第1話 XーDAY(後)
◆◆◆
「本当に、大丈夫なんですね? この実験は」
ハイエロファントの訝る声が、頭の上に降ってくる。
「危険も害も無い実験であることは、ファントもよく知っているでしょう? 君は過去に、何度もこの実験を行っているのですから」
諭そうとする声が祖父のものだということに、彼は気が付いた。何の実験なのかということも。
「しかし」
ハイエロファントは、まだ唸るような声を出して渋った。
「教授が『大丈夫』っつってんだから、大丈夫だろ? ファントって、意外と心配性だよな」
横槍を入れて苦笑するのは、兄代わりだ。
「仕方ないわよ。あんな事が、あったんだもの」
穏やかな声は、かわいらしい叔母のもの。
「そうね。それに失敗する確率が、無いわけではないんでしょう? お父様」
祖父に問い掛けているのは、母親だった。
「まあ、それはそうですが」
大学教授として名を馳せる老人は、相当まいっていた。このまま困っていれば、この先に起こる出来事を回避できていたかもしれない。
「冗談ですよ、お父様。この子に見せたいんでしょう? ファントも、今日だけは付き合ってくださいね?」
母親は楽し気に笑いながら、息子の頭を優しく撫でた。
子供は約1年前に、赤い瞳の王女と出会った。その日から、『実験』やら『研究』やらに興味を持ち出していた。これから見学する予定の実験も、彼が祖父にせがんだことだった。
しかし、行っては駄目だと、成長した彼は知っている。
「今日は、特別だからな」
溜め息を吐きながらも、ハイエロファントは承諾した。
特別でなくても構わないと、もう1人の彼は叫ぶ。ハイエロファントの手を取り、先に行くのを阻もうとする。
しかし体が、この時点では存在し得ない彼の言うことを聞いてくれるはずがなかった。阻むどころか、急かすように前へと引っ張っている。
――はしゃぐな。嬉しそうにするな。何も知らないくせに。
彼の罵る声は、本人の耳に入ることはない。
「分かった、分かった。早く行きたいんだろう? でも、あんまり急ぐと転ぶぞ?」
――まったく分かっていないじゃないか。行きたくない。急ぎたくない。むしろ、転んでしまえばいい。
彼の呻く声は、誰の耳にも届くことはない。
「ほら、もう着くぞ。なんか俺まで、楽しくなってきたな」
「私も。来て良かった」
――良くない。引き返せ。
彼ばかりが、焦りを感じている。
「ふふ。本当に嬉しそうね」
――頼むから、家族を巻き込まないでくれ。
彼ばかりが、懇願している。
「最高の贈り物になりそうで、私としても嬉しいのですよ」
――嫌だ。止めてくれ。
拒否すれば拒否するほど、彼は追い詰められていく。
小さな体が、ハイエロファントに抱き上げられた。
「もうそろそろ実験が始まるな。どうだ? 見えるか……グ……」
――止めろっ!
◆◆◆
天板に両手を勢いよくついた音と痛みで、ハングは我に返った。耳の中に響く鼓動が煩わしい。息は散々に乱れ、背に流れ伝うほどの汗をかいている。
「大丈夫か?」
弾かれるようにして、前を見た。目線のやや下に、見知った顔がある。
「ファント、教授?」
「うなされていたけど、大丈夫か?」
再度問うハイエロファントの周りには、本と書類の山があった。
「起こしてくだされば、よろしかったのに」
恨みがましい目をハイエロファントに向けると、彼は困ったように微笑した。
「そうしようかとも思ったんだけどね。熱があったから、そのまま寝かせておいたんだ」
その言葉で、ハングは頭痛とめまいの原因を悟る。
ハイエロファントはハングの前髪を分け、その奥にある額に手を伸ばした。冷たくて気持ちが良かったため、ハングはされるがままにする。
「まだ少し熱っぽいけど、眠ったおかげでだいぶ下がったみたいだね」
「良かった」と言って、ハイエロファントは手を額から離した。
「どのくらい寝てました?」
「3、4時間くらいかな。私がここに来た時には、もう熟睡していたからね」
寒気で、体が震える。目敏く気付いたハイエロファントは、ハングの隣りを指差した。見ると、緑色のコートが落ちている。ハイエロファントのものだ。寝ているハングの背に掛けられていたものが、飛び起きたことで落ちたのだろう。
「準備が良いですね。一度、自室へ戻られたのですか?」
ハングがコートの袖に腕を通しながら尋ねると、保護者は首を横に振った。
「いや、元から持ってきていたよ。部屋を出て行く時に調子が悪そうなことに気が付いたんだけど、連れていかれちゃっただろ? 気にはなっていたんだけど、私もすぐに講義があったし。終わってすぐにこっちに来れるように、持ってきたんだ。私の判断は、正しかったようだね」
不意に、ハングは先ほど見た夢を思い出す。あの時も、そうだったと。
俯いてしまった彼に、ハイエロファントは心配そうに尋ねた。
「どうした? 辛いのか?」
「いえ。人の気配に敏感なはずなのに、公共の場で熟睡するなんて、珍しいなと思って」
「ああ、そのことか。今日は貸切にしてもらったからね。1人も入ってこなかったと思うよ」
それで無人だったのかと、ハングは納得した。
「どうして、貸し切ったりしたんですか? 僕に資料を頼んだ意味が無いじゃないですか」
その言葉に、ハイエロファントはきょとんとした。
「どうしてって、今日は……まあ、いいか。そんなことより」
彼は一旦言葉を切り、机の上にある本の山の一つを傷まない程度の軽さで叩く。
「紙に記した本は、自分で探してしまって、ここにある。と言っても、最後の1冊が足りない」
「わざわざ残しておいてくださったわけですか」
「じゃないと、君が来た意味が無いじゃないか。そうだろう? ハング」
笑顔で念押しをされ、ハングは仕方なく立ち上がった。熱がある相手に、まったく容赦がない。
「あ、ちゃんと本の中身を確認してくるんだよ」
保護者の言葉を背に受け、彼はふらつく足で棚を目指す。新刊棚の右から三つ目、上からは4段目。本の題名は、何といっただろうか。紙を確認し、次いで棚を見る。
「『愛しのグーへ』?」
このふざけた題名はなんだ、と思う。ブライアンが薦めた本というのは、これのことだろう。
とりあえず、手に取る。薄くて軽量の箱だ。かさ張らないため好む人も多い、ディスク型だった。図書館などでは冊子型に取って代わり、主流となりつつある。
箱を開け、中身を確認する。確かに、ディスクではあるのだが。
「よしよし。ちゃんと中身を確認したね」
いつの間にか、後ろからハイエロファントが覗き込んでいた。
「『改造』。今、流行しているゲームだって? 使い方次第では、怖いプログラムになりかねないのにね」
大きな溜め息にハングが振り返ると、眉をひそめた保護者がいた。嫌悪感を抱いているのは、明白だった。
「じゃあ、何故このディスクを本の中に隠すだなんて
ディスクの正体を見て、彼はハイエロファントが図書館を貸切にした理由を悟った。彼より先に、人の手に渡る可能性があったからだ。それは、壮大で手の掛かった悪戯だった。
「悪戯の案は、ブライアンだぞ。私は、言われるままに図書館を借りただけだ」
その渋面が、自分のせいにされるのは不本意だ、と訴えている。
「では、中身がこのディスクなのは? これも、ブライアン教授が?」
「……いや、私が選んだ。これが欲しい、と生徒に話していただろう?」
ハングは同級生に、そう漏らしたこと思い出した。
「生徒が教授室に遊びに来た時に、聞いたんだ」
「ねだるつもりは、無かったんですけど」
「私の方から聞いたんだよ。あの子達を、悪く思わないでくれ。君が普通にゲームを楽しむために、このディスクを欲しがっているわけじゃないことは、解ってるんだけどね」
そこで一旦、言葉が切られる。彼はしっかりとハングのことを理解しているが、批難する様子は欠片も見られなかった。
「今日は、特別だから」
彼が、今日という日を忘れるはずがなかった。
「ようやく動ける時が来ました。ですが」
そんな人を傷付けるわけにはいかないと、ハングは思った。
「これを使う時は、あなたの許可を貰うことにします。許可が貰えるようなことしか、しませんから」
譲れないものがあるから、戦う。そんな心が自身の中にあることを、彼は知っている。それは決して弱さでも、愚かしいことでもないと、彼は信じている。
「父さん」
譲れないものが、彼の顔を見る。その表情が、全ての答え。
「誕生日おめでとう、グドアール」
◆◆◆
――どうか今度は、当たり前の今日を失うことがありませんよう。
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