第5話 開花-2

 気の向くままに足を進めていれば、いつの間にか屋敷の裏の外れの方まで来ていたらしい。手入れされた草木が徐々にまばらになり、やがて雑草が生い茂るようになった。


 下生えに足を取られて転びそうになったところで、ようやく足を止めると心を落ち着かせようと大きく息を吐いた。


「ケイさん!」


 後ろから騒がしい足音が聞こえていることには、少し前から気がついていた。無視しているうちに諦めてくれないかと、期待していた通りにはならないものだ。……相手は、鳳生和人ほうじょうかずひとだから。


「和人様」


 肩で息をしながら駆け寄ってくる和人様は、思っていたよりも憔悴していた。


「和人様、顔色が……」


「あなたとしょうさんが話しているのを聞いてしまいました」


 さっと、自分の顔から表情が消え落ちたのが、鏡を見なくてもわかった。


「わたし……。わたしの想いは、重かったのでしょうか? お嬢様の負担に、なっていたと」


 膝に力が入らない。立っていることができなくて、わたしは力なく座り込んだ。


 結局、わたしはお嬢様のためと言いながら、自分の心を軽くしたかっただけなのだ。 ”主を救えなかった侍女” と指さされることを恐れて、お嬢様の心に負担を強いていただけ。これでは侍女を名乗る資格すらない。


「ケイさん!」


 がしりと、強い力で両肩を掴まれた。衝撃で視界が揺れて、初めて景色が滲んで見えることに気がついた。


「ケイさん。そんな悲しいことは言わないでください。少なくとも、僕はずっとあなたに心を救われています。晶さんのために共に奔走する相手が、あなたでよかった」


「……わたしは、わたしの理想をお嬢様に押し付けているだけです。そんなわたしに救われたなど……」


「それならば僕も同じです!」


 がしり、とさらに強い力で両手を握られた。


「晶さんには生きていて欲しい。これは僕たちの勝手な願いかもしれません。けれど、晶さんも生きたいと言ってくれた」


 力加減を忘れた両手から、じんわりと温もりが伝わってくる。


「でも晶さんはその希望を直視できないほど、疲れ切っている」


 さぁ、と強く風が吹く。


「……早く、晶さんを救う方法を見つけなければ」


 和人様の悲痛な声と共に、膝丈ほどの雑草たちが一斉に揺れて、足元の衣がくすぐられる。こんな光景をどこかで見た気がして、小さく身震いをした。


 不意に耳奥でばちん、と音が鳴った。


 あの雨の夏の日に、無愛想な青年が何の躊躇いもなく揺れる垣根の枝を切り落とした音。


「もしかして、枝を落とせば……」


「枝?」


「植物が地中深くに根を張るのは、倒れないためもありますが、養分を吸い上げて枝葉を伸ばすためですよね。ならば、根であるお嬢様を救うには、そこから伸びている枝ーー、つまりあの緑を取り除いてしまえば良いのではないでしょうか」


「なるほど。あの蕾が晶さんの体力を奪っているから、その道を絶ってしまうという訳ですね。可能性はあると思います」


「しかし、現状蕾はお嬢様の皮膚に潜り込んでいて、分離するのは厳しそうです」


「そうなのですね。……医家に頼もうにも前例はないでしょうし、難しいですね」


 ようやく希望が見えてきたかと思いきや、見えただけで実際は随分と遠くにいるらしい。手が届くようになるには、またどれだけの時間がかかるのか、頭を抱えそうになったその時。


「和人様!」


 泣き叫ぶような呼び声が聞こえた。


「こちらです、何事ですか」


「晶様が、庭に……!」


 和人様はすぐさま声が聞こえた方へと走り出した。その背を追いながら、胸の内に膨らみ始めた不安を振り払った。




 呼び声が聞こえた方角から予想していた通り、問題が起こっていたのは母屋の、お嬢様の部屋に面した中庭だった。


 和人様の接近に気が付いた使用人が障子を開け放ってくれたおかげで、中庭の様子がよく見えた。


 先を行く和人様が履き物を脱ぐことを諦めたのか、土足のまま部屋に駆け上がった。


 そして和人様の向かう先で、お嬢様が太陽が燦々と照りつける庭に膝をつき、項垂れていた。おそらく意識がないのだろう。


 その、晒されたうなじの上。垂れた黒髪の隙間から、今まさに花開こうとしている膨らんだ蕾が見えた瞬間、叫んでいた。


「誰か鋏を! 鋏でなければ剃刀でも何でもいい、とにかく切れるものを頂戴!」


 右往左往していた使用人たちのうちの一人が、打たれたように走り去る。それを横目に、和人様に習うように部屋を駆け抜けた。


 お嬢様を正面から抱きしめるように支えた和人様が、縋るような目でこちらを見ていた。心得た、と小さく頷いて、お嬢様の首筋に巣食う小さな緑に手を添えた。


 みるみるうちに蔦が伸びて、今や蕾はほころんでいる。透き通るような美しい花弁を太陽に向かって広げていくその姿に、ほんの少し、見惚れてしまう。


 まるでお嬢様の姿を体現しているようだ。ほう、とため息を吐きそうになって慌てて歯噛みした。


 こいつは、お嬢様の命を奪うものだ。


 開き始めた花を鷲掴みにすれば、何かを察したのかお嬢様が暴れ出した。和人様がそれを悲痛な顔で押さえつける。


「持ってきました!」


 戻ってきた使用人から小刀を受け取る。


 これで本当に、お嬢様を救えるのだろうか。


 逡巡したのは一瞬。


 みるみる開いていく美しい花を、もう一度力任せに掴んで、伸びる蔦ごとぶつり、と断ち切った。


 糸が切れたようにお嬢様の体から力が抜ける。くたり、とお嬢様が和人様に寄りかかるように倒れ込む。


 顔をこわばらせた和人様がそっとお嬢様の口元に耳を寄せて、それから呆けたように天を仰ぐ。


 からり、と無機質な音がして、自分の手から小刀が滑り落ちたことを知った。

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