第十一話 箸の達人は羽虫を捕らえる

 次の野営地にたどり着く前から、雨は本降りを通り越して土砂降りになっていた。そのせいで足が鈍り、予定よりもずい分と到着が遅れてしまったのである。


 当然外を行く護衛の兵士や使用人たちもずぶ濡れで、大急ぎで雨除けの天幕が張られ焚き火が焚かれ始めていた。


 季節は日本に例えるなら晩秋。元々肌寒いところに雨のせいで気温はさらに低くなり、火がついた傍から周りに人が集まっている。


「風邪をひかなけれはいいけど」


 もっとも俺たちにはそんな心配はない。前日と同様に5LDKの家を召喚し、ひとまず全員風呂で体を温めることにした。俺はもちろん室内露天風呂だ。雨がひどくても結界があるから吹き込んでくることはないのである。


 入浴を終えたらお好み焼き作りに取りかかる。諸々の手順をファニーさんとマノンさんに教えて、俺はアリスと二人で枝豆を茹でることにした。もはやビールに枝豆は固定された前菜のようなものだ。


「今夜は日本酒でも出してみるか」

「にほんしゅ? なぁに、それ?」


「お酒だよ。俺はちょっと苦手なんだけど、陛下たちなら大丈夫かなって」

「ふーん、ビールとは違うの?」


「お米から造るからね。全く違うよ」

「お米って、カレーライスのライスのことよね?」

「うん」


「あれからお酒が出来るなんて想像もつかないわ」

「アリスも少し飲んでみるといいよ。まあ、最初はビールで乾杯だけどね」


 おつまみはイカの塩辛辺りを出すとしようか。あとはチーズかな。放っておくと塩辛もチーズもバクバク食べそうだから、お酒の当てはちょっとずつ食べるのが日本での決まり、とでも言っておけばいいだろう。


 陛下たちって意外と"日本のしきたりだ"というようなことを言うと従ってくれるんだよね。ほとんどがウソだから何だか申し訳ない気がする。それでも一人一瓶くらいは平気で空けちゃうんだろうな。


 そしていつも通りビールでの乾杯を済ませ、俺は大吟醸の一升瓶をテーブルに上げた。


「ジャック・アレオン君、これは何だね?」

「日本酒というお酒です」


「ほう、これはまた大きいな」

「ビールよりも酒精が強いですからご注意下さい」


 そうして俺以外の五人の前に升に入れたグラスを用意する。日本酒と言えばやはり溢れ酒でしょう。俺は日本酒が苦手だったが、こういうのはテレビなどで見て知っていたのだ。


「お、おい、ジャック・アレオン君、酒が溢れているがいいのか?」


「陛下、これは溢れ酒と言いまして、日本酒を飲む時の作法の一つなんです」

「ほう」


「升に溢れた酒も飲む。どうやらそれがまた格別なんだとか」


「そう言えば君は飲まないのかね?」

「私は日本酒が苦手なもので」


「自分が苦手なのに他人に飲むませるのか?」

「お酒の好みは人によって様々と思いますよ」


「ふむ、なるほど。しかし透き通っていて水のように見えるが、香りはいいな」

「本当、いい香りですわ、お父様」


「イカの塩辛は瓶をこうやって開けて、少しずつ食べて下さい。普通は一人一瓶なんて多過ぎますが、一応用意させて頂きました。これもお好みです。苦手なら無理して食べないで下さいね」


 さらに数字にPがついたチーズの食べ方も説明してから、その日二度目の乾杯となった。


「うむ。これはビールのようにゴクゴクと飲む酒ではないな」

「しおから? 食べてにほんしゅ飲むともう……止まりませんわ!」


「本当に美味しいお酒ですね、ファニー姉さん」

「あまり飲んではだめよ。この後お料理もしなければいけないんですから。あ、ジャック様、申し訳ありません」


 そんなことを言いながら、ファニーさんは俺が酒を注ごうとしても止めなかった。まあ、その一杯で打ち止めにしたのはさすがである。


 そしていよいよお好み焼きと焼きそば大会のスタートだ。侍女さん二人に焼き方を教えてから、俺とアリスは自分たちで焼くことにした。


「ねえ、ジャック」

「うん?」


「器用に二本の棒を使ってるけど面倒じゃないの?」


「ああ、これは箸って言ってね。俺はこの方が慣れてるんだよ」

「ふーん。それも日本の?」


「そうだね。ほとんどの日本人は箸が使えるよ」

「私も使ってみようかな。ある?」


「あるけど、お好み焼きが焦げちゃうから先に焼けたのを食べちゃおう。それから使い方を教えるよ。お好み焼きはそのヘラの方が食べやすいと思うし」

「分かったわ」


 互いに一枚食べ終えてから、俺は彼女に箸を手渡した。まずはお手並み拝見だ。俺が持ち方を教える前は誰でもやるように、順手や逆手で握ったりしている。まあ、そうなるわな。


「まず下の箸を親指の付け根に乗せて、上の箸はこうして三本の指で持つんだ」

「こうかしら?」


「そうそう。それで上下の箸は十分に間を開けて、下は動かさずに上を動かして挟んだりするんだよ」

「む、難しいわね」

「慣れるしかないね」


 ところがふと気づくと、いつの間にか他の四人から注目されている状態だった。


「ジャック・アレオン君、その箸というのも日本の作法なのかね?」


「作法というほどのものではありませんが、日本人でまともに箸が使えないと笑われることはありますね」

「笑われる?」


「表立って言われることは少ないですけど、失笑されるといったところでしょうか」

「ほう」


「実は日本人でも箸をちゃんと持てない人がいるんですよ」

「なるほど。しかしこのヘラやフォーク、スプーンの方が使いやすいのではないか? 何やら持ち方も複雑なようであるし」


「仰る通りかも知れません。ですが陛下、この箸は達人になりますと、飛んでいる爪ほどの小さな羽虫を捕らえることさえ出来るのです」

「何だと!? それで小さな羽虫を!?」


「達人になれば、の話ですけど」

「それを聞いてしまっては挑まざるを得んだろう」


 アリスも含めた四人が陛下の言葉に真剣な表情で頷いている。いや、あれって出来る人はほとんどいないと思うんだけど、どうしてそんなにやる気になってるの?


 その後は全員ヘラを箸に持ち替えて、悪戦苦闘しながら食事を続けるのだった。


 翌朝、事件が起こることなど誰一人として想像もせずに。

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