第6話 失ったものの価値を知る エリック視点
美しさと華やかさに憧れる僕の心には、地味で大人しい女性への苦手意識が深く刻まれていた。僕は鏡に映る自分の容姿に自信を持ち、周囲からの称賛や羨望を浴びることに快感を覚えていた。僕の中で、自分に釣り合う相手は美しい女性でなければならないという固い信念が芽生えていたのである。
ところが、妻に迎えることに決まった女性は、地味な冴えない風貌のイレーヌだった。しかも、男爵家の出自で身分もかなり下だった。父上に理由を聞けば、ウィンザー侯爵家はラエイト男爵家に借金があり、イレーヌを妻に迎えることで返済されたことになるという。
「僕は金で買われたのですか? なんて女だ。きっと、僕の美しさに恋をして、このような罠をしかけたんだな。美しいことは、ときに罪づくりなものだ・・・・・・」
イレーヌはきっと僕に恋をしている。だから、なにをしても文句は言えまい。
だから、タイミングを見計らい愛人を離れに迎えることを宣言した。僕に惚れているイレーヌは、予想通り文句を言わなかった。愛人に迎えたのは従姉妹のアニーで、可憐な美女の快活な女性だった。
「私、エリック様の子供を妊娠しました!」
誇らしげに報告してきたアニーは嬉しそうに微笑んでいた。
うむ、この微笑みを守るのは僕の使命だ! よし、イレーヌを捨てよう。
ウィンザー侯爵家への借金は完済したことになっているはずだし、父上も事業を再建しうまくいっている。今こそ新たな人生を切り開く時だ。
しかし、現実はそうはならなかった。イレーヌの正体はラエイト商会の実質的最高経営責任者だったんだ! ラエイト商会の会長はラエイト男爵家の当主だが、根幹の部分ではイレーヌが采配をふるっていたらしい。
ラエイト商会の利益の半分はイレーヌの懐に入っており、そのお金を父上は僕に内緒で借りていたのだ。そんなことも知らないで、イレーヌを地味女としか思っていなかった僕は、最大のミスを犯したのだ。
☆彡 ★彡
イレーヌから離縁された僕が、ウィンザー侯爵家から出て行ったのは、僕がやらかした事件から二日後のことだった。すぐに出て行くように言われたのだが、持っている服や処分しなければならないものが多すぎて、トランクに詰め込むのにかなり時間がかかってしまった。
「市井で苦労なさることも良い勉強でしょう。性根を入れ替えて、私とまともに話せるようになったらお会いしましょう」
そう言い放ったイレーヌは、今までとは別人だった。冴えない風貌だったのに、今日は完璧なメイクを施して美しい容姿に変身していた。彼女の肌は滑らかで、目元は華やかに彩られていた。頬には自然な薄桃色のチークがつけられ、唇は鮮やかな赤色で引き立てられている。
わざと冴えないふりをしていたのか?
「僕を騙したのか? 実際は綺麗で頭が良くて、金もふんだんにあることを隠していたんだな? イレーヌの正体を知っていたら大事にしたのに」
「私の顔は特徴がないので、驚くほどメイク映えするだけです。ですから、適切なお化粧を施せば、びっくりするほど綺麗にはなれます。ですが、私は相手の本性が見たいのです。美しくなった顔もお金の力を見せつけるのも、一番最後が良いのです」
おかしくないか? 相手によって態度を変えるのは当たり前じゃないか。僕を騙すなんて酷いよ・・・・・・
☆彡・.。*☆彡
持っていた服は着ていくところがないし、華美すぎて日常的には着られないものばかりだった。この時になって漸く、自分が衣服にお金をかけすぎていたことに気づく。
精肉工場では、広い作業スペースに大量の生肉がぶら下がっていた。鮮やかな赤色や深い色合いの肉塊が、大きな鉤に引っかかり整然と並んでいる。その光景は僕にとっては異様で、吐き気すら催すものだった。
こんがりと調理された肉しか知らない僕は、この生肉の匂いにも拒絶反応が起きる。売り物にならない部分は廃棄処分になるが、その生肉の腐敗臭や血の匂いも漂ってきて、ここは最悪の職場だった。
しかし、このような仕事でなければ見つからなかった。たいしたスキルも知識もなく働けるところといえば、このような場所に限定されてしまうのだ。
こんな仕事しかできない自分が情けなかった。単調な作業と環境の厳しさが僕を疲弊させ、将来への希望を薄めていく。一生、こんな惨めな仕事しかできないのか? 僕の生きている価値とは、なんなのだろう?
精神的にきつくなってきたある日、店頭に並べられた肉を買っていく人々の笑顔が心を癒やした。
「今日は良いお肉を買ったわよ。あなたのお誕生日だから、ご馳走をつくりましょうね」
一組の母娘が大事そうに抱えていった肉の塊。その服装からは、彼女たちの暮らしが裕福ではないことが窺えた。きっと、思い切って買った肉なのだろう。ニコニコと幸せそうに歩く彼女たちの姿に、小さな光を見いだした。
「今日はお肉が食べられるんだね!」
ピョンピョン跳ねる幼い子供に頷く父親もいた。その父子も、生活に余裕があるようには見えなかった。滅多に食べられない肉なのだろう。大事そうに肉の塊を抱えて帰って行った。
こんな仕事にも意味があって人の役に立つんだな。少しでも喜んでくれる人がいるんだ。この世は綺麗な仕事ばかりじゃないけど、それをする人がいるから、皆の暮らしが成り立つ。僕の仕事には価値があるんだ。
そんな当たり前なことに気づかされた僕は、あれから、自分の仕事にプライドを持って一生懸命働いた。気がつくと4年の歳月が流れていた。やがて、精肉工場の事業主から認められた僕は、精肉工場の生産・品質管理者の職に就いた。仕事にもやり甲斐が生まれ、職場の環境改善にも取り組んだりと、毎日が慌ただしく過ぎていった。
そんなある日、イレーヌからウィンザー侯爵家への招待状が届いた。ウィンザー侯爵家の庭園は以前よりも優雅で上品に変わっていた。美しい色とりどりの植物が配置され、バラやラベンダー、ユリなどの花々が咲き誇っていた。
美しい水の流れる噴水の数も増えており、イレーヌがウィンザー侯爵家の事業を大成功させていることが窺えた。
「おとうしゃま。いらっちゃいましぇ」
鮮やかな金髪と透き通るようなグリーンの瞳。僕にそっくりの幼児がこちらに向かって歩いてきた。
「この子は僕の子供?」
「そうですわ。エリック様と私の子供ですよ。ヘンリックという名前です」
僕の息子はニコニコしながら、手を伸ばして抱っこをせがんだ。
「いや、僕は抱っこはできないよ。動物の生肉の匂いが染みこんでいるんだ」
「ばかなことをおっしゃいますね。それは真面目に働いている証拠ですわ。立派な勲章です。恥ずかしがることではありませんよ。職業に貴賎はないのです」
「なぜこうしてヘンリックに会わせてくれたんだい?」
「あなたはもう以前のエリック様とは違うでしょう? だから、私はヘンリックから父親の存在を消すことはしません」
なぜ僕はイレーヌの素晴らしさを知ろうとしなかったのだろう・・・・・・その言葉をありがたいと思うと同時に、取り返しのつかないことをした自分を呪った。
愚かだったよ・・・・・・今になってイレーヌの素晴らしさがわかるなんて・・・・・・子供の可愛さを知るなんて・・・・・・
「おとしゃま。泣いているの? どうちたの?」
ヘンリックの小さな手が僕の涙を拭った。
「会えて嬉しいから泣いたのさ。きっと、ヘンリックは立派なウィンザー侯爵になる」
嬉しそうに抱きついてくるヘンリックの身体を受け止め、高く抱え上げれば、はしゃいで笑う無邪気な声が庭園に響いた。
僕はこの幸せな光景を一生忘れないだろう。愚かな僕が失った光景を・・・・・・。そして、僕には新しい目標ができた。息子ヘンリックに恥じない生き方をしようと心に誓ったのだ。
それから、イレーヌは・・・・・・
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※次回、ヒロイン視点に戻って最終話です。
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