第6話 終わり

 その年は例年になく春の訪れが早い年で、桜の花の美しさが際立っていると街の者たちが話しているのをよく耳にした。


 ならば花見でも、と言い出してからは早かった。翌朝には花見の支度が整っていて、その張り切りように思わず笑みがあふれた。


 村の外れにある丘の上。その上に咲く古木の花が、えもいわれず美しいのだと、彼は微笑んでいた。


 なだらかな丘の道を、三人分の荷物を手に登っていく。先を行く和人かずひと様と、彼に背負われたお嬢様は、なにやら内緒話でもしているのか始終楽しそうな笑い声をあげていた。


 幸せだな、と思う。お嬢様がいて、お嬢様が大切に思う人がいて、楽しそうに笑い合っている。ずっと望んで、それと同じくらいには諦めていた光景だ。


 お嬢様の首から花を切り離したあの日。握りしめた手の中で、いつの間にか花は枯れていた。お嬢様の身体に根を張っていた緑も日を経るごとに萎れ、冬を迎える頃にはすっかり枯れ細っていた。


 それと共にお嬢様の体調も回復していった。起きていられる時間が徐々に長くなり、春を迎える頃には一日起きていても苦ではない、と笑みを見せるほどだった。


 しかし、元通りにならなかったことがひとつだけ。


 あの日からお嬢様の身体は、お嬢様の意思では動かすことが出来なくなった。首から上、瞼の開閉や表情を動かすなどは出来る。しかし、首から下はどう頑張っても動かすことが出来ないようだった。


 そんな状態になったお嬢様とわたしを連れて、和人様が村外れに小さな庵を構えたのがひと月前。生まれ育った家を出ていくというのに、不釣り合いなほど晴れやかな表情をしていた和人様に、少しだけ心が安らいだことを覚えている。


 なんの制約もなく陽の光に当たることが新鮮なのか、お嬢様は日がな一日、縁側に据えられた座椅子から庭を眺めている。その瞳には以前のようなかげりはもう存在しない。


 今日の花見も提案したのはお嬢様だ。お嬢様が自発的になにかを望むことは珍しいから、和人様は予想以上に喜んだようだ。


 昨晩は遅くまで厨の明かりが灯っていたので、こっそりと覗きに行けば、隠し切れない喜色を浮かべて下拵えをする和人様の姿が見えて、思わず声を上げて笑ってしまった。気恥ずかしそうな和人様と一緒に最低限の用意をして今日に備えて休み、今朝は早くから弁当作りに精を出した。


 彼と並んで厨に立つなど、以前までは考えられなかったことだ。……お嬢様が陽の光の下で笑うことも。


 今でも夢なのではと疑う瞬間がある。ふとした時に、頬をつねってしまうことだってある。


 それでも明るい太陽の下で笑い合っている二人の姿を見れば、深い安堵と共に目頭に熱いものが込み上げてくるのだ。


「ケイ! 見て、とても綺麗よ! あなたも早くいらっしゃいな」


「ケイさん、こちらにどうぞ!」


 お嬢様の朗らかな声に次いで、桜の木の根元にお嬢様を下ろした和人様が駆けてきた。わたしの手から荷物を半分奪うと、先導するように半身で丘を登っていく。


 お嬢様は桜の幹にもたれかかって、頭上で揺れる一足早い春を眺めているようだった。ようやく結い上げることのできた黒髪を彩るように、ひらひらと桜の花が舞い落ちる。


 まるで夢のような、美しくて眩暈めまいがするような光景だった。


 それでやっと、今までの葛藤は無駄ではなかったと救われた気がした。

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君の背に、花が咲く たき @shira_taki

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