第28話 話が通じない

 足を止め、呆然と立ち尽くす。やはり、三田さんが私に手を振ってこちらに駆け寄ってくるところだった。


ーーうそ、どうして、なんで?


 心臓がバクバクと激しく鳴りだす。三田さんはにこやかに私の前に立ち、平然と言う。


「偶然だなあ、俺ちょっとこっちに用があってさ。ああ、久保田との食事帰り?」


 何も言葉が出なかった。彼は普段通り優しく笑っているだけなのに、その顔がとてつもなく恐怖に感じた。


 こっちに用があった? そんな偶然あるわけがない。そういえば、よく話していた頃に、どこに住んでいるのかという話題で、最寄り駅ぐらいは言ったことがある気がする。


 待っていたの? 私の帰りを、ずっと?


 言葉すら出てこず、ただ呆然と彼を見上げるしかできなかった。人が行き交う雑音がやけに耳にこびりつく。


「今から帰るなら、家まで送っていくよ。もう暗いしさ」


 親切な申し出に、私は小さく首を振った。最寄り駅はバレていても、自宅までは知らないはずだ。でも送られてしまえば家も知られてしまう。それはなんとか避けたかった。


 三田さんはなぜか笑う。


「そんな遠慮しなくっていいってー! 女の子一人じゃ怖いだろうしさ。家こっち? 行こう」


 すっと私の背中に手をまわして歩き出す彼に、慌てて離れて距離を取った。そして咄嗟に嘘が口から飛び出す。


「こ、これから透哉さんの家に行くんで!」


「……え?」


「はい、明日は休みだし。い、今から迎えにも来てくれるみたいだから……一人で大丈夫です。三田さんは帰ってください」


「柚木の家?」


 穏便に断る理由がこれしか思いつかなかった。三田さんはぴくりと眉を動かす。


「柚木の家かあ……ああ、俺一度、同期会で行ったことあったかも。あいつの家、すぐ下にコンビニあるじゃん? 酒の買い出し行ったの覚えてるわー」


 明るくそう言う彼だが、どこか目が笑っていない。柚木さんと三田さんは確かに同期なので、同期会があったとしてもおかしな話ではないと思う。


 ただ、変だ。透哉さんのマンションはコンビニの上なんかではないはず。


「……三田さんが知ってる場所じゃないと思います。柚木さん、途中で引っ越したんですかね、今はコンビニなんてないですよ」

 

 私がそう答えると、三田さんは急に真顔になった。そして小さな声で呟く。


「本当に柚木ん家、行くんだ……」


 その一言を聞いてようやくわかった、彼はカマを掛けたのだ。私が透哉さんの家に行くというのを嘘だと見抜き、ああやって試した。でも生憎、私は本当に一度透哉さんの家に行ったことがあるので、彼の嘘に気付けたというわけだ。


「もう家に行く仲?」


「そ、それは付き合ってるので」


「誕生日に俺と出かける予定だったのに?」


「キャンセルしたのは三田さんです」


「んでその日に柚木と付き合いだす? めちゃくちゃじゃん」


 話が終わりそうにない。かといって、歩き出しても絶対についてきそうだ。人気のない夜道に出るくらいなら、まだ駅で一緒にいる方がいい。


 私はスマホを取り出し、やや震える手で透哉さんを呼び出した。三田さんに見えるよう、メッセージを打つ。『今駅に着きました、迎えに来てください』


 電話をしようかとも一瞬思ったのだが、もし相手が出なければ困るので、メッセージにしたのだ。これで三田さんが諦めて帰ってくれれば万事解決。


 が、彼は帰るそぶりを見せない。じっとスマホを握る私を見下ろして観察しているのを見て絶望する。一体どうやってこの場から逃げ出そう。


 透哉さんにメッセージを送ったけど、約束もしてない彼からしたら『何の話だ?』ってなるし、そもそも外出してたり、早く寝てたりしてスマホを見ない可能性だってある。


「ねえ岩坂、一度しっかり話そう、俺たちの事。俺の疑問に全部答えてほしい」


「も、もう話しました……」


「どう考えても変なことがたくさんある。岩坂がどこかで嘘をついてないと成り立たないんだ。俺は納得できない」


 彼はどの立場でこんなことを言ってるんだろう。入社してきたばかりの森さんと一夜をともして付き合うことになって、私の誕生日にドタキャンしたのはそっちではないか。どうして私がこんなに質問攻めにあわなきゃならないんだろう。


 つじつまが合わないのは当たり前だ、私と透哉さんは本当は付き合ってないんだから。三田さんに振られたことを周りに知られて辛くならないよう、嘘の恋人になったのが始まりなんだから。


 でもこれは絶対に知られてはいけないことだ。


「あの、もう透哉さんが来るので、今度にしてもらえませんか」


「ほんとに来るの?」


「来ます!」


「まあ、家を知ってるんだから、本当にうまく行ってるみたいだけど……」


「そうです。前も透哉さんの家泊ったことあるんで!」


 私がそう大きな声で言った途端、三田さんが黙った。そして、突然私の手首をつかんだのだ。


 あまりに強い力で驚いた。痛みを覚えるほどだ。彼を見上げると、感情が全て死んだような目で私を見下ろしており、心底ぞっとした。


「俺がいたのに……」


「……い、いや、だって三田さんには森さんがいたでしょう」


 彼の指が食い込んで痛い。私は顔を歪める。


 私は何とか振り払おうと腕を振ったがびくともしなかった。ああ、男性には力が全く敵わないんだ、と絶望を覚える。


 こんなはずじゃなかった。少し前まで三田さんがとても好きで、彼と恋愛関係になるのを夢見て、毎日ときめいていただけだ。それに終止符を打ったのは、紛れもなく彼の方だ。


「岩坂、ちゃんと聞いて。俺は本当にずっと岩坂が好きだったんだ。酒の勢いもあってさわこに靡いたのは本当に俺が悪い。凄く反省してる。だから、もう二度と岩坂を裏切らないよ」


「その割には、初めの頃はだいぶ仲良さそうにしてましたよね」


「それは、付き合うなら大事にしなきゃって自分に言い聞かせてた」


「違いますよ、三田さんは勢いもあったかもしれないけど、私より華やかで可愛い森さんを一度選んだんですよ。それは紛れもない事実です。思ったのと違ったからやっぱり戻る、なんて、さすがに私も嫌です」


 きっぱりというと、彼の顔がかっと赤くなった。


「なんか岩坂変わったな。よくないと思う、柚木の影響かな? あいついつも自信に満ちてて偉そうだから、その悪影響を受けたんだ。岩坂はいつも優しくて真面目で大人しくて、凄くいい子だったのに」


 その言葉を聞いて、愕然とした。


 ああ、彼は元々、一番好きなのは自分だったのだと。


 きっと私の指導係になって、私に頼りにされ、尊敬され、嬉しかったんだろうな。従順で気も弱くて、自分が優位に立てていたから。


 そこへ森さんという綺麗な子がやってきて自分に言い寄ってきた。簡単に揺らいだ。


 それは私のことも森さんのことも本気で好きなわけではなく、ただ自分をちやほやしてくれる相手が欲しかっただけなのだ。


 そんな彼からの誘いをーー心の底から喜んでいた過去の自分が、泣いている。


 私は腕を思い切り振り払った。出口に向かって走り出すと、やはり彼は付いてきてまた手首を掴んでくる。


「岩坂、落ち着いてちゃんと考えて。柚木とはヤケで付き合ったんだろ? 今ならまだ戻れるし、俺も許せるから。お互い様だったから、ちゃんとこれから向き合おう」


「私はもうあなたのことなんて好きじゃありません、ヤケじゃないんです!」


「落ち着けって。興奮してもいいことないよ」


「離してください!」


 ぎりぎりと痛む手首に顔をしかめながらそう叫んだ時、離れたところから声が聞こえた。

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