白色
兎紙きりえ
第1話
真白に覆われた世界で、少女は一人、駅のベンチに座っていた。
寒くはなかった。
一面の白は白以外の何物でもないようで、雪の冷たさすら持ち合わせてはいない。
そんな、白の世界だ。
何故こんなところにいるのか。ここは一体どこなのか。そもそも自分は何者なのか。
少女自身、何も知らない。
ただ、どの電車に乗ればいいのか、それだけを知っていた。
今日も、少女が待つ電車は来ない。
〈まもなく電車が参ります。黄色い線の内側でお待ち下さい〉
電光掲示板に次の電車の案内が流れた。残念ながら少女の待つものではなかったけど。
少し経って、ガタンゴトン……と、ゆっくりと電車がやってきた。
線路のない白の海の遠くから電車が来ては停まっていく。
フシュウ。音と共に扉が開くと、中からは80歳くらいに見える、おばあさんが一人降りてきた。
「隣、いいかしら」
おばあさんはそう言って少女を見る。
「どうぞ」
快諾すると、よっこいしょ、と隣に座った。
ベンチに座ったおばあさんは駅を見回しながら呟いた。
「ここは……キレイな場所ね」
キレイ、とそう呟いた。
「そうですか?」
少女には疑問だった。
ここには白しかない。何もない。
少なくとも、キレイだと、そう感じたことを少女には一度もなかったから。
「なんにもないのに?」
「そうね、なにも無いのも寂しいものね。」
おばあさんは苦笑しながらも続けた。
「でもね、それでも美しいわ。それに、なんだか懐かしくって。不思議ね、なんにもないのに」
おばあさんはそれだけ言って立ち上がった。
次の電車が来ていた。
電車に乗り込む前、おばあさんは鞄から一枚の紙を取り出して、少女に手渡した。
紙は、スケッチブックから切り離されたものだろうか、端が破れている。
「これは?」
「私が昔、描いたものよ。なんにも無いのは寂しいでしょう?」
おばあさんは、少し恥ずかしそうにしていた。
それは、少し黄ばんだ絵だった。
駅に立つ女性の絵。
絵の中の女性は、長い栗色の毛を風に靡かせている。
お世辞にも上手いとは言えない絵。
……それでも、何故だか惹かれるものがある、不思議な絵だ。
「あんまり上手じゃないでしょ」
おばあさんは、照れながら、その絵を見つめていた。
「でも、私、好きです。この絵」
少女は口を開くが、拙い言葉しか出てこない。
「ありがとう。とっても嬉しいわ。でも、その言葉は次に来る人にかけてあげてね」
とっても喜ぶだろうから……、おばあさんはそう言うと電車に乗り込んでいった。
少女は今日も駅のベンチに座っていた。
少女の待つ電車はまだ来ない。
カレンダーがめくられ、また別の電車が来た。
少女の待つ電車ではなかったが、その電車からは、妙齢の女性が降りてきた。
女性はやつれ気味の顔で少女の隣に座った。
「貴方、ずっとここにいるの?」
女性がいきなり話しかけてきた。
少女は少しだけ戸惑った。
少女の沈黙をどうとったのかは分からないが女性は言葉を続けた。
「そう、少し、羨ましいわね。まるで全部塗りつぶした後みたい」
そう言った女性の横顔には複雑そうな感情が見え隠れしている。
「あなたもこんな風に嫌なこともなにもかも白になればいいのに、って思わない?」
「私は、ずっとここにいますから。白色の世界以外見たことないですから」
少女は正直に言った。
「そう」
女性は、短く息をついて、鞄から一冊のスケッチブックを取り出した。
「?」
少女が不思議がっていると、女性はスケッチブックを開き、その中から、片面に破られた跡のあるページを開くと、スラスラと絵を描き始めた。
みるみるうちに、少女の見たことのない世界が描かれていった。
「これが私のいた世界なの」
それは、ここではないどこかの絵。
上手とは言えないが、どこか惹かれる絵。
少女は、目の前の女性こそ、あの駅の絵を描いた人なんだと気が付いた。
「そうね、絵にすれば綺麗な世界なのよ」
女性は、ぽつり、悔やむように呟いた。
「向こうの世界が嫌いなんですか?」
少女の口から素直な感想が漏れた。
その感想が耳に入ったのだろう。
「どうなのかしら。嫌いって言えるほど、私は強くなかったのよ」
「こんなに綺麗なのに?」
「綺麗だからこそ、よ。綺麗に見えるから、覗いて、本物を見た時に耐えられなかったの」
女性は悲しそうに黙ってそれっきり。
暫くの間、沈黙が駅を覆ってしまったよう。
元より風も、陽の暖もない、白の世界だ。
2人が口を噤めば、しんと、恐ろしい程に静かさが気になった。
ただひとつ、少女にはどうしても気になる事があった。
「でも、描いてる時は楽しそうだったよ?」
また沈黙。
いや、違う。
少女の言葉がよっぽど予想外だったのか、口をあんぐり開けて女性は固まっていたのだ。
それから、ふっとそっぽを向いてしまうと、押し殺すようにしているが、女性の口からは確かに笑い声が漏れていた。
「不思議ね、もうとっくに絵なんて諦めがついたと思ってたのに……」
振り返りながら、どこか吹っ切れたように、彼女が言う。
それから女性は次の電車が来るまで、隣に座り、絵を描いては少女に見せてくれた。
スケッチブックの半分を書き終えるかといつところで、ようやく電車が来た。女性が席を立つ。
ドアが開き、電車に乗り込む女性に少女は声をかけた。
「私、貴方の絵、好きです」
その言葉に、女性は答えなかった。
けれど、発車を待つドアの向こう、女性がまた絵を描いてるのを少女は見た。
それは、まるで何かを思い出したみたいに。
それは、楽しくて仕方ない様子で。
やつれ気味だった顔はどこへ行ったのか、女性の瞳の奥にキラキラと光るものを少女は感じた。
だから、これでいいか、少女はそう思ってベンチに戻った。
今日もまた少女を乗せる電車は来なかった。
時計の針がぐるりと回って、別の電車がきた。
ぴかぴかの真新しい列車だ。
降りてきたのは、これまた新品のスーツを着た活発そうな女性だ。
「隣、座ってもいい?」
少女は頷く。
これまでの人と同じように、彼女はベンチに座ると、また同じように呟いた。
「ごめん、もう少しだけ近くに寄ってもいい?」
怯えたように震えた声だ。
少女が、もちろんと快諾するとスーツ姿の女性は「ありがとう」といって、肩が触れるくらい位置に座った。
「情けないでしょ。怖いの。ここの景色とおんなじくらい」
初めて聞く感想だな、と同時に、明朗そうな雰囲気には似合わないな、と思った。
「そんなに意外?ほら、ここには何も無いじゃない。この駅以外の全てが真っ白。
青空も星も見えないでしょ?遠くが見えないのは、やっぱり不安で……なんだか息苦しいの」
空を見上げながら、彼女は吐き出すように答えた。
「私の生きてるとこも一緒。先のこと考え出したら急に怖くなっちゃって」
弱いっちいね。と彼女は自嘲気味に笑う。
と、視線を下げた時に見えたのだろう。
彼女の視線は、少女の持つ1枚の絵に注がれていた。
「その絵……」
驚いたように目を丸くして、暫く固まった後、彼女は、ふっと笑みを零した。
彼女の顔には先程までの翳りが消え、優しい笑顔が浮かんでいる。
「ううん、なんでもないの。そっか、貴方が守ってくれてたんだね」
心底安堵したような声色で、スーツ姿の彼女は呟いた。
「そうだ。これ、預かってくれない?」
彼女が差し出してきたのは1冊のスケッチブックだった。
彼女は鞄から取り出したそれを、大切そうに撫でた後、私に手渡した。
「大切な物なの」
「なら、自分で持ってた方がいいんじゃ……」
「私が持ってると、このまま無くしてしまいそうだから……ちゃんと、思い出したいから」
スケッチブックから手を離したスーツ姿の彼女が、空いた掌をぎゅっと握りしめたのを少女は見た。
押し切られるように少女が受け取ると、スーツ姿の女性は意を決したように立ち上がった。
丁度、彼女が待っていた電車も来たらしい。
「ありがとう。そろそろ行くわ」
「怖くないんですか?」
「怖いわよ」
震えた声は変わらず、でも、と彼女は続ける。
「貴方がそれを守ってくれるでしょ」
スーツ姿の女性がドアの奥へと消えていく。
電車が白の彼方へ消えるまで彼女が振り返ることはなかった。
少女は今日も駅のベンチに座っている。
少女の待つ電車はまだ来ない。
影が伸び、影の向きが変わった。
電車が来た。
少女の待つ電車ではなかったが、電車からはセーラー服を着た女子高生が降りてきた。
女子高生は、物珍しそうに駅を見回すと、
「ここ凄い!とっても面白い!」
女子高生は、嬉しそうに飛び跳ねたりしながらも少女に声をかけた。
少女は、女子高生の行動に呆気に取られながらも言葉を返す。
「そう?白いだけの世界がそんなに面白い?」
少女の疑問の根幹には、もう電車に乗ってどこかへ行ってしまって女性の絵があった。
女性に見せてもらった別の世界のことを思い出せば思い出すほど、少女にはこの世界が淡白なものに思えた。
だから、目の前の女子高生がこんなにはしゃぐほど、この世界が面白いものではないと少女は思っていた。
「突き抜けるような青い空も、いっぱいの星空も見えない、赤い夕日に映える山の影も烏の黒も見えないけどさ、他が真っ白だからこそ、この駅だけ別の世界から切り取ったみたいに見えて……そう考えると面白くない?」
テンションの上がった高い声で話す女子高生を見ながら、少女はそういう見方もあるんだな、と思った。
「よし!決めた!私、この世界を忘れないうちに描いとく!」
女子高生は、慌ただしく鞄から一冊のスケッチブックを取り出すと、ペンを走らせた。
また時が経って、電車が来た。
「じゃーん!描けたよ!見て見て!」
自信満々に見せた女子高生の絵に少女は既視感を覚えた。
いや、より正確に言うならば、少女はこの絵を見たことがあった。
いつか見た駅の絵が、自分の目の前で描きあがった瞬間というのは少女に、一種の感動を与えるには充分だった。
「……素敵な絵だと思う」
少女は正直な感想を述べた。
女子高生はその感想に満足したのか、スキップ混じりの軽い足取りで電車の中に乗り込んで行った。
少女は今日も駅のベンチに座っていた。
少女の待つ電車はまだ来ない。
カレンダーがめくられた。
電車が来た。
少女の待つ電車ではなかったが、幼い、小学校一年生くらいの子が降りてきた。
不安そうな、自信なさげな小学生の女の子だった。
オロオロとしながら、少女の隣にちょこんと座った。
「あのあの、お姉さん」
お姉さん、そう呼ばれるのは初めてだったので、少女は一瞬、自分が呼ばれてることに気づかなかった。
けれど、ここには自分しかいないことに考えつくと、少女は言葉を返した。
もちろん、怖がらせないように優しく。
「どうしたの?」
「お姉さんは、ずっとここにいるのですか?」
女の子は、少女をじっと見て問いかけた。
少女はどう答えるか迷いはしたが、結局、答えは一つしか思い浮かばなかった。
「うーんとね、私は電車を待ってるんだ」
少女が答えると、女の子の表情がぱぁーっと明るくなった。
「おんなじ!おんなじです!」
どうやら、少女と同じように女の子も電車を待っているようだった。
電車を待っているのが、自分一人かもしれないと、女の子は不安だったのだろう、と少女は考えた。
そこで少女は、これまで駅で出会った人達の話をした。
話しているうちに、電車が来ていたようで、話を聞き終わった女の子が乗り込んでいった。
電車のドアの向こうで、笑顔で手を振る女の子の姿があった。
少女は今日も駅のベンチに座っていた。
少女の待つ電車はまだ来ない。
少女のお腹がくぅ〜と鳴いた。
電車が来た。
少女の待つ電車ではなかったが、栗毛の長髪が目立つ女性が降りてきた。
「あら、可愛いお嬢さん」
隣、失礼するわね、と言って女性は少女と隣に座った。
女性の長い栗毛が少女の手に触れる。
その感触を、少女は何故だか覚えていた。
記憶を辿っても、この懐かしさの正体は少女には分からなかった。
だが、不思議と安心する感触と匂いを少女は無視出来ず、女性をじっと眺める。
その時、少女は女性のお腹が少し膨らんでいることに気が付いた。
女性は、少女の視線に気付いたのか、
「この子、もうすぐ生まれてくるの。ちょっと撫でてみる?」
女性は優しく微笑んだ。
少女が女性の言葉に従って、優しく、優しく女性のお腹を撫でると、
トクン……。
生命の音が聞こえて、その音がひどく懐かしい。
少女はその時初めて自分が何者なのかを悟った。
少女がもう一度、女性のお腹を撫でていると、電車が来た。
少女の待っていた電車だった。
少女は撫でていた手を止め、立ち上がった。
行ってきます。
そう言って少女は電車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、閉ざされた世界の向こう、駅に立つ女性の口が動いた。
いってらっしゃい。
少女にはそう聞こえた。
電車が動き出し、間もなくトンネルに入った。
暗い、暗いトンネルを眺めていると、その先に小さな光が見えた。出口だ。
遠くの光を目指して電車はレールの上を走り続けた。
トンネルを抜ける。
途端に広がった視界はまず、一面の赤い光に飲まれた。
少女が光の次に感じたのは、温度。
遅れて、ちゃぷんと水音と共に全身を包み込む温かさを感じた。
暖かく、心地良い。
少女は心地良さに浸っていた。
暫くして、うっすら目を開けると、少女は抱かれていた。
栗毛の長髪が目立つ、綺麗な女性の腕に抱き抱えられているのだ。
おかえり。
女性の口が、そう動いた。
ただいま。
少女はそう言おうとして、泣いた。
言葉が口から出る前に、泣いていた。
嬉しくて泣いた。
不安で少し悲しくて泣いた。
でも、やっぱり嬉しくて泣いた。
そして、何故だか懐かしくて泣いた。
泣き疲れたからだろう。
少女はゆったりと睡魔が襲いかかってきてるのを感じた。
微睡みの中、うっすら溶けていく思考に少女は考える。
白の世界のことを。
少女はその時初めて、白には新たな始まりという意味も存在するのかなぁ、と思った。
白色 兎紙きりえ @kirie_togami
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