第3話 夏雨
そろそろ日付が変わるかというのに、昼間の暑さはちっとも去ってくれなかった。少しでも暑さを逃そうと戸を薄く開けて、布団の上で物思いに浸っていれば、夜風に混じって誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。思考の世界へと傾いていた意識が急に現実に引き戻されて、布団の上に身を起こす。
こんな時間に、お嬢様に何用だと身構えたのも束の間、足音の主はお嬢様の部屋を通り過ぎた。その先にはもう、この部屋しかない。
やがて足音は部屋の前で止まった。足音の主はそのまま様子を
どうせ
「……起きております、どうぞお入りください」
隣の部屋で眠るお嬢様を起こさぬよう、小さな声で入室を促す。予想に反して戸の向こうから驚いたような気配が伝わってきた。
自分から訪ねてきておいて、何を驚いているのだか。思わずため息を漏らしてしまい、慌てて口を押さえた。
和人の両親に聞かれでもしたら、つくづく生意気な侍女だこと、といよいよ
しかし、あ、とも、う、ともつかぬ呻き声を上げて戸の影から姿を現したのは、驚いたことに和人本人だった。
途方に暮れたような顔で部屋に入ってきた彼は、しばらく所在なさげに立ち尽くしていた。立ったままでいられても困るので、座るように促したくとも、侍女のために設えられたこの部屋は狭く、布団を敷けばそれで部屋が埋まってしまう。仕方なく布団を片付けて彼のために円座をひとつ、差し出した。
「どのようなご用件でしょうか?」
隠せなかった不機嫌さを
「……昼間の、話は本当なのですか。
聞かれていたのか。というよりも。
「ご存じだったのではないのですか」
「そんなーー」
くしゃり、と和人の顔全体が歪んだ。それを冷めた目で見つめる。
「ご存じの上で、お嬢様を選ばれたのではないのですか」
「……晶さんに緑が生えていると、聞いてはいました。しかしそれが晶さんの命を奪うものだとは」
知らなかった。
呟いたのだろう声は、もはや音にはならず、かすれて落ちていく。
その様子を見るに、和人の言葉は嘘ではないのだろう。……元より、彼は嘘を吐くような人間ではない。
それにあの両親の様子を思えば、和人から意図的に事実を隠していた可能性は高いだろう。
そもそもこの婚姻は、和人がお嬢様に惚れ込んだことで成立したものだ。お嬢様の家は古くからの大きな家であるが、鳳生家のように商いの才があるわけではないし、金があるわけでもない。つまりお嬢様と和人が婚姻することで鳳生家が得るものは何もない。
それでもお嬢様と和人の婚姻が許されたのは、ひとえにお嬢様に生えた緑によるものなのだろう。
それでようやく腑に落ちた。あれほどお嬢様を慕っていた和人が、なぜお嬢様を娶ったのか。ーー間接的にとはいえ、お嬢様の命を散らす手助けをしたのか。
「そうだったのですか」
ならば彼も、被害者だ。
「どうすれば彼女を助けられるのですか。僕はどうすれば良かったのですか」
そんなこと。
「……わたしの方が知りたいわ」
それから和人と奇妙な連帯感が生まれた。
和人は今まで以上にお嬢様の世話を焼き、お嬢様が少しでも日の光に当たらなくて済むように、お嬢様の
お嬢様は相変わらず床からは出られないものの、白を通り越して青白かった肌にはわずかに血色が戻ってきた。和人が取り寄せた高級な薬湯が効いているようだった。流石は町一番の商家だ、手に入らないものなどないのだろう。
それに比例して和人の両親の、彼を見る目が変わってきた。得体の知れない、理解し難いものを見るような、不審な目。
けれども、和人にはそれを気にしている様子はなかった。暇さえあればお嬢様の体調を気にかけ、少しでも効果がありそうな薬や食べ物の話をきけばすぐに飛んでいった。
やがて町の医家に薬湯をもらいにいくことが、わたしの日課となっていった。
ある日、薬湯をもらいに行った帰り道、ひどい夕立に遭遇した。西の空が暗くなったと思えば、すぐに雨が降り始めた。雨足は徐々に強まり、しまいには遠くから雷鳴が響き出す始末だった。
どこか雨宿りできるような場所はないかと
幸いにもたくさんの葉を茂らせた大木の下には、人ひとりが雨宿りするくらいの場所はありそうだ。
あの場所を借りよう。そう決めて大木の下へと駆け込んだ時、がらりと音がして隣にある蔵の扉が開いた。
「あ?」
出てきた人物と目があって、じとり、と睨まれる。
控えめに言っても人相が悪い、あまりお近づきになりたくない雰囲気の男性だった。
大きな鋏を手にした男は、胡乱げにこちらを
思わずたじろいでしまうほど鋭い眼光がこちらに向けられる。
「ウチに何か用?」
「いえ、雨が止むまでの間、こちらの木の下で雨宿りをしようかと……」
「ふうん」
興味なさそうに呟いて、男は西の空を仰いだ。悠々と枝を伸ばした垣根の木々が、吹きつけ始めた風で揺れる。
「しばらく止みそうにないけど。それにその木、この辺りで一番高いから、雷が落ちるかもよ」
「そんな……」
今日はお嬢様の体調が良いから、戻ったら共に夕餉を、と誘われていたのに。
あからさまに肩を落としたわたしに、控えめな声が掛けられたのは、慰めだったのか、男の気まぐれか。
「傘、いる?」
少しだけ険のとれた顔で、男がこちらを見ていた。
「え?」
不意に強い風が吹いて、男の眼前に垣根の枝が迫る。男は眉根を寄せると首を捻って、枝が顔に直撃するのを避けた。
「君、
だから、良ければ傘貸すよ。
そう言って男は、手にした鋏で無造作に揺れる垣根の枝を切り落とした。
そのばちん、という音が、嫌に頭に残って離れなかった。
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