第3話 揺れる思い

二〇二四年一月八日 月曜日 午後


 会議室に連れて来られた草鹿はシャツにジャケット姿だった。無精髭や疲れきったような顔はそのままだ。

 部屋の中には、紗怜南を含めて四人の人間が待ち構えていた。年配の女性が会釈をする。

「当日裁判長を務めます、戸倉です」

 草鹿は紗怜南の隣に腰かけながら、向かい側に座るスーツ姿の男女を一瞥した。

「公判前整理手続は」戸倉が和やかな声で草鹿にいった。「公判がスムーズに進むように裁判官と検察官と弁護人が証拠などを整理する話し合いの場です」

「何か月も待たされました」

 草鹿が不貞腐れてそう返すとスーツの男が苦笑いした。

「裁判員裁判なんで、誰にでも分かりやすいように事を進めないといけないんですよ。あなたが文句をいえる立場ではない」

 戸倉は軽く手を挙げて、スーツの男に顔を向けた。

「三淵さん、ここは話し合いの場です。慎むように」

 三淵は、ふっと鼻で笑ってあしらうように手を振ると座り直した。その隣で、スーツの女が今のやりとりをチラリと見やる。戸倉は、今度は草鹿に目を向けて、

「草鹿さんも何かを仰る前にはご自身のためによく考えて頂ければと思います」

 と釘を刺した。だが、草鹿には言葉の真意は伝わらなかったらしい。

「僕はやってないんですよ」

 紗怜南は軽くテーブルを叩いて草鹿を短く睨みつけた。そして、戸倉の方を見て取り繕うように笑みを浮かべた。

「始めましょう」


「まずは前回三淵さんから請求があった証拠について確認しましょうか」

 やかましい草鹿を黙らせてから、戸倉は配布した書類に目を落とした。紗怜南は得意げに三淵を一瞥する。

「すでに提出しましたように、被告人が所持していた腕時計については窃盗の疑いを否定するものと考えます」

 会議室のモニターに繋げられたプレイヤーにディスクが挿入され、防犯カメラの映像が流れ出す。リモコンを使って映像を一時停止して、紗怜南が説明を始める。

「二〇二三年七月八日午後一九時二〇分頃、新宿歌舞伎町の居酒屋『さくまや』内の防犯カメラ映像です。画面右奥の男性二人が被告人と被害者の奥野さんになります」

 映像が動き出し、奥野が自ら腕時計を外すのが見える。そして、テーブルに置いたその腕時計を草鹿に向けて押しやった。

「ご覧のように奥野さん自らが被告人に腕時計を贈与していることが分かります」

「これについて、三淵さんはどうですか?」

 戸倉がそう尋ねると、三淵は腕組みをしてモニターを睨みつける。

「音声はないんですか?」

「ありません」

 紗怜南がそう答えると、三淵の目が光る。

「被告人が被害者に腕時計を寄越すように命令したという可能性は?」

「何いってんだ!」

 草鹿がテーブルを叩いて立ち上がると、部屋の中にいた監視役の男二人がサッと身を寄せた。だが、草鹿はそんなことにはお構いなしに声を上げた。

「あいつが急に俺に時計を渡してきたんだ!」

 男二人に腕を掴まれて椅子に座らされる草鹿に戸倉の厳しい声を飛ぶ。

「草鹿さん、さきほどもいいましたが、ここは話し合いの場です。注意に従わない場合は退室して頂かないといけませんよ」

 紗怜南も険しい表情で草鹿の二の腕に触れた。余計なことをするなよ、といいたげだ。戸倉は溜息をついて、草鹿に問い掛けた。

「奥野さんから腕時計を渡されたというのは確かなことですか?」

「確かなことです!」

 草鹿はそういって、その時の状況を事細かに話し出した。戸倉はそれを受けてゆっくりとうなずいた。彼女はモニターを指さした。

「この映像を見ると、腕時計を渡す前後の奥野さんの表情はにこやかで、命令されて腕時計を差し出したようには見えません。奥野さんが自らの意思で腕時計を贈与したと見ても不自然ではないと判断できます」

 三淵は腕組みをしたまま、戸倉の言葉を吟味している。そして、そのまま無言でうなずいた。

「では、こちらの争点については、審理済みとして公判から除外ということになりますね」


 証拠の整理が済むと、戸倉は再び手元の書類に目を落とした。

「公判の期日ごとの論点について改めて確認しておきましょう。草鹿さんも念のためにスケジュールなど確認して下さい。

 第一回期日は、既定の通り、二〇二四年二月五日月曜日です。ここで、冒頭手続と住居侵入に関する証拠調べを行います。検察側も弁護側もお互いの主張と証拠について確認して下さい」

 三淵と紗怜南はうなずいた。彼らの手元の書類には「証拠一覧」と題された表が記載されている。戸倉は「証人尋問予定」という箇所に指を滑らせた。

「第一回期日の午後に検察側の証人尋問が二件ありますね」

「すでに手筈は整っています」

 三淵の隣でスーツの女が素早く応える。

「翌日の第二回期日は、窃盗、殺人、死体損壊についての証拠調べとなります」

 戸倉がそういうと、一斉に紙をめくる音がする。三淵がすかさず言葉を発する。

「前回は窃盗の証拠調べで証人を呼ぶとしていましたが、物証に切り替えることにしました。証人の……千種、誰だったっけ?」

 千種と呼ばれた隣の女が書類も見ずに答える。

「早野愛未さんですね」

「なので、この辺りは物証調べである程度審理が短くなるかな、と」

 三淵が千種の後を受けると、戸倉は別紙に目を走らせる。

「証拠が防犯カメラ映像になったんですね? 環さんは、こちらの証拠は……?」

「請求を願います」

 紗怜南はサッといい返して、牽制するように三淵を見やった。彼は視線を受けて肩をすくめる。

「尋問の手間を省いたまでです」

「おそらくは、次の殺人の証拠調べがボリューム的には大きくなるかなと思いますが」戸倉は三淵と紗怜南の顔に順番に視線を送る。「専門家への二件の証人尋問、それから、ご遺族への尋問がありますね」

 紗怜南は顔をしかめて、書類に目を通す。そこには「奥野皐月」とある。紗怜南は鼻息荒く口を開いた。

「何度もいっていますが、被害者の奥さんを尋問する意味はありますか? 裁判員への印象を大きく左右するものだと感じます」

「被害者が死亡している状況について、当事者としての意見を聴くだけです」

 三淵がピシャリと反論すると、戸倉は顎をさする。

「今回は遺体がなく、死亡しているという事柄を裁判員の皆さんに分かりやすく判断してもらうためにご遺族に意見を聴くというのはうなずけるものかと考えます」

「死んでないという可能性もあるんですか?」

 そう口を挟むのは、草鹿だった。三淵は小さく笑った。

「状況的に、被害者が亡くなっているのは疑いの余地がないでしょう」

「いや、ちょっと待って下さい」紗怜南は鋭く声を上げた。「ここでそう結論づけるのはやめて下さい」

 戸倉は強くうなずいた。

「三淵さんは気をつけて下さい」

 三淵は苦笑いを浮かべて、窓の外へ目をやった。


「まだ希望はあるということだよな?」

 会議室での話し合いを終えて、草鹿が紗怜南に小声で迫る。テーブルの向こうでは、戸倉と三淵たちが雑談を交わしている。

「私はずっと希望を持ってましたけど」

 棘のある声だった。紗怜南は草鹿の方を見ずに、書類やノートパソコンをバッグの中に淡々としまい込む。

「まだあいつの死体が見つかったわけじゃない。つまり、あいつが殺されたって話はただの勘違いなんだよ。あいつはどこかでトラブルに遭って戻って来れなく──」

「じゃあ、それを証明したらいいんじゃないですか!」

 耐えかねないというようにいい放った紗怜南は、ハッと我に返って顔を真っ赤にした。

「大丈夫ですか?」

 戸倉が心配げに立ち上がる。紗怜南は間髪入れずに手で制した。

「大丈夫です」

 紗怜南が促すと、監視役の二人が草鹿の両脇に歩み寄って移送の準備を始める。三淵が部屋を去り際に意地の悪い笑みを投げかけた。

「国選弁護人はストレスまみれだな」


 草鹿を見送り、建物を出て真冬の空の下に歩み出した紗怜南はひとり重い溜息をついた。冷たい青空に向けたその眼差しは遠い日を見つめていた。



一〇年前


「早くしないと大学が終わってしまうぞ」

 紗怜南の父、郁弥は娘に顔を向けることなくパソコンに前のめりになってキーボードを叩いている。窓の外では、最後の蝉の声が寂しげに鳴いていた。

「ベストは尽くしてるんだよ」

 紗怜南は泣きそうになっていい返したが、キーボードの音が止んで見つめ返す郁也に思わず口籠ってしまう。

「プロセスが優れていても結果が伴わないなら意味はない」

「でも……」

 冷徹な言葉に反論しかかるが、眼鏡の向こうで光る父の眼を前にして、自分は無力だと悟ってしまう。

「依頼人はこっちを頼りにしてやって来るんだ。法廷で負けを味わわせるわけにはいかない」

 紗怜南は視線の逃げ場を窓に求めた。そこにでかでかと「環法律事務所」と書かれてある。今では、自宅に隣接したこの事務所は紗怜南にとって目の上の瘤だった。

 郁也の小言を切り抜けて自宅の自室に飛び込んだ。そのままベッドに横になる。そこから見えるデスクの上には、六法全書や判例集、演習集が折り重なっている。大学三度目の夏休みがつい先日終わって、司法試験の結果も発表された。

 果てのない旅路のようだった。父の期待に応える未来は遠くにかすんですらいないように紗怜南には思えた。


「お父さんもあえて厳しくいってるんだと思うよ」

 紗怜南の母、加奈子は同情を寄せるように眉尻を下げて柔らかい声を投げかけていた。

「そうなんだろうけど、プレッシャーがキツいんだよ……」

 大学の友人がバイトに勤しむ中、紗怜南は自宅でも勉強に傾注していた。そうせざるを得なかった。母は父と娘の狭間で複雑な感情を抱えているようだった。

「お父さんも病気したでしょ。事務所を継いでもらいたいんだって」

 病床に臥せっていた頃の郁也を思い出して、紗怜南は何も言えなくなってしまう。


 ──頑張るしかないんだ。

 紗怜南の瞳は傾いた夕陽を受けて揺れて光った。

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