達成度34:塩江菓凛という希望

「すぅ……はぁ……」


 リビングの扉の前で、二、三回の深呼吸を行う。


 緊張のあまり吹き出してきた変な汗が首元を伝うが、ハンカチで拭き取る余裕も今はない。


 ここは何を隠そう、僕の家。

 生まれてこの方、約十八年間……いや、この時点では十六年間か。

 ともかく生まれ育ってきた愛しき我が家である。


 そしてなぜ僕がこのような本来リラックスできるような空間でひどく緊張しているのかと言えば、その答えは一つしかない。

 汗ばんだ手を握り、開く。そうしてぐーぱーぐーぱーと数回同じ動作を繰り返してから、手のひらを見つめてふうっと一際大きく息をついた。


「……行くか」


 ここで手遊びをしていたって何も変わらない。

 やるしかない。僕はもう、この部屋に入るしかないのだ。


 他でもない暫定生徒会を存続させるために。

 そのための唯一の希望を、掴むために。


「よし!」


 ついに腹をくくった僕はガチャリと扉を開き、リビングに入る。

 そこには────、


「あ、おかえり兄さん」


「……菓凛」


 そこには僕の妹、菓凛がいた。


 一切のシワがない綺麗な制服をぴっちりと完璧に着こなしていた朝とは違い、ラフなTシャツに短パンという部屋着スタイル。

 彼女はそのすらりと伸びた素足を惜しみなくカーペットの上へと投げ出し、ポテチ片手に修学旅行の写真で一人だけ前に出てる奴みたいなポージングで寝そべってTVを見ていた。


 華のJK、高校一年生も所詮自宅ではこんなものである。


 菓凛はリビングに来ているのにも関わらず、その場にぼーっと突っ立っている兄を不審に思ったのだろう、ジト目を浮かべて僕を見た。


「はぁ? 何よ、その顔。ドロドロの沼地を煮詰めて固めたみたいな目つきして」


「この目は生まれつきだ」


 それはお前が一番知っているはずなんだがな。あとなんだよその表現。誰にも伝わらないぞ多分。


「鏡野じゃあるまいに、もっと分かりやすい例えをしろよな」


「鏡野? 誰よ、それ」


 おっと、暫定生徒会でのノリでつい口が滑ってしまった。


「い、いやー、鏡野ってのは僕のやってるゲームのヒロインで……」


「いや、嘘でしょ。だって兄さん、私にゲームの話とか一切振ってこないじゃない。僕はわきまえてるオタクだー、とか言って全然話してくれないし」


 ぎくっ。


「ねぇ、鏡野って誰? まさか……兄さんの片思いしてる人!?」


 途端に妹のテンションが上がる。菓凛は目をキラキラ輝かせて身を乗り出していた。

 うわ、しくじったなこれ……いつの時代も女子というのは恋バナが大好きである。


 あとなんで僕が片思いしてる前提なんだ。

 両思いかもしれないだろ!彼女かもしれないだろ!いい加減にしろ!


「ねぇねぇ、鏡野さん!? 鏡野さんっていうの!? 兄さんの好きな人。そうなの?」


「いや、違うって! 鏡野はえーと、僕の……」


 と、そこまで言いかけて言葉に詰まる。僕の……なんなんだ、あいつは?

 同級生? 上司? 部活の人? 友達? どれも当てはまるけど、どれもしっくり来ない。

 僕にとって鏡野とは何者なんだろう。


 その答えすら、僕は未だに見つけられずにいるわけで。

 だからせめて曖昧で無茶苦茶で定義しきれない僕らの関係性に名前を見いだせるようになるその日までは、僕は暫定生徒会にいたいのだ。


「友達、かな? うん、まぁそんなとこだ。だから恋人じゃない。わかったか?」


「いや、嘘でしょ。だって兄さん友達いないじゃない」


 ぎくっ。

 妹のさも当然であるかのように放たれた言葉が胸に深く突き刺さる。

 ちくちく言葉だろ、それ。


「友達くらいいるよ! 最近できたんだよ! てかそういうお前はどうなんだよ。クラスとか部活とかで友達できたのか?」


「へー、良かったじゃない。私? ふん、私を兄さんと一緒にしないでもらえるかしら? クラスに友達くらいたくさんいるわよ。部活は入ってないけど」


 部活。いい具合に話を誘導できたなと思う反面、口を開くのが億劫になる。

 それでも続かせなければならない。


「……部活、か」


「え? うん。どうしたのよ、そんな顔して」


「お前はまだ、どこの部活にも入ってないのか?」


「まぁ、そうね。別に興味がある部活があるわけでもないし、友達もみんな帰宅部だしいいかなって。そういえば兄さんは最近帰宅部にしてはあり得ないくらい帰りが遅いけど、部活にでも入ったの?」


「……そのことなんだけど、さ。菓凛」


 すー、はー、と再度深呼吸をして、握りしめた手をゆっくりと開く。

 ここからが本題だ。


「もし……もしもお前さえよければ、なんだけど」


「?」


「────幽霊部員で構わない。だから、この申請書にサインしてくれないか」


 と、言い切ると同時に僕は申請書を差し出し、頭を下げた。


「……え?」


 呆気に取られた様子の菓凛から、間の抜けた声が聞こえてくる。


 当然だ。なにせずっと引きこもっていたはずの兄が、突然部活の勧誘をしてきたのだから。

 状況が理解できなくて当たり前である。


 ぴらっと音がする。どうやら頭を上げない兄に困惑した菓凛が、僕の手から申請書を受け取って内容を確認しているらしい。


「“暫定生徒会”……? これ、部活の名前なの?」


「ああ。暫定生徒会は、旧校舎に拠点を構える学園非公認の部活────というよりも、生徒会なんだが。僕は昨日……いや、もっとずっと前からこの部活に入った」


「え!? あの陰キャでコミュ障でぼっちでゲームとラノベだけがお友達の兄さんが!?」


「おい!! 今真面目な話しようとしてんだよ!! ちょっと場をコミカルにするな!!」


 まぁ、彼女の言っていることはまさしくその通りだ。

 陰キャでコミュ障でぼっちで、ゲームとラノベと愛と勇気だけがお友達。

 そんな僕にも色々あって────それこそ簡単には語り尽くせないほど、色々なことがあって。


「僕は、暫定生徒会に入った。それで色々あって、楽しかったんだ。けど……その暫定生徒会が今、消えて無くなろうとしてる。それを回避するためには五人以上のメンバーが必要なんだ。だから……」


「なるほどね。話はだいたい理解できたわ」


 えっ、今の説明だけで理解できたのか? 早くないか? 優秀すぎないか僕の妹。


「つまりはそれで、“暫定生徒会”とやらの廃部を取り消すために、私にこの部活に入ってほしいってことでしょ?」


「あ、ああ、そうだ。そうなんだ、けど……」


「……」


「……」


 互いに言葉を失ってしまう。ダメだ、沈黙はダメだ。

 もっと伝えないといけない。どうして僕がこんなことをしているのか。暫定生徒会とはどういう部活で、どういう人間がいるのか。

 それを必死に伝えようとして口を開いたその途端。


「────兄さん」


「え?」


 菓凛は僕を見ていた。


「兄さんはこの部活が好きなの?」


「……ぁ」


 ああ。僕は、本当にダメな人間だ。この妹はよく出来た妹だ。


 僕の言わんとしていることを察して、先回りして────これ以上、彼女に頼り切りになるわけにはいかない。兄として、男として、暫定生徒会の一員として、伝えるんだ。


「……そうだ。暫定生徒会は、僕にとって始めてできた居場所なんだ」


「そう、まさか兄さんが部活に入るなんて思ってなかったけど」


「ああ、そうだな。僕も自分で驚いてるよ。まさか自分がこんなところに入って、あろうことか……居心地の良さを感じるだなんて、少し前までは考えられなかった」


 全く衝撃的だ。僕も随分と、変わってしまったものだ。でも、だからこそ。


「だから────守りたいんだ。生まれて初めて、ここにいたいって思えた場所だから。それに……」


 僕は思い出す。

 入部届をめぐる応酬から始まった霧島姉妹の双子喧嘩、それをなんとか解決したことを。

 そして元の世界では、妹との関係を壊してしまったまま逃げてきてしまったことを。


 かつての時間軸では失敗してしまっていた妹との関係。

 それをやり直すために、理想の青春の正規√へと向かうために────、


「それに僕は、菓凛とももっと関わっていきたいと思ってる。お前と向き合っていきたいと思ってるんだ」


 今更、なのかもしれないけれど。

 もう遅すぎるかもしれないけれど。

 でも、こうして過去に戻ってきたからには、僕だってリベンジしたいんだ。


 そう思ってしまうのはただの傲慢、思い上がりなのだろうか。


「だから────だから菓凛、お前さえ良ければ……入ってくれないか。暫定生徒会に」


 目を閉じた。


 暗闇に広がっていくのは、かつての自分の姿。


 全てから逃げて、目を逸して、向き合うことすら諦めていた潮江葵の姿だ。


 失われた過去が消えるとは思っていない。

 ただその結末が先延ばしになっただけだ。


 でも、もしも許されるのなら────僕はやり直したい。


「……」


 何も聞こえない。答えはイエスともノーとも返されていない。

 それはある意味の救いでもあれば絶望でもあった。


 だが────やがて、素性から声が降り注ぐ。

 妹の、菓凛の声だった。


「はぁ……顔を上げなさいよ、兄さん」


 はっとなって顔を上げると、そこには菓凛の呆れた表情があった。


「全く困った人ね。親の顔が見てみたいわ」


 それはお前の父さんと母さんの顔だ、とは今は言えなかった。


 だが不意に菓凛は胸元からペンを取り出すと、申請書にサラサラ自分の名前を書いていく。


「……いいのか?」


「私はその部活? のことも、兄さんが好きな人のことも知らないけど」


「す、好きな人!? いやいやいやお前、いきなり何を……!?」


「────でもさ」


 菓凛は慌てふためく僕に一瞥もくれず、申請書に書き込みながら続ける。


「え?」


「でも、兄さんがそこまで気に入るのならきっと、いい部活なんでしょうね。だから入ってあげる、“暫定生徒会”」


 そう言って彼女は笑った。明るく、無邪気な笑みだった。


「……菓凛」


 思えばこうして妹と真面目な話をするのは、もう何年ぶりになるだろう。

 歳の近い妹というのはあまり可愛くないものだ。

 いつも喧嘩ばかりするし、憎たらしいこともしょっちゅうあるし。

 けれども、けれどもしかし────


「ありがとう。それから……これからよろしくな、菓凛」


「ふふっ……ま、感謝してよね。兄さん」


 僕は今日この日ほど、妹を愛おしく感じた日はない。

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