第9話 アユミ

 ホームルームが終わった後、俺が窓の外を見てぼーっとしていると、いきなり氷谷さんが近づいてきた。


 どういう事だ?


 氷谷さんはクラスメイトである以外は俺と全く接点がなかったし、話した事も少ししか無い(それも私事関係では無く学校で話さざるを得なかった状況下での話だ)。


 怒りを買ったり、逆に感謝されるような事もしていない。


 ……とすれば、やはり先程のホームルームの件か?


 だとしても、彼女が何を俺に言いたいのか、まるで予想がつかない。


 俺への労いの言葉か?


 ……いや、氷谷さんがやるような事ではない。恐らくハズレだ。


 それとも鶴野先生に注意しろ、みたいな注意喚起だろうか?


 ……残念ながらこれでも無さそうだ。彼女はまず人を心配するような事はしない。


 もしかして、せっかく守ってやったのに御礼の一つも無かったから怒っているのだろうか?


 ……彼女はそこまで短気な性格ではないと思うが、有り得なくもない。またそれが原因なら、俺は深読みしてしまったが故に墓穴を掘ってしまったという事になる。


 認めたくは無いが、これが一番可能性のある展開だ。


 ……うん。受け止めるしか無い。


 俺は十分に警戒しながら、今から交わすたったの一言にも慎重に言葉を選んで、席から立ち上がって彼女に話しかけた。


 「先程は有難うございました。」


 そう言って俺は頭を下げる。


 もしかしたら俺の考えている事は見当違いかもしれない。でも「何の用ですか?」みたいな事を言うよりも、勘違いしていると思われた方がまだ俺の印象は下がりにくいはず。


 だったら俺は一番社会的に生き残る可能性の高い選択を選ぶまでだ。


 しかしこの長々と続いた思考も、氷谷さんの言葉で全くの杞憂となる。


 「……何の事でしょうか。私は一限目が移動教室だったので少し先生を急かしただけです。貴方への奉仕のつもりは無かったのですが、私の言動が貴方の命の糧となったならば、幸いです。しかし私が貴方に伝えようとしたのは『先生が貴方を呼んでいる』事であって、私は貴方に一切の関心を抱いてはおりません」


 氷谷さんはそう言って、何故かひじょーーーに冷めた目をして俺を見ている。


 そして俺はこの事実に情けなく口を半開きにすることしかできなかった。


 「え、違うの?」と言いたげな、間抜けな顔で。


 ……俺に用があったんじゃ無くて、ただ単に伝達を任せられただけだったのか……。


 とすると、俺はとんでもない勘違いをしていたらしい。


 「自分に何か用がある」と言う前提で話をしていたので、正に世界をひっくり返されたような気分だ。


 こういった「自分自身に何か出来事が起こるはずだ!」みたいな勘違いは「自己中」と思われかねないから、結局は「何の用ですか?」の方が印象は下がらなかったのではないかとさえ思う。



 結論を言って仕舞えば、「やらかした」。



 「あ、そ、そうなんですねー。すみません勘違いしちゃってーはははは……」


 「いえ、こういう事は普通の人間には日常茶飯事と伺いました。ならば私も『こういう事』は寛容に受け止めるべきだと判断しておりますので」


 ……うん、つまりそれって俺が平凡な人間だっていう皮肉と私は上の存在ですよって俺を煽りにきてるんだよね!?


 氷谷さんはこういった感じで、彼女の美貌に惚れて告白した男子達や友達になろうとしてくる女子達をいつもあしらっている。


 遠回しに言っているだけで列記とした悪口なのに、彼女を嫌う者は誰もいない。


 むしろその孤高の姿に憧れを持つ人さえ居るくらいなのだ。


 何故かという質問には正直なところ俺もよく分からないとしか答えようが無い。


 ただ事実だけを述べて言うならば、彼女の悪口は「悪口」にならないということだ。


 人を何故か惹き寄せてしまう、神の様な存在。


 ここまで来ると、もしや彼女は最早カリスマ性の塊なのかもしれない。


 だからこそ彼女の謎は神の様に余りにも深すぎて、俺達には具体的に答えようも無いのだ。


「そ、そうなんですねー。それはいいことだー、うん!」


「……お世辞は良いので、早く先生の所へ行かれてはどうです。次の授業の先生にも伝えておきますので。鶴野先生は3階の面談室で待っていると仰られていましたよ」


「あーそうなんですか有難うございます!ではこれで!」


 俺はそういう大事な事は最初に言ってくれと心の中で叫びながら、もうこの空気に耐えられないと察し、早めに話を切り上げる事にして3階まで全力ダッシュで直行した。


 氷谷さんは皆んなに憧れられていると言ったが、正しくは俺という例外がいる。


 俺は彼女の事が苦手だし、憧れてもいない。最初に彼女が尊敬されていると知った時は、俺以外が洗脳されてるのかとさえ思った。


 どうも俺には彼女のカリスマ性を感じられないようだ。


 まあ正常な判断ができるだけ俺の立場の方が幸せか?


 いや、この話に幸不幸など俺が決められるものでは無いだろう。


 彼女に憧れている人からしたら今の状況こそ、正に幸せの絶頂なのだから。


 そんな事を考えながら走るのを止め、息を整えながら歩いていると面談室の扉の前にもたれこんでいる鶴野先生を見つけた。


 そう言えば氷谷さんのことばかり考えていて気に留めていなかったが、鶴野先生が俺に用とは一体何なのだろうか?


 彼とは今日初めて会ったはずだし、彼の授業も受けた覚えはない。


 何処かで関わりが無かったのなら、呼び出された理由は氷谷さんの件と同様に、今朝の事で間違い無いのだろう。


 ……そうするとやはり彼は、俺の素行に怒っているのだろうか?

 でもそんな事は普通教室で叱れば済むはずなのだが……。


 ……いいや、もっと違う理由があるはずだ。


 何か、何か無いのか?


 全てに置いて俺を納得させられるような、そんな理由が。



 「ダメだ……」


 思わず声に漏れる。


 ……分からない。


 決して最初から諦めていた訳ではなかった。


 俺は必死に理由を探し求めた。


 でも、考えれば考えるほど何が何だかわからなくなっていく。


 自らの考えを否定する度、空気は重くなって俺の体にまとわりつく。


 余りにも不可解な現状に、何とも言えない気味悪さが心の中で漂う。


 もう考えられないのなら、行動するしか解決策はない。


 そう俺は決心した。


 足を踏ん張り、掌を握る。


 これでもかというほど、体に力を込めた。


 俺は行きたくないと叫ぶ足を必死に動かす。


 怖い。

 今から降りかかる「現実」の雨が、怖い。


 ……それでも、現実と向き合わなければならない。


 そうしなければいつまで経っても現実は変わらないし、救われる事もないからだ。


 これは俺の自論でもあるし、実際にそう感じるようなことも経験した。


 俺が世界を、自分自身で変えるんだ。



 完全に大袈裟なこの決意。


 しかしこの決意は今まで何度も俺を救い、そしてこれからも俺の生きる意味となる。



 きっと。


 俺の足は一歩ずつ、ゆっくりと理想の世界に近づいていく。

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