第1話 崩壊ノ始マリ

 チーン……


「……行ってきます……」


 微笑んだまま、もう何も言ってくれない姉にそう呼びかけた。


 俺が通っている高校は電車通学だ。


普通の学生がまだ寝ている朝早くに家を出なければならない。

弁当も自分で作る。


決して親が俺を嫌っていたり、子育てを放棄しているとかそういうわけではない。


 ……いないのだから、仕方が無いでは無いか。


 父親は姉が幼い頃、突然蒸発してしまった。


  その後も連絡が取れた事はこの方ない。


  温厚な人柄だったという事だが、それなら何故逃げてしまったのかと問われても答えようがない。


 俺が産まれる前に消えてしまったからだ。


  母も姉も、訳を知らなかった。


  少なくとも母は何か知っていそうな雰囲気だったが、大人の事情に子供が首を突っ込んではいけない、と子供ながらに思ったのを覚えている。


  では母親はというと、母親も俺が姉に意味深な言葉を残して去ってしまったそうだ。


 俺が10歳くらいのことだろうか。


  学校から帰ってくると、姉が走り寄ってきた。


「ふーちゃん、大変だ!お母さんが、お母さんが!」


 父親の事も聞かされていたので、まさかとは思ったが、果たしてその勘は正しかった。

 姉が偶然体調が悪く早退したところ、大荷物で家を出ていく母に遭遇したという。


 姉は理由を問いただすも、答えとは似てもつかない言葉を残され、止める間もなく去ってしまったという。


 姉に、母に何と言われたのか何度聞いても答えてくれなかった。


 俺を巻き込みたくなかったのかもしれない。


 今はそう思えるが、昔はそんな姉がもどかしかった。


 姉が慰めるには、いつも


 「お母さんは『ごめんね』って言ってたよ。何度もね。」


 ただ、それだけだった。


 そうして俺と姉は子供だけになってしまったが、児童相談所に行く事はなかった。


 定期的に母方の叔父と叔母が様子を見に来てくれていたからだ。


 俺が「施設に入るなんて絶対嫌だ!」と駄々を捏ねたせいだ。


 困った姉が親戚に相談し、受け入れてくれたのが彼らだった。


 今では本当に申し訳ないことをしたと思う。


 しかし俺が言っても言わなくとも、結果は変わらなかった様だ。


 叔父が自ら「姉(叔父から見た俺の母親のことだ)の子供を保護したい」と要望していたらしい。


 「こんな事態を引き起こしたのは姉のせいだ。こちらこそ申し訳ない。これからは三日に一回だが、僕か妻(叔母のことだな)が様子を見に来ることにするよ

君達に不自由な生活を送らせないと、約束する。」


 文字だけだと怪しいが、彼の言葉には確信を持っていい様などっしりとした決意を感じた。


 眼も真剣の炎で燃えていた。


 姉もそれを感じたのか、それを承諾したようだ。


 そんなこんなでかなり異常な生活を送っていたが、叔父の言う通り、食費にも学費にも困らずに他の学生と変わらない毎日を過ごしていた。


 しかし、早いうちに両親がいなくなった為にまだ精神が幼かった僕は、泣き虫だった。


 確か中学の頃も、学校で泣いてしまった記憶がある。


 幸い泣き虫だからといって俺を虐める奴らはいなかったが、中々馴染めずに距離を置かれていたのは事実だ。


 そんな俺を強くしてくれたのは、叔父でも叔母でもなく姉だった。


 俺が生まれてからずっとそばにいてくれている存在。


 この世で一番心を許せる、信頼できる人。


 自分も寂しいだろうに、俺にそんな顔は一度も見せようとはしなかった。


 むしろ笑顔で、俺を慰めた。


 「何事にも笑え! 全力で、自分の人生を楽しむの!」


 姉は常にポジティブ思考だった。


 財布を失くせば拾った人がどんな物を買って喜んでいるのか思いを巡らせたり、自分が虐められていても虐めている側の憂さ晴らしになるのならそれでいいと言っていたりした。


 ――その時、何故俺は姉を助けてやれなかったのか――。


 一言でも「大丈夫?」とか「ちょっと休んだら?」とか問いかけていたら、現実は変わったかもしれない。


 俺は誰かに守られている事を当たり前の様に思ってしまっていた。


 だから、自分で助けられなかったのだ。


 姉にも助けられている存在がいるという事を勝手に信じてやまなかったからだ。


 我が儘を言うばかりで、むしろ彼女に負担をかけていただけなのだ。


 だから、姉は死んでしまった。


 抱え込み過ぎた苦しみの重圧に、押し潰されて。


 叔父の突然の電話を、信じることなど出来なかった。


 「姉が、自殺……ですか……?」


 『ああ、とても信じられないだろう。僕もそうなんだ。あの子が自殺なんて、あり得ない話だ。……でも今はとにかく、受け入れるしか無い。辛いとは思うが、僕もこれまで以上に君を支える。どうかくれぐれも、風葉ちゃんの後に続こうとは考えないでくれ。……僕もこれ以上心の傷を増やすのはごめんだからね。』


 プツッ。


 プーッ、プーッ、プーッ、プーッ……


 静かな夜の空間に、亀裂が走った。


 ゴトッ……


 思わずスマホを取り落とす。


 何も考えられなくなった俺の脳裏に刻まれたのは、電話の冷たい機械音だけだった。

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