手を触れる。草鹿は充血した目を紗怜南に向ける。
「今はやめて下さい」
紗怜南の懇願するような小さな声に、草鹿は身を震わせた。
「あんなこといわれる筋合いなんてない」
「今はやめて下さい」
頑なに、そして、強く念を押す彼女の壮絶な瞳に、草鹿は喉を鳴らした。
「私が草鹿さんの代わりに戦いますから、どうか任せて下さい」
紗怜南がそういうと草鹿は留飲を下げて、ひとつふたつと深呼吸をした。
「信じてるからな」
ボソリとそういう草鹿の向こうで、三淵が弁を振るっていた。
「被告人は二〇二三年七月一二日午前九時頃、被告人の自宅──住所は千葉県船橋市南本町五二番二号五〇五号室──に迎えに来た奥野さんの運転する車に乗り、同日午前一〇時四〇分頃に奥野さんの別宅に上がりました。それ以降、二〇二三年七月一二日から七月三一日までの期間に金品窃取の目的をもって、同所内で奥野さんを殺害しました。さらに、同所の浴室内で、証拠隠滅のために鋸、包丁、ハンマー、を用いて奥野さんの遺体を解体、またその解体した遺体を寸胴鍋で処理し、ミキサーを用いて骨などを砕き、浴室内の排水溝から遺棄しました。被告人は、遺体解体の証拠隠滅を図るため、それら遺体処理に使用したものと同じ型番の鋸一本、包丁二本、ハンマー一個、寸胴鍋ふたつ、ミキサー一台を、二〇二三年七月二五日午後二時頃、神奈川県横須賀市平成町一丁目二番の店舗『サンホームセンター』で購入し、実際に遺体処理に使用した道具を、二〇二三年七月二七日午前十一時三〇分頃、不良品回収業者『アース・クリーン』──所在地は、神奈川県逗子市逗子五丁目一六番一号──に電話依頼し、二〇二三年七月二八日に受け渡しをし、処分させました」
モニターには、三淵が話す内容に沿って鋸などの道具やホームセンターの外観写真、不良品回収業者の会社外観写真が矢継ぎ早に表示されて行った。それらを見つめる人々の表情は険しい。三淵はそれらの情報をゆっくりと染み渡らせるように、間を作って軽く咳払いをした。
「これに加えて、被告人は殺人や遺体解体の事実を隠蔽するため、二〇二三年七月二三日午後一時頃に、リフォーム会社『島内創建』──所在地は、神奈川県横浜市金沢区六浦一丁目二七番七号──に電話依頼し、翌七月二三日に『島内創建』の従業員に奥野さんの別宅内にある浴室をリフォームするよう依頼し、その翌週七月三一日から八月三日に着工させ、浴室内の内装および浴槽、設備を本来の状態とは異なるものに改装させました」
モニターには、二枚の浴室の写真が表示される。一枚目のキャプションには「リフォーム前の浴室」、二枚目には「リフォーム後の浴室」とある。一枚目の写真では、ドアの右手に浴槽が配置されているが、二枚目の写真では浴槽はドアの正面に横向きに設置されていた。
「また、被告人は二〇二三年七月一二日から八月一〇日まで、奥野さんの別宅に不当に滞在しましたが、その間、被告人は奥野さんの経営するアパレル会社『ヌーヴェル・オリゾン』──所在地は、東京都新宿区新宿一丁目三七番二号──の従業員やプライベートの知人に対し、奥野さんが生きているように装うため、奥野さんになりすまし、奥野さんのスマートフォンおよびノートパソコンを用いて複数回連絡を行いました」
モニターには、メールやメッセージアプリでのやりとりのスクリーンショットが表示されていく。そこには、プライベートに関するものや業務に関わるやりとりも含まれていた。
「被告人は、二〇二三年七月一二日から同年八月一〇日にかけて、奥野さんの別宅に不当に滞在する中で、奥野さんの財布から二〇〇万円のうち一六二万六七八一円を抜き取り、飲食物を宅配業者を介して注文し、先の遺体処理のための道具や浴室のリフォーム費用を支払いました。また、奥野さんの別宅に滞在中、住居の電気、ガス、水道を不当に利用しました」
三淵はここでひと息をついて草鹿に目をやった。その眼は感情を揺さぶるような情熱ではなく、あくまで冷静に淡々と物事をこなす冷ややかなものだった。
「被告人は奥野さんになりすます生活を続けていましたが、奥野さんの経営するアパレル会社『ヌーヴェル・オリゾン』の従業員たちが不審に思い、警察に通報し、二〇二三年八月一〇日午前六時十五分に駆けつけた神奈川県葉山警察署の警察官によって、住居侵入の現行犯で逮捕されるに至りました。その後、奥野さんの別宅を調査した結果、同年八月一九日午後四時四二分に殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕となりました。以上」
戸倉はうなずいて、今度は紗怜南の方へ顔を向けた。
「それでは、次は弁護人から冒頭陳述をお願いいたします」
紗怜南は緊張の面持ちで立ち上がった。
◇
「私が主張する事実は次の通りです。
被告人は、奥野さんの振りをして、奥野さんの別宅で一か月を過ごすという奥野さんの要請に応え、その力になるべく行動していたに過ぎませんでした。奥野さんの別宅に滞在していたこと、奥野さんのお金を遣ったこと、奥野さんの別宅にて電気、ガス、水道を遣ったこと、浴室をリフォームしたことは、全て奥野さんからの指示によるものであり、あらかじめ許可を得ていたものでした。被告人は、二〇二三年七月一二日から八月一〇日までの奥野さんの行き先や行動を把握しておらず、奥野さんが戻るまでの間、使命感から奥野さんの振りを徹底しました。それは、被告人が奥野さんの不貞の事実が明るみに出ないようにという、かつてのクラスメイトを思いやる気持ちによるものでした。
検察官は、被告人が金品窃取の目的で奥野さんを殺害したと主張していますが、奥野さんが殺害されたという事実は状況証拠のみによる推測に過ぎず、遺体も見つかっていない現状では、殺人が行われたという検察側の主張それ自体に疑念が生じるものです」
紗怜南は一気にまくし立てるようにして、ようやく息をついた。しかし、場の雰囲気は重苦しいままだ。
「被告人は、二〇二三年七月八日に奥野さんと東京都新宿区歌舞伎町の飲食店『さくまや』で、時価およそ二〇〇万円の高級腕時計を贈与されましたが、そのことで被告人は奥野さんの頼みを聞かなければならないと感じていました。奥野さんになりすますという計画自体、奥野さんの発案によるもので、現に二〇二三年七月一二日も奥野さんが被告人の自宅まで迎えに来ていました。
七月一二日に葉山にある奥野さんの別宅に迎え入れられた被告人は、奥野さんからいくつかの頼みごとをされています。
『スマホやパソコンは自由に使っていいから、連絡が来たら適当に返してくれ』
『物置に要らなくなった道具をまとめてあるから、不良品回収業者に持って行ってもらってくれ』
『要らなくなった道具と同じものをどこかのホームセンターで買い揃えておいてくれないか。車も使っていい』
『浴室が気に入らないから、リフォームの手配をしてくれ。浴槽はドアの正面に横向きになるようにして、サイズは一二一六サイズにしてほしい。財布の中の金で事足りると思う』
被告人はいずれも奥野さんから口頭で伝えられ、その頼みを忠実にこなしただけなのです。被告人が奥野さんを殺害したという事実はなく、したがって、遺体を解体したという検察側の主張も確定的な証拠によらないものです」
紗怜南は壇上へだけでなく、聴衆へも顔を向けて、最後の一言を放った。
「被告人の無罪は明らかなものです。一刻も早い無罪判決を下して頂きたいと思います」
静寂とは違う、人々が微かに嘆息するさざめきが漏れる。紗怜南が席につくと、草鹿が肩越しにボソリと呟く。
「あいつに比べたら短くねえか? いいのかよ、あれだけで?」
「落ち着いて下さい」
紗怜南はピシャリといい返して、口をキュッと結んだ。
一〇年前
肩を落として帰って行く人影を見届けて、紗怜南は事務所の商談スペースに据えられたテーブルの上に座り込む冷めたお茶の入った湯飲みに手を伸ばした。
「紗怜南もリスクヘッジができる弁護士になるんだぞ」
郁也が依頼を撥ねつけた時に客が見せた失望の表情を思い返して、紗怜南は声を落とした。
「さっきの人、本当に助けを必要としていたように見えたけど……」
「弁護士に受任義務はない」
そういうことじゃない、と紗怜南は心の中に呟いた。ついこの前は「依頼人は弁護士を頼りにやって来ている」といっておきながら、さきほどは郁也が依頼を断ったことに紗怜南は理不尽を感じていた。
「困ってる人を助けるのが弁護士じゃないの?」
「そんな綺麗事を掲げているから試験にも落ちるんだ」
事あるごとに司法試験の結果を持ち出されて、紗怜南は辟易としてしまう。だからなのかもしれない、紗怜南は給湯室へ向かう去り際に強い語気で言葉を放り投げた。
「刑事事件で頑張ってる弁護士の方がよっぽど立派だと思う」
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