BeastGame

朝羽岬

序 空の遺物(前)

「こうして1人と1匹は、共に旅立ちました」


 読み終わりと共に、本を閉じる。表紙には、白い動物の絵が描かれていた。


 息子が産まれた日、作者自ら送ってきた絵本だ。最終ページは、のり付けされ、時期がくるまで開くな、とのことだった。

 

 息子が5歳の誕生日を迎えたのを機に、読み聞かせを始めた。以来、ソードの日課となっている。息子にも、すっかりお気に入りの話となったようだ。


 ただ、5歳の子にとっても長い話だった。3分の1ほど読んだところで、息子は寝入ってしまう。だから、最初から次の章まで。次の日は、続きから、また次の章まで。と、途切れ途切れに読むのが常だった。


 ところが今夜は、最初から最後まで読み終わっても、息子は寝つけないでいた。いつもは夢中になって話を聞いているのに、今日は落ち着かない様子だった。


 原因なら分かっている。大学から帰宅した彼の祖父が語った、大学祭のお誘いの話のせいだ。ソードは苦笑すると、息子を横たえた。


「さあ、早く寝てしまいなさい。明日、起きられなくなってしまうわよ」


 絵本を枕元に置き、部屋の明かりを絞った。


「おやすみなさい、グドアール」


 静かに部屋を出て、戸の隙間から中を見守る。残された子供は、何度か寝返りをうっていた。しかし、しばらくすると安らかな寝息を立て始める。ソードは苦笑して、そっと戸を閉めた。


 星に照らされて、絵本の題名が微かに輝いていた。


 ◆◆◆


 晴れやかに澄み渡った空にあふれる、音楽と人々の声。通路のどこへ行っても、ざわめきは絶えない。誰もが浮かれ気分だ。


 ただ、幼少の子供が歩くには、少々窮屈きゅうくつが過ぎた。連れとはぐれないように、懸命に足の間をすり抜ける。


 様々な方向に向かっていた人の流れが、いつからか一方向にまとまった。速度が緩やかになり、やがて完全に止まる。子供は隙間から顔を覗かせると、ほっと息を吐いた。それから、正面を仰ぎ見る。そこで、彼の視線は釘付けとなった。


 彼だけではない。足を止めた誰もが、凛とした立ち姿に魅了されていた。


 正面の建物の2階。癖のある長い髪を風に遊ばせ、紅玉の瞳で人々を見据えている。子供にさえも、唯一無二の存在にに見えた。


 彼女は、北の地にある王都に住まう王女だった。名前を、マグノリアという。直接、王の統治下にいない彼等の耳にも、彼女の噂はよく届いた。


 美少女であり、勉学にもよく励み、大きな行事には必ず顔を見せ、民を敬う。王位継承権を持つ兄よりも、よほど人気があるらしい。


 そんな彼女が、南に浮かぶハミット島の視察に行くという。その途中、大学祭を訪問するという話が広まったのは、ここ数日のことだった。それで、この年の大学祭は、例年になく人が集まっているのだ。

 

 数秒の後、マグノリアの隣りに、白髪の青年が立った。大学からハミット島まで、広い範囲を治める自治領主だ。彼も紅玉の瞳だが、王女のものとはまた違った印象を受ける。彼の隣りには、子供の叔母にあたる女性が、寄り添うように従った。


 しかし、子供の目に見えたのは、そこまでだった。もの凄い歓声が辺りを覆い尽くし、少しでも前に出ようとする大人達に巻き込まれてしまったのだ。


 蹴られ、転び、踏まれることが無いように、必死になって、足の合い間を潜り抜ける。人のいない方へ、たまに手を付きながらも走った。


 ようやく建物の陰に隠れて、ほっと息を吐く。その頃には、王女のお披露目も終了したらしい。遠くに聞こえていた歓声の嵐が、聞こえなくなっていた。


 連れからは、完全にはぐれてしまった。不安な気持ちになるが、大好きな絵本に登場する少年を思い出して、我慢する。人に会ったら、教授をしている祖父の名前を出そう。そう幼いなりに考えて、歩きだした。


 しかし、歩けば歩くほど、暗い方へ進んでいるようだった。一歩進むごとに、温度も下がっている気がする。引き返そうかと、足を止めた。


 その時、『こっちだよ』と呼ぶ、かわいらしい声がした。子供がそちらを見ると、長く柔らかい毛で全身を覆われた、小さな動物が座っていた。あの絵本の表紙から抜け出したのかと思うほど、絵にそっくりな動物だった。


 子供の目に、輝きが増していく。


「ルージュッ」


「ごめんなさいね。そのこは、『ルージュ』ではないのよ」


 駆けだした子供は、再び足を止めてしまった。動物は女性の声に反応すると、子供に背を向けて、軽やかに走り出す。それを抱き上げた女性は、先ほど仰ぎ見た王女その人だった。


「あなたは、あの絵本が好きなのね? 私も、好きだわ」


 マグノリアは裾が汚れることもかまわず、子供に目線を合わせるためにひざを付いた。もっとこちらへ、と言うように、子供へと手を差し出す。子供は、黙って従った。王女も絵本が好きだと聞いて、興味を引かれたのだ。


「あなたは、どうして学校のお祭りに来たの? 勉強は好き?」


 彼女の手は白く、動物を抱く指も繊細で柔らかい。


「おじいさんが、ここの教授だから。勉強は、よく分からない」


「そう。絵本の男の子と同じように、学ぶために冒険に来たのかと思ったわ」


 頷くたびに揺れる髪は、光の中で見た燃える印象とは違った。夕刻の水路のような、もっと流れのあるものに見える。


「王女様は、ハミット島へ冒険をしに行くの?」


「ええ、そうよ。空飛ぶ研究所を見つける冒険に行くの。私は……1人と1匹というわけには、立場上いかないけれど」


 微苦笑を乗せた唇は、艶やかでふっくらとしている。


「あなたも、きっと冒険をしに行きたくなる時が来るわ。私と少し話をしただけで、こんなに楽しそうなんだもの」


 優しく細められた目は。


「こんな所にいたのか。探したぞ」


 子供が振り返ると、息を切らした青年が立っていた。褐色の肌に、黒い髪。南東地域の人種特有のものだ。金色の瞳は些細な光も取り込んで、生き生きとしている。


「王女様にも、ご迷惑をお掛け致しました」


「いいえ。私も、楽しませて頂きました」


 恭しく頭を下げる青年の姿は、子供には見慣れないものだった。呆然としていたところを、不意に手を取られる。


「それでは、失礼致します」


 手を引かれるようにして歩きながらも、子供はしきりに後ろを振り返った。そんな彼に、しっとりとした声が掛けられる。


「『学ぶ者に更なる英知を』」


 絵本の中のセリフだった。体を捻って振り返ると、王女はほほ笑んでいた。


 ただ、その時、自治領主の瞳との印象の違いの原因も悟ってしまった。彼女の紅の瞳は、まどろみの中にいるかのように輝きが無い。


「……『教える者に大いなる感謝を』」


 戸惑いが生じる中で、絵本のセリフを返した。王女から離れ、完全に見えなくなっても、くすんだ紅の瞳が気になった。どうして、みんなからあれほど愛される王女が、すべてを諦めてしまったかのような奥底を持っているのだろう。


 同じくらいの年齢であるはずの青年を仰ぎ見る。彼は、眩しいくらいの金の瞳で、子供にほほ笑みかけていた。


「今のあいさつってさ、何? 秘密の合言葉とか? いつの間に仲良くなったんだ? 小さいくせに、やるじゃん」


「違うよ。絵本の中のセリフッ」


「ああ、おまえが好きなやつか。なあ、さっきのってさ、大学祭のあいさつに合うと思わないか?」


 目の前の兄代わりは、何を言っているのだろう。子供は、考えるように首を傾げる。そんな彼を軽々と抱き上げた青年は、跳ねるようにして教授棟へと走り出した。


「よし。フールに言って、さっそく広めてもらおう」


 その口調の明るさと足取りの軽やかさに、子供は微かに抱いたわだかまりが溶けていくように感じた。


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