序 空の遺物(後)
◆◆◆
「空飛ぶ研究所……こんなにも跡形も無いだなんて」
小さな島の北半分を占める砂漠地帯。喉を乾燥させないよう、布で口と鼻を覆いながら、マグノリアは目の前の惨状を見ていた。
かつて大陸全土から科学者や研究生が集められ、盛んに生命科学の研究が行われていた場所。1都市の半分ほどの面積を持ち、島の上空を飛行し続けた施設は、墜落して数年も経たずに『伝説』と呼ばれるようになった。
それが、もはや見る影もない。砂に突き刺さり、あるいは埋もれた無数の金属の塊。これが、どう組み合わさっていたのか。今となっては見当もつかない。
「こんなにも……こんなにも呆気ない。この調査が終われば、私は」
王都から連れてきた従者達は、離れたところで砂や金属を熱心に観察している。彼女の呟きは、せいぜい足元にまとわりついている動物に聞こえるだけ、のはずだった。
「私は、なんだ?」
自分でも、従者達でも、もちろん動物の声でもない。空耳でもないはずだ。
しかし、目の前には研究所の残骸しかない。人が隠れられる場所など、わずかにしかなかった。マグノリアは訝りながらも、金属の墓場に近付いた。
「誰?」
「おおかた意に沿わぬ結婚でも、させられるのだろう?」
「誰かいるの? この壁の向こう?」
「『ペンタクル・エース』に、何を期待した? 調査というのも、反抗心から来たものだろう?」
「姿を見せなさい。先から無礼なっ」
「大声を出すな。いらん者共が寄ってくる」
鋭く制する低い声に肩を跳ね上げたマグノリアは、首を回して従者達を確認した。こちらに気付いた様子は無い。ほっと息を吐いた。
「あなたは誰? 何故ここにいて、私に話しかけるの?」
苛立つ感情を懸命に押さえつけ、声を落とす。それすらも声のみの男は、せせら笑うのだ。
「何故、笑うの?」
「『誰』だの『何故』だの、先からどこに呼び掛けている? 俺は、壁の向こうにいるのではない。おまえの足元だ」
そんな馬鹿なと思いながらも、マグノリアは下を見た。壁に寄りかかるようにしてあったのは、生命が感じられる存在ではなかった。
「黒い、箱?」
通信機の類かと考えたが、すぐに否定した。
この箱は、こちらの言葉を寸分違わず聞き取り、細やかな感情すらも読んでいた。更に、人の位置を正確に把握し、視線の先までも捉えていたのだ。
離れた場所から様子を窺っていたにしては、状況を分かり過ぎている。かと言って、通信とでも思わなければ、説明がつかない。
ふと、研究所に集められた科学者達が盛んに行っていたという研究内容を思い出し、マグノリアは恐ろしい想像を廻らせた。目の前の箱には、ちょうど成人男性の頭が入る。
「まさか」
青褪めた彼女に、男は愉快そうに笑った。
「なかなか、おもしろいことを想像したようだな。しかし、間違いだ。遠くもないがな。あいにく、俺の頭は、塔の下だ」
その答えに、マグノリアは混乱した。
塔というのは、墜落した研究所の一部が刺さり、崩壊したという塔のことだろう。つまり、彼は故人だ。
故人であるなら、箱の仕掛けは事後に誰かがやったことなのか。それとも、事前に墜落すると悟っていた本人の仕業なのか。それならそれで、中身はいったい誰だというのか。
考えたところで、永久に答えは出そうにない。彼女の混乱を、箱がまた笑った。
「俺は、俺の執着を追う。おまえが俺を手に取るならば、今の混乱も解けるかもしれんぞ?」
この箱に、手足は無い。誰かが手を取らずに立ち去れば、彼は彼の執着を追うことができないのだ。随分と不躾な質問は、マグノリアの気を引く手段の一つだったのだ。
自分は、利用されようとしている。そう気付いた彼女は、箱の謎の解決に惹かれながらも、手を取ることに
「隠れた所で、『好きで王女に産まれたわけじゃない』と叫ぶ必要も無くなるかもしれん」
マグノリアは赤面した。図星だった。得体の知れない箱は何故、心の奥底を的確に言い当ててしまえるのだろう。
「俺に、上辺だけでない笑顔を送る者はいなかった。俺のために心から心配し、叱ってくれる奴はいなかった。あいつに会うまでは」
マグノリアは同情した。同じだった。立場上、なんとか気に入られようと上辺のみの笑顔と言葉で接してくる者も少なくなかった。そのうちに、誰もが奥底でそうなのではないか、と疑心暗鬼に駆られるようになった。今では、民からの敬愛の声すら素直に耳に届かない。
「おまえは、おまえの執着を追わないのか?」
マグノリアの心は、鷲掴みにされた。今まで、諦めることはあっても、追うことなどなかったのだ。
「さあ、俺を手に取るが良い」
男の声は、恐怖心を抱かせるものでもあり、官能的でもあった。この箱を手に取ってしまえば、後には戻れないことも悟っていた。
それでも、抗うことはできない。男の声は、甘露のようだ。たとえ今、王都に帰ったとしても、再びここに戻ってきてしまうだろう。
「私は、私の執着を」
きっと、声を掛けられた時から既に、甘いうずきが胸の片隅にあったのだ。
さっきはした
◆◆◆
「視察のこと、やってるわよ。王女も、王都に帰るみたいね」
呼ばれて、子供は素直に叔母の隣りに座った。叔母といっても、自治領主の隣りに立った人ではない。彼女の妹だ。「おばさん」と呼ぶには抵抗を感じるほど若くて、かわいらしい。
画面には、王女の姿が大きく映し出されている。視察場所の撮影は禁止されていたのか、港でホバー船を背に取材に応じる彼女の映像しか出てこない。
黒い箱を大切そうに抱えた王女は、もうまどろんだ瞳をしていなかった。幸せそうに笑う彼女を、子供は喜ばしいとは思わなかった。
紅の瞳は、恐ろしいまでの輝きに満ちていた。
◆◆◆
これ以降、マグノリアが公の場に立つことは無かった。
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