第29話 来てくれた
「伊織!」
ハッとして顔を上げる。三田さんと同時に声がした方を見てみれば、透哉さんが走ってこちらに近づいてくるところだった。彼の顔を見ただけで、ぶわっと目に涙が浮かぶ。
ああ、来てくれた。あんな唐突で理由も書いてない連絡を受けて、来てくれたんだ。
透哉さんは私たちに駆け寄ると、三田さんの手を払った。そして、見たこともないような顔で三田さんを睨む。怒りと、軽蔑と、恨み全てが入り混じったような、恐ろしい顔だった。三田さんもそんな透哉さんを見て、少しひるむ。
「なんで三田がいる?」
「……いや、俺はたまたまこっちに用があって」
「そう。伊織が泣きそうにしてるけど、何をした? 答えによっては許さない」
低い声でそう言った彼を、手で制した。ここで大事にしたくないと思ったのだ。とにかく今はすぐに離れたい、三田さんとのことを説明もしていないので、話がこじれるかもしれない。
「透哉さん、行きましょう。おうちにいく約束でしたよね」
「え? ああ……」
「じゃあ三田さん、おやすみなさい」
私は三田さんの顔を見ずにそう挨拶だけすると、すぐに歩き出した。透哉さんはそんな私を庇うように隣に並び、最後に一度三田さんを睨んだ。
私は少しだけ振り返ってみたが、三田さんはその場から動かず、ただじっと私たちを見ていた。
「すみません……急にこんなこと」
「いいよ。とりあえず、うちに一度行こうか。もしかしたらついてくるかもしれないし、色々話したい」
私たちは並んで歩きながら、小声でそう話した。私は体が小さく震えていて、それに気づいた透哉さんはそっと背中に手を置いてくれた。いくらか深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
来てくれてよかった。急にあんなメッセージを送ったから、来られないかもしれないと思ったが、運よくすぐに連絡を見てくれたみたいだ。
しばらく歩いたところで、あのマンションが見えた。私たちはそのまま入り、エレベーターに乗ったところで、ようやくほっと息をつく。二人きりになったことに安心し、彼に改めてお礼を言おうとしたところで、目の前の透哉さんを見て驚いた。
明るいところで見ると、彼は髪が濡れているし、黒いスウェットと、サンダルだ。もしかしてお風呂上りだろうか? 額にはうっすら汗が浮かんでいる。そういえば、駅から家は少し距離があるのに、彼はすぐに来てくれた。よっぽど走ってきてくれたんだろうか。
私の視線に気が付くと、透哉さんは恥ずかしそうに横を向いた。
「迎えにいくっていうなら、もっといい恰好で行きたかったんだけどな……」
「……あは! 透哉さんのそんな姿、新鮮です! サンダルとか履くんですね」
私はつい笑ってしまう。さっきまで怖かったのに一気に気が緩んでしまった。彼は頭を掻く。
「しまったな」
「とんでもないです。急にあんな連絡をしてごめんなさい、凄く急いできてくれたんですね」
「あんなの、何かあったんだと思うだろ。ゆっくり聞かせてもらう」
彼がため息をついたところで、扉が開いたので部屋へ向かう。ところで、咄嗟にこうなってしまったけれど、透哉さんのお宅にまたお邪魔することになるなんて。何も考えていなかった。
ドキドキしてきてしまったのを必死に抑えながら玄関を入ると、彼が気まずそうに言った。
「ごめんだけど、散らかってる。こんなことになるとは思ってなくて」
「ぜ、全然大丈夫です! 急にお邪魔した私が悪いんです」
「どうぞ」
廊下を抜けてリビングへの扉を開けると、なるほど確かに、前回来た時より少し散らかっていた。テーブルの上には少年漫画に、飲みかけのペットボトルと、封の開いたビール。一人で飲もうとしていたんだろうか。仕事用の鞄も適当に置いてあり、普段の彼からは見えないプライベートな空間。
「でも全然綺麗ですよ。もしかしてゆっくり飲もうとしてたところでしたか? すみません」
「風呂上がりに少しだけね」
「ぬるくなっちゃいましたね……」
「全然いいよ、アルコールどころじゃない。適当に座って」
彼が漫画などをどかすその隣で、とりあえずソファに座る。しばらくして、お茶を持ってきてくれたのでありがたく受け取った。透哉さんが隣に座るとソファが沈んで、その小さな感覚にどきりと胸が鳴った。
「さて、一体さっきは何がどうなってああなってたのか、詳しく教えてもらえるかな」
彼が真剣な目で私にいったので、ついにこれまでのことを全て話した。
残業をした日、三田さんに言われたこと。結局森さんとは別れたらしく、そこからやけに接触してくること。待ち伏せをされていたらしいということ。
私が全て話すと、透哉さんは一度深いため息をついた。そして少し間があったあと、私に静かに言う。
「俺は今、怒りが一つ、安心が一つ」
「え? 怒りですか?」
「なんで三田と残業した日、すぐに言わなかったんだ。怒ってるよ。電話してきたから、何かあったんだろうとは思ったけど……森さんと別れそう、っていうことに戸惑ってるせいだと思ってたよ。でも、今日ああして助けを求めてきたことには安心した。そして、嬉しい」
彼がふわりと柔らかく微笑んだので、自分の胸がまた鳴った。真剣な話をしているのに、何を考えているんだ自分は、と戒める。
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