第8話 孤高ノ氷壁
キーンコーンカーンコーン……
キーンコーンカーンコーン……
「ほーい、席付けー。今日は新島先生休みだから、代わりに俺が担任するぞー」
ん……。もうホームルームか……。
てか、アイツは誰だ……?
セルフ腕枕で仮眠を取っていた俺はいつもとは違う、気だるそうな低い声色で目を覚ました。
「皆んな俺の事は知らんと思うが、高校三年担当の化学教師の鶴野だ。今日限りの付き合いだが、宜しく頼む。」
そして鶴野先生はお辞儀もプロフィール語りもせずに出席簿を取り出し、点呼を始めた。
「朝露……天草……飯田……内田……尾持……」
一応先生は生徒が反応するまである程度待っているが、それも僅かな時間。受け答えなど無視して適当に名前を呼んでいっている。
これでは最早朗読で、何の意味もない。
髭も生えているし髪も長い。
目にはくま《・・》が深く刻まれ、服もスーツでは無く無地の黒いパーカーに青いジーンズだ(しかもヨレヨレのシワ付きで、アイロンして無さそう)。
この外見から見ても鶴野先生はかなりのズボラな性格らしい。
色々規則が厳しいこの八雲高校でよくそんな格好をしていられる、いや、そもそもよく教師に採用されたなと変な所で感心してしまった。
「南……間口……眞秀葉……眞秀葉!?」
……え、なに、なんか呼ばれた!? もしかして俺ですか!?
急に大声で先生に点呼され、慌ててバッと姿勢を正す。
「は、はい!?」
ヤバい、
何だってここは、八雲高校なのだから。
先生への逆らいはただ、「死」を意味しているだけでしかない。
「す、すみません!」
少しでも罪を和らげるため、何が何だか分かっていなくても謝罪は必須だ。
一度好感度を下げてしまったなら、少しずつでも上げていく様に努力しなければならない。
しかし彼は俺のことなど目にもくれず、何故か出席簿をじっと見つめていた。
時が止まったのではないかと思うほど、教室は静まり返った。
服の擦れる音すら聞こえない。
誰もがこの奇妙な空気の中で、自ら動く事を恐れた。
……そう、ただ一人を除いて。
「先生、どうかなさいましたか。体調が優れないのでしたら、保健室に同行しましょうか。」
無表情で淡々と、文章を読み上げる様な調子で、彼女は先生に話しかけた。
その言葉は、彼女が先生とまるで同じ立場だと勘違いさせるほどの威圧と見下しをひしひしと感じさせるものだった。
本来なら完全に侮辱に値し、退学になりかねない発言。
しかし彼女の言葉には根が張っている様に堂々としており、それでいてとても高潔だった。
周りも痛いほどそれを感じ取っているらしく、この空間で彼女が勝つことに最早確信を覚えている様だ。
そしてその予想を裏切る事なく、展開は早々に進んで行く。
鶴屋先生は彼女の発言に我を取り戻し、慌てながらも、さっきとは違う明らかに暗い口調で言った。
「……いや、すまん。大丈夫だ。……何でもない。
……点呼、再開するぞ。水沢……村瀬……」
彼女はどうやらこの空気から俺を救ってくれた様だ。彼女の言葉に一つも情が含まれていなかったことからあくまで間接的に、なのだろうが。
……兎にも角も、どうやら俺は鶴屋先生から怒りを買わずに済んだようだ。それだけを確認できただけでも、俺は十分に胸を撫で下ろすことができた。
先生にさえも打ち勝つ、恐ろしいほどの肝を持つ彼女の名は
この地域に昔から存在し、一星教を一番に支援しているヤクザグループ「氷谷組」の一人娘であり、既に次期当主の座を勝ち取っている。
成績は常に二位をキープしており、運動神経も頭脳もハイクラス。
またこのクラスの級長を任せられるほど、周りからの信頼も抜群だ(緩坂は周りからの人気はあるが、あの天然な性格のドジっ娘にクラスは任せられないとしっかり意識しているらしい。流石進学校、正しい判断だ)。
何事にも動じない冷徹な姿を持つ彼女を、この学校の生徒達は密かに「孤高の氷壁」と呼んでいる。
クラスのクズ陰キャ共が言うには、このあだ名には「氷壁」の様に、女子特有の膨らむはずの肉体部分が剃り立つ様に平坦であるからという隠語も持ち合わせているらしいが、そこには触れないでおこう。
しかし、彼女でもテストになると少し情熱的になる。
悔しいが天才と認めざるを得ない緩坂に彼女も対抗心や嫉妬を抱いているからだ。
まあそれに関しては当たり前だろう。
誰だってあんなバカで努力して無さそうな奴に成績を上回られたら死ぬほど悔しいに決まっている。
俺はそんな少し不幸な境遇の彼女に、せめてでも心のうちで礼を言っておくことにした。
彼女の席の周りは近寄りがたいオーラが
何てったってヤクザの娘だしな。
しかし、あくまで本当の理由は別にある。
それは俺の平凡な生活を守ってくれたことだ。
今まで変な奴等(緩坂や朝露)に絡まれながらも、先生から、全体的に言えば学校から嫌われる事がない様に、至って普通の学生を演じてきたのだ。
こんなヘマで姉を殺した奴等の正体を暴けずに姉の二の舞となってしまうのは、絶対に避けなければならない最悪の展開だ。
もしかしたら、それは本当になっていたかもしれない。
寝不足故の「死」など、野望を固めた当時の俺が聞いたらきっと激怒するだろう。
『お前の姉を大事に思っていた気持ちは、そんなにも小さいものだったのか』と。
しかも寝不足の原因が「睡眠時間をゲームに費やしたから」なのだから、尚更だ。
何にせよ、氷谷さんのおかげで目が覚めた。
俺は今、あまりにも甘い日常に浸かり込んでしまっている。
このままでは不注意で死んでしまっても文句は言えない。もっと気を引き締めなければ。
そう心に誓う事にした。
雲が朝日を隠し、俺の半身を陰らせる。
雨の予報では無かったはずだが今、空は灰色に塗り潰されていく。
降雨を悟ったのか小鳥は
それを烏が嘲るように鳴きながら空に飛び立っていく。
のどかだった朝は、たった5分で張り詰めた空気をヒリヒリと漂わせ始めていった。
思えばこの時から、ある最悪の事態への予兆は始まっていたのかもしれない。
いわゆる虫の知らせ、という奴だ。
最も当時の俺には残念なことに、それに気がつくほど敏感な感性は持ち合わせていなかったのだが。
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