第15話 甘さより好奇心が勝つ新婚生活の始まり②

 ロイドの講義は午前中に行われるということで、朝食をとって落ち着いた頃合いでウォルが迎えにやって来た。


「わざわざお迎えに来てもらい、ご面倒をおかけします」

「いえ、元はと言えば私がご提案したことですから。それに、ご報告したいこともありましたので」

「報告?」


 ウォルがコホンと咳払いし、姿勢を正す。


「はい。昨日アンガスが教会へ出向き、婚姻申請書を提出してまいりました」

「え、もう行ってくださったのですか?」

「ええ。大事な書類でございますから」

「それは……ありがとうございます」


 ちょっとばかり驚いた。署名をしたのは昨日の朝だというのに、屋敷のことで忙しいであろう家令がわざわざ、その日中に行ってくれたとは。迅速に対応することで後戻り出来ないようにさせる意図でもあったのだろうか、なんてふうにも考えてしまう。


(心配しなくても、私には帰る場所がないわけだし、この結婚から逃げ出す気はないのに)


 公爵家側から拒絶されない限りは、そのつもりだ。


「それでですね、なんと教会もすぐにその場で結婚許可証を発行してくださいまして!」

「早いですね⁉︎」


 許可証の発行には、数日かかると聞いている。それをその場でとは、恐ろしく迅速な対応をしてくれたのではないだろうか。


「それほどまでに、教会側もお二人のご結婚を祝福してくださっているということです!」

「……」


 大袈裟なくらいに明るいウォルの笑顔を見て、ノーラはぼんやりと状況が読めてきた。


(魔法研究と結婚する、と公言していた人が人間と結婚することを申し出たんだから、気持ちが変わる前にさっさと許可してしまえ……とでもなったんでしょうね)


 ロイドの活躍は教会からもたいへん評価され重用されているとのことなので、彼の将来を案じている者も多かったのではないだろうか。身を固めることを決断したという話は、司祭たちにとってビッグニュースだったに違いない。


(この結婚が世間にどれほどの衝撃を与えているのか、考えたくもないなぁ……)


 ノーラが遠い目をしていると、ウォルがもう一度咳払いをした。


「アンガスが屋敷に戻ってきたのが遅い時間でしたので、ご報告が遅れましたが……、そういうわけで昨日をもちまして、ロイド様とノーラ様のご結婚が正式に認められました!」

「……!」


 深々とウォルが頭を下げる。彼が恭しく発した言葉に、ノーラの思考の渦はふっと霧散した。代わりに、ズシリと重いものが胸に落ちてくる。


(……そっか。私、正式にアルディオン公爵家の人間になったのね……)


 呆気ないと言えば、呆気ない。署名一つ、紙切れ一つで他家の人間になれるのだから。だがこの変化はとても大きなものだった。


(なんだか不思議な感じ)


 ミディレイ家の無才と呼ばれた自分が、魔導士の名門アルディオンの一員になるなんて。あの家を出ることは生涯ないと思っていたからこそ、今こうしてこの場にいることが不思議で仕方なく――奇跡みたいなものだと思ってしまう。

 同時に、改めて気を引き締めなくてはとも感じた。


(これで本当に後戻りは出来ない。何としてもこの家で、平穏無事に暮らしていけるよう努力しなくちゃ)


 ノーラは精一杯の真摯な気持ちを込めて、夫となった者に最も近しい存在である従者へ頭を下げた。


「改めまして、これからどうぞよろしくお願いいたします」






「こちらがロイド様の研究室でございます」


 講義が行われる場所だと案内されたのは、ロイドが執務を行う時以外入り浸っているという、あの研究室だった。


「ライル様とエヴリン様はもういらしています。ロイド様は所用があって少し席を外しておりますが、すぐお戻りになるのでお待ちくださいませ」

「わかりました」


 扉が開かれるのをじっと見守りながら、ライル様とエヴリン様、と心の中で名前を復唱する。


(ライル様は今年十歳になられたご令息、エヴリン様は八歳のご令嬢。ディルク侯爵家に嫁いだロイド様のお姉様の、お子様たち)


 教わった家系図を頭の中でまとめていると、扉が開き切る直前に、ウォルが突然緊張気味な声を発した。


「あの……ノーラ様。念のため先に申し上げておきたいのですが、実はロイド様は、人に何かを教えるのがあまり上手ではなかったりします」

「え?」

「なので、もしかしたら講義が進むテンポについていけない時もままあるかと思います。ですが話の内容がたいへん価値のあるものだということは間違いありませんので、広い心で聴講してくださるとありがたいです!」


 無理やり言い切るような速度で告げられた説明に返事をする間もなく、「さあどうぞ!」とノーラは研究室の中に案内された。


(……今のって)


 嫌な予感というか、何かを察しながらも、ハンナを伴って室内へ踏み込む。しかし、ノーラの意識は一瞬で目の前の光景に奪われた。


「……わあ」


 思わず感嘆の声がこぼれ出る。研究室の内装が、予想していたものとかけ離れていたからだ。


(なんて素敵なお部屋なの)


 最初に抱いたのは、そんな感想だった。ノーラはドキドキする胸を抑え、広い室内をぐるりと見回す。


(天井が、高い)


 まず、その天井の高さに驚いた。室内は数階上にまでわたる吹き抜け構造になっており、天頂部のガラスからは太陽の光が射し込んで、室内に神秘的な明るさをもたらしていた。そして四方を囲んでいる、本がぎっしりと詰められた書棚も素晴らしい。壁に沿って並ぶ棚はずっと上まで続いていて、この部屋だけで何千冊の本が所蔵されているのだろうとワクワクしてしまう。


(すごいわ)


 周りだけ見ていると変わった造りの書庫に来たような気分になるが、目線を下げるとまた風景が変わる。まさにここは研究室なのだと感じさせる景色が広がっていたのだ。

 いくつも置かれたテーブルの上にごちゃごちゃと並べてあるのは、実験器具と思われる謎の機械や魔道具たち。それらは一秒ごとに色を変えたり光を発する物だったり、勝手にカチャカチャと動き回るスプーンやフラスコだったり、一体何を計るためのものなのかと疑問に思うくらい、異常な速度でカチコチ鳴り響く置き時計だったり、実に様々だ。

 不思議で好奇心をくすぐられるような光景を前に、ノーラはゴクリと唾を呑んだ。


(お、面白い……!)


 虹色の砂がサラサラと落ちる砂時計に目を奪われていると、部屋の奥からトタトタと小さな足音が聞こえてきた。


「こんにちは」

「こ、こんにちは」


 背筋をピンと伸ばしてノーラの前に並んだのは、幼い少年少女だった。ロイドの甥姪だろう。


「初めまして。ライル・ディルクです」

「エヴリン・ディルクです!」


 少し緊張した様子を見せながらもかしこまってお辞儀をする二人に、ノーラも淑女らしくゆっくりとした動作で礼をする。


「初めまして、ライル様、エヴリン様。ノーラと申します。今日から講義にお邪魔させていただくことになりました。よろしくお願いいたします」


 にっこりと微笑むと、子どもたちは表情を和らげた。


「こちらこそよろしくお願いいたします。公爵夫人」

「えっ」


 ライルの言葉に思わず声が出てしまい、子どもたちが目を丸くする。


「……え?」


 不思議そうな顔をする二人に、ノーラはしまったと内心で焦った。


(やばい、変な反応しちゃった! ……そうよね、もう公爵夫人……なのよね、私)


 結婚が正式に認められたということは、アルディオン公爵夫人になったということ。人妻になったことですら実感が湧いていないせいか、そう呼びかけられて動揺してしまったのである。


「あの……?」


 固まってしまったノーラをライルが不安そうに見上げてきたので、取り繕うように笑顔を向ける。


「し、失礼しました。ライル様がずいぶんとしっかりされているので、感心してしまって」


 うふふと笑って流そうとする。初対面の相手との距離感を掴みかねているのか、子どもたちはそれ以上は追求してこなかった。


「ではノーラ様、お席へご案内します」


 ウォルがタイミングを見計らったように声をかけてきたので、ありがたく従う。部屋の中央にあるテーブルを超えて窓際に向かうと、そこには寝台と見紛うような大きなソファが置いてあった。


(え、何これ)


「こちらにお座りください」

「ここですか⁉︎」


 上品な真紅色の布地が目を引く立派な巨大ソファと、ウォルの間で視線を動かす。


「こ……ここで講義に参加してよろしいのですか?」

「もちろんです。ノーラ様専用のお席ですので!」


 誇らしそうにソファを示すウォルに促され、あまりにも豪華な専用席へと恐る恐る腰を下ろす。

 ふかふかなそれはポスッとノーラの体重を容易く受け止め、臀部を柔らかく包んでくれた。


(うわ、気持ちいい……じゃなくて)


 専用席と言うからには、ノーラのためにわざわざ運び込んでくれたのだろう。しかも、講義の準備がされたテーブルからは程よく離れており、他の人になるべく近づかないよう配慮されているのもわかった。その上ソファにはこれまた大きなクッションがいくつも載せられており、どこに倒れてもそれらが優しく全身を受け止めてくれそうで、ノーラの体調をこれでもかというほど気遣ってくれたのだということが伝わってくる。


「……なんだか、申し訳ありません。こんなにも手厚い用意をしていただいて……」


 隅っこでひっそりと聴講する程度の気持ちでいたのに、思いのほか大掛かりな準備をさせてしまったようで恐縮する。


「なんの、これくらい何てことありませんよ。魔法で運んだので、時間も労力もかかっておりませんし」


 魔法で移動されたのなら、確かに大きな負担ではなかっただろう。それでも、ノーラのためにここまでしてくれたのはありがたかった。


「私も傍で控えておりますが、他に必要な物があったり何かご要望がございましたら、いつでもお申し付けください」

「十分すぎるくらいです。ありがとうございます」


 ノーラがお礼を言った時、バタンと音を立てて扉が開いた。入ってきたのはロイドだ。つかつかと足早に中央テーブルへ向かう主人に、ウォルが声をかける。


「ロイド様、もう用件はお済みになったのですか?」

「ああ。いつもの催促が来ていたから、『うるさい黙って待っていろ』と返事をしておいた」


(えぇぇ、何の話かわからないけどそんな返事の仕方ある?)


 ノーラが頬をひくつかせていると、ウォルがヒィッと叫んだ。


「王太子殿下からのご依頼に何ということを!」


 今度はノーラが叫びそうになった。


(お、王太子殿下⁉︎)


 この変わり者の天才魔導士が、王室からも絶大な信頼を寄せられているのは周知の事実だ。王太子と親交が深いという話も新聞で読んだことがあるので、魔法に関わる何かしらの依頼事項があっても不思議ではないのだが――……。


(それにしても、王太子殿下にそこまで気安い口を聞ける間柄とは……)


 ロイド・アルディオン。知れば知るほど恐ろしい男である。


「何を言っているんだ、いつものやり取りだろうが。さて、さっさと進めるぞ。時間が勿体無い」


 すでに着席していたライルとエヴリンの脇を通り抜け、ロイドは中央の魔道具だらけのテーブルへ向かった。

 そこでこちらを向いた彼と目が合った。


(……あ)


 一言挨拶はした方がいいだろうかと腰を浮かせかけたが、ロイドはすぐに視線を逸らしてしまった。


(……ま、いいか)


 これぞ理想のスルー具合だ、とノーラは腰を下ろす。参加することは彼自身が許可したのだから、黙って座っていても問題ないだろう。

 じっと皆の様子を眺めていると、ライルたちが教科書に使っているらしい本を開いている間に、ロイドの隣に彼の身長ほどもある巨大な白紙が現れた。


(わぁ)


 思わず見入ってしまったのは、そこに自動で文字が書かれていったからだ。本日の講義内容だと思われる文言が、ペンもインクもなくロイドが書いているわけでもないのに、巨大白紙に勝手にスラスラと書かれていくのである。


(すごいわ、魔法の講義ってこんな感じなのね!)


 他もそうなのかわからないが、こういう場に同席させてもらったのが初めてなノーラには、とても新鮮な光景として映る。つい前のめりになってしまいそうなのを我慢して、気持ちを抑えようとソファにより深くもたれかかる。


(おとなしくしていないと)


 全力で目と耳を前方に集中させていると、紙の上の自動文字が止まり、ロイドが子どもたちの前に立った。




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