彼女たちの幸福〈2〉

 院長室に奇妙な沈黙が落ちる。

 マーニャは油の切れたからくり人形のようにぎくしゃくと尋ねた。

「きゅ、きゅうこん……?」

「正確には、神様と浮気しようとしているきみを奪い返しに」

 さりげなく不穏な気配を漂わせ、フレデリケはくちびるの端を吊り上げた。すっかり身に染みてしまった悪寒がぞぞっと走った。

「ちょっと待って! いくらなんでも無茶苦茶すぎるわ!」

 しかし、フレデリケはどこ吹く風という顔でマザー・アンゼリーネを見遣った。

「院長様。神前で愛し合う男女が永遠の貞節と献身を宣誓するのは、互いを生涯の伴侶とするということですよね?」

「概ねそうですね。わたくしも先ほどシスター・マーニャに確認したところ、事実だと認めていらっしゃいましたし」

「院長さまぁ!?」

 まさかマザー・アンゼリーネまで共謀者だったというのか。マーニャはへなへなとその場にへたれこんだ。

「大丈夫かい?」

 フレデリケが片膝をついて顔を覗きこんでくる。

「ぜんぜん大丈夫じゃないわよ……。いったいどういうこと? 男の子に戻ったんじゃないの?」

 思わず睨むと、彼はやんわりと目を細めた。

「戻ったよ。ただし、表向きは女のままだけど」

「え?」

「フレデリケ・エリアス・グリーンヒルはれっきとした伯爵家の子息だけど、公的な扱いは『令嬢』のまま。グリフィス・ローイ・エンデルとの婚約はそのための偽装工作なんだ」

「偽装って……」

 ますますわけがわからない。もう性別を偽る必要がないと言ったのは、他ならぬフレデリケではないか。

(それに、グリフィスさまはテティアさんと恋人なんじゃ……)

 白い髪の治療師は苦笑混じりにこちらを見守っている。マーニャの視線に気づいたフレデリケは、「テアも承知してるよ」とささやいた。

「僕たちは大公殿下のご命令で、ある任務に就くことになったんだ」

 今回の騒動で、大公シュトラールは国内に未だ残る反乱分子の根への危機感を強めた。

 戦後の復興は進んでいるものの、先代の治世に著しく衰えてしまった国力はまだまだ回復しきっていない。このまま内部分裂が続けば国政が滞るだけでなく、東帝国をはじめとする他国の侵略を許し、あっという間に平らげられてしまうだろう。

 そこで、シュトラールはかねてより試みていたある組織を正式に発足させた。

「大公殿下直属の諜報機関だよ。あくまで公にはされない、影の騎士団といえばいいのかな」

 その構成員には、間諜だけでなくさまざまな能力や素質に優れ、かつ信頼の置ける人材が選りすぐられた。フレデリケとグリフィスもまた、シュトラール直々に指名を受けた。

「僕が世間で女として認知されてることをうまく利用すれば、男よりも身動きが取りやすいぶん、情報収集や秘密工作をより効率的に行える。まさか伯爵家の箱入り娘が諜報員だなんて、だれも考えもしないだろ?」

 フレデリケはわざとらしく小首を傾げてみせた。

 確かに、彼の高い演技力や処世術は間諜に向いているのかもしれない。だがそれは、今まで以上の偽りと危険に身を晒す生き方だ。

「そんな……っ」

 声を荒げかけたマーニャは、穏やかな金色のまなざしに口をつぐんだ。

「マーニャ、これが僕なりのけじめなんだ。どんな建前で取り繕ったって、今まで僕がついてきた嘘は取り返せない犠牲の上に成り立ってる。そのすべてをきれいさっぱり忘れて生きていくなんて、あまりにも都合がよすぎると思わない?」

「リデル……」

 守られるばかりの子どもだと、かつてフレデリケは自分の無力さを嘆いていた。だが誇り高い彼が、いつまでもめそめそとしょぼくれているだろうか。

 フレデリケはしなやかな笑みを浮かべ、そっとマーニャの手を取った。

「僕は、これまでの十五年間を無駄にしたくない。塗り重ねてきた嘘をだれにも負けない武器に代えてこの国のために戦うことができるのなら、喜んでその道を選ぶよ。きみが救ってくれた命を、きみや、きみの大切なひとが暮らす僕たちの故郷のために使いたいんだ」

 決して騎士とは呼ばれぬ騎士は、どこまでも晴れ晴れとした声で言った。

(リデルは、自分の運命を見つけたんだわ)

 フレデリケはいたずらっぽい表情を覗かせると、顔を近づけてそっと耳打ちした。

「それに、僕もグリフも奥さんにしたいひとは、正々堂々と口説けない相手だったからね。殿下の提案は渡りに船だったんだ」

「……え?」

「テアはちょっと特別な生まれで、表立っては伯爵家に迎えられないんだ。グリフとの仲はご当主公認だし、治療師としての腕も確かだから重宝されてるんだけど……」

 次男とはいえ、前途有望なエンデル伯爵家の御曹司をぜひ婿にと望む者は絶えないだろう。下手をすれば、想い合っている女性がいるにも関わらず妻を娶らなければならなくなるかもしれない。

「つまり、リデルとの婚約で予防線を張ったっていうこと?」

「うん。そして諜報員の任務に就く以上、僕たちの奥さんには秘密の共犯者で理解者になってもらわなくちゃならない」

 フレデリケの手に力がこもる。じっと注がれる視線の温度にマーニャの頬が火照った。

「グリフにはテアがいる。僕には、きみが」

「あっ、あたしは貴族の生まれでもなんでもない、ただの村娘だよ?」

 マーニャは逃げるように俯いた。想いを交わした仲とはいえ、フレデリケとはあまりに身分が違いすぎる。

「僕が女である以上、貴族の令嬢を正式な妻として迎えることはできないよ。それに、きみ以上に信頼できて愛せる女性なんて現れない」

 そこで、フレデリケはかすかに口調を変えた。

「……きみを守るっていう名目で日陰者にしなくちゃいけない。僕の自分勝手なわがままだってわかってる。でも、どうかこれからも僕のそばにいてほしい」

 くちびるが震えた。目の縁に涙が溜まり、マーニャはぎゅっと瞼を閉じた。

「ずるいよ、そんなの……」

 フレデリケとの思い出を胸に、修道女として生きていこうと思った。

 聖堂で彼に誓ったことは嘘ではない。離れていても、二度と会えなくても、かけがえのないひとにめぐり会えた自分はきっと幸せだと。

 ――それ以上の幸福を、許してもらえるなんて。

「僕もそう思う。だけど、きみにだけは嘘つきじゃなくて誠実な男でいたい」

 小さく笑う声があまりにも優しくて、マーニャはおそるおそる顔を上げた。

 朝の光を閉じこめたような双眸が、溢れるほどの愛しさに綻んでいた。

「こんな僕の一生ぶんの懺悔を聞いてくれませんか、シスター」

 マーニャはくしゃりと顔を歪めた。

 しゃくり上げるばかりでなんの言葉も形にできない。破顔して涙を拭うフレデリケが憎たらしい。

 そのまま口づけでもしそうな勢いの少年に、マザー・アンゼリーネが二度目の咳払いをこぼした。

「シスター・マーニャはまだ還俗していらっしゃらないということをお忘れなく、ロード」

 マーニャは慌ててフレデリケから飛び離れた。思いきり不満そうな顔をされたが、それどころではない。

「それではシスター・マーニャ、終生誓願は無期限延期ということでよろしいですか?」

 尋ねるマザー・アンゼリーネの口元は、笑みを堪えているようにやわらかい。背中を押すまなざしに、マーニャは胸を詰まらせた。

 幸せになりなさいと、たくさんの声に言われている気がした。

 再びフレデリケが手を伸ばして立ち上がらせてくれる。マーニャはつないだ手をそっと握った。

「――はい」

 握り返してくれるてのひらの強さに、おそれるものなど何もなかった。




 ディッセルヘルム公国の近代史で、フレデリケ・エリアス・グリーンヒルほど有名な人物はいない。

 文明・文化の近代化を推し進め、黄金時代と謳われる治世を築いた賢君シュトラールの下には、数多くの才能豊かな人材が集った。そのなかでもひと際異彩を放つのが、『決して解き明かせぬ麗しき謎』といわれたグリーンヒル伯爵フレデリケ・エリアスである。

 女性として過ごした半生では、大公家の諜報機関〈黒の間〉の一員として暗躍し、国内の危険分子や犯罪組織の摘発に貢献した。父ウィルバートの亡きあと、男性として爵位を襲名すると外交官となって辣腕を振るった。

 類稀なる美貌と優れた知略、巧みな話術で魅了された者は数知れず、東帝国の皇帝から妃にと乞われたという真実とも冗談ともつかぬ逸話が残っている。

 フレデリケは公的には独身を貫き、生涯に渡って男女ともに華やかな噂が絶えなかった。彼、あるいは彼女はさまざまな人びとから愛されたが、フレデリケが愛を捧げた相手について語ることはなかった。

 フレデリケには息子と娘がいたが、ふたりの母親、もしく父親は、長らくその人生を彩る謎のひとつのままだ。

 確かなのは、後年の彼らが両親について尋ねられると「あいかわらず幸せそうです」と愛情に満ちた苦笑をこぼしたという話である。

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